⑶愚者

 慣れない枕で眠ったせいか、疲れが残っている。


 清々しい朝日を眺めながら、霖雨は関節を鳴らした。和輝は水平線の向こうから顔を出す旭を見る為に早起きしたらしい。葵は何処で寝ていたのか、布団を敷いた気配すら無かったが、和輝に付き合わされたらしく疲労感を滲ませていた。


 どうせなら、自分も起こして欲しかった。仲間外れにされたような疎外感を感じて口を尖らせていると、葵が言った。




「一応、声は掛けていたぞ。お前が起きなかっただけだ」




 寝ている自分に対して、彼らがどの程度の努力をしたのかは解らない。けれど、寝汚くないと自負している霖雨としては納得し兼ねる。


 朝から二人分程の朝食を平らげたヒーローは、知人に挨拶すると部屋を出て行った。霖雨も慌てて後を追った。


 ホテルから出て海沿いの道を真っ直ぐに進む。小高い緑の丘の上に、白亜の城を思わせる大きな屋敷があった。それだけで庶民ではないと解るのに、ヒーローは知人だと言う。彼の人脈は謎に包まれている。


 和輝が、弁解するように言った。




「店長の古い友人なんだって」




 店長というのは、和輝のアルバイト先の喫茶店の店長だった。彼の作るクラブハウスサンドと、コーヒーは絶品だ。


 屋敷へ続く石畳を上りながら、霖雨は空を仰ぎ見た。昨日までは小さかった雲が重く広がっている。積乱雲だ。天候の崩れを予感させた。交通手段はバイクしかないので、早くこの地を離れてしまいたかった。


 屋敷のインターホンを押すと、若い男の声が出迎えた。和輝が名乗れば、両開きの柵のような門扉が自動で開く。


 寝癖頭なのに、気後れしないらしい和輝が堂々と入って行く。霖雨は後を追った。


 屋敷の玄関では、獅子が輪を加えて出迎えてくれた。慣れた様子で和輝は輪を取り、扉を叩く。すると、待ち構えていたとばかりに扉が開かれた。玄関であろう向こう側は、昔の貴族の館みたいな赤い絨毯が敷かれている。使用人が揃って頭を垂れるので、霖雨は動揺した。漫画みたいだ。


