⑷天才

 葵がそれを知ったのは、偶然だった。


 九時には就寝するという彼が、部屋から泥棒のように抜け出て来た。リビングにいた葵と鉢合わせすると、悪戯を見付かった子どもみたいな顔をした。そっと人差し指を口元に立てたので、どうせ下らないことをしているのだろうと思った。


 入居してすぐのことだった。同居人に変な性癖があるのは嫌だなと思っていたら、和輝は良い事を思い付いたみたいに小脇に抱えた専門書を差し出した。


 この単語の意味が解らないんだ。辞書で調べても、文章の意味が繋がらなくなる。


 そんなことを言うので本を覗いてみたら、かなり専門的な医学書だった。一度教えると、和輝はぱっと目を輝かせた。


 じゃあ、此処は。


 矢継ぎ早に次々質問するので、好い加減面倒になって、葵は部屋へ退散した。名残惜しそうだった和輝は、やはりそれで満足した筈も無く、毎日のように部屋を訪れては葵を辞書代わりにした。


 座学が壊滅的で、現在は大学病院にモグリで勤務している。

 最終学歴は高卒で、卒業式を待たず単身渡欧。

 葵は聞いていた情報を思い返しながら、僅かな違和感を覚えた。渡欧したのに、如何してNYにいるのだろう。


 殊更丁寧に単語を教えてやった日、恩を着せるように問い詰めたらあっさり白状した。


 現在、欧州の大学に通信と夜間を利用して就学している。此方の大学病院で勤務しながら通えるということだったので、渡米したらしい。どちらもコネが無ければ不可能な話だった。


 こいつ、何者なんだ。


 葵は和輝の存在を懐疑的に思った。人の良さそうな顔をして、熱血で単純に見せて、冷静で嘘吐き。不気味さはあったものの、自分とて全ての真実を彼等に語っている訳でもないし、その必要も無いから干渉しなかった。和輝も告げる気は無いらしく、自分から積極的に話したことはない。


 座学が壊滅的というのは、事実だった。頭の出来が悪い訳ではない。一度教えると、応用して問題を解くことが出来る。暗記も出来るのに、何が壊滅的なのかと言えば、圧倒的に語彙が少なかった。最近まで欧州にいたのだから、言語が違えば理解出来ないのは当然だった。そのくらい予測出来そうなものなのに、目の前にぶら下げられた餌にホイホイ食い付いて、こいつは馬鹿なのだろうかと思った。


 事実、馬鹿だった。


 自分の身も顧みず、他人を助けに行く。敵意を向けられても、誠実であろうとする。相手の為であれば、自分すら嘘で欺く。天真爛漫に見せて、その内面は仄暗く、歪だ。特に、どんな逆境でも真っ直ぐに進もうとする様が馬鹿だった。急がば回れというくらいだ。迂回すればいいものを、わざわざ獣道を択ぶ。葵は詳しくは無かったが、所謂、少年漫画の主人公とはこういうものなのだろうと思った。


 現状に胡座を掻かず、他人を憎まず、前だけを向いて進んでいく。和輝の本質を知った時は、呆れたし、気味が悪かった。ただ、時を重ねるに連れて、こういう人間がいてもいいのだろうと思った。自分のような窖に嵌まり込んで、身動き一つ出来ない人間にこそ、彼のような救いの手を差し伸べる人間がいるのだろう。


 壊滅的だという勉強を、気が向いた時に見て遣っていたら、その驚異的な集中力に驚かされた。


 一般人には意味が解らないだろう専門書を開き、読み始める。眠りそうな鈍さで頁を捲っていたのが、徐々に速くなる。最後の方は殆ど速読の域だった。呼吸すらしていないのではないかと懸念しそうな程だった。一度集中すると周囲が見えなくなる人間がいる。けれど、知覚していない訳ではない。必要外と判断した情報は、意識の外へ弾かれるのだ。だが、和輝の集中力は常人と異なった。


 本当に聞こえないし、見えていない。葵が銃口を向けたとしても、和輝は顔も上げずに射殺されるだろう。本を読むという行為だけに全神経が向けられている。いっそ、側にいる葵は吸い込まれそうだと思った。


