12.虹
⑴レッテル
You’ll never find a rainbow if you’re looking down.
(下を向いていたら、虹を見付けることは絶対に出来ないよ)
Charles Chaplin
「これから上映するビデオ映像は、全て真実です」
大学の教授が、壇上で高らかに言った。それは自身の名誉を訴える愚かな凡人の足掻きのようで、霖雨は冷ややかに視線を送りつつも、確かに興味を強く惹かれていた。
人も疎らな大学院の研究室は、暗幕によって外界と隔たれている。それでも僅かに差し込む赤い夕陽が一日の終わりを告げているようだった。
心理学で教鞭を振るう教授は、白髭を蓄えた老人だった。枯れ木のように痩せ細り、頬は肉を削ぎ落したように扱けている。皺が深く刻み込まれた相貌で、妖しげな光を放つ蒼い眼球だけが浮かび上がるようにして、その存在を強烈に主張していた。此処に私は存在しています。これは嘘ではありません。そう言っているようだった。
室内の照明が落とされ、日に焼けたスクリーンにはプロジェクターによる映像が映った。時代遅れの9mmフィルムに音声は無く、荒い映像が臨場感を増しているようだった。
汚れた壁が映った。タイトルは無く、右下に刻まれた五十年以上前の撮影日の記録が、やけに目に留まる。
何かが、カメラの前を通り過ぎた。映像は揺れ動き、三半規管の鋭敏な者ならば、数十分と経たない間に自律神経症状によって呻くことになるのではないだろうか。
カメラがそれを追い掛ける。白黒の映像でも解る不衛生な床に、一人の少女が倒れ込んでいた。襤褸布のような衣服を纏って、カメラレンズを向ける対象に酷く恐怖しているようだった。引き攣るような悲鳴が、無音の向こうから聞こえて来るような気がした。
背中を向けた何者かが、少女に迫る。少女は立ち上がることもままならない覚束無い足で、その場から逃げ出そうと後退していく。背後を壁に押され、少女は溺れる者が苦しみ藻掻くように、無慈悲な壁を縋った。何者かは足を止めず、何かを振り翳した。
少女が吹っ飛んだ。壁に衝突し、頭部から出血しながら、それでも逃げ惑う。追い掛ける何者かは緩慢な足取りで距離を詰め、再びそれを振り下ろした。
肉を打つ乾いた音が、聞こえた気がした。
霖雨は思わず目を背けた。心臓が耳元にあるように激しく拍動し、掌に汗が滲む。
少女は降り注ぐ暴力から逃れる術が無い。荒い映像の中でも、少女が許しを乞うているのが解る。何者かは聞く耳持たないと拳を振り上げ、甚振るように少女を襲う。カメラは少女の苦しみを追い掛け続ける。
汚れた床や壁に、黒い染みが浮かぶ。飛び散った少女の血液だ。顔面を腫れさせながら、髪を振り乱しながら、許しを乞い、逃亡しようと足掻く。けれど、誰一人としてそれを許しはしない。
隣に座っていた男子生徒が、ごくりと固唾を呑んだ。前席の少女は堪えられないと耳を塞いで俯いた。霖雨は拳を強く握り締め、映像を睨み続ける。
五十年以上前に撮影されたこの記録は、既に過ぎ去った過去なのだ。教授の目的は不明だが、今の自分に出来ることは何も無い。ただ、この少女の苦しみを一つでも胸に刻み込み、忘れぬよう、繰り返さぬよう強く願うだけだ。
数十分程の暴力映像は、突然切れた。当時のカメラフィルムの限界だったのだろう。
続きが上映されるものとばかり思っていたが、教授は部屋の電気を点けた。生徒達に暗幕を開けるよう指示し、霖雨は率先してそれを手伝った。窓の向こうはまだ夕暮れだった。
自分が異世界に迷い込んだような心地になって、霖雨は古典的ではあるが、自身の頬を抓みたくなった。
立ち上がっていた生徒が席に着くと、教授は定位置に戻った。室内は纏わり付くような嫌な湿気と緊張感に包まれ、沈黙に満ちている。教授はスクリーンを撤去する間も惜しいというように、性急に言った。
「この映像を見た感想を教えて下さい」
室内の端にいる生徒から促され、戸惑いながらも感想を口にする。
恐怖、緊張、同情、憤怒、動揺。見知らぬ少女に対して手を差し伸べたいと、生徒が訴える。正体不明の何者かに対峙したいと、生徒が息を巻く。順番が訪れ、霖雨は衆目を集めながら答えた。
