⑸有神論

 通路は湿気に満ちている。

 闇に目が慣れて来た葵は、自然と早足になる。


 通路を抜けると、其処は巨大な空間が広がっていた。空調が重く響く其処は何処かの地下駐車場なのだろう。何台かの一般乗用車が停められているが、人はいない。蛍光灯が現実味を帯びない白い光を放っている。


 周囲をぐるりと見渡す。何の変哲も無い業務用のトラックが無造作に停車され、駐車場の出口と思しき先は塞がれてしまっている。


 駐車場の片隅に、何かが棄てられていた。不要となった部位だ。血塗れのそれは、薄暗い中で白く浮かんで見えた。


 葵の傍を離れた和輝が、そろりそろりと探索すべく歩き出す。

 ――その時だった。


 死者が息を吹き返すように、トラックのエンジンが激しく拍動した。咄嗟に飛び退いた和輝が運転席を見上げ、掠れるような声を上げた。


 運転席は無人だった。それでも、アクセルを全開にしたトラックが、弾丸のように突っ込んで来た。耳を塞ぎたくなるような轟音と共に、トラックは壁へ吸い込まれた。


 熱波と粉塵の中、葵は和輝の腕を掴んでいた。小さな痩躯を受け止め、無人の運転席を睨む。だが、運転席は衝撃で既に跡形も無く拉げ、爆炎に包まれていた。


 恐らく、自動運転だったのだろう。黒煙が巨大な生き物のように空間を埋め尽くして行く。呆然と立ち竦む和輝はそのままに、葵はトラックの荷台を睨んだ。


 導かれるように荷台の扉を開ける。両開きのそれを開いたと同時に溢れた酷い血の臭いに、思わず顔を顰めた。


 血塗れだ。内部は全て、赤く染まっている。


 臓器が散乱し、ゼリー状の体液が溢れている。天井から雨垂れのように血液が降っていた。被害者の子ども達は裸で、鯵の開きのように腹を切り裂かれ、並べられていた。


 その奥で、頭から血を被ったような男が震えていた。先程の男――John=Smithだ。布に包まれた何かを大事そうに抱えている。


 John――。

 掠れた声で、和輝が言った。




「助けてくれ」




 男の声に、和輝が震えたのが、解った。

 葵は、苛立った。


 如何して、そんなことを容易く言えるのだ。


 男は布を抱え込んだまま、覚束無い足取りで距離を詰める。唇を震わせ、ヒーローを呼ぶ。男の手が伸ばされる。刹那、葵はポケットから取り出した刃を突き付けていた。


 カッターナイフだ。鈍色の光を反射させ、葵は切っ先を男へ向ける。男が慄いた。




「Kazuki」

「呼ぶんじゃねえ」




 地を這うような低い声で、葵はぴしゃりと吐き捨てた。


 荷台の内部は肉片が散乱している。衝突に備えて、肉片を緩衝材にしたのだ。駐車場の隅に棄てられていた不必要な部位は骨だった。そして、荷台の内部に転がる生首はあの宝物庫と同じく、瞼の下が奇妙に陥没している。――恐らく、その下に眼球は無い。