 読み終えると、糸が切れたようにぷつりと眠り込むこともあった。そういう様を見て、彼は異質なのだと悟った。


 天才と呼ばれる集中力を、生まれて初めて見た。昏々と眠る小さな青年は、恐らく天才なのだろう。スポーツが趣味だと宣うだけの運動能力や、すぐにコツを掴んで熟すセンス、人を惹き付けて止まない人望、物事を多角的に判断する視野の広さ、どの業界でも重宝されるコミュニケーションスキル。どれもが、人の羨むものだ。けれど、この集中力の前では全てが霞む。


 一度集中すれば、誰も彼の世界に干渉することは出来ない。彼を活かすのは、優れた運動神経や親しみ易い性格ではない。その才能を知っているのは、きっと極僅かな人間なのだろう。


 人に妬まれるのも仕方が無いなと、安らかな寝顔を見ながら、葵は思った。







 帰国したヒーローは、早速巷を賑わせているらしい。話題に事欠かない男だと、葵は呆れる。


 最新のテレビの向こうでは、メジャーリーガーだという彼の兄が空港にいた。狂気染みた歓声で大勢の女性に出迎えられる様は、羨ましい等と言うよりも、ご苦労様と労いたいくらいだ。搭乗口から、ハリウッドスターの来日の如く列を成している。その先で、小さな青年が目深に帽子を被って手を振っているのが映った。


 隣りにはスーツに身を包んだ男性がいる。年齢不詳の若い外見をしているが、滲み出る空気は一般人でないと解る。彼等の父親だろう。世界的に名を馳せる心理学会の権威だ。


 何なのだろう、この家族は。

 葵は呆れた。

 生まれか環境かと屡々議題になるが、彼等を見ていると、血よりも濃いものは無いなと思う。




「凄い賑わいだな」




 テレビを見ながら、霖雨が言った。


 霖雨はきっと、知らない。和輝がどういう人間なのか、解らない。然るべきところに収まっていれば、其処で活躍し英雄と呼ばれるであろう人種だ。


 きっと、大学病院から不当解雇された可哀想なフリーターくらいにしか思っていないだろう。


 あいつ、ちゃっかり大学通っているぞ。地盤固めは万全だ。車両整備士の見習いをしていたけれど、もうその技術も十分身に付けているんだぞ。だから、さっさと辞めたんだ。


 中々、小狡い人間だ。




「あ、あれ、匠じゃないか?」




 ディスプレイを指差して、霖雨が言った。その指先、和輝の隣りに白崎匠がいる。

 猫のような目を真ん丸にして、大勢のお出迎えに驚いているようだ。




「あいつ等、仲良しだったな」

「そりゃ、そうだろう。生まれた時から一緒だって言っていたからな」

「それにしたって、ねえ」




 葵は、壁に掛けられたカレンダーを見た。七月ももう半ばに差し掛かる。今週末は、ヒーローと、その相棒の誕生日だ。


 翌日に控えた母親の命日の為に帰国するなんて言っていたけれど、きっと、彼等の誕生日を祝いたい仲間達に呼び出されたのだ。


 和輝の環境は常に逆境だ。冷たい風が吹き付ける。――けれど、温かく美しい。


 それは、彼が築いて来たものなのだ。生まれ持った才能だけで生きられる程、世界は優しくない。冷たく厳しい世界で、彼が、自分の命すら投げ出したいと傷付きながら確立して来たものだ。簡単に壊せる程、脆いものではないのだろう。




「努力の人なんだろうな」




 ぽつりと葵が零せば、霖雨が眉を寄せる。そして、何か納得したように言った。




「ああ、和輝の兄貴? そりゃ、そうだろうさ。才能だけで遣って行ける程、甘い世界じゃないだろうさ」




 勝手に解釈して納得した霖雨は、放っておく。葵は、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み下した。










 10.閑話

 ⑷天才









「俺の後輩に言わせれば、才能なんてものはね、自分の可能性を信じ切れなかった臆病者の言い訳なんだよ」




 無事帰還したヒーローが、そんなことを言った。

 お前が言うなと、霖雨は叩いて遣りたかった。


 確かに努力はしているのだろうけれど、常人は幾ら努力したってお前の足元にも及ばないんだぞ。息も絶え絶えに、霖雨は胸の内に吐き捨てた。


 自宅近くの山奥にいる。

 ハイキングをしたいという和輝に連れられて、出不精の葵を無理矢理引っ張って、弁当を抱えて遣って来たのだ。お土産だと言って数種類の日本酒を買って来たので、偶には我侭を聞いてやるかと思ったのが間違いだった。

