⑶暗夜の礫

 呼び出しに応じた霖雨が辿り着いたのは、駅前にある小さなカフェだった。


 年季の入った店内は古びてはいるが、掃除が行き届いている。木目調のカウンターは磨き込まれ、光沢を放っていた。店内には主人らしき髭を生やした中年の男が一人。寡黙なようで、扉を潜った霖雨を一言で迎え入れるとそれ以降は何も口にしなかった。


 客が一人、カウンター席の奥にいた。体格の良い青年だった。霖雨を見ると「和輝の友達?」と砕けた口調で問い掛けて来た。猫のような警戒心を露にして、霖雨は頷いた。男は口元に優しい笑みを浮かべた。




「和輝は如何したんだい?」

「ちょっと手が離せなくて、代理で来ました」

「そうか……。本人に直接会いたかったんだが」




 人の好さそうな顔に、落胆の色が浮かぶ。初対面にも関わらず、霖雨は何故だか自分が悪いことをしてしまったかのような気持ちになった。


 男は霖雨に向き直り、言った。




「来れないなら、残念だ。また、別の機会にするよ」




 そうして席を立ち、料金をカウンターに置く。霖雨は問い掛けた。




「急ぎの用事だったんでしょう?」

「ああ。でも、本人が来られないのなら、仕方が無い」




 どんな用事だったのだろう。

 詮索する権利を持たない霖雨は、それ以上問い掛けることは出来なかった。


 John=Smithという余りに凡庸な名前を持つ男は、小さく会釈し、店を出て行った。取り残された霖雨は、勇み足で来たものだから拍子抜けしてしまう。居た堪れなくてカウンターの向こうにいる主人を見遣れば、視線で着席を促された。


 コーヒーを飲みに来た訳ではない。

 けれど、主人は無表情のまま言った。




「うちのチビは、大丈夫か?」

「うちの?」

「大事な従業員だからね」




 そう言って、主人が少しだけ笑った。

 その笑みに張り詰めていた緊張感の糸が緩み、霖雨は着席した。




「この店のコーヒーとクラブハウスサンドが絶品だと、チビが言っていましたよ」

「あいつは人を褒めるのが好きなんだ」

「そうですね」




 一杯のアメリカンコーヒーを提供し、主人は黙った。


 霖雨はコーヒーカップを掴んだ。香ばしい匂いに、吸い寄せられるように口を付ける。途端、口内に芳醇なコーヒーの旨味が広がり、思わず息を呑んだ。普段、和輝が淹れてくれるコーヒーも美味いけれど、年季が違うと感じさせられた。これは一朝一夕で真似出来る味わいではないだろう。


 コーヒーを啜りながら、霖雨は主人へ問い掛けた。




「今の男、よく来るんですか?」

「いや、店に来たのは初めてだ。何度か、ガラスの向こうから様子を窺っていたようだけどね」

「ふうん」

「チビの元同僚だって、聞いているよ」

「元同僚?」




 同僚という呼び名から連想するのは、和輝が以前勤めていた大学病院だった。かなり大きい総合病院だったが、個人的に食事へ行くような親しい友人がいるようには見えなかった。




「腕の良いスポーツドクターなんだそうだ」

「スポーツドクターか」




 和輝の目指すものは、スポーツドクターだ。親身でない筈も無かった。


 ヒーローが絶品と呼ぶコーヒーを飲み下しながら、霖雨は言った。




「和輝の勤務は何時ですか? 今ちょっと、手が離せなくて」

「構わないよ。手が空いたら、来れば良い」




 あっけらかんと主人が笑う。


 良い人だな。

 霖雨は思った。


 何の収穫も得られないまま、霖雨は最後の一口を飲み下した。丁度その時、ポケットに押し込んでいた携帯電話が陳腐な音でメッセージの到着を告げた。マナーモードにしていなかったことに気付き、それを取り出す。


 葵からだった。嫌な予感がした。




『和輝がいなくなった』










 11.ロストワールド

 (3)暗夜の礫










 息を切らせて帰宅した霖雨は、ソファに座って読書に励む葵の前に立った。


 送って来たメッセージは緊急性が高いように思うけれど、如何してこの男は、こんなに落ち着き払っているのだろう。


 我らがヒーローは大概トラブルメーカーだ。彼がこの家を飛び出す時は、何かトラブルに巻き込まれて、脅威に晒されていることが多い。一方でその問題解決能力は折り紙付きなのだけど、現在は高熱に魘されていたから、心配で仕方無かった。


 葵の手元に転がったタブレットが、小さく鳴った。葵はそれを取り上げ、眉を寄せる。


 息を弾ませる霖雨を冷ややかに一瞥し、葵が言った。




「もう見付けたよ」

「何処に」

「路地裏だ」




 突き付けられたディスプレイには、先程見た未成年の失踪と同じく、路地裏の暗闇に向かって歩き続ける和輝が映っていた。悪魔の手招きに応じたのか、高熱があるとは思えない程にしっかりとした足取りだ。


