⑵火花
ずぶ濡れになった和輝が、烏の行水の如くシャワーを浴びて出て来た。
碌に髪も乾かさないので、本人に代わってドライヤーを駆けてやる。こういう時、霖雨は弟を持ったような気持ちになる。霖雨は母国に双子の兄がいる以外に肉親を持たない。だからこそ、手の掛かる弟みたいな存在の和輝を蔑ろに出来ないのだと思う。
腹が減ったと喚く葵を連れ、三人で海辺のレストランへ入った。和輝の知人の紹介らしく、豊かな海の幸を半額以下の値段で腹一杯食べさせてもらった。ホテルも格安だったので、旅行だと構えていたにも関わらず、予想以上に出費が少なく済んでいる。
昼食の後も海に向かった和輝を見送り、霖雨は葵と連れ立ってホテルへ戻ることにした。
人気の無い受付には、古びたソファが置かれている。壁際には動かない振り子時計が忘れ去られたように立っていた。
螺子が巻かれていないのか、故障しているのか。動く気配も無い時計をぼんやり見ていると、さっさと部屋へ向かった葵に置いて行かれた。待っているなんて甲斐性が、葵にある筈も無い。
部屋は施錠されていたので、仕方無くチャイムを鳴らす。面倒臭そうな顔をして葵が鍵を開けてくれた。それが億劫ならば、初めから施錠なんてしなければいいのにと思う。どうせ、其処等のごろつきなんかよりも、葵の方が武術に優れている。強盗が入ったとしても、犯人を殺さなかったか如何かが心配だった。
葵は、海の一望出来る窓辺で読書していた。灰皿には既に無数の吸い殻が転がっている。
丁度、窓の向こうで波に乗る和輝が見えた。此方に気付く様子は無いけれど、何となく見入ってしまう。
「海が綺麗だな」
「海は嫌いだ」
取り付く島も無く、葵が言った。
「陸地と海洋の面積比率は凡そ3:7だ。地球上には一億種を超える生物が存在すると言われているが、確率から考えると未確認生物の殆どは海洋に生息していることになる。特に深海は、人類にとって未知の領域だ」
「浪漫が広がるじゃないか」
「どんな化物や疫病が存在するのか、想像も出来ないだろう」
「未確認生物が有害とは限らないじゃないか」
「如何かな。どんな生き物も食物連鎖の中で生きている。人間だけが例外なんて考え方は、烏滸がましいじゃないか」
霖雨は腕を組んで唸った。
葵の言葉は解り易く、何を言っているのかは解る。けれど、何が言いたいのか解らない。彼は何時も回り諄いのだ。否定的な意見を発言するにあたり、まずは根拠を口にする。トイレットペーパーの芯みたいに解り易い和輝と、足して二で割れば丁度良いのにと思った。
「どんな生き物も適した環境があるだろう。人間にも決められた領分がある。それを侵して命を危険に晒すのだから、人間は馬鹿な生き物だな」
「お前もその馬鹿筆頭じゃないか」
「俺は自分の領分は弁えているよ」
霖雨は呆れて溜息を零した。恐らく、葵の言葉に目的は無い。ただ情報を垂れ流しているだけだ。
意味があるとするなら、警告だ。葵は何かの脅威を感じていて、注意喚起を促している。そんな気がした。
「お前が海嫌いなのは解ったよ」
論議を投げ出すと負けたような気持ちになるが、霖雨は早々に白旗を振った。
葵に倣って読書でもしよう。自宅にいる時と代わり映えしないが、そういう旅行があっても良いだろう。どの道、あのヒーローはイベント好きなので、帰って来たら外へ引っ張り出されるのだ。
12.The Hanged Man
(2)火花
夏の日差しが落ちた後、漸くヒーローは帰還した。
ホテルは夕食の時間だった。部屋に運ばれて来た海の幸の盛り合わせに、葵が露骨に嫌そうな顔をする。調理法が異なっても、同じ食材を続けて食べたくないのだろう。霖雨とて同感だが、新鮮な海の幸等、普段は早々食べられるものではない。こういう機会に有難く頂くべきではないかと思う自分は、貧乏性なのだろうか。
うんざりした顔で葵が残したパエリアを、和輝は顔色一つ変えずに咀嚼する。CMのオファーでも来そうな食べっぷりだったが、その尋常ではない量に霖雨も少々食欲を落とした。結局、凡そ二人分の夕食を和輝は腹に収めた。
満腹感から微睡んでいると、和輝が思い立ったように声を上げた。
「花火をしよう」
ああ、夏の風物詩だな。霖雨はぼんやりと思った。
異国の地にもあるのだろうか。疑問に思っていると、和輝は徐に鞄を引き寄せた。中を漁ったかと思うと、何処か懐かしい手持ち花火のファミリーパックを取り出した。準備の良いことだ。霖雨は笑った。
葵は窓辺で煙草を吸いながら、放逐するように手を振っている。
「行ってらっしゃい」
「お前も行くんだよ」
出不精の葵を如何やって連れ出すのかと霖雨が見ていると、和輝は強引に葵の手を引いた。
葵がその手を振り払わないことが、少し意外だった。文句を言いながらも、引き摺られながら付いて行く。和輝は霖雨を振り返り、満面の笑みで「行くぞ」と言った。
廊下は薄暗く、人気が無い。吊るされた蛍光灯も点滅している箇所があり、手入れが行き届いているとはお世辞にも言い難い。先日、訳の解らない超常現象に巻き込まれたばかりだ。和輝は知人の紹介だと言っていたが、もう少し、空気を読めと言って遣りたかった。
中庭に出る。見上げた建物は死んだように静まり返っていたので、自分達以外の利用者はいないのではないかと思った。
和輝は気にする様子も無く、花火のファミリーパックを開けている。葵はポケットからライターを取り出し、投げ渡した。受け取った和輝が蝋燭へ火を点ける。
