10.閑話
⑴来訪者
Any fool can tell the truth, but it requires a man of some sense to know how to tell a lie well.
(どんな馬鹿でも真実を語ることはできるが、巧く嘘を吐くことは、かなり頭の働く人間でなければできない)
Samuel Butler
専攻する分野の専門書を夢中で読んでいたら、すっかり日が暮れてしまった。
夕日も沈んだ街の界隈は薄闇に包まれている。静かな街は現実感を喪失させ、逢魔が時を想起した霖雨は早足に帰路を辿る。
先日の殺し屋という招かれざる客は既に姿を消し、逮捕されたという情報も無いから、無事に逃げ果せたのだろう。妙な拾い物をしてトラブルを呼び込んだ自覚はあるが、結果として、彼が友人を救うことになったのだから、責められる謂れも無い。情けは人の為ならずという諺もあるくらいなのだから、多少のお節介は許されるだろう。
帰宅すると、リビングには既に明かりが灯っていた。チーズの焦げる香ばしい匂いが漂っていた。扉を開け放てば、ソファの前に鎮座するローテーブルにピザやパスタ等のイタリアンが彩り鮮やかに並んでいた。キッチンから顔を覗かせた和輝が、満面の笑みを浮かべている。
「お帰り、霖雨」
此方の張った予防線も障壁も、何でもないみたいに軽々と飛び越える青年だ。可愛らしい顔をして、あっという間に逃げ道を塞いで、その手を取る以外の選択肢を消してしまう。拒否出来ない絶対的な救いの手だ。
霖雨は応えた。
「ただいま」
霖雨の言葉を聞くと、和輝は嬉しそうに顔を綻ばせてキッチンへ引っ込んだ。
夕食は相変わらず豪勢だ。キッチンでは和輝は鼻歌交じりにホイップクリームを絞っている。白い円盤が作り物のような美しさで存在している。――ホールケーキだ。
「何それ。何でケーキ?」
「誕生日ケーキなんだよ」
「誰の?」
問い掛ければ、和輝は一寸だけ困ったように笑った。
真っ赤な苺を城壁のように並べ、中央には真っ白な砂糖菓子が飾られた。顔を洗う白猫だった。閉じた片目の反対側、猛禽類のような金色の瞳が嵌っている。それは件の殺し屋を彷彿とさせるので、縁起が悪い。
ミルクチョコレートで出来たネームプレートに、ホワイトのチョコペンを絞る。見た目にも可愛らしい和輝が制作しているから微笑ましいものの、葵が作っていたら誰を毒殺する気だと問い詰めたかも知れない。
ネームプレートには、Takumiと記されていた。
「たくみ?」
そのまま読み上げると、顔を上げた和輝が言った。
「俺の幼馴染。親友で、ライバルなんだ」
「ふうん。仲が良いんだな」
「そりゃ、ねえ。生まれた時から一緒だから」
生まれた時から一緒。その言葉に、霖雨は母国にいる双子の兄を思い浮かべた。生まれた時どころか、母親の胎内にいた頃から一緒だった。それなのに、霖雨には過去の記憶が無い。双子の兄の存在を霖雨が知覚したのは、高校生の頃だった。
思考が過去へ回帰し、気分まで沈み込んでしまいそうだった。霖雨は慌てて首を振った。話題を逸らすように、早口に言葉を繋ぐ。
「今は向こうにいるの?」
「そう、大学生」
和輝の幼馴染の大学生と言われて、想像する。この小さな同居人は、大概、頭がおかしい。常人の思考回路とは異なる。
高校球児として、最後の年には全国制覇まで果たしたという。そんな彼の幼馴染なのだから、会ったことも無いのに申し訳無いが、真面な人間とは思えない。
失礼なことをぼんやり考えていると、玄関で鍵の落ちる音がした。この家屋のオーナーのご帰還だ。和輝は完成したケーキをガラス細工のように冷蔵庫へしまう。添えられた可愛らしいメッセージカードには、ミミズののたくったような汚い字で『Don't touch me!』なんて書き込まれていた。
リビングを開けて、真っ先にキッチンへ侵入した葵が、換気扇の下に陣取る。ポケットから煙草を取り出して忙しなく火を点けるので、霖雨な何となく機嫌が悪そうだと察した。触らぬ神に祟り無しというくらいだから、放っておこう。キッチンから離れ、霖雨はソファに座った。
せかせかと煙草を吹かす葵に、何の邪気も無く和輝が問い掛ける。
「おかえり。辛気臭い顔してんなよ。何かあったの?」
我らがヒーローは、トラブルメーカーではない。藪を啄いて蛇を出す男だ。
葵は苛立ったように目を細めて吐き捨てた。
「お前に関係無いだろ」
「じゃあ、人前でそういう顔すんな」
「お前は良いんだよ」
それは許容ではなく、遠回しに『お前は人間と認めない』と言っているのだ。霖雨はそっと溜息を零す。
けれど、和輝はそうとは受け止めなかったらしく、嬉しそうに口角を上げる。前向きなのか、馬鹿なのか紙一重の男だ。
