⑷兄妹

 壁を見ると体当たりする馬鹿。


 葵はずぶ濡れのヒーローを指して、そう言った。霖雨も同感だった。


 屋敷の中は混乱の最中だった。使用人が意味も無く駆け回り、あれでもないこれでもないと頭を抱えている。それを指揮すべき主が不在なのだから、仕方が無いのかも知れない。主人の留守を預かっている筈の青年は、頭を抱えて蹲っていた。


 傍でヒーローが腕組みをしている。低いテーブルの上にはクラシカルな電話が置かれていた。如何やら、犯人からの連絡を待っているらしい。着替えくらいすれば良いのにと霖雨は思ったが、傍らにカバーも掛けられていないサーフボードが置かれていたので、海岸から慌てて走って来たと解った。


 葵は鞄からシャツとGパンを取り出し、投げ渡した。




「ありがとう」




 可愛らしく礼をして、和輝は広間の真ん中で着替え始めた。神経が図太いとか肝が据わっているとか言う問題ではなく、余りにもデリカシーが無い。何時電話があっても良いようにと配慮しているのかも知れないが、他人の家の広間の真ん中で着替え始めるのは頭がおかしいと霖雨は思う。


 ずぶ濡れの客人に気付いた使用人が、漸く乾いたタオルを運んで来る。今回はホテルのようにドライヤーで乾かす余裕は無かった。


 着替え終えた和輝は、あからさまに洋服に着られているという印象で、状況とのミスマッチが余りにも酷かった。


 余った袖を捲り上げ、和輝が言った。




「俺達が屋敷を出てすぐ、妹は誘拐された。すぐに電話が掛かって来たんだそうだ。警察に知らせれば命は無いって、テンプレートみたいな犯行声明があったらしい」




 和輝が真面目な顔で言うので、霖雨はどんな顔をすれば正解なのか解らない。これは悲劇なのか、喜劇なのか。

 葵はいつもの退屈そうな顔で言った。




「身代金目的か? 誘拐から電話までの時間を考えると、賢い犯人とは言い難いな。俺なら最低でも丸一日は置くぞ」

「何で犯人の立場なんだよ」




 霖雨が言うと、葵が笑った。全く以って笑える状況ではないが、他人事なのだろう。




「悪戯電話かも知れないだろ。ちゃんと探したのか?」

「悪戯が目的なら、相手を選ぶだろ。大企業の会長の子どもが誘拐されただなんて知れたら、ネットニュースのトップページを飾るぞ」

「世の中には後先考えない馬鹿が多いからな。小遣い欲しさに悪魔の囁きに耳を傾けたら、大事件に発展したのかも知れない」

「大事件に発展したとは限らないだろ」

「最悪の状況は常に想定した方が良い。万が一の時に動けなくなるからな」




 母国の言葉を理解する人間がいないのを良いことに、葵と霖雨はこそこそと話し続ける。

 服に着られている和輝が仁王立ちして言った。




「現在は膠着状態だ。犯人からの電話を待つしかない」

「誘拐事件で最も危険なのは、身代金の引き渡しだ。金を取りに行って捕まったケースが殆どだからな」

「だから、何で犯人の立場なんだよ」




 笑える状況ではないのに、何故だか馬鹿らしくなって霖雨は肩を落とした。周囲の使用人達が訝しげに眉を寄せているが、正直、他人事だった。他人の不幸を喜ぶ程に性根は腐っていないが、縁も浅い兄妹の為に胸を痛められる程、御人好しでもない。


 その時、年代物の電話が高く鳴り響いた。肩を跳ねさせた青年が顔を上げる。和輝は電話を取るように視線で促した。




「葵、逆探知出来ないか?」

「一般人に逆探知出来るなら、この世にプライバシーなんて存在しないだろ」

「お前、一般人だったのか?」

「お前に言われたくない」




 言い合う和輝と葵の横、青年は受話器を取った。


 潜めるような声で、これまたテンプレートのような遣り取りをする。これは何かの茶番なのではないかと霖雨は思ってしまう。


 葵は鞄の中からノートPCを取り出して、電話機のジャックへ差し込んだ。

 小さなディスプレイに夥しい量の記号が映り、消えて行く。眩暈がする程の情報量を、葵は眉一つ動かさずに眺めていた。隣で和輝も神妙な顔付きでそれを見ているが、恐らく、何一つ理解はしていないだろう。