筒状の紙から、炎が噴き出す。芒花火だ。炎色反応に因って色を変える様を、和輝はまるで幻想的なものを見るようにうっとりと眺めている。
ただの化学反応だ。そう思いながらも、霖雨もまた、火を灯した。筒の先に炎の玉が灯り、周囲に火花を散らす。スパーク花火と呼ばれるものだった。
「綺麗だな」
霖雨が言うと、和輝は嬉しそうに顔を綻ばせた。
ただの化学反応に、人間は一喜一憂したりする。それは滑稽なのだろうか。自分は科学に傾倒する現実主義者だと思っていた。――否、そう思いたかっただけなのかも知れない。結局のところ、自分は理想を捨てられない馬鹿な理想論者なのかも知れない。だから、根拠を欲しがる。目に見えないものは信じられない臆病な自分を自嘲する。けれど、和輝はそうではないのだろう。目に見えなくても、此処にあるものを信じられる。積み重ねて来た時間や、人との繋がりを愛おしむことが出来る。
そういう人間に、なりたかった。
傍で見ている葵は、花火へ手を伸ばそうともしない。興味も無いのだろう。正しく、彼にとっては単なる化学反応で、さして驚くものではないのだ。当然の反応が起こっているだけなのに、如何して其処に喜びを感じるのか理解出来ないのだろう。
「花火は人間みたいだって、誰かが言っていたよ」
火の消えた花火を水の張ったバケツへ放り込み、和輝が言った。
花火を捨てた手で、次を拾う。蝋燭の上へ垂らされた紙の帯は引火し、金色の炎を噴き出した。
「一瞬の為に生まれて、消えて行く」
「抒情的だな」
葵が、侮蔑するように言った。
かちり。ライターが炎を灯す。
オレンジ色の炎で、煙草からは紫煙が昇る。花火から立ち上る煙も、煙草から溢れる紫煙も、星空の下で混ざり合って消えて行く。儚い。霖雨は思う。
「見事じゃないか」
和輝が言った。
「何か一つの目的の為に生まれたものは、美しいんだよ」
「反面で、それは脆い」
煙を吐き出して、葵が言う。
「カモメのジョナサンを読んでいただろう。飛行のみを生きる目的とする様は、一見すると美しいかも知れない。だが、翼を失えば、ただの悲劇だ」
「それでも、ジョナサンは空を目指すんじゃないかな」
和輝は笑った。
「人が空を夢見て飛行機を開発したように、ジョナサンも飛行の手段を講じただろうさ」
「其処まで馬鹿とは思えないけどな」
「如何にもならないと思ったら、進むしかないんだよ。それが例えどんなに苦しくてもね」
失っても失っても、希望は必ずある。だから、前に進まなければならない。
そう言って、和輝が微笑む。冬枯れの荒れ地に春が訪れたような、美しい微笑みだった。
「俺は道に迷ったら、必ず悪路を選ぶことにしてる。その方が、面白いからね」
「だから、道に迷うんだろ」
吐き捨てて、葵が笑った。
手持ち花火が尽き、最後は線香花火で締め括る。全てを鎮火し、和輝は水の張ったバケツを片手にぶら下げた。細身の和輝が持つには頼りなく、霖雨が代わった。葵に言わせれば、どっちもどっちだそうだ。
燃え滓を処理する為にホテルの受付に向かう。和輝は葵と連れ立って先に部屋へ戻った。
葵は、霖雨のことは平気で置いて行く癖に、和輝のことは待つ。だが、霖雨とて逆の立場なら葵のことは置いて行くだろうと思って何も言わなかった。
受付係の中年の女性は、バケツを快く受け取ってくれた。
手ぶらになった霖雨は、何となく玄関先の古時計を見詰めた。相変わらず動く気配は無い。脳裏に、故郷で幾度と無く歌われた童謡が思い出された。大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計。
今はもう、動かない。その時計。
哀愁の漂う佇まいを眺め、霖雨はソファに座った。既に時刻は午後十時を過ぎていたので、我らがヒーローは就寝の時間だった。葵もベッドへ押し込まれたかも知れない。そんな二人の姿を思い浮かべて、霖雨は胸の中に日溜りのような温かさを感じていた。
「その時計ね、もうずっと動かないの」
突然、背後から声を掛けられた。
振り返ると、昼間に見た金髪の少女がいた。
「綺麗な時計でしょ。午後三時になると、その小さな窓から鳩が顔を出したんだって」
少女が時計を指差す。霖雨は導かれるように視線を向けた。
気付かなかったが、文字盤の下には確かに鳩時計らしく窓があった。けれど、時計が動かない以上、鳩が顔を出すことも無いのだろう。
「壊れちゃったんだよ」
残念そうに、少女が言った。
霖雨は反応に迷う。先日の超常現象が脳裏を過り、もしかすると、この少女も質量を持った思念体なのではないかと勘繰ってしまう。けれど、少女は言った。
「私、お化けじゃないよ」
顔に出ていたのかも知れない。霖雨は慌てて笑顔を繕った。
「昼間も会ったね。この近くに住んでいるの?」
「うん、そう」
「お父さんかお母さんは一緒?」
「ううん」
少女が答えたので、霖雨は不審に思った。未成年の少女が、こんな時間に一人で出歩くべきではない。
所謂、不良少女には見えない。何処か気品が漂い、幼さの陰に育ちの良さが感じられる。
「もう夜遅いから、お家に帰った方が良いよ」
「そうする。透明人間と、ヒーローのお兄ちゃんにも、宜しくね」
可愛らしく手を振って、少女が玄関を出て行った。
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