⑷インフェルノ

 和輝は、闇の中を歩いていた。


 空気は冷たく、体中に纏わり付くような湿気に満ちている。鼻を突く異臭が漂っているけれど、それが何か思い出せなかった。よく知っているような気がするのに、脳は思考を停止してしまったかのように正常に動かない。


 此処は何処だろうか。ぐるりと首を回し、和輝は動きを止めた。――何かが、両足を掴んでいる。


 油の切れた人形のように見下ろせば、闇の中で仄かに発光するように何かが浮かび上がる。小さな手だった。逃がすまいと、縋るように強く握り締めている。火取り虫の如く、小さな手が集まって来る。身動き一つ取れず、声を上げることも出来ず、和輝はただただ冷たいその掌を凝視していた。


 声がする。


 助けて。

 助けて。

 お願いだから、助けて。

 僕を助けて。

 此処から出して。

 私を救って。


 小さな子ども達の血を吐くような声がする。和輝は、ぐしゃりとその顔面を歪ませた。


 既視感を覚えた。

 和輝は、この願いを知っている。


 数年前、母国。和輝は高校生だった。野球部に在籍していたマネージャーが、父親からの性的虐待を苦にして自殺した。彼女が自殺した晩、和輝はその件とは無関係の傷害事件に巻き込まれて昏睡状態だった。生死の境を彷徨っている間に少女は自殺してしまった。


 彼女は死の間際、和輝へ電話を掛け続けた。助けを求める声だったのかも知れない。酷い叱責だったかも知れない。今ではもう、解らない。


 だが、生死の境を彷徨う中、和輝は彼女を夢に見た。置いて行かないで、助けて。それを懸命に繰り返した彼女が、和輝の手を強く掴んでいた。――和輝は、応えてやれなかった。


 助けたかった。救いたかった。その手を掴んで、日溜りの中で笑い合いたかった。辛いことばかりの彼女を、守ってやりたかった。それでも、死という壁の前で和輝は泣き出したくなる程に無力で、何もしてやれなかった。


 だからせめて、彼女の名誉を守ることで、途切れてしまった命を背負ってやろうと思った。


 少女を自殺に追い込んだのは蜂谷和輝だという劣悪な噂が独り歩きした。世間からの痛烈なバッシングが始まり、日常生活さえも脅かすようになった。それでも、和輝は一切の弁解をしなかった。彼女が隠し通した自殺の真相を、何も知らない自分が勝手な想像で語ることは許されない。何の証拠も無い。ならば、沈黙を貫こう。これ以上、誰も傷付かないように。


 けれど、和輝はそれすら守ってやれなかった。彼女の一周忌で、和輝は気付いてしまった。


 踏み止まっても、大切なものは守れない。彼女は死んだ。もう救うことは出来ない。あの時伸ばされた手を掴んでやれなかった。それが全ての答えだった。


 その時になって、和輝は理解した。誰がどんなに骨を砕こうとも、全てを救うことは出来ない。それでも、諦められない。伸ばされる手を離せない。

 だから、苦しい。


 和輝は、母親の命と引き換えに生まれた子どもだ。一家から母親を奪った責任を取らなければならないと思っていた。だが、誰一人それを責めはしなかった。それでいいよと受け入れてくれた。そうして、今まで多くの人に救われて来た。だからこそ、自分もまた、人を救いたいと、願った。


 足元を見る。助けを求める声を無視出来ない。伸ばされる手を振り払えない。和輝はもう、知っている。


 彼等の手を取ってやることは、出来ないのだ。謝罪すら無意味ならば、何をしたら良いのだろう。この手を振り払うことも出来ず、一緒に沈んでやることも出来ない。


 泣きたかった。

 このまま座り込んで、泣いてしまいたかった。


 助けて。

 ――俺だって、助けてやりたいよ。


 如何して、こんなにも無力なんだろう。

 如何して、この手を掴んでやれないんだろう。

 目の前にいるのに!