「何だ、近いじゃないか」




 地図を表示して、葵が言った。逆探知が可能だったらしい。


 セキュリティが甘いのか、葵が一般人ではなかったのか。霖雨には判断が付かない。

 地図上には赤い点が点滅する。現在地は青く光り、その距離が数kmと離れていないことが解る。ただ、二点を海が隔てている。赤い点は沖合の小島を指し示していた。


 窓の外を見遣り、霖雨は苦く思った。土砂降りの上、高波が立っている。こんな中、飢えた漁船だって帆は張らないだろう。豪華客船だって出発を控えるくらいだ。通話を終えた青年が、真っ青な顔で言った。




「明日の朝、10万ドルと引き換えだって……」




 犯人の居場所が近いと知っている霖雨は、気の毒な青年を哀れに思った。


 命と引き換えに10万ドル。それが高いのか安いのか、判断が付かない。命は代替出来ないと霖雨は思うけれど、時として、命は軽んじられる。兄のおまけとして引き取られた妹の為に、大企業の会長が10万ドルを差し出すだろうか。


 蒼白となった青年を、葵が冷ややかに見ている。




「如何するんだ?」

「如何するも何も、俺に用意出来る筈が無いだろう!」

「じゃあ、妹は見殺しか?」

「そんなことは、言っていない!」




 八方塞がりだと、青年が声を上げて嘆いた。使用人達が揃って顔を伏せる。


 葵にはきっと、妙案があるのだろう。そう思うくらい、余裕に満ちた顔をしている。けれど、それを簡単に提示しないのは、彼の選択に興味があるからだ。


 蹲って唸る青年の横、和輝が準備運動のように屈伸をしていた。

 嫌な予感がして、霖雨は尋ねた。




「お前、何をする気だ?」

「その子の居場所、近いんだろ?」




 この荒れ果てた海を越える気か?

 正気とは思えない。霖雨は首を振る。けれど、和輝はいつもの明るい笑顔で答えた。




「大丈夫。必ず、助けるさ」




 和輝がサーフボードを抱えた。それを見た青年が、慌てて制止を訴える。




「危険過ぎる。海を嘗めるなよ」

「危険なんて百も承知。だから、万全を尽くすよ」




 和輝は何処から取り出したのか、ライフジャケットを見せた。

 ライフジャケットとサーフボード一枚で、荒波を越えようというのだ。頭がおかしいというか、馬鹿だとしか思えない。


 葵が言った。




「お前が行っても、意味が無いんだ」

「如何いう意味だ」

「これは、茶番なんだよ」




 囁くように、葵が言った。その瞬間、まるで全ての点が糸で繋がったと言わんばかりに和輝が明るい顔をした。


 ああ、そうか。

 和輝は傍らの使用人を見詰め、納得したと言うように頻りに頷き、ライフジャケットを投げ出した。霖雨はその首根っこを捕まえた。




「何なんだよ。如何いうことだよ」




 和輝は、此方が苛立つ程の綺麗な笑みを浮かべていた。











12.The Hanged Man

(4)兄妹










 幾ら待っても犯人からの電話は無かった。


 受話器の置かれた広間で、青年は机に突っ伏して寝ずの番を買って出た。大企業の御曹司とは思えない、泥臭い姿だった。


 髪はぼさぼさで、服も乱れている。顔色は悪く、無精髭が見える。それでも、たった一人の妹の為に一人で犯人へ立ち向かおうと構える様は、理想の兄そのものだった。


 霖雨は、淹れたてのコーヒーを両手に抱えたままソファに深く腰掛けた。葵は普段と同じように読書に没頭し、和輝はソファで既に入眠している。旅先でとんだトラブルに巻き込まれたものだ。


