⑵霧の中

 最寄駅から二つ程離れた先に、件の児童養護施設がある。


 褪せたジーンズにTシャツを着た和輝は、葵に背を向けぐいぐい道を突き進む。背格好だけでは未成年に見える。児童養護施設の利用者と言われても違和感の無い青年だ。


 黒い柵で囲われた施設は、その性質上、防犯に努めている。何となくそれは牢獄を思わせた。葵は、インターホンを押して対応する和輝を見ていた。


 落ち着いた女性の声と共に、門扉が開錠される。迷いなく敷地内へ足を踏み入れる和輝を追い、葵は牢獄の中へ進む。


 手入れの行き届いた美しい芝生、子ども達の声が明るく響いている。真っ白い建物の玄関には、来客を待ち侘びる子ども達が犇めいている。中央には職員らしき女性が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。葵は、寒気がした。




「Kazuki!」




 堪え切れず、少年が叫んだ。それが合図だったように子ども達はどっと押し寄せ、和輝に飛び掛かるようにして駆け寄った。もみくちゃにされる和輝は弾けるような笑顔を浮かべていた。それがまた、葵には違和感を覚えさせる。


 福祉事業は、社会に必要だ。

 けれど、葵には興味の無い事柄だった。薄ら寒い。それが正直な印象だ。彼等の笑顔が偽物だとは思わないし、間違っているとも糾弾しない。けれど、大勢の不幸の上にある砂上の楼閣のようで、不気味だった。


 施設長へ挨拶を済ませ、和輝は葵を連れて中庭へ出た。汚れた硬球を掲げた少年が、嬉しそうに手を振っている。


 蜂谷和輝は、高校野球の殿堂、甲子園球場で全国制覇を果たしている英雄だ。それを知る由も無い少年達が、未成年のような背格好の青年をその人柄だけで慕っている。ダイヤモンドは、土に埋もれても宝石として輝いているのだ。国が違えば通貨は価値を変えるが、彼は正しく金の延べ棒のようなものだ。何処にいても、何時の時代でも人に望まれ評価される。


 一頻りキャッチボールをした後、和輝は芝生の上に胡座を掻いた。褪せたグラブを抱えて少年が駆けて来る。少年は隣に座り込むと、嬉しそうに近況報告を始めた。


 穏やかな会話を横に、葵は施設の様子をぐるりと伺った。黒い柵で囲まれた施設内は、そこそこの防犯設備が整っているようだった。防犯カメラの類は無いけれど、ボランティアを受け入れている様から閉鎖的な空間ではないと解る。もっと劣悪な環境は幾らでもあるだろう。この施設は高い水準にある。


 心配したと言えば薄ら寒いが、病人のような顔色をしていた和輝が、予想に反して元気そうなので葵は拍子抜けしたような気分になる。杞憂だったのだろう。此処にいない霖雨に内心で文句を言う。


 穏やかだった少年の声が、突然沈み込んだ。潜められた声に、葵は目を向けた。登場してから葵の存在を、彼等は知覚していないのかも知れない。




「これで、七人目だ――」




 何の話だろう。

 葵は耳を澄ます。隣で和輝が言った。




「また、いなくなったのか」

「そう。警察は家出だろうって言うけど、俺は違うと思う」

「何で?」

「Thomasがいなくなる前、言っていたんだ。悪い奴に目を付けられたかも知れないって」

「悪い奴?」

「D.C.かも知れない」

「そういう奴等と、面識があったのか?」

「いいや。そんな奴じゃない。でも、他に思い当たることも無いし……」




 ティーンエイジャーと聞いて、葵もその線を疑った。

 少年は憔悴した様子で、溜息を零した。葵は、少年と関わる気も無いので気配を殺して黙っていた。




「何か、手掛かりは無いのか?」

「思い当たることは何も……」




 打つ手無しと少年が早々に白旗を揚げるので、葵は見切りを付けた。


 年間何万人の失踪者がいると思っているのだろう。この界隈では犯罪組織が勢力争いに忙しなく、ティーンエイジャーは窖に転がり込むように巻き込まれている。和輝はそれに歯止めを掛けようとした結果、犯罪組織から命を狙われた。物騒なことは非日常と呼ばれ、人々は自分に関係の無い事柄だと思い込んでいる。けれど、非日常はふとした拍子で顔を出し、人々を引き摺り込んで行く。


 和輝が伺うように葵を見た。しかし、葵は首を振った。


 自分に関係の無い事柄にまで首を突っ込む程、御人好しではない。何か言い募るだろうかと和輝を見る。しかし、真っ白な顔色で和輝は言った。




「声がしないか?」




 少年には理解出来ないだろう、母国の言葉だ。


 和輝の言葉の意味が解らず、葵は眉を寄せた。和輝は何処か遠くを胡乱に見詰め、囁くように言った。




「誰かが呼んでいるんだ」

「誰が」

「解らない。――でも、ずっと呼んでいる」




 透き通る双眸が、底無し沼を思わせる。その眼球の下に在る深い隈が骸骨のような印象を抱かせ、葵は目を疑う。


 これが、あの光り輝くヒーローだろうか?


