12.The Hanged Man

⑴少女

 Family isn’t defined only by last names or by blood. It’s defined by commitment and by love.

(家族は苗字や血縁だけで定義されるのではない。それは献身と愛によって定義される)


 Dave Willis




 銀色の車体が、獣の咆哮の如く唸っている。


 バイクの鼓動を感じながら、霖雨は被っていたヘルメットを脱いだ。湿度が高く、頭頂部が蒸れているような気がする。草臥れてしまった髪を起こしながら、霖雨は後ろに座る小さなヒーローをサイドミラー越しに窺った。


 雲一つ無い蒼穹の下、バイクで走っている。先日の血腥い事件を終え、気分転換に霖雨が提案したのだ。二つ返事で了承した和輝は、それまでのしおらしさは何処へ消えたのか、海に行きたい等と彼女のようなことを堂々と言った。


 断る理由も無いので、霖雨は愛車に乗せて連れて行って遣ることにした。


 ――が、早速、道に迷っている。


 燦々と照り付ける太陽は、厳しい日差しで嗤っているようだ。野生動物のように、和輝が「潮の匂いがする」と言うので目指してみるが、行き着いた先は住宅地の袋小路だった。そのまま何となくバイクを走らせたが、未だに海の気配も無い。


 仕方無く地図を開く。現在地から見ると、確かに和輝の言う通り、方向性としては海を目指している。しかし、その途中は住宅地となっているので、道路交通法に則ると大きく迂回しなければならなかった。


 早朝に家を出たというのに、既に太陽は中天に差し掛かる。地図を折り畳んで鞄へ仕舞う。背後では、呑気なヒーローが鼻歌交じりに喉かな田園風景を楽しんでいた。目的地があるのなら、道くらい調べて欲しい。そう思うけれど、ドライブを提案したのは霖雨なので言葉にするのは憚られた。急かしたり文句を言われないだけ、まだマシなのだろう。乗せていたのが葵なら、今頃、耳障りな罵詈雑言で辟易していた筈だ。


 田園風景には一戸建ての家が多い。休日らしい壮年の男性が洗車をしている。ホースの水を勢いよく愛車に掛けているので、熱気に茹だる霖雨としては、何となく羨ましくなる。それが例え、下着姿の中肉中背の男だったとしても。




「道、解ったんだろ」




 歌うような軽い口ぶりで和輝が言った。霖雨は、毒気抜かれた心地になる。

 人は緑色を見るとリラックスするというが、この小さな少年は同様の効果が得られるようだ。




「まあね。方向としては合っているんだけど、迂回しないといけないんだ。もう少し時間掛かると思うけど、大丈夫?」

「霖雨が大丈夫なら、それで良いよ。行きたいって言った俺が、道を調べるのが筋だった」




 此方が責める前に謝罪をするので、霖雨は何と無く嬉しくなる。彼は敵を作り難いだろう。

 少しでも彼を責めるような考えをしたことを、霖雨は恥じた。




「悪いね」

「迷うのも、旅行の楽しみだろ?」




 白い歯を見せて、和輝が悪戯っぽく笑う。霖雨も釣られて笑った。

 和輝は突然、思い出したように携帯電話を取り出した。




「葵が文句言ってるぞ。遅いって」




 霖雨は、溜息を吐いた。


 早朝にバイクで家を出た霖雨と和輝。葵は家に残ると言っていたが、殆ど強引に和輝が連れ出したのだ。


 これはただのドライブでは無い。一泊二日の旅行だった。海辺のホテルを格安で紹介されていたので、これを機に三人で旅行しようと和輝が提案したのだ。葵は、何が嬉しくて男三人で旅行しなければならないのだと言っていた。和輝は既に予約を済ませていた。


 炎天下をバイクで走るなんて疲れることはしない。協調性の無い葵は、一人悠々と公共機関を利用して、一足先に目的地へ到着したらしかった。




「放って置こうぜ」

「物理的に距離があると、あいつの文句も可愛く聞こえるな」




 皮肉っぽく霖雨が言うと、和輝は嬉しそうに頷いた。


 住宅地を抜けると、漸く遠くに海が見えた。絵具を垂らしたようなターコイズブルーだ。何の思い入れも無いけれど、水平線を見ると胸が躍るのは何故なのだろう。海は生物の母であるというから、太古より引き継いだ血が故郷を懐かしんでいるのかも知れない。