 目の下に隈を刻み込んだ青年は、恨めしそうに電話機を睨んでいる。霖雨は問い掛けた。




「此処で暮らして、長いのかい?」




 霖雨としては世間話の一つだった。青年は、妹と同じ綺麗な緑色の目を向けた。




「長いも何も、生まれた時から此処で育った。此処は俺の街だ」




 何処か乱暴で砕けた物言いだった。きっと、これが本来のこの青年なのだろう。


 養子として引き取られたと聞いていたが、葵の情報が間違っていたのだろうか。ちらりと様子を窺うが、葵は顔を上げない。ただ、忙しなく頁を捲っていた手が緩慢なので、耳は傾けているようだった。




「俺達はこの町で生まれ育ったんだ。母さんが死んでから、俺と妹は二人だけで、必死に生きて来た。貧しくても、俺達は十分に幸せだった」




 懐かしむように、悔いるように青年が言う。




「其処に、いきなり使いの者が来たんだ。俺達は愛人の子で、此処の社長と血が繋がっている。社長は跡取りに恵まれなかったから、俺達に目を付けたんだ」

「それで、此処へ来たのかい?」

「俺達が此処へ来たんじゃない。屋敷が、此処へ来たんだ」




 霖雨としては些細なことだが、青年の矜持なのだろう。

 青年は続けた。




「貧しいままの暮らしでも、生きることは出来る。俺はその術がある。でも、妹はそうじゃない。その頃はまだ小さかったし、俺だって出来ることが限られていた。俺だって、貧しくして死んだ母さんの苦しさを覚えている。だけど……」

「生活費欲しさに矜持を売ったのかい?」




 嫌味な程の笑みを浮かべて、葵が口を挟んだ。空気が張り詰める。青年は、まるで葵が犯人グループの一員だとでもいうように、忌々しく睨んでいた。




「他に、如何しろって言うんだ!」

「別に否定する気は無いよ。人生なんて選択の連続だからね」




 軽口みたいに葵が言う。




「選ぶというのは、捨てることと同義だ。人間は目先の成果に囚われて、未来や過去に目を背ける。自分で覚悟して選んだ道なら、後悔なんてするな。泣き言なんて言うな。弱り目なんて見せるな。無責任だろうが」




 青年は、黙った。葵は畳み掛けるように言った。




「お前は生活の安定と社会的地位と妹の未来の為に、自分の矜持を捨てたんだ。なら、誰に笑われても、馬鹿にされても、何を言われても揺らぐんじゃない。妹が大切なんだろう?」

「当たり前だ!」

「優先順位が決まっているのに、何を迷う必要があるんだ。妹が本当に大切なら、意地も矜持も殴り捨てて、憎い親の靴を嘗めてでも走り回れ。中途半端なことをしていると、全部を失うぞ」




 青年が項垂れていた。葵の言葉は厳しいが、事実だった。霖雨は弁護することが出来ない。


 夜が明ける。降り注いでいた雨は止み、水平線の向こうから朝日が顔を出していた。


 身代金を受け渡す為、青年はスーツを着込んでいた。美しい金髪を整え、普段の顔色を戻したその様は、大企業の御曹司と呼ぶに相応しい姿だった。港に停まっていた漁船を一つ借り、青年はキャリーバックを転がしながら進んで行く。霖雨と葵は同乗した。


 和輝は何処かへ行ってしまった。サーフボードが無くなっていたので、霖雨は嫌な予感しかしない。


 漁船は低くエンジンを唸らせながら進む。昨夜までの大荒れが嘘のように、海面は静かに凪いでいた。


 目的地は沖合の小さな無人島だ。嘗ては工場があったらしいが、今は廃棄されている。怪しげな取引でも行われそうな不気味な雰囲気だった。青年は慣れた手付きで漁船を運転し、岸に着ける。海の街で生まれ育ったというのは事実だろう。