 何かを患っているとしか思えない。葵は幽霊等というものを信じてはいないが、世間一般では、こういう状態の人間をお憑かれ様と言うのだ。何より、細い首筋に残る掌の跡が不気味だ。霖雨と揉めたのかと思っていたが、冷静に見るとその跡は子どものように小さい。




「頭が痛い」




 そう呻いて、和輝が倒れた。











 11.ロストワールド

 (2)霧の中









 倒れた和輝を背負って帰宅すると、迎え入れた霖雨は悲鳴のような声を上げた。


 小さな身体が熱を放っていたので、体調が悪いように見えたのは事実だったと悟る。無敵のヒーローみたいな存在の癖に、意外と病魔に侵され易い。ベッドに寝かせようと彼の自室に足を踏み入れ、葵は動きを止めた。


 カーテンの開け放たれた窓に、無数の掌の跡が残っている。まるで、施錠されていることが恨めしいと訴えているようだ。昨夜、来客は無かった。防犯設備を施したのは葵だ。こんなにも無数の侵入者を許すようなちゃちな設備はしていない。


 心配して様子を伺っていたらしい霖雨が、後ろで引き攣った声を上げた。




「なんだ、あれ」

「知るかよ」




 兎に角、寝かせよう。

 進む内、夏場とは思えない程に部屋の温度が低いことに気付く。


 和輝の部屋にエアコンは無い。扇風機で十分だと宣う男だ。それにも関わらず、この部屋だけ切り取られたように気温が低いのは何故だろう。こんなところに病人を寝かせる訳にはいかない。葵は踵を返す。


 背負った和輝が、呻くように言った。




「呼んでいる」




 葵は苛立った。




「誰が呼んでいるって言うんだ」

「女の子が、」




 ぽつりと囁かれた声に、葵は動きを止めた。




「それはお前の妄想だ」

「でも、助けてって、言っているんだ……」




 泣き出しそうに弱った声だった。その細い首筋に浮かぶ青黒い掌の跡が、彼をこの世ならざる世界へ連れて行こうとしているような気がした。葵はそれを断ち切るように、振り払うように言った。




「放って置け。何でもかんでも救えると思うなよ」

「うん……」




 何かを続けようとした和輝が、口篭った。そのまま瞼を下ろし、寝息を立てる。


 葵は気温の低い部屋の扉を閉め、結局リビングのソファへ寝かせることにした。霖雨がすぐにブランケットを持って来たので、甲斐甲斐しさに呆れた。


 眠っている和輝は苦悶の表情で、魘されていることは明白だった。目の下にある隈は消えない烙印のように刻み込まれたままだ。額に浮かぶ珠のような汗を拭ってやり、霖雨が言った。




「昨日の夜、リビングから足音がしたんだ」

「侵入者の記録は無い」

「それが質量を持っていればね」




 葵は怪訝に眉を寄せた。




「幽霊の仕業だとでも言いたいのか? 非科学的で何の根拠も無い」

「霊魂の存在については俺だって否定派だよ。でも、思念体という意味では有り得るかも知れない。それが人体に影響を齎す可能性は零ではないだろう」




 そういえば、こいつは量子力学専攻だったな。

 葵は思い出すと同時に舌打ちを零した。


 魘される和輝を見下ろし、葵は部屋からノートPCを取り出す。先程訪れた児童養護施設の少年が言っていたことが、気に掛かっていた。幽霊等という非科学的な存在は欠片も信じていないけれど、未成年の失踪は気に掛かる。窓や和輝の首に残っていた掌の跡が小さかったからではないと、誰にとも無く、葵は内心で弁解をした。


 隣りから霖雨が手元を覗き込んで来た。見たって解る筈も無い。ディスプレイには記号が羅列されているだけだ。




「何があったんだ?」




 理解出来ないだろうディスプレイを眺めながら、霖雨が問い掛ける。葵は答えた。




「児童養護施設で、未成年者の失踪について相談されていたんだ」

「失踪先に心当たりでも?」

「無い。だが、意味深な言葉を残して消えた奴がいる」

「何て?」

「悪い奴に目を付けられたって」

「それって、警察に通報出来ないの? 犯罪に関わっている気配があるじゃないか」

「年間で何万人が失踪していると思っているんだ。家出だろうと言われているよ」




 そんなものか。落胆したように、力無く霖雨が言った。

 葵は忙しなく動かしていた指先を止めた。




「防犯カメラの映像が出て来たぞ」




 ディスプレイを指差し、葵は言った。


 失踪者の記録を辿り、彼等が消える直前の映像が見付かった。とは言え、誰が失踪しているのかなんて解らない。共通している条件が未成年者というだけでは膨大なヒット数になる。検索条件を付け加えなければならなかった。


 児童養護施設と関わりのある未成年者――家庭環境に問題を抱える子ども達だ。家出だろうと思い込んで、録に捜索届けも出さないような無責任で楽天的な保護者の家庭。或いは、施設等に預けられている子ども。和輝が今日になって相談を受けたということを考えると、少なくともここ一ヶ月以内の出来事の筈だ。そうして条件を絞っていけば、自然と情報は限られて来る。