 生首は全て東洋人の少年だった。最悪だ。葵は内心で悪態吐く。


 そのモデルとなったであろう人物――和輝は、泣き出しそうに顔面を歪めている。男が、うっとりと言った。




「その目が、欲しい」




 布から何かが転がり落ちる。人間の眼球だった。


 視神経を引き摺りながら、ころころと葵の前に遣って来る。身動き出来ない和輝を押し退け、葵は足を踏み出した。


 ぐちゃり。


 葵は、それを踏み潰した。途端、男が短い悲鳴を上げた。




「ふざけんなよ」




 唸るように、葵は言った。


 転がった眼球は濁り、無念を訴え掛ける。葵はまた、それを踏み潰し、男の首筋にカッターナイフを突き付けた。


 和輝の制止は、何処か遠い世界のものに聞こえた。手を引く気は無かった。


 モデルを見付けたことで、男は興奮し、顔面を紅潮させている。慄く唇で狂気を紡ぐ。




「君のその綺麗な目が欲しくて、色々な子どもの眼球を探したんだ。でも、子どもは煩いねえ。僕が何を言っても、助けてくれだの、お家に帰してだの、延々と喚くんだから」

「だから、殺したのか?」

「僕を見る子ども達は、汚い目をするんだ。煩い舌が無くなれば、その目も変わるかなあって」




 和輝は、何も言わない。ただ、巻き込んでしまった子ども達への罪悪感に苛まれている。


 男は恍惚に微笑んでいる。その股間が膨らんでいるので、葵はうんざりした。

 目の前の青年を、性的対象と見做しているのだ。




「君の目は綺麗だ。きらきらして、透き通っていて、僕を否定しない! 僕を認めてくれる! そうだろう?」




 和輝が、ぎゅっと唇を噛み締めたのが見えた。葵はその唇が言葉を紡ぐより早く、男の息の根を止めるつもりだった。こんな社会不適合者の為に、彼が一言だって投げ掛けることが惜しかった。


 それでも、和輝は言った。




「これだけの罪を犯しておいて、何を甘えたことを言っているんだ」




 酷い顔色ながら、凛と背筋を伸ばし、双眸は透き通っていた。いつもと変わらない迷いの無い真っ直ぐな眼差しで、目の前の男を否定している。




「認めて欲しいのなら、認められるような人になれよ。そういう生き方をしろよ。自分の要求ばかり押し付けて、まるで三歳児のようじゃないか」

「違うよ、誤解しているよ! 僕は何も悪いことなんてしていない。僕は社会的に認められ、人々に必要とされる人間なんだ。そんな僕を認めない子どもなんて、人間じゃないんだよ。だから、何をしたっていいじゃないか」




 早口に捲し立てる男に、和輝の言葉は届いていない。


 話が通じない。和輝は苦々しく表情を歪めた。――けれど、葵には男の言っていることが、解る。


 如何して人を殺してはいけないの?


 幼児のような問い掛けに、和輝は、俺が嫌だから駄目なんだと答えた。

 何の説得力も無いただのエゴだ。けれど、葵はそれでいいと思った。


 和輝は訴え続ける。




「嫌だ」




 絞り出すように、和輝が言う。泣き出しそうだった。


 こんな男の狂言が、和輝に理解出来る筈が無い。解り合えないことを、和輝も解っている。それでも、伸ばされる手を振り払えないことが彼の敗因だ。こんなクズの言葉を受け入れられないことを嘆いている。さっさと境界線を引いてしまえばいいのに、それをしない。だから、傷付くのだ。


 葵には、解らない。けれど、きっと、自分は彼という人間に出逢えて幸運だったのだろう。間違っていれば手を引いて、出来なければそれでいいよと言ってくれる。これ以上、転落しないように、この手を掴んでくれる。


 ならば、引き金を引くのは葵の役目だった。傾いた天秤の一方しか選べないのなら、葵は男を切り捨てる。


 カチカチと、カッターナイフの刃が伸びて行く。男の首へ突き刺し、蘇生の可能性すら残さぬように一太刀で殺す。葵は狙いを定める。――けれど、その時、刃はポキリと折られた。




「解らないんだ」




 泣き言のように、和輝が言った。

 振り上げた肘で刃を折った和輝は、縋るように葵の袖を掴んだ。




「解らないけど、俺は嫌だ。だから、こんなの認めない。殺すのも、殺されるのも、目の前で救えないのも嫌だ」




 けれど、全てを救うことなんて、誰にも出来はしない。


 犠牲となった子ども達はもう戻らない。罪を犯した男も更生の道は無い。それでも、仕方が無いからと言って簡単に切り捨てられる程に和輝は賢くない。


 何かを選ぶのなら、何かを捨てなければならない。

 ――本当に、そうなのだろうか?