 寂れた廃工場へ足を踏み入れる。キャリーバッグの進んだ轍がくっきりと残っていた。長い年月、誰にも使用されず、埃が積もっていた証拠だ。




「金は持って来た! 妹を返してくれ!」




 キャリーバッグを置き、青年が声を上げる。人気の無い空間に声が空しく響いていた。

 青年の横顔に焦りが浮かぶ。




「返事をしろ!」




 そうして声を上げた時、微かな物音がした。


 引き寄せられるように目を向ける。コンテナの影、あの少女がいた。

 青年が妹の名を叫ぶ。少女は泣きそうに顔を歪め、駆け出した。

 飛び付く少女を、青年が抱き留める。たった一日離れていただけとは思えぬ兄妹の再会だ。抱き合う二人を見ながら、葵が鼻を鳴らした。




「無事で良かった! 犯人は――」




 青年がぐるりと周囲を見回す。葵は吐き捨てるように言った。




「犯人なら、目の前にいるだろう」




 その言葉が理解出来ないように、青年が眉を寄せる。少女が、目を伏せた。




「ごめんなさい、お兄ちゃん……。私……」




 妹が口を開くと、大粒の涙が零れ落ちた。


 この誘拐は全て茶番だ。妹は兄の心を試す為に、狂言を語ったのだ。そして、それは独りきりでは不可能な犯行だった。


 コンテナの影から、数人の使用人が顔を出す。屋敷で慌てふためいていた使用人も、恐らくは協力者だ。全てはこの兄妹の為に、一計を講じたに過ぎない。


 真実を知った青年は、目の前の妹を呆然と見詰めている。妹はぼろぼろと涙を零し、それしか言葉を持たないように謝罪を繰り返す。冗談だと笑えるようなものではないだろう。言葉を失った青年の横、葵が進み出る。




「良い機会だっただろう。お前も自分の覚悟や、親父さんの心を知ることが出来たんだ」




 そう言って、葵はキャリーバッグを蹴り飛ばした。開け放たれたバッグの中には、新札がぎっしりと詰まっている。

 身代金の10万ドルだ。妹は見たことの無い大金に、目を丸くする。




「このお金……如何して」

「父さんに、頼んだんだ……」




 青年にとっては、最も縋りたくない相手だっただろう。けれど、その意地も矜持も殴り捨て、妹の為に奔走した。それが青年の本来の姿だった筈だ。幾ら環境が変わったとしても、兄が妹を思う気持ちに変わりは無い。目の前の現金は、それを裏付けている。


 そして、その大金を出したのは彼の憎む父親だった。父親にとっては正妻の子でも、愛人の子でも、己の血を引いた我が子に違いは無い。そう言っているようだった。

 抱き合い涙を流す二人を横に、葵は静かに退場する。透明人間の如く誰にも知覚されぬまま、消えて行く。霖雨は後を追った。


 誰もいない砂浜で、霖雨は葵に追い付いた。




「いつから、茶番だって気付いていたんだ?」

「いつからも何も、初めから破綻していたじゃないか」




 至極当然のように、葵が言う。葵にとっては、ネタバラシをされた後の推理小説を読んでいる気分だっただろう。


 それでも、彼が此処まで付き合った意味を考えてしまう。彼等の再会を見届け、剰え手助けするような言葉を告げた意図とは何だろう。兄は既に死んだと、能面みたいな無表情で言った葵を思い出す。


 その時、沖合で声がした。我らがヒーローだった。


 案の定、サーフボードで来たらしい。否、目的地と呼ぶべきではない。彼はサーフィンを楽しんでいて、ついでに茶番の結末を見届けに来たのだ。自分で首を突っ込んだ癖に、無責任だろう。


 そう思うけれど、万全を尽くすと彼は言っていた。和輝の指す万全の策というのは、自分達――霖雨と葵のことだったのかも知れない。そう思うと、苛立ちはするが、責めることは憚られる。これは彼なりの信頼の証なのだろう。


 沖合では美しい波が立っている。舞い踊るように、滑らかに滑降するヒーローが手を振っている。


 今日の夕食は、デザートも付けさせよう。

 そんなことを思いながら、霖雨は手を振り返した。

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