 白い砂浜には、休日を楽しむ家族連れや男女が多い。人気があるのだろう。塵一つ落ちていない風景に感動を覚えて、バイクの速度を落とす。人々の明るい笑い声が響き、ふっと背中が軽くなる。霖雨はサイドミラーに映る和輝を見遣る。


 ヘルメットの隙間から抜ける強風に目を細めながら、和輝が言った。




「海だ」




 そんなことは言われなくても解っている。それでも、口にしたくなる気持ちが霖雨には解る。


 ビーチの入り口に駐輪場があったので、霖雨は愛車を滑り込ませた。中々賑わっており、一台分の空きスペースしか無かった。ヘルメットを脱いだ和輝が、解り易くそわそわと浮足立つ。スポーツが趣味だというこの青年は、特にマリンスポーツには目が無い。今日もバイクの後部座席で健気にサーフボードを担いでいた。休日にはサーフィンへ出掛ける彼の腕前を見たことが無いので、それも今回の旅行の楽しみの一つだった。間違っても、一緒に楽しもうとは思わない。彼と同じ運動を熟せば、悲鳴を上げる羽目になるのは火を見るよりも明らかだった。


 眩しい日差しに目を細める。サーフボードを抱える男達は揃って屈強で、女達も背が高い。子どももいるが、小生意気な顔をしているので、霖雨は目を反らした。


 和輝が、待ち切れないとばかりに背を叩く。




「ちょっとだけ、ちょっとだけで良いから、行って来ても良いかな」

「俺は構わないけど、葵が五月蠅いんじゃないか?」

「霖雨から、上手く言ってくれよ」




 小首を傾げ、縋るように和輝が言う。この青年の物言いに、騙される人間がどれ程いるのだろう。庇護欲を掻き立てる様は計算ではないのだろうけれど、あざといと思う。


 生憎、霖雨は既に耐性があるので、さらりと受け流した。




「お前の都合なんだから、お前が言うのが筋だろう」




 言い放てば、和輝は可愛らしく「ちぇ」と零した。


 それでも離れ難いようで、和輝は未練がましく海を眺めている。何が彼を惹き付けるのだろう。サーフィンの経験が無い霖雨は疑問に思った。彼は母国では、高校野球界の英雄だ。海どころか陸地のスポーツの代表格だ。




「和輝は、本当にサーフィンが好きなんだねえ」

「うん。波の上を滑るって、すごく面白いんだ。巨大な自然の力を借りながら、抗うんじゃなくて、乗り熟す」




 海を遠く眺めながら、和輝が言う。




「自然と自分の力だけだ。チームスポーツもいいけどね、一人だけで向き合うことも面白い」




 誰に責任を負わせることも無く、自分で考え、自分で決断する。そんなことを言って、和輝が微笑んだ。


 霖雨は、経験も無いけれど、彼が乗り熟す波の中を想像した。其処は聴覚全てを波の音が支配する、或る意味では孤独の世界なのではないだろうか。彼は独りになりたい時に、万物の母である海へ行くのだ。そんなことを、思った。




「じゃあ、行こうか」




 何事も無かったかのように和輝が微笑むので、難儀な奴だなと、思った。








12.The Hanged Man

(1)少女








 到着したホテルは、今にも崩れ落ちそうなおんぼろ仕様だった。


 幽霊でも出そうだ。格安を謳われる理由を知り、霖雨はうんざりした。けれど、海が一望出来る部屋の景色は格別だ。和輝は水平線を眺めながら、喜色に満ちた顔をする。


 部屋に着いて早々、葵は灰皿を引き寄せて煙草へ火を吐けた。受付で散々待ち惚けをしていた心情を慮れば、部屋の空気が汚れる等と文句も言えない。葵は景色には興味を示さず、それまで読んでいた文庫本を開いていた。Hermann.Hesseの車輪の下だ。海へ旅行に来ているのに、薄暗い小説を読む心情は理解出来ない。


 荷物を広げ、霖雨は整理を始める。三人でいても行動は別々なので、一緒に来る意味があったのかと疑問に思う。和輝は一頻り海を眺めて満足したのか、大事に担いで来たサーフボードを抱えた。