 足首を掴む掌に力が籠る。骨が軋み、千切られそうだった。一筋の光さえ届かない闇の中に沈んでしまいそうだ。ひたり、ひたり。金縛りに遭ったようで、指一本動かせない。誰かが背後より迫る。


 背中に衝撃があった。何かが迫り、和輝は闇の中、壁に衝突した。


 コンクリートのように冷たい壁だった。首筋を押さえ付ける大きな掌は、血が通っていないのではないかと思う程に冷たい。体中に鳥肌が立った。気道を圧迫され、発声は疎か呼吸すら出来ない。


 骨が軋み、和輝の視界は闇の中でぐにゃぐにゃと揺れた。

 苦しい。

 苦しい。

 ――でも、声がする。


 誰かが、呼んでいる。






「和輝!」




 悲鳴のような声がして、闇に染まった視界はその姿を変えた。焦点が合ったように、世界は鮮明になって行く。


 首筋を押さえていた手が動揺に緩み、和輝は転がるようにしてその場を離れた。


 周囲は薄闇が包み込んでいる。薄汚れた町の路地裏。隅に積み重なる塵の山。壁に刻まれたペンキの落書き。


 此処は、あの世じゃない。


 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、和輝は正体不明の悪意と対峙する。高熱の為に視界が滲み、悪意の正体が判別出来ない。だが、背後から届く声は聞き間違う筈も無かった。




「葵」




 声の主――葵は、足取りの覚束無い和輝を背中に隠した。


 目の前にいる男とは初対面だった。噂に聞く、人の好さそうなスポーツドクターには、見えなかった。


 汚い路地裏で、成人したばかりの青年を甚振って、愉悦に顔面を歪めている。こんな男が真面な筈も無い。和輝の首を圧迫していた両手を見下ろし、男は喉を鳴らして笑っていた。


 葵が臨戦態勢を構える間も無く、男は弾丸のように突進した。咄嗟に、和輝を庇うようにして身を反らす。男は葵に体当たりをしながらも突進を続け、夜の街に消えて行った。


 追走すべきか逡巡し、葵は背後の和輝を見遣る。寝込んでいてもおかしくない高熱だ。家を飛び出して、自力で此処まで辿り着いたということが既に異常だった。大粒の汗を頬に張り付けて、泣き出しそうに顔を歪めている。




「声がするんだ」

「構うな」

「でも、ずっと呼んでいる。助けてって言っているんだ」

「放って置けよ」




 人を救いたいんでしょうね。

 何時か、和輝の親友が言っていた。葵はそれを思い出し、苦く思う。


 ふら付きながら、和輝は歩き出す。男の消えた闇に向かって進むその様は、何かに急き立てられているようだった。ジーンズの隙間から覗く足首には、目を覆いたくなるような酷い赤黒い痣があった。それは首筋に残るものと同じく、掌の形をしている。


 葵は、和輝の隣に並んだ。崩れ落ちそうな彼に肩を貸し、歩き出す。驚いたように和輝が目を瞬かせるので、葵は吐き捨てた。




「どうせ、俺が何を言ったって聞かないだろう。仕方無いから、付き合ってやるよ」

「うん。――ありがとう」




 ぽつりと、和輝の頬から滴が落ちた。










 11.ロストワールド

 (4)インフェルノ










 霖雨から連絡があった。


 John=Smithの経営する個人医院は、一か月程前から休業している。従業員に話を聞くが、情報は無かった。オーナーとしての彼はやはり人格者と評価され、患者からも従業員からも慕われていた。


 一か月程前と聞いて、葵は思った。丁度、未成年者の失踪が始まった頃合いだった。


 休業している建物内は施錠され、侵入出来ない。これ以上の調査は無理だから、合流する。霖雨はそう言って通話を切った。葵は、今にも倒れそうな病人をベンチに預けて携帯を眺めていた。


 既に時刻は午後九時を過ぎる。幾ら体力馬鹿とは言え、流石にガス欠らしい。深く項垂れて顔を上げない。このまま昏倒したら、黙って家へ連れ帰ってベッドに押し込むのだけど、と考えてすぐに否定する。現在、彼は訳の解らない超常現象に巻き込まれている。安寧の地は無いのかも知れない。




「もう、帰って寝ろ。あいつは俺が探してやるから」




 妥協案のつもりで葵が言う。顔を上げることすら苦しいようで、俯いたまま和輝が返した。




「声がするんだ、ずっと」

「何でもかんでも救えると思うなよ」

「何でも救えるとは思っていないよ。でも、救いたいんだ。――助けを求める声がしているのに、無かったことになんて出来ない。最善を尽くして、後悔すら残らないくらい抗わなきゃ、彼等に顔向け出来ないじゃないか」