「女の子が可哀想だと思いましたし、暴力を振るう者を恐ろしいと感じました。けれど、五十年以上昔の出来事に介入することは出来ないので、結果が如何あれ、同じような悲劇を繰り返さない為に社会へ訴え掛けて行く必要があると思います」
他の生徒と、概ね同じ意見だった。教授は全ての生徒が答えると、満足そうに頻りに頷いた。
霖雨は握っていた拳を、机の下でそっと開いた。掌に爪の後がくっきりと残っていた。指先は白くなり、悴んだように動かない。未だに激しく拍動を続ける自分の心臓を恨めしく思った。
映像の中の少女が、――過去の自分と重なったのだ。
降り注ぐ暴力から逃れる術の無い少女。誰にも届かなかった悲鳴。けれど、確かに其処にあるもの。
苦い記憶を押し込むようにして、霖雨は再び拳を握った。
壇上の教授は、机に手を突いた。
「これは、実は全て作り物です」
一言一句間違うまいと、勿体ぶるようにゆっくりと教授は言った。霖雨は目を瞬かせた。
「この映像に出て来る少女も、暴力を振るう者も役者です。とある映画のワンシーンを切り抜いたもので、誰も苦しんでなんていないし、暴力も存在しません」
教授の言っている意味を追い掛け、それを疑いながらも、霖雨は心の中に安堵感が滲むのを感じていた。
全てはフィクション。誰も苦しんでなんていない。
動揺に包まれた室内で、教授は咳払いを一つした。途端に室内は水を打ったような沈黙に包まれた。
「皆さんは、この映像が本当にあったことだと知って、酷く動揺したでしょう。けれど、『この映像はフィクションです』と前置きをした場合には同じように動揺したでしょうか。これは作り物だと割り切って見る人もいたのではないでしょうか」
教授の言葉に、生徒達は彼方此方で頷き肯定を示す。
其処でスクリーンが巻き上げられ、古びた黒板が現れた。教授は時代遅れの白いチョークを手に取って、黒板に文字を書き綴った。
ラベリング理論とは、逸脱行動に関する理論である。逸脱というものは、行為者の内的な属性ではなく、他者の主観的なラベリングによって生み出されるものである。
この映像にしても、初めからフィクションだと解っていれば、役者の演技力や臨場感に感嘆することはあっても、少女へ同情したり、何者かを憎んだりはしなかっただろう。
教授が黒板に綴った文字をルーズリーフへ書き写しながら、霖雨はぼんやりと同居人の顔を思い浮かべた。
人間は社会的動物だ。他人と共存する社会の中でなければ生きていけない。赤の他人から、自分自身すら見えなくなる程のレッテルを貼られて来ただろう同居人達を思う。果たして、自分は彼等に対して公平に接することが出来ているのだろうか。彼等の望まぬ評価を押し付けてはいないだろうか。本音を隠すことに長けた彼等の心なんて、霖雨には解らない。
教授が講義の終了を告げたので、霖雨は早々に研究室を後にした。夏を迎え、日が落ちるのも遅い。未だ名残惜しそうに界隈を照らす夕陽を眺め、今晩の夕食へ思いを馳せる。
霖雨が帰宅すると、水を被ったようにずぶ濡れの和輝が出迎えてくれた。
如何やらシャワーを浴びて来たらしい。碌に髪も乾かさず、フェイスタオルを首に掛けて「おかえり」と微笑んだ。
夕食は素麺らしい。ローテーブルの上には茹でられた素麺が水切りされ、漫画みたいに山盛りになっている。葵は傍のソファで胡坐を掻いて、今日も訳の解らない専門書を読み耽っている。
母国では夏の風物詩だ。調理が楽なので、母国にいた頃は霖雨もよく素麺を茹でた。しかし、食卓を彩る副菜の数々に、霖雨は視覚が訴え掛ける味覚への影響の大きさに感動した。薄切りの人参が星形に抜き取られ、汁の上を踊っている。つくづく、芸の細かい男だと感心してしまう。
どうせ、葵は眉一つ動かさず、感想一つ言わずに咀嚼するだけなのだ。それでも、和輝は自己満足だと言って労力を惜しまない。霖雨は洗面所で手洗いを済ませ、地べたに胡坐を掻く和輝の横に並んだ。
「おい、夕飯だぞ。お前が素麺を食べたいって言ったんだろうが」
ソファで読書を続ける葵へ、和輝が言った。葵は鬱陶しそうに睨み、漸く本を閉じた。表紙から推察するに、何かの数学書らしかった。霖雨は、自分と同じく大学院生である葵が何を学んでいるのか未だに知らない。
揃って手を合わせ、挨拶をする。和輝は吸引力の優れた掃除機のように勢いよく素麺を啜り始めた。
口の中を一度空にしてから、和輝が言った。