 和輝は、玄関先で「お邪魔します」と御辞儀をする。心臓に毛が生えているというよりも、鋼鉄で出来ているのかも知れない。


 使用人が取り囲む奥に、大きな階段があった。屋敷の主らしき青年が、両手を広げて歓迎してくれる。




「よく来たね。噂は聞いているよ」

「はあ」




 大仰な物言いをする青年に、和輝は間の抜けた反応をする。身分の差が表れているようで、霖雨は気恥ずかしくなる。




「ゆっくり寛いでくれ」

「いえ、今日帰るので。お世話になった御礼をしに来ました」

「なんだ、そうなのか」




 残念そうな青年に向かって、和輝がにこりと微笑む。そのまま頭を下げた。




「ありがとうございました」




 霖雨は、頭を抱えたくなる。こいつは、如何いう教育を受けて来たのだろう。


 肩透かしを食らったように、青年は目を丸くしている。気にする様子も無い和輝は、そのまま「失礼します」と踵を返そうとした。青年が慌ててそれを引き留める。




「そんなに急がなくてもいいじゃないか。せっかくだし、ゆっくりしたら如何だい」

「残念ですが、何だか天気も悪くなりそうですし、結構です」




 表情は残念そうにしながらも、口調には一切の迷いが無い。

 霖雨は投げ遣りな気持ちになって、視線を明後日の方向へ向けた。


 柱の影に、誰かがいる。

 此方を覗き込む影は小さく、それが昨夜の少女であると気付く。霖雨が小さく手を振ると、少女は驚いたように肩を跳ねさせて消えてしまった。


 間抜けな遣り取りを切り上げた和輝が、「行くぞ」と短く言った。霖雨もぺこりと頭を下げ、屋敷を出て行く。青年が呆気に取られていた。

 玄関を出て、和輝は振り返る。美しい屋敷をぼんやりと眺めていた。




「如何かした?」




 霖雨が問うと、和輝は答えた。




「親父さんに会いたかったんだよ」

「親父さんって?」

「この屋敷の持ち主。喫茶店の常連なんだよ」




 こんな大きな屋敷を持つ男が常連とは、あの喫茶店も中々繁盛しているらしい。

 霖雨は問い掛けた。




「今日は留守なのかな」

「そうみたいだね。忙しい人だから、仕方無い」

「何をしている人なんだ」

「貿易会社の社長?」




 その貿易会社の名前を聞いて、霖雨は目が飛び出る程に驚いた。母国でも幾度と無く聞いた大会社だった。

 その会長がこんな辺鄙な田舎に暮らしているとは、想像もしていなかった。驚く霖雨を横に、和輝が言う。




「面白い親父さんなんだよ」




 世界的に有名な大貿易会社の会長を、親父さんと呼ぶ和輝の神経が解らない。霖雨は額を押さえる。

 門扉が開き、早く出て行けと急かすようだ。霖雨は和輝の腕を掴み、引き摺るようにして出て行った。









12.The Hanged Man

(3)愚者










「養子が二人いるらしいな」




 人気の無い駅のプラットホームは、潮の臭いに満ちている。


 鼻を突く異臭に、嗅覚は既に麻痺していた。霖雨は、ベンチでだらりと足を伸ばす葵を見た。黙っていれば爽やかな好青年なのに、中身が全てを台無しにしている。残念なイケメンなんて言葉が母国にはあるけれど、神木葵は残念という評価を超える人格破綻者だった。


 そんな社会不適合者の葵が、携帯しているスマートフォンを手持無沙汰に操作しながら言う。




「人格者と謳われて、何不自由無い大会社の社長として社会的地位もあるのに、己の血を分けた子孫に恵まれなかったなんて皮肉じゃないか」




 口角を釣り上げて、葵が嗤う。霖雨は適当な相槌を打った。


 件の知人とは終に会えなかった。一足先に帰宅するという葵を見送る為に、霖雨は海岸の傍にある駅まで足を運んだ。和輝は良い波が来ていると言って、見送りそっちのけで海へ走って行った。どうせ家に帰れば顔を突き合わせることになるのだから、別れを惜しむなんて薄ら寒い。


 霖雨とて、葵を見送るつもりなんて無かった。第一、葵も見送りどころか黙ってさっさと帰ろうとしていたくらいだ。


 駅から見渡せる海は、確かに高い波が来ていた。天候の崩れを予感させる暗雲が空に広がっているので、海が荒れない内に、和輝には帰還して欲しい。サーフィンを嗜まない霖雨は、葵を見送って時間を潰すくらいの選択肢しか無かったのだ。


 沖合では、肉眼で見える程に高い波が立っていた。その頂上で、落下する木の葉みたいにくるくると滑るサーファーが数人見える。一際小さな濃紺のラッシュガードを来たヒーローは、他のサーファーが波間へと墜落する中で自由自在に波を乗り熟している。あれ程にスポーツが万能ならば、何をしても面白いと思うだろう。一方で、個人技に飽きてしまうだろうことも想像出来る。


 ヒーローの愛読書、カモメのジョナサンは、飛行の高みを目指して自己研鑽に励む。終わりの無い努力の果てに、彼は神と呼ばれる境地へ到達する。そして、周囲のカモメの意識を変えてしまい、偶像崇拝に至る――。


 近年追記された最終章を思い返し、霖雨は溜息を零す。




「子孫繁栄が全てじゃないだろ」

「生命の最終目標は種の保存だ。そういう意味では、和輝の言う親父さんとやらは、落第者だな」

「これだけ人間が溢れているんだから、今更保存する必要も無いようだけどな」




 沖合から波に乗って来たヒーローが、砂浜に到達する。周囲から響く拍手の乾いた音が、駅まで聞こえるようだった。


 賑わう砂浜と、駅の静寂は相対的だ。住む世界が違うのだろうと思う。

 葵は手元の携帯電話に目を落としたまま、皮肉っぽく嗤う。




「個体に因る差異があるから、種を保存しようとするんだろう。無能な種を箱舟に乗せる必要も無い」

「人間は皆平等の筈だ。何かで突出したものがあれば、劣るものもあるさ。穿った見方しか出来ない社会に問題がある」

「社会は人類を反映して成り立っている。社会が必要無いとレッテルと貼ったのなら、それは不適合ということだ」




 じゃあ、お前はその代名詞じゃないか。

 霖雨は口にせず、胸の内で吐き捨てた。

 葵はその胸中を悟ったのか否か、頼んでもいないのに例を挙げる。




「お前と和輝のどちらかの種しか保存出来ないとしたら、社会はどちらを選ぶと思う? 人より多少賢くて、多少身長があるだけのお前と、どんな時代や状況にも適応し人から望まれ賞賛を受けるヒーローのどちらを選ぶ?」

「まあ、十中八九、和輝を選ぶな」

「ほら、人間は平等じゃなかった」




 声を立てて葵が笑った。

 此処にいたのが和輝ならば、全く逆のことを言っていただろう。議題云々ではなく、出題者に問題がある。




「人間は平等じゃない。認める。それで良いだろ」

「如何でも良いよ」




 自分から言い出した癖に、興味も無さそうに葵が言った。論じることに意味があり、答えを出すことは目的としていないのだ。面倒臭い男だと思った。


 空を見上げる。鉛色の雲が物凄い勢いで空を埋め尽くしている。今にも降り出しそうな空の下、我らがヒーローは再び沖合に向かって泳ぎ出している。命知らずの馬鹿と、慎重な臆病者。社会はどちらを選ぶだろう。そんなことを考える。