 喘ぐように、和輝が言った。


 馬鹿らしいと、葵は溜息を零す。

 けれど、こういう人間だからこそ、人を救えるのだろうと思う。


 和輝は膝に手を突いて立ち上がった。

 周囲に人気は無い。先程よりも幾らかしっかりした足取りで歩き出した和輝の後を追い掛けた。


 何かに導かれているように、確かに和輝は目的を持って進んでいた。到着したのは、古く錆びた集合住宅だった。John=Smithの自宅だ。稼いでいる割には質素な暮らしをしているものだと、皮肉っぽく葵は思った。既に住民が帰宅していてもおかしくは無いのに、どの部屋にも明かりは点っていない。現在地を連絡しながら、葵は足を進める。和輝は真っ直ぐ、一階の角部屋へ向かっている。


 そんな筈は無いけれど、と思いながら、念の為に葵は尋ねた。




「来た事があるのか?」

「無いよ。ただ、呼んでいるから」

「非科学的だな」

「根拠の無いものは、信じないか? 何の情報も無く俺が此処へ辿り着いたという事実を前にしても、有り得ないか?」

「演繹法に則って証明して欲しいなら、後で幾らでも話してやる。さっさと用事を済ませるぞ」




 そして、寝ろ。葵は吐き捨てた。


 其処で漸く、和輝が笑った。普段とは異なる弱弱しい笑みだった。それでも、葵は気付かなかった振りをして安っぽい扉の前に立った。


 ベニヤ板を重ねたような安い扉だ。ドアノブには一応鍵が付いているらしく、押しても引いても開かない。何の確証も無いけれど、和輝が此処だというのなら、そうなのだろう。葵は一歩距離を空け、左足を軸に大きく右足を振り上げた。


 その踵がドアノブを吹っ飛ばした。酷い音が界隈に響くけれど、誰一人顔を覗かせはしない。果たして、この周囲に住民はいるのだろうか。気配の無い夜の街が不気味な印象を抱かせる。


 壊れた扉を開く。玄関の奥、墨を零したような闇が広がっていた。そして、鼻を抓みたくなるような異臭に、葵は顔を顰めた。闇の奥から異常な生臭さ、腐臭が漂っている。


 何の確証も無いけれど、葵の勘が此処だと告げている。流石に明かり無しに進むことは出来ないので、バッテリーを消費してしまうが致し方無い。携帯電話からLEDライトのアプリを起動し、周囲を照らした。


 玄関は汚れている。碌に掃除されていないのだろう。ライトに照らされ埃が舞っていた。葵は靴を履いたまま侵入し、その後を和輝が追い掛ける。部屋は1Kらしい。廊下を抜け、奥へ進むに連れて異臭が濃くなる。臭気に和輝が嘔吐いたので、葵はポケットに入っていたハンドタオルを投げて渡した。受け取った和輝は、マスクのように口へ押し当てる。


 部屋に続く扉を開ける。それが玄関よりも重く冷たかったので、葵は違和感を覚える。けれど、すぐに和輝が後を追って来たので、ライトで部屋を照らした。途端、和輝が引き攣るような声を漏らした。


 室内は、目も当てられない惨状だった。


 其処此処に人間の部位が、当たり前のように散乱している。阿鼻叫喚の地獄絵図だ。被害者だろう子ども達の腐敗した臓器が血液に塗れ、カーペットを染め上げていた。葵は酷い臭気に顔を顰める。ドアを蹴破った時点である程度想像はしていたが、酷い有様だと思う。扉が閉じる音がした。


 後ろにいた和輝がくぐもった声を漏らし、縋るように出口へ向かう。


 けれど、その扉が開かれることは、無い。


 玄関以上に重厚な扉は、外敵に備えて作られているのではない。内部からの脱走を阻む為に存在している。


 嗚咽に似た悲鳴を零し、小さなヒーローはその場にずるずると崩れ落ちた。


 葵は、立ち上がらない和輝はそのままに、冷静に部屋の中を観察していた。


 散乱しているのは、子どもたちの肢体だ。共通して頭部は存在しない。解剖したのか、不必要な部位を棄てたのか。けれど、憎しみを込めて叩き付けたような激しい損傷を懐疑的に思った。