「浮かない顔しているね。何かあったの?」
小首を傾げて、和輝が問い掛ける。霖雨は苦笑した。
この小さなヒーローは、人間嘘発見器らしい。小さな感情の機微すら見逃さない。霖雨は観念するように、先程の講義の内容を話した。すると、和輝は此方が次々に話したくなるような巧みな相槌を打ちながら言った。
「面白い教授だね。ちょっと意地悪だけど」
「まあね」
「役者の人も、大変な仕事だよね。彼等は全力で職務を全うしているだけなのに、画面の向こうの視聴者は上辺だけでその人格まで判断する。視聴者は、それが演技だと解っていても、勝手な感情を押し付ける」
そういう思考に至るのかと、霖雨は少しだけ驚いた。
研究室では、少女への同情や、暴力を振るう何者かへの憤怒が圧倒的多数だった。生徒を騙すような講義をした教授に対して少なからず不満も持っただろう。けれど、このヒーローは、役者へ同情を示すのだ。霖雨としては結論を求めていなかったので、彼がどんな意見を口にしてもそれを否定するつもりは無い。
アイリーンがこの家にやって来た時も、和輝は同情的だった。その同情すらもレッテル貼りに過ぎないのだろうか。霖雨は思考に囚われる。何が真実で、何が偽りなのかなんて誰にも解らない。今、此処にいる自分の存在すら霖雨は懐疑的に思ってしまうのだ。
黙って聞いていた葵が、口を挟む。
「この役者は演じているだけで、本当は良い人だ。――それも、勝手なラベリングだろう」
霖雨を内心を透かすように、葵が鋭く言う。和輝は笑って、あっさりと肯定した。
「そうだね。正解や不正解なんて無いんだから、その時々の感情に従って表現することが、一番適切なんだと思うよ」
座学の壊滅的な彼が、柄にもない口調で言う。霖雨にはそれが胡散臭く感じられる。
和輝はからりと笑って言った。
「あんまり難しく考えないで、教授に一杯食わされたって思っていれば良いんだよ」
「上から目線で、忌々しい助言だな」
「助言のつもりは無いんだけど」
「じゃあ、侮辱だな」
「侮辱のつもりも無いけど」
葵は、大きな野菜の掻き揚げを噛み千切りながら言った。
「お前、結構そういう言い方しているよ。悪意が無くても、何食わぬ顔して正論をぶつける。敵を作り易いだろう」
「気を付けるよ」
「ほら、そういうところだよ。従順に見せかけて、正論で相手を貶める」
葵の言っていることは、否定出来ない。事実、和輝にはそういう側面がある。
彼のぶつける言葉は誠実で、正論なのだ。だが、悪意が無いからと言って、何でも言って良い訳じゃない。多分、そういうところが癇に障る人はいるだろう。けれど、彼はその正論で生きて来たし、これからも生きて行くのだろう。彼は自分の言葉を行動で証明出来る。
せっかくの夕飯の味が褪せてしまうような気がして、霖雨は知らん顔をする。葵の言葉は尤もだけど、今この場所で列挙する必要があるのだろうか。
和輝は小難しい顔をして、何かを考え込んでいるようだ。こんなことで怒りはしない。
「お前って顔は広いけど、本当に親しい人間は少ないだろう」
「本音を話せるような親しい人間が、沢山欲しいとは思わないよ」
和輝が反論したので、霖雨は、おやと思って顔を上げた。
透き通るような眼差しで、和輝が言った。
「全ての人と解り合えるとは思っていないからね。解り合えない、解って欲しいとも思わない相手の為に、如何して労力を惜しまなければならないのさ」
「他人は如何でも良いって?」
「他人が如何でも良い訳じゃないよ。他人の評価が、如何でも良いって言っているんだ」
鋭く否定した和輝に、葵が口角を釣り上げて笑った。
葵は、和輝のこういう歪んだ真っ直ぐさというか、達観した人間性みたいなものを見ると嬉しそうに嗤う。
このまま口論になっては堪らないと、霖雨は言った。
「食事中に喧嘩は止めてくれよ」
そう言いつつ、二人が自分のいないところで喧嘩したとしたら流血沙汰になりそうで恐ろしかった。
霖雨の言葉に、和輝と葵は驚いたみたいに目を丸くした。
「喧嘩じゃないけど」
声を揃えて二人が言った。至極当然で予定調和みたいな言葉だった。
食事を再開した二人は、また何時ものように軽口を叩き合う。バランス良く食え、うるせえ。そんなことを言いながら、何事も無かったかのように二人は顔を突き合わせている。