 それ以外の道があるかも知れない。全ての人が幸福になれなくても、誰も命を落とすことがない、最小の不幸で済む道があるかも知れない。その可能性を捨てることだけは、出来ない。


 認めない。

 和輝の言葉に、男がびくりと肩を震わせた。濁ったその目に映るのは諦念、或いは侮蔑。否定や逃避を許さないというヒーローに対する無言の脅迫だった。


 葵は、言って遣りたかった。

 その程度の理解で、叩けば折れるような覚悟で、ヒーローに救いを求めるな。


 こんな身勝手な願いに、和輝は罪悪感を抱えている。許しを請う罪人のように項垂れる。


 馬鹿らしくなってしまって、葵はカッターナイフを振り上げた。


 ――その瞬間、男の眉間には風穴が空いた。


 耳を劈くような発砲音が時間差で届く。津波の如く、FBI捜査官の群れが一気に押し寄せた。何処かで待機していたのだろう。何処から見ていたのだろうか。葵はカッターナイフをポケットに戻した。


 急転直下の状況にいながら、和輝は拳を固く握り締めて、微動だにしなかった。




「目の前にいたのに」




 動転する最中、和輝が言った。

 独白のつもりだったのだろう。その言葉は答えを求めていない。

 葵は吐き捨てた。




「何でもかんでも救える訳じゃない」




 自分で言いながら、葵の脳裏には暗闇で蹲る自身の姿が浮かんでいた。一発の銃弾で息絶えた異常者は、自分の相似形なのかも知れない。何処かで選択肢を誤れば、風穴を空けたのは自分だったかも知れない。そんなことを思う。


 和輝が、答えた。




「それでも、人を救いたいよ」




 蹲る自分の傍に、涙を拭うヒーローの姿が浮かんでいる。転落すると解っていても、手を伸ばせば必ず掴んで遣ると訴えているようだ。


 相手が情状酌量の余地無しの殺人鬼で、正当防衛が成立したとしても。


 葵は言った。




「人間には無理な芸当だ」




 それでもきっと、彼はこの手を掴んでくれる。


 隣で和輝が、鼻を啜った。










 11.ロストワールド

 (5)有神論









 未成年者の失踪事件が、世界を震撼させる連続猟奇殺人事件だと知れると、界隈にはマスメディアが押し寄せた。


 関係者として葵と和輝は度々N.Y.P.D.へ呼び出された。高熱で呻いていた和輝は、事件が解決した途端、糸が切れたように意識を失い、泥のように三日間眠っていた。その間はずっと葵がFBI捜査官と睨めっこをしていた。だが、葵も和輝も巻き込まれただけの人間なので、警察が求めるような情報は持っていない。


 目を覚ました和輝は、如何してJohn=Smithの自宅へ行き着いたのかを問い詰められた。和輝は何も覚えていなかった。


 地下駐車場で対峙したことは覚えているようだったが、其処に至るまでの超常現象を一切覚えていない。三日間の眠りから覚めた時には、首筋や足首に残る不気味な痣も消え失せていた。まるで、何もかも夢だったと言うように。


 取り調べから解放された和輝は、昼食のクラブハウスサンドを並べている。多数の被害者を出す猟奇事件の引き金となったのは和輝だ。和輝に非が無いとしても、何も感じない訳ではないだろう。


 アルバイト先から見舞いとして貰ったと、上機嫌で和輝が言う。霖雨はその横顔をぼんやりと見ていた。


 犯人の自宅へ踏み込み、地獄のような惨状を見た後、頭のおかしい犯人と対峙した。霖雨は概要こそ聞いているが、実際に見た訳では無い。既に隈も消え失せた和輝が何を感じているのか、霖雨には解らない。あの日、霖雨は二人の位置情報を探り、FBIへ通報しただけだ。


 葵は何も言わない。気にする様子も無い。何時ものように専門書を読み耽っている。


 テレビでは、一連の事件の再現VTRを放送している。真実を見た彼等にとっては滑稽だろう。チャンネルを変えようと霖雨はリモコンへ手を伸ばす。コーヒーを持って来た和輝が、言った。