 通常のハイキングコースから外れ、獣道に入った。近道だと和輝は鼻歌交じりに言ったが、後方で葵が遠い目をしていたので、其処で引き返すべきだった。


 鬱蒼とした森の中、毒蛇を捕まえた和輝が霖雨へ近付けた。そのまま突然、追いかけっこが始まった。


 知識の無い霖雨は、鮮やかな色をした明らかな毒蛇に逃げ惑った。葵は持ち前の存在感の希薄さで姿を消した。そのまま三時間、山の中を延々と走り回ったのだ。降参だと倒れ込んだ霖雨の傍で、呆れたように和輝は溜息を零す。




「お前等、運動不足だろ。走らせようと思っていたんだよ」

「ふざけんな! 大体、葵は何処に行ったんだよ!」




 叫ぶと、茂みの奥から葵が現れた。何時もの涼しげな顔は崩れ、すっかり汗を掻いている。衣服に泥が着いていたので、こいつも転んだり滑ったりするのかなんて思っていた。


 葵は忌々しげに言った。




「追い掛けて来ないと思ったら、罠に誘い込んでいやがったんだ」




 吐き捨てた葵には、合掌するしかない。

 あの葵を罠に掛けるとは、この男は何者なのだろう。


 白い歯を見せて、和輝が子どもみたいに笑う。




「準備、大変だったんだぜ。御蔭でサバイバル技術が身に付いた」




 そんなことを言って、和輝が嬉しそうに笑う。自分達よりも確実に運動量が多い筈なのに、余裕に満ちている。


 驚異的な運動神経だ。霖雨は言葉を失くした。葵も流石に疲れたのか、その場にしゃがみ込む。


 和輝は大きく背伸びをして、茂みに隠していたらしいリュックサックを引き寄せた。




「昼食にしようぜ」




 中天に差し掛かる日差しは、恨めしい程、燦々と輝いている。霖雨は空腹を感じ、手を当てた。体中汗を掻いていて、今すぐシャワーを浴びたいと思った。


 高校時代の部活で慣れているだろう和輝とは違うのだ。けれど、和輝は気にする風も無く、猫だか熊だか解らない得体の知れないキャラクターのレジャーシートを広げている。薄ら笑いを浮かべるキャラクターが無数にプリントされている様は不気味の一言に尽きる。彼はセンスは良いが、好みがおかしい。


 重箱のような弁当を次々に並べ、手招きをする。一見すると可愛らしいのだけど、ファルクトレのような悪魔の追いかけっこを強制した男だと思うと、易々と招かれて良いものか躊躇する。


 弁当の中は、全体的に茶色っぽい。彩を気にする彼らしくないなと思っていると、タッパーを開けて瑞々しいサラダを用意した。流石に抜かりないが、弁当箱からは異臭が漂う。




「何を入れて来たんだよ……」




 観念したらしい葵が、靴を脱ぎ捨ててレジャーシートに座る。霖雨もそれに倣った。




「向こうに帰った時に、友達が彼方此方の珍味をくれたんだ」

「だからって、弁当箱に詰めて来るか?」




 葵が呆れたように言う。弁当箱の隅には、明らかに昆虫らしき脚が見えているが、見なかったことにする。


 海の幸、山の幸だと和輝が嬉しそうに言う。しかし、弁当箱の中身は黒魔術でも出来そうな不気味さだった。




「故郷の味を懐かしめよ」

「何処の故郷なんだよ」




 恨めしく言うが、和輝は気にしない。何時もの箸をケースに入れて持って来たらしく、自宅のように配布する。


 取り皿を配り、水筒から冷えた麦茶を入れる。甲斐甲斐しさに涙が出そうだった。これが訳の解らない追いかけっこの後でなければ。




「ほら、挨拶するぞ」

「はいはい」

「手を合わせろ。命を頂いているという感謝が足りない」




 節足動物を弁当箱に入れる男は言うことが違いますね。

 葵が皮肉っぽく言った。




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