 何かを探していたのだろうか。そんなことを、思った。




「霖雨がいなくて、良かった」




 顔面から血の気を失くした和輝が言う。生理的な嫌悪の為なのか、高熱の為なのか、両目は溶けそうに潤んでいる。


 頭部は何処だろう。葵は周囲へ視線を巡らせる。物を隠せるような家具は置かれていなかった。




「彼が、やったのか」




 嘆くように、和輝が言った。他に犯人もいないだろう。葵は答えた。


 人当たりの良い医師は、患者にも同僚にも慕われていた。和輝もそれを認めている。だが、葵にはもう、信用出来ない。


 自宅にスプラッタ映画のような惨状を展開しながら、平然と生活を送っていたというのが、もうおかしい。


 アスファルトの熱に干からびた蚯蚓みたいな小腸を飛び越え、葵は閉ざされていたバスルームの扉を開ける。


 自分なら、死体の解体にバスルームを使う。部屋の中が汚れるのは避けるだろう。だが、バスルームは何事も無かったかのように白かった。


 換気扇が正常に稼働し、個室内の湿気を除去している。床は乾き、使用された形跡もない。子ども達を惨殺した後、その血を洗い流していたのだろう。葵はバスルームの扉を閉めた。


 入り口から動かない和輝の元へ戻り、蹲る背を摩る。葵とて、この部屋の状況は好ましくない。何より、不衛生だ。死体には蛆が湧き、腐敗臭が漂う。自分なら遠くへ棄てる。必要な部位は大切に保管して置くだろう。ホルマリンにでも漬けて置くべきだ。


 其処で、気付く。頭部は何処かで保管しているのだ。不必要な部位は部屋に棄てた。――否、棄てたという感覚すら無いだろう。犯人にとって、この身体の部位は無機質な雑貨と同等なのだ。放置して腐っても構わなかった。必要か如何かではなく、解らなかったのだ。




「呼んでる」




 和輝が、言った。


 闇の中で青白い光を放つ瞳は胡乱だった。とても平常とは思えない。けれど、和輝は立ち上がり、緩慢に歩き出す。散乱する部位を踏まぬよう細心の注意を払いながら進んで行く。葵は、後を追った。


 和輝はキッチンの傍にある洞穴のような入り口、地下室を目指す。恐らくは物置として設計されたであろう其処は、地獄の入り口のように暗く冷たい。壁に手を這わせながら慎重に階段を下るのが煩わしく、葵は前へ進み出た。


 階段の隅には埃が積もっているが、頻繁に使用された形跡がある。この先は、犯人にとっての宝物庫だ。階段を下った先にあった扉は施錠されていたので、常備している裁縫道具から待ち針を取り出し、解錠した。


 闇に染まった室内の奥、悪趣味なブラックライトが宝物を照らしている。円筒形の大きな瓶が陳列していた。


 沈黙する頭部が容器の中に収まっている。この光景を背後の和輝に見せるべきか否か、葵は逡巡した。だが、和輝は葵が隠す間も無く宝物を見付け、引き攣るような声を上げた。


 青白い子ども達の頭部はホルマリンだろう液体の中に浮かび、瞼は固く閉ざされている。胴体から切り離された傷口は一直線で、葵は状況を忘れて感心してしまった。凶器は何だろう。一切の躊躇無く、綺麗に切断されている。




「如何して、こんなことを」




 呻くような和輝の声は震えていた。義憤なのか、動揺なのか、恐怖なのか、葵には解らない。


 葵は、落ち窪んだ少女達の瞼に、違和感を覚える。ふと目を向けた先、小振りなビーカーに肉片が浮かんでいた。切り取られた子ども達の舌だ。頭部の数と揃っている。




「殺せば、何も言わないのにな」




 葵が言うと、和輝は怪訝そうに眉を寄せた。


 犯人は、この少女達を惨殺し、頭部を切り離し、舌を抜いた。犯人の目的は頭部か、舌か、どちらだろう。


 和輝が震える声で言った。




「何の為にこんなことを」

「ネクロフィリアかな」

「何?」

「ペドでは無くて、良かったな」




 軽口のつもりだったが、和輝は欠片も笑わなかった。


 液体に浮かぶ頭部を眺めていると、入り口で立ち竦んだままの和輝が言った。




「音がする」




 言われてみて、葵も耳を澄ませる。


 地響きのような、獣の唸りのような低い音が確かに聞こえている。音源を慎重に辿り、何も無い壁に到達した。


 壁の一部が奇妙に陥没している。金属の冷たさを感じ、指先へ力を込めた。軽い音がして、取っ手が現れた。


 隠し扉だ。用意周到なことだ。扉を開くと、先の見えない暗闇の通路があった。先程の音は風の音だったのだろう。




「行くか?」

「行くよ」




 とても頼りになるとは言い難い顔色だったが、和輝はしっかりと頷いた。


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