「じゃあ、出掛けて来るから」




 小さな鞄を小脇に抱え、身の丈程もあるサーフボードを持つ。トップアスリート並の身体能力を有する彼は、水を得た魚のように活き活きとしていた。


 葵は顔も上げず、放逐するように手を振った。霖雨は荷物を端に寄せ、財布と携帯電話をポケットに押し込んだ。




「俺も行く」

「変質者を連れて来るなよ」




 旅行先でまで、面倒事に巻き込まれるのは御免だ。

 葵が吐き捨てるように言うので、霖雨は肩を落とした。反論の言葉が浮かばないくらい、霖雨と和輝はトラブルメーカーだった。

 霖雨は意図せずトラブルに巻き込まれるけれど、和輝は藪を突いて蛇を出す。最悪の二人組ではあるが、霖雨は何も言わず手を振って応えた。


 煤けたカーペットを踏み締め、和輝が進んで行く。糸で繋がれているように、霖雨も後を追った。


 弾む足取りで前を行く和輝は振り返らない。何かに急き立てられるように海を目指している。おんぼろのホテルを出ると、初夏の眩しい日差しが網膜を焼いた。激しい明暗の変化に慣れず、霖雨は眩暈を覚える。それでも足は、進み続けるヒーローを追い掛けていた。


 母国では見掛けない真っ白な砂浜だった。寄せては返す波も透き通っている。天候にも恵まれ、其処はまるで楽園のようだった。


 和輝はビーチパラソルを借り、砂浜に打ち立てた。体格に恵まれなかった彼は、パラソルを突き立てるだけでも重労働だろう。それでも、全身の筋肉を使って行う様は、傍目にも身体能力の高さを伺わせる。砂浜に安っぽいレジャーシートを敷き、風で飛ばされないようにと荷物を置く。霖雨は、日差しを避けるようにパラソルの下に座った。敷かれたレジャーシートは相変わらず薄笑いを浮かべた不気味なキャラクターが無数にプリントしてあった。霖雨は覚えが無いが、もしかするとポピュラーなキャラクターなのかも知れない。何時か、ファルクトレのような鬼ごっこの後の昼食でも、和輝はこのレジャーシートを使用していた。


 サーフボードをカバーから外し、和輝はラッシュガードを着込む。見掛けは子どもの海水浴だ。

 先端の尖ったサーフボードは、丁度、アーモンドのような形をしている。それを軽々片手で担ぎ、和輝は跳ねるようにして海へ駆けて行った。


 周囲は賑やかな声に満ちている。昼食の時間なのだろう。近場にファーストフード店があるらしく、ハンバーガーを子どもが大口を開けて齧り付いている。漂う人工香料に霖雨は空腹を感じるけれど、ヒーローは海へ飛び出してしまったので、抑え込む。


 濃紺のラッシュガードを纏った小さなヒーローが、沖合へ向けて泳いでいる。サーフボードの上に体を乗せ、波なんて障害物にもならぬらしくアメンボのようにすいすいと進んで行く。同じ領域では、玄人らしい褐色の肌の屈強な青年が泳いでいた。まるで、大人と子どもだ。遠目にも、馬鹿にされていることが解る。けれど、霖雨はほくそ笑んだ。


 沖合を漂い、波を待つ。打ち寄せる小さな波の上、和輝がサーフボードに立った。それだけでも、霖雨にとっては拍手したい事柄だ。板切れの上に身一つで立つ等、霖雨には真似出来ない。


 良い波が遣って来るらしい。傍にいた青年が同じくサーフボードに立ち上がる。


 沖合で、惑星の鼓動のように水面が畝を作る。立ち上がった和輝と青年が僅かな水面の隆起に浮かぶ。


 波は周囲の海水を引き寄せるようにして大きさを増す。強大な化物が鋭い爪を突き立てるようだった。けれど、その波の上には二つの人影が浮かんでいる。波の上を滑る様は、正に、抗いようも無い大自然の力を拝借しているのだろう。氷の上を滑るように、見えない糸で操られるように、二人は水面を滑っていく。


 化物の先端は白く泡立ち、渦を巻く。小さな漣が無数に集まり、重なり合い、大きなうねりとなる。風に押された波が大地に近付くに連れて、水面が浅くなり、うねりも大きくなる。それが頂上へ届くと、――崩れ落ちる。