 霖雨は声を上げた。




「行くぞ!」

「少し待て」

「何で」

「死神が来るから」




 ディスプレイを見詰める。暗闇へ和輝は吸い込まれた。そして、予定調和の如く、死神が遣って来る。


 体格の良い男性。霖雨は、彼に見覚えがあった。




「John=Smithだ」

「何だ、その名無しの権兵衛みたいな奴は」

「気の良いスポーツドクターだと聞いているけど」




 葵は傍に投げ出してあったノートPCを操作し始める。件の男の詳細を調べているのだろう。

 数秒と経たぬ内に情報へ行き着いたらしい葵は、胡散臭そうに眉間に皺を寄せた。




「スポーツドクターっていうのは、本当みたいだな。評判も良い。三十四歳、独身。――大学病院時代の元同僚かよ」




 この短時間で、其処まで行き着いたのか。

 霖雨としては最早驚くことではないので、言葉にはしない。




「ボランティア活動に精を出しているな。……学生時代は外科志望だったのか。何故、スポーツ外科に?」

「スポーツの経験でもあったんだろ」

「学生時代から、研究漬けだ。大学の卒論は、眼球移植について纏めている。他人の眼球をそっくりそのまま移植出来るか如何か。人間の体に免疫拒絶反応がある限り無理だろう。薬剤でこれを抑える方法を提唱しているが、まあ、夢物語だな」

「眼球って、目でも悪くしているのか?」

「さあな。でも、ちぐはぐな男だな。今は小さな診療所を個人経営しているみたいだが、中々繁盛しているじゃないか。ブログまで書いている。学歴に関しては穴だらけで一貫性が無いのに、ブログでは趣味のスポーツ観戦を熱く語っている」

「趣味だったスポーツ観戦が高じて、医者になったのか」

「これは、スポーツ観戦が趣味だと言えるのか?」




 今度はノートPCのディスプレイを向け、葵が言った。


 画面の中には、見覚えのある青年が映っている。メジャーリーグで活躍する母国の英雄、和輝の兄、蜂谷祐輝だ。


 弟と同じ綺麗な顔立ちをしている。日本人は童顔で、加えて体質なのか薄っぺらい体をしていた。それでも屈強な男達の犇めく本場のメジャーリーグで活躍しているのだから、常人とは異なると思う。


 ブログのカテゴリーには野球観戦と書かれているが、実のところ、特定の選手のファンページみたいなものだった。


 蜂谷祐輝が帰国した時の記事がある。大勢に出迎えられる様は、まるでハリウッドスターの来日に等しい。けれど、その端に小さな青年が映り込んでいる。実弟、蜂谷和輝だ。


 どの写真も、彼がプレーしている最中というよりも、その顔を映しているように見える。




「あいつの兄貴のファンなのか?」

「表向きは、そうだろうね」

「どういう意味?」




 葵は再び操作を始める。管理者用ページが映ったので、違法行為をしていることは間違いが無かった。状況が状況なので、見なかったことにして置く。


 管理者用のページには、公開されていない書き途中の記録が無数にあった。其処に映っていたのは、蜂谷祐輝ではない。


 蜂谷和輝だ。

 何処で入手したのか、学生時代のものもある。視線が合わないので、隠し撮り写真だと解る。尋常ではない隠し撮り写真の量に、葵から表情がさっと消える。周囲の温度すら下がったように感じられる。




「追い掛けよう」




 氷点下の体感温度を振り払うように、霖雨は言った。

 凍り付くような冷たい目で、葵が言う。




「二手に分かれよう」

「如何して?」

「俺は二人の後を追う。お前は、こいつの診療所を探ってくれ」

「……解った」




 渋々ではあるが、霖雨は了承した。一刻を争う事態なのだ。別行動が時間の短縮になるのは間違いない。


 けれど、先程見せた葵の冷たい瞳が胸に引っ掛かる。別の思惑が潜んでいるような気がしていた。


 葵はノートPCをスリープ状態にすると、ポケットに携帯電話と財布を押し込んで立ち上がった。蜃気楼のように存在感の希薄な葵が、今はこのまま消えてしまうような気がした。


 透明人間と呼ばれる葵を繋ぎ留める為に、霖雨は言葉を繋ぐ。




「何かあったら、すぐに連絡しろよ」

「お前もな」

「ああ。必ず、助けに行くから」




 すると、葵は少しだけ驚いたような顔をした。そして、子どもみたいな悪戯っぽい笑みを浮かべた。




「お前なんか来たって、何にもならないだろ。人類最弱の雑魚で、自己完結ヒロインちゃんなんだから」

「それでも、いないよりはマシだろ」

「如何かな。トラブルホイホイだから、余計に事態がややこしくなりそう」




 そう言いながら、葵は笑っている。


 出会った頃には、彼がこんな風に笑うなんて想像もしていなかった。霖雨は、それが嬉しい。


 振り返ることなく、葵は出て行った。それを追い掛けることなく、霖雨は一人部屋の中を見渡す。


 足音は聞こえない。けれど、啜り泣く子どもの声が何処からか聞こえる。助けてくれと、訴えている。此処から消えたヒーローは、その呼び出しに応じたのだ。転落することが解っていても、伸ばされた手を放すことが出来ない。


 けれど、霖雨には、それが出来る。




「大事なヒーローを、亡者なんぞにくれてやる程、俺達はお人好しじゃないよ」




 霖雨の視界の端で、金色の光が瞬いた。それが弾けた瞬間、室内は水を打ったように静まり返り、全ての気配は消え失せていた。

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