11.ロストワールド

⑴気配

 Adversity makes men, and prosperity makes monsters.

(不運は人物を作り、幸運は怪物を作る)


 Victor Hugo





 懇意にしているFBI捜査官から呼び出されたので、何事かと身構えて行った先は賑やかなバザー会場だった。


 其処此処で商品を広げる一般人は平和な笑顔を浮かべ、通り過ぎる人々を気安く呼び止める。和輝は、肩透かしを食らった心地で広場を見渡している。安全維持の為の監視が、和輝に課せられた主な業務内容だった。


 普段、世話になっているのだから無下にも出来ない。例え賃金が雀の涙程であっても、嫌な顔一つせずに此処に立たなければならない。本来ならば彼の仕事だろうが、ボランティアのつもりで引き受けた。


 空は青く澄み渡っている。夏の日差しが眩しい。太陽系に所属する地球という惑星では、太陽という絶対的な存在は何処にいたって変わる筈もないのに、何故だかその光が滲むように白く見えた。青空を分断する色鮮やかなペナントを眺め、和輝は界隈を埋める出店へ視線を落とした。


 衣服や雑貨、食品を売る者がいる。掘り出し物でもないかと吟味する客と、冷やかしもいる。大勢の人間が集まる小さな需要と供給の世界。環境問題に向けた取り組みの一つなのだと、出入り口の側に張られたポスターが知らせている。鮮やかなクレヨンでのイラストは、幼児の作品なのだろう。


 和輝は飽くまで第三者である。店員でも客でもない。会場を巡回し、不審者を見付け、一般人の安全を守る。或いは危険が起こらぬよう予防する。中天に差し掛かる太陽が眩しく、和輝は腹の虫が唸るのを堪えた。


 急に呼び出されたものだから、食事の準備が間に合わなかった。霖雨と葵は昼食を取っただろうか。


 食欲を唆る香ばしい匂いが漂うので、視線を巡らせる。鉄板の上で焼かれるフランクフルトだった。残念ながら、和輝は業務中だった。溜息を一つ逃がし、賑わう人ごみを見遣る。と、その時、目の前に影が降って来た。




「――Kazuki?」




 呼び掛けられ、咄嗟に身構える。太陽を遮った大きな影は、逆光の為に正体が解らない。


 押し黙った和輝に、影は目深に被ったベースボールキャップを外した。白い歯が見えた。




「John?」

「Yes!」




 問えば、John――ジョンは、綺麗な碧眼を歪め、嬉しそうに笑った。


 以前、働いていた職場、大学病院の同僚だった。和輝が目指すスポーツ外科で勤務する屈強な肉体を持つ男性医師だ。気さくな性格で、患者からも慕われていた。リハビリに苦しむ患者と同じく、顔面を苦痛に歪ませた彼を今も覚えている。