 葵が立ち上がった。もうすぐ電車が来るらしい。線路の向こうには未だその気配は無い。




「児童養護施設で育った兄妹が、いきなり何不自由無い生活を送れるようになったんだ。慣れないことも多いだろうな」




 同情的な意見を言う葵は珍しい。彼にとっては皮肉の一つだったのかも知れない。


 霖雨は、屋敷で見た青年を思い出す。何処か演技掛かった動作で、滑稽さを感じていた。彼なりに、大企業の御曹司として振舞っていたのかも知れない。そう思うと、何故だか彼を肯定的に受け止められる。


 そんな兄の涙ぐましい努力を、陰から見ていた妹。深夜に徘徊しても咎められない少女。男女差別が世論では悪の権化のように言われているけれど、一般的に跡取りは長男の役目だ。兄妹ということで、不必要な妹まで引き取ったというのなら、件の社長も中々の人格者だ。


 何となく、霖雨は問い掛けた。




「葵は一人っ子?」

「何で?」

「別に、世間話の一環だろ」




 問い返されるとは思わず、霖雨はしどろもどろになる。葵は感情をごっそりと削ぎ落したような無表情だった。


 時々、葵はこういう顔をする。何かが彼の琴線に触れてしまったのだろう。人には詮索されたくないこともある。霖雨も、葵が答えなければそれで良いと思った。けれど、葵は答えた。




「兄が一人」

「お前、弟だったのか」




 妙にしっかりしているというか、要領が良いというか、抜け目無いところが末っ子らしいなと感じる。霖雨も兄が一人いるので、立場は同じなのだが。


 電車が中々来ないので、霖雨は更に尋ねた。




「お前の兄貴は、今は向こうにいるのか? 何をしている人?」

「死んだよ」




 切り落とすような鋭い口調で、葵が言った。霖雨は黙った。


 電車は、来ない。ぽつりと、空が終に堪え切れず泣き出した。それが合図だったかのように、大粒の滴が降り注いだ。まるで天の底が抜けたような、バケツの水を引っ繰り返したような土砂降りだった。目の前に広がる海すら覆い隠してしまう。


 嫌な沈黙を雨音が埋めて行く。霖雨は口を噤んでいた。


 電話が鳴った。霖雨の携帯電話だった。急いでそれを耳に押し当てると、慌てたヒーローの声がした。豪雨に大慌てだろうと思い、霖雨は問い掛けた。




「大丈夫か? いきなり降って来たから、驚いただろう」

『雨は大丈夫だよ。降り出すことは、予想していたからね』




 予想していたなら、回避しろよ。

 霖雨は言った。

 けれど、和輝は「善処します」なんて殊勝な言葉を告げて、続けた。




『予想外のことがあって、手伝って欲しいんだ』

「何だよ、また厄介ごとかよ」

『俺もよく解らないんだけどさ』




 途端、酷く落ち着いた声に戻って、和輝が言った。




『妹が誘拐されたらしい』




 お前、妹なんていないだろ。

 そんな冗談を告げる余裕も無いくらい、酷い雨だった。

 通話は繋がったままだ。状況を理解出来ないまま沈黙する霖雨から、葵が携帯を奪い取る。




「さっさと帰って来い」

『嫌だ』

「何でもかんでも救える訳じゃないって、この前、痛い程解っただろ。教訓は活かせよ」

『出来るか如何かじゃない。やるしかないんだよ』

「The wise make proverbs and fools repeat them」

『うるせーよ』




 小さな通話機器の向こうから、ヒーローの笑う声がした。

 賢者が格言を作り、愚者がそれを繰り返す。

 ヒーローというものは、愚者に含まれるのかも知れない。そんなことを霖雨は思った。




「行かないからな」

『じゃあ、丘の上の屋敷に集合な』




 遅れるなよ、と念押しして、ヒーロー側から通話は断たれた。


 会話は噛み合っていないけれど、意思疎通は出来ているらしい。忌々しそうに葵は舌打ちをして、携帯を投げて寄越した。霖雨はそれを受け取った。

 苦い顔をして、葵が荷物を拾い上げる。流石に傘は持って来ていない。ずぶ濡れになることは間違いないだろう。


 人間は平等ではないかも知れない。けれど、天は平等だ。雨は誰の上にも降り注ぐものだ。

 葵を追い掛けて、霖雨も走り出した。

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