「結局、俺は何も出来なかった」




 声は明るいのに、嘆くようだった。霖雨はチャンネルを変えた。




「何も出来なくて良いよ」




 霖雨が言うと、和輝が驚いたように目を丸めた。そして、――笑った。


 一連の事件が起きてから、何処となくぎこちなかった和輝が漸く見せた、美しい微笑みだった。




「そっか。そうだよな」




 酷く嬉しそうな和輝に、霖雨は首を傾げる。大したことは言っていない。

 けれど、今の和輝にとって、それ以上の肯定の言葉は無かった。


 和輝はコーヒーを並べながら言う。




「この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ」

「誰の言葉?」

「俺が世界で一番尊敬する先輩」




 この小さなヒーローにそれだけ言わせるのだから、余程の人格者なのだろう。

 それだけ期待を寄せられていることに同情するべきなのか。霖雨は少し考えてしまう。




「天国も地獄も無い」




 珍しく会話に入って来た葵が、不満そうに言う。

 けれど、和輝は嬉しそうに答えた。




「先輩も、そう言ってた」




 途端に、葵はばつが悪そうに眼を反らした。




「神様なんていないって、言っていたよ」

「神も悪魔も、人間が作り出した妄想上の産物だ。都合の良い時にだけ祭り上げる人柱みたいなものだろう」

「捻くれてるよなあ」




 呆れたように言う霖雨とて、殆ど同意見だ。


 霖雨は、超常現象を信じていない。神も悪魔も幽霊も信じてはいない。だからこそ、科学に傾倒する。


 和輝は大きな目をぱちりと瞬いて、何でもないことのように言った。




「神様は、いるんじゃないかな」

「はあ? 何時からキャラチェンジしたんだよ。電波キャラは需要無いぞ」




 葵が早口に言うが、和輝は冗談みたいに綺麗な笑顔で返した。




「何もしてくれないけど、良いことも悪いことも、必ず見ているんだよ。この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ。この世以上の世界は何処にも無い。だから、前を向いて生きて行かなければならないんだよ」




 理想主義者に見せかけて、現実主義者の彼らしい。


 彼を形作るものは、彼が出逢って来た人々なのだろう。人の良いところばかりを拾い上げて、悪いところには目を瞑って。それでもいいよと許容して、傷付いて、そうして此処まで生きて来たのだ。だから、折れない。だから強いと思う。




「さあ、飯にしようぜ。店長のクラブハウスサンドは絶品なんだ」

「どうせなら、噂の美味いコーヒーと一緒が良かったよ」

「今に店長と同じくらい美味いコーヒーを淹れてやるから、楽しみにしていろよ」




 葵が溜息を吐いた。




「お前のコーヒーって、日によって味が違うんだよ」

「面白くていいじゃないか」




 軽口のように霖雨が返すと、和輝が白い歯を見せて笑った。


 挨拶もそこそこに、揃ってマグカップへ口を付ける。霖雨はコーヒーを一口啜った。正直、葵が言うような味の違いを感じたことは無い。マグカップをテーブルに置いた葵に、和輝が味を問う。


 葵は答えた。




「まあまあかな」

「伸び代があるってことだよな。サンキュー!」

「何なんだよ、このハイテンション」




 うんざりしたように、葵が言う。


 クラブハウスサンドを口一杯に頬張り、和輝は窓の外を見た。初夏の日差しが中庭の洗濯物を照らしている。真っ白なシーツは風を孕んで揺れていた。その向こうに、一瞬の幻を見た気がした。


 会ったことも無い筈の子ども達が、此方を見て微笑んでいる。小さく手を振って、別れを告げる。


 助けてくれて、ありがとう。



 確かに耳に届いた言葉に、和輝は胸が軋むように痛んだ。


 間に合わなかった。

 救えなかった。

 けれど、そうじゃないのかも知れない。


 あの暗く冷たい地下から、愛する者の元へ届けられた彼等に、どうか安らかな眠りが与えられますように。

 和輝は見える筈も無い神様に向け、こっそりと祈った。

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