 こんなところで何をしているのだろう。自分のことを棚に上げて、和輝は問い掛ける。




「久しぶりだなあ。何をしているんだい?」

「家がこの近くなんだ。バザーをやっているというから、覗きに来た」




 世間の狭さに呆れつつ、和輝は頷いた。


 腕も信頼もある、働き盛りの男が真昼間からバザーに来るだろうか。和輝は些か疑問だ。そんな失礼な疑問が顔に出ていたのか、ジョンは笑って答えた。




「今日は久々の休みなんだよ。だから、羽を伸ばしに来たのさ」

「いいねえ」




 スポーツ外科に所属していた彼と、救命救急で馬車馬の如く働かされていた和輝では業務内容が余りに異なる。比べても仕方の無いことだ。


 爽やかな白いポロシャツを纏ったジョンは、腰に手を当てて言った。




「和輝こそ、何をしているんだ? 活躍は度々耳にしているよ。ハリウッド女優と、映画の宣伝に出ていたじゃないか」




 アイリーンのことだ。和輝は思い出し、額を押さえた。


 ジョンは悪戯っぽく言う。




「どうせ、また面倒事に巻き込まれたんだろう。御人好しだから、仕方無いな」

「そうかな」

「今日は休日?」

「仲の良いFBI捜査官がいて、会場のパトロールを押し付けられたところなんだ」

「FBI?」




 ジョンは眉を寄せた。




「何か、危ない事件でもあるのか? 此処で怪しげな取引でも行われるのか?」

「どうかな。彼も誰かに面倒を押し付けられたみたいな言い方だったけど」

「だったら、良いんだけどな」




 ほっとしたように胸に手を当て、ジョンが微笑む。図体ばかり大きくて、神経は指先のように繊細だ。彼が臆病者だとは思わないけれど、杞憂という言葉もある。起きてもいない事象に対して不安を感じる必要は無いと、和輝は思う。




「今度、一緒に飯でも食いに行こう。俺が今アルバイトをしている店のクラブハウスサンドが美味いんだ」

「救命救急医の次はウェイターか。忙しない奴だなあ」




 からりとジョンが笑うので、和輝も嬉しくなった。まるで昨日会ったかのような距離感が心地良い。


 軽口を叩こうとしたところで、ジョンは思い出したように言った。



「じゃあ、そろそろ行くよ。またな」

「ああ、またね」




 遠ざかり、人ごみの中に溶けていく。その背中を見送り、和輝は会場へ視線を戻した。通常業務に戻らなくては、と自分を戒めたところで、空気が滲むように歪んで見えた。


 葵が立っていた。


 人間とは思えない希薄な存在感で、幽霊のように葵が立っている。和輝は声を上げて尻餅を着いた。葵は可哀想なものを見るように哀れみの視線を投げ、当然ながら助け起こそうとはしない。葵が見下ろしながら言った。




「何やってんの?」

「バザー会場のパトロール」

「お前の方が余程、不審者に見えるけど」




 酷い言い草だ。

 和輝は打ち付けた腰を摩りながら立ち上がった。


 黒いスキニーに、白いクルーネックのTシャツ、色褪せた革靴。一見すると何でもないラフな服装なのに、葵が纏っているだけで様になる。和輝は自分のチェックシャツを見下ろし、舌打ちする。身長のせいなのか、寝癖の残る髪型のせいなのか、自身では解らない。


 葵は、自分を睨む小さな少年の頭をくしゃりと撫でた。




「まあ、いいか。帰ろうぜ」

「だから、今、仕事中なんだよ」

「お前一人いてもいなくても、何も変わらないだろ。事件なんて起こる時には起こるんだ」

「それを防ぐ為のパトロールなんだよ」

「罪を犯しそうな人間がいたとして、お前の姿を見て止めようと思うか? 少なくとも、俺は思わないね。こんなチビが見ているだけなら、ちょっとくらい良いだろう。そんな悪魔の囁きに耳を傾ける可能性がある。お前は此処に存在するだけで犯罪促進効果があるんだ」

「それはちょっと、言い過ぎだろ」

「事実だ。自動車なら、お前はブレーキではなく、アクセルだ。崖の上で迷っている人間の背中を押す人種だ」

「危険人物じゃないか」

「そうだ。だから、回収に来てやったんだ」




 行くぞ。

 葵は、悪戯っぽく笑う。和輝の首根っこを引っ掴むと、その痩躯には見合わない力強さでぐいぐいと引き摺って行った。










 11.ロストワールド

 (1)気配











 ひたり、ひたり。


 闇の中で、何かが徘徊する足音がする。同居人だろうと検討を付けて、霖雨はタオルケットの下に顔を埋めた。


 ひた、ひた、ひた。


 早足に、リビングをぐるぐると歩き回っているらしい。寝惚けているのかも知れない。目を擦りながら時計を見れば、時刻は草木も眠る丑三つ時だった。こんな時間まで何をしているのだろう。扉一枚隔てたリビングから明かりは漏れていないから、真っ暗闇の筈だ。そんな闇の中で、何を。