 ドミノ倒しのように端から、愚かな人間を嘲笑うように崩れて行く。その崩壊から逃げ惑うように、二つの人影が滑る。


 様子に気付いたらしい周囲の人々が、沖合を指差して感嘆の声を漏らす。押し寄せる波は壁のように立ち上がり、崩れ落ちる波と重なってトンネルのようだった。


 包み込もうとする海の化物から逃れる二人の人間。崩れ落ちる波が、その姿を隠す。霖雨は拳を握っていた。


 つるりと、青年が激しく泡立つ波に消えた。もう一人を呑み込もうと波が追い掛ける。包み込むトンネルに、和輝は吸い込まれた。


 あ、と声を上げることも出来ない。


 崩れ落ちた波が打ち寄せる。けれど、その時。何処から抜け出したのか、サーフボードに乗った和輝が静かな水面を滑っていた。


 そのまま海岸まで到達すると、和輝は砂浜に着地した。周囲では思わずといった調子で拍手が響く。和輝は軽く会釈する。先程まで同じ波に乗っていた青年が歩み寄り、二人は固く握手を交わし、互いの健闘を称えた。


 和輝はサーフボードを抱えながら、霖雨の元まで遣って来た。




「此処の波は切れていて良いね」

「切れる?」

「波が綺麗に崩れるから、滑り易いんだ」




 遠い沖合を指差して和輝が説明するが、霖雨には解らない。ただ、和輝が楽しそうなので、霖雨も嬉しくなる。


 性的エネルギーが、性目的とは異なる学問や芸術、宗教等の活動に置換されることを昇華(sublimation)という。先日の血腥い事件を思い出すが、目の前の青年には無縁なのだろうと霖雨は思う。逆境も劣勢も、自分の力で打ち砕き乗り越えて来た。彼が欲求不満を抱えたとしても、それはこうして昇華出来る。




「沖合では風があるから、良い波が来るんだよ。でも、天候が崩れるかも知れないね」




 真っ青な空を眺めて、和輝が言った。

 先程までは雲一つ無かったけれど、空の端にはぽつりと雲が浮かぶ。嫌な感じのする雲だ。




「海も荒れるんじゃないか?」

「そうかもね。でも、逆境には燃える性分なんだ」




 火の点いた目で、和輝が笑った。基本的に、彼は少年漫画の主人公なのだろう。

 白い砂浜を駆けて行く小さな青年を、霖雨は遠く見詰めた。


 彼は、本当にヒーローのようだ。




「Is he a hero?」




 すぐ後ろから声がしたので、霖雨は驚いた。


 恐る恐る振り向くと、まるで外国映画に出て来る子役みたいに可愛らしい金髪碧眼の少女が小首を傾げていた。中学生くらいだろうか。傷一つ無い綺麗な面をしていた。


 見知らぬ他人である筈の少女にも、和輝はヒーローに見えるのだろう。霖雨としても否定する理由は無いので、頷いた。




「Yes. He's an invincible hero」




 すると、少女は可笑しそうに口元を綻ばせた。

 遠くから、霖雨を呼ぶ声がした。和輝は波の上を滑っている。この場所で霖雨を呼ぶ人間はもう一人しかいない。


 振り返ると、陽炎のように空気が揺れる。透明人間こと、神木葵が仏頂面で立っていた。薄手のパーカーを着込んで、砂浜だというのに革靴を履いている。これ程に海が似合わない男もいないだろう。




「腹が減ったぞ」




 自分の用件だけを口にする勝手な男だ。霖雨は先程までの感動の余韻に浸る間も無く、がっくりと肩を落とす。

 葵は、沖合で波の上を滑る和輝を眩しそうに見詰めた。




「相変わらず、派手だな」




 衆目を集めながら波に乗る様は、正に一種のエンターテイメントのようだった。

 葵は侮蔑するように吐き捨てると、パラソルの下で胡坐を掻いた。




「また、気持ち悪いレジャーシート使っているのか」

「お気に入りなんだろ」




 霖雨が言えば、葵は鼻を鳴らした。


 ふと振り向いた先、先程の少女が顔を強張らせて立っていた。その視線は葵を見詰めている。

 透明人間と呼ばれる程に存在感が希薄な葵の存在を知覚していることにも驚くが、彼女は何を見ているのだろう。


 霖雨が声を掛けると、少女は両耳を塞いだ。そのまま弾かれるようにして駆けて行ってしまった。一連の様子を見ていた葵は、冷ややかな目を向けた。




「お前は変質者を寄せ付ける磁石だと思っていたが、類が友を呼んでいたんだな」

「俺が変質者だって言っているのか?」




 とは言え、先程の少女の様子は不自然だった。


 霖雨は波の上を駆けるヒーローを眺め、溜息を零した。

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