「夕飯、出来てるからな。それ吸ったら、さっさと手洗って来いよ」
「イタリアンの気分じゃねえんだよな」
「そういうことは、作る前に言え」
白い歯を見せて悪戯っぽく和輝が笑っていた。この男の沸点は高い。単純で熱血に見えて、冷静だ。感情的になることは、まず無い。
霖雨は、自分も手洗いが未だだったことを思い出す。洗面所へ向かおうとして、キッチンから出て来た和輝と鉢合わせた。見下ろす程の体格差だ。綺麗な旋毛が見える。自然と上目遣いになる青年が、思い出したように言った。
「明日から一週間、日本に帰るから。ちゃんと飯食えよ」
そういうことこそ、もっと早く言えよ。
返事をし損なった霖雨は、曖昧に頷いた。
三人分のコップに麦茶を注いだ和輝が、それを器用に運んで行く。突然の帰国だ。本当に何の前触れも無い。上機嫌でソファに座った和輝が、テーブル中央に置いたピザをカッターで切り分けている。
煙草を吸い終わったらしい葵が、先程よりも幾分か落ち着いた様子で言った。
「何しに行くの」
興味の欠片も無さそうに、葵が言う。振り返った和輝が答えた。
「墓参り。兄ちゃん達も帰って来るらしいし、折角だからね。友達にも会いたいし」
彼の帰国を待ち侘びている人は多いだろうなと、霖雨はぼんやり思った。問い掛けた癖に、葵は相槌すら打たず洗面所へ向かっていた。先を越された霖雨は後を追った。
洗面所では、水盤に向かった葵が液体石鹸を両手で泡立てていた。潔癖という訳ではないのだろうけど、几帳面だ。薬品棚が専門機関のように整頓されている様を見るに、彼はマメな人間なのだと思う。
泡を洗い流した葵が、両手で水を掬って嗽をする。口元に張り付いた水滴を拭い、葵は振り向いた。霖雨は透明人間のような葵を見て、そっと言った。
「帰国するなんて、突然だな」
「別に、報告する必要も無いだろ」
「そりゃそうだけど。前もって言えば良いのに」
「何の為に?」
「別に何をする訳でもないけどさ」
「じゃあ、別にいいじゃん」
どうでもいいと切り捨てて、葵はリビングへ戻っていった。
確かに、彼女もろくにいない成人男性三人が一戸屋根の下で暮らす、むさ苦しい生活だ。互いのプライベートに干渉するなんて薄ら寒い。けれど、何となく、言えば良いのにな、と霖雨は思った。
10.閑話
⑴来訪者
我らがヒーローは、予言の通りに帰国して行った。
家の中は何となく静かだった。無駄に存在感のある彼がいないと、何処となく寂しい空気が流れている。
葵は、ヒーローが最後に用意していった朝食を済ませると、早々に出掛けて行った。何処に行ったのかは知らないし、干渉する理由も無い。霖雨も朝食を済ませ、大分時間は早いが今日も大学院へ向かうべく支度をする。
玄関を開けた時、猫のような青年が立っていた。
獲物を狙う鋭い眼光と、警戒して様子を伺う様が正に猫に似ている。面食らった霖雨は咄嗟に言葉を詰まらせた。
猫のような青年は訝しげに此方を見遣り、問い掛けた。
「蜂谷和輝はいますか」
母国の言葉だ。
最近、何の因果なのか異国の地に関わらず、母国の人間と遭遇する。
霖雨は黙って首を振った。言葉が出なかったのだ。
猫のような青年は小首を傾げた。ポケットから丁寧に折り畳んだエアメールを取り出し、住所を確認している。きっちりと角を合わせて折られた手紙に、几帳面というよりも神経質そうな印象を受けた。綺麗に皺を伸ばされた手紙を差し出し、青年が問い掛ける。
「住所、合ってますよね」
殆ど否定を許さない強い口調だ。苛立っているようではないが、何となく、親しみ難い。警戒心を全面的に押し出している。
霖雨は手紙に書かれた住所を確認した。
確かに、現在地だ。それよりも、ミミズののたくったような文字に見覚えがあった。今朝早く帰国したヒーローの筆跡だった。
「住所は合ってます。……和輝の知り合いですか?」
「はい。あいつ、何処に行ったか解りますか?」
「帰国しましたよ」
「はあ?」
青年は眉を跳ねさせ、不機嫌そうに言った。責められても困るし、そんな謂れも無いけれど、居心地が悪い。
携帯を確認し、青年は大きく息を吐き出した。そのまましゃがみ込んでしまったので、同情してしまう。彼はきっと被害者だと漠然と理解した。神経質そうな鋭い眼光は、苦労して来た証なのだろう。そう思うと急に親近感を覚えて、霖雨は殊更優しく問い掛けた。
「何か御用ですか? 連絡入れて置きますよ」
「いえ、結構です。自分で言います」
しゃっきりと起き上がった青年が、不機嫌そうに目を細めて言った。
携帯を取り出し、青年が耳に押し当てる。呼び出し音が霖雨の耳にも微かに届く。小さな機械から、僅かに聞き覚えのあるヒーローの声がした。
青年は唸るような声で言った。
「おい、バ和輝。何処行ってんだ、テメー」
先