 葵ならば、きっと何か訳の解らないことをしているのだろう。和輝ならば、――心配だ。


 夏とはいえ、夜中ともなれば空気は冷たい。フローリングを裸足で歩けば、リビングと同じ足音がした。


 ひた、ひた、ひた、ひた。


 足音は止まない。霖雨がドアノブに手を掛けると、足音がぴたりと止まった。気にせずそのまま押し開ける。闇に包まれたリビングには、誰もいない。同居人の部屋も闇に沈んでいる。


 ひた、ひた。


 足音が玄関へ向かっていく。寝惚けて家を出て、事故にでも遭ったら困る。霖雨は追い掛けた。

 玄関に続く扉を開く。玄関は施錠され、開かれた様子も無い。足音は止んでいる。違和感を覚えながらリビングに戻る。半開きだった筈の部屋の扉が、閉ざされている。何時閉めたのだろう。――否、誰が?


 得体の知れない恐怖を感じ、霖雨の肌は粟立った。耳の奥に、あの足音がこびり付いている。同居人達の部屋は固く閉ざされ、リビングは正しく無人だった。霖雨に選択肢は無い。施錠されない同居人――和輝の部屋へ逃げ込んだ。


 霖雨が扉を開けると、寝ぼけ眼を擦りながら和輝が起き上がった。襟元の伸びたシャツを何時までも着ている。寝癖の残った頭で、目は半開きなのに格好良いという反則的な人間だ。闇に沈んだ部屋の中でも、其処が光源だとでも言うように輝いているような気さえする。




「如何した、霖雨」

「今、リビングにいたか? 誰かの足音がしたんだ」




 ベッドにいる彼がリビングにいた筈も無いのに、霖雨は問い掛ける。寝起きの和輝は掠れた声で答えた。




「気付かなかった」

「そっか……」




 ベッドから上体を起こしたままの和輝が頻りに首を撫でる。


 寝違えたのだろうかと霖雨は視線を向け、身体を硬直させた。細く白い首筋に、明らかに人間のものと解る手形が残っている――。


 肩が凝った等と言いながら左肩を回す。滑らかな彼の頬は何処となく精気が無く、目の下には薄らと隈があった。




「霖雨、どうした?」




 どうした、じゃない。お前がどうした。

 霖雨が言葉を失っていると、心配そうに和輝が顔を覗き込む。霖雨は量子力学を専攻する大学院生だ。目に見えない非科学的なものは信じない。ましてや、幽霊なんてものがいる筈もない。足音を立てる程の質量を持った思念体が、家の中を徘徊するなんて有り得ない。けれど、目の前にいる青年に残るそれは、霊障と呼ばれるものだ――。


 はっとして霖雨は振り返る。扉は閉ざされている。けれど、その向こうで得体の知れない何かが息を殺して様子を伺っているような気がする。


 幽霊が怖いのではない。正体不明の何かが居住空間に侵入したということが、恐ろしいのだ。




「目が回る。気持ち悪い。吐きそう」




 彼にしては珍しく、弱音を吐く。それがまた恐ろしい。




「葵を呼んで来る」




 少なくとも、自分よりは医療技術にも知識にも精通している。大学病院で勤務していた彼に比べれば一般人に等しいかも知れないが、人手はあるに越したことはない。


 霖雨がベッドの傍を離れようとした時、不意にその手首を掴まれた。


 和輝が、泣き出しそうな顔で言った。




「大丈夫」




 大丈夫じゃないだろ。霖雨はそう言いたいのを、寸でのところで呑み込んだ。


 和輝は顔を伏せ、疲労感を滲ませている。水を打ったように、室内はしんと静まり返っている。時を刻む秒針の足音だけが不気味に響き、嫌な緊張を感じさせた。霖雨が何かを言おうと口を開いた時、耳元で、誰かの声がした。


 雨の音がする。カーテンに隠された窓を見遣る。何者かの気配が其処等中に漂う。掠れるような、今にも消えてしまいそうに儚い微かな声――否、泣き声だ。また、あの足音が聞こえた。