 荒い映像に映るのは真夜中の街だった。人気も無い。明るい髪色の少女が、路地裏へ消えて行く。まるで路地裏の奥に魔物が棲んでいるような不気味さが漂っている。彼女は誘き寄せられたのかも知れない。その数秒後、画面の端から誰かが来た。体格の良い男だった。荒い画像の中ではその詳細までは解らない。男は先程の少女と同じく、闇の向こうへ吸い込まれて行った。




「これって」




 霖雨が零したので、葵は頷いてパソコンを操作した。


 映像が切り替わる。画面の端には録画された日時が映っている。先程の少女とは異なる、ベールボールキャップを被った少年が歩いていた。人気の無い街を歩く様は、まるで何かの映画のワンシーンのようだった。彼もまた、吸い寄せられるようにして闇の向こうへ消えて行った。


 体格の良い男――死神がまた、後を追う。


 映像は他にも四つ存在した。消去されたものも、見付けられなかったものもあった。けれど、何も無かったとは思えない。




「知り合いか?」

「全く知らない。こんな映像じゃあ、性別くらいしか手掛かりが無いじゃないか」

「自然界に於ける男女の出生比率は105:100だ。凡そ半数は被疑者から外されたのだから、収穫と呼んでも良い筈だ」

「その半数以上が被疑者に格上げされているけど」

「相変わらずのネガティブ思考だな」




 皮肉っぽく、葵が笑った。毒気抜かれたような心地で、霖雨も微かに口元を緩ませた。


 とは言え、状況は芳しくない。未成年者の失踪に関しては無関係の筈だが、訳の解らない事態に巻き込まれているに変わりなかった。


 虱潰しに探るしかない。根競べのような勝負に挑む為、葵はコーヒーを淹れるべく立ち上がった。その時、ソファの下から羽虫の羽ばたきのような微かな音がした。携帯電話のバイブレーションだ。和輝が尻ポケットに入れていたらしい。霖雨は喚き続けるそれを取り出し、ディスプレイを見た。着信だ。ディスプレイにはJohn=Smithと此方を馬鹿にするような有り触れた名前が表示されている。


 何者だろう。

 持ち主が高熱で魘されている中、着信を知らせるべきか逡巡する。霖雨は小さく謝罪を零し、持ち主に代わって通話に応じた。




「Hello」




 霖雨が答えたと同時に、携帯電話の向こうでは此方を訝しむ声が返って来た。和輝の知り合いなのだろう。


 通話の相手が和輝ではないと悟ると、相手は残念そうだった。如何やら、食事の約束をしていたらしい。和輝のアルバイト先まで行ったけれど、その姿が見えないので電話を掛けたそうだ。


 魘される和輝を叩き起こす訳にもいかず、霖雨は本人に代わって謝罪をした。けれど、男は食い下がった。


 少しでいいから、会えないかな。大切な用事があるんだ。


 そうして言い募るので、霖雨は現在の和輝の容態を知らせるべきか悩む。コーヒーを淹れ終えた葵が不審そうに見ていたので、霖雨は溜息を吐いて答えた。


 和輝は今、手を離せない。本人の代わりに、其処へ行く。


 それだけを一方的に告げ、霖雨は通話を切った。乱暴な態度に葵が驚いたように目を丸くしていた。




「お前も、そういう態度が出来るんだな」

「如何いう意味だよ」

「見直したって、言っているんだよ」




 褒めているのさ、これでも一応。

 そうして悪戯っぽく葵が笑う。


 お前こそ、そういう顔が出来るんだな。随分と人間らしくなったじゃないか。

 そんなことを思いながら、霖雨は立ち上がった。


 ソファでは、相変わらずヒーローが高熱に魘されている。彼を放って置きたくは無いけれど、復活した時に取り返しの付かない事態になって、自己嫌悪に陥る様も見たくない。




「ちょっと出掛けて来る」

「変質者を連れて来るなよ」

「余計なお世話だ」




 霖雨は振り返ることなく、出て行った。


 残された葵は、しんと静まり返った部屋を見渡し、鼻を鳴らした。


 霖雨は優しい。襲い来る脅威に対して無力な癖に、それを吸い寄せてしまう。仕方が無いと諦めて相手を許容してしまう甘さが隙となり、変質者を誘き寄せるのだ。――けれど、先程の態度ならば、大丈夫だろう。普段からそうした毅然とした態度を保っていれば、余計な面倒になんて巻き込まれないで済むのだ。


 静かな室内で荒い呼吸を繰り返すヒーローは、まるで何かに責め立てられるような表情をしていた。


 二人きりの筈のリビングで、何処からか足音が聞こえる。ひたりひたりと距離を詰めるような裸足の足音だ。だが、葵は別段気にすることも無く、独白のように言った。




「消えろ」




 一切の感情を含まない冷徹な声で、葵は吐き捨てる。

 途端、足音はその身を竦ませるようにして、消え失せた。





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