この二人も、仲が良いんだか悪いんだか解らない。
12.虹
(1)レッテル
シャワーを浴びてリビングへ出ると、ソファには和輝だけが座っていた。
葵は早々に部屋へ戻ったらしい。和輝が物凄い勢いで本を読んでいる。後ろから覗き込むと、人体の構造について記された医学書なのだと解る。小難しい単語が羅列してあるけれど、和輝は殆ど速読のように頁を捲っていた。本当に内容を理解しているのか如何かは解らない。
切りの良いところまで読み終えたらしく、和輝は本を閉じて大きく息を吐いた。彼の集中力は凄まじい。いっそ、呼吸すら忘れているようだ。
シャワーを浴び終えた霖雨に気付き、和輝はへらりと笑った。其処から何も続かなかったので、霖雨が言った。
「葵は機嫌でも悪かったのか?」
和輝は答えた。
「機嫌は悪くなかったよ。ただ、思ったことを言っただけなんじゃないかな」
「……あんまり、気にするなよ?」
「まあ、事実だからね。昔から言われて来たことだから、正直、耳が痛かったけど」
肯定し、和輝は苦笑した。
「有難い助言として受け止めるべきなんだろうね。葵の言葉は、俺の為に言ってくれてるって思った方が良いんだ」
「本音は?」
「別にいいじゃんって思った」
其処で、和輝は白い歯を見せて子どもっぽく笑った。
「それでいいじゃん。何か問題あるの? って思った。それで問題があるなら、解決方法を考えるよ。誰かの為に自分の生き方曲げて、それで本当に生きてる意味あるの?」
霖雨にとって、和輝は面白い人間だ。けれど、全ての人がそうやって評価する訳じゃない。
例えば、特定の人間の悪口を皆で言って一体感を深めているとする。きっと、このヒーローはその対象に同情するのだろう。彼が口を開けば、場は白けるだろう。彼は鏡に似ている。後ろめたいことをそのまま映し出すから、自己肯定感の低い人間には彼が鬱陶しく見えるだろう。
霖雨は石橋を叩いて渡らないことが多い。葵はきっと、橋の成分まで分析してから確率を計算する。和輝は、石橋を無視して自力で川を泳いで渡る。
そういう無謀なところとか、優しいようで冷たいところとか、捻くれているようで誰より誠実なところが霖雨は嫌いではない。そういう人間と一緒にいる面白さや心地良さを霖雨は知っている。和輝の乾いた髪をさらりと撫でてやると、子ども扱いするなと苦情が上がった。
本を傍らに置いた和輝が、静かに向き直った。
「頼み事があるんだ」
「今忙しい」
真面目な顔をして和輝が言ったので、霖雨はすぐにそれを叩き切る。彼の頼み事は碌でもない。
けれど、和輝は続けた。
「この前、海に行った時に会った女の子がいただろ? あの子が、次の日曜に遊びに来るんだ。俺はバイトが入っているから構ってやれないんだ」
「何時の間にそんなに親しくなったんだ?」
「別に親しくなってないよ。親父さんが、俺に頼んで来たんだ」
親父さんというのは、世界的大企業の会長だ。和輝のアルバイト先の喫茶店の常連らしい。
猟奇的殺人犯が来店したこともあるし、大会社の会長が常連だし、界隈を賑わすヒーローがアルバイトしている喫茶店は中々繁盛しているようだ。
霖雨は自分がトラブルに巻き込まれ易いことも、それを解決する能力が低いことも自覚しているので断るつもりだった。何処ぞのヒーローとは訳が違う。
「頼まれたのはお前なんだろ?」
「でも、シフトが先約だし」
「じゃあ、断れよ」
「困っていたからさ」
「俺も困っているよ」
和輝が楽しそうに笑った。この男は、誠実なようで結構好い加減だ。
でも、そういうところが人間らしくて好きだ。自分も大概御人好しだと思いながら、霖雨は答えた。
「解ったよ。お前のバイトが終わるまでの間だけだからな」
「ありがとう!」
和輝が夜半ということも厭わず声を上げたので、部屋から葵が顔を覗かせた。
「五月蠅いな。子どもは、もう寝る時間だぞ。身長伸びないぞ」
「はいはい、すいませんね」
じゃあ、日曜は宜しくな。
本を小脇に抱え、和輝は可愛らしく微笑んだ。
身長160cmのヒーローは、自分の成長期はこれからだと未だに信じているらしい。和輝がいそいそと部屋へ戻って行ったので、霖雨はおかしくなって笑ってしまった。
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