 ひたり、ひたり。


 閉ざされたドアの向こう、何者かが裸足で徘徊している。俯いた和輝は気付かないのか、顔を上げない。霖雨は悲鳴を呑み込み、ベッドに投げ出された彼の腕を縋るように掴んだ。




「声がする」




 垂れた前髪の隙間から、刃のように鋭い光を宿した瞳が浮かぶ。和輝が言った。




「誰かが呼んでいる」








 ーーそんなことがあったばかりなので、霖雨は寝不足だった。


 二人で一晩を明かし、一緒に部屋を出たところを葵に目撃された。ぎょっとして半歩後ずさった葵は、汚いものを見るような眼差しだった。彼が何を想像したのかは解らないが、霖雨としては弁解しなければならなかった。


 テーブルの上には、一枚ずつ白い皿が並んでいる。蕩けそうなスクランブルエッグが眩しく、カリカリのベーコンが香ばしい匂いを漂わせる。ハーブに彩られたグリルドトマトが添えられ、朝食はちょっとしたホテルみたいな出来栄えだった。鮮やかなオレンジジュースが注がれたグラスを配り、大量のクロワッサンとトーストを抱えた和輝がソファに掛ける。




「ほら、さっさと座れよ」




 見事な朝食を用意した和輝は、重病の末期患者みたいな青白い顔で微笑んだ。

 弁解をしようとしていた霖雨は、訝しげな葵と顔を見合わせる。


 互いに言葉にせず席に着く。


 いただきます。朗らかに和輝が言った。

 漫画みたいに大量のパンを平らげていく和輝が、ふと思い出したように言った。




「今日、出掛けて来る。帰りが遅くなるかも知れないから、夕飯はいらない」

「……そうなのか、気を付けろよ」




 酷い顔色の同居人を心配するべきか、霖雨は逡巡した。仮にも成人している男性を心配するのは如何なものだろうか。


 言葉を繋げない霖雨を横目に、溜息混じりに葵は言った。




「何処に行くの」




 さして興味があるようでは無い。葵は此方に目も向けず、クロワッサンを咀嚼しながらテレビを見ている。


 霖雨に代わって問い掛けたのかも知れない。霖雨は胸の内で感謝しながら、和輝の答えを待った。


 和輝は何でもないことのように答えた。




「友達と野球しに行くんだ」

「何処に」

「児童養護施設」

「はあ?」




 葵が眉を跳ねさせた。




「何、ボランティアでも始めたの?」

「俺としては、友達と遊ぶっていう自分の娯楽なんだけど」

「はいはい」




 面倒臭そうに、葵は言った。




「お前、ちょっと自分の顔を鏡で見た方がいいぞ」

「何か付いてる?」




 テンプレートのようなボケをかますので、霖雨は肩を落とした。




「お前、顔色悪いよ。病人みたいだよ」

「そうかなあ。久々に爽快感のある朝なんだけど」




 隣りで葵が冷ややかな目を向けるので、霖雨はまたしても弁解の言葉を探す。けれど、どんな言葉も藪を啄いて蛇を出すような気がして、霖雨は結局口を噤んだ。




「俺も行く」




 それが葵の言葉と思えず、霖雨は目を瞬かせた。和輝とて同感だろう。言葉を失っている。


 揃って沈黙した霖雨と和輝を睨め付け、葵は言った。




「退屈なんだ」




 ふうん、と曖昧に頷いて、和輝は小首を傾げた。


 窪んだような隈に彩られ、大きな眼球は今にも転がり落ちそうだ。それでも透き通る双眼は変わらぬ輝きを放ち、見る者を惑星の引力の如く惹き寄せる。霖雨としても、彼一人で出掛けさせるよりも、葵が付いていた方が安心だった。




「別に良いけど、問題を起こすなよ」

「お前に言われたくない」




 和輝の言葉をばっさりと切り捨て、葵は鼻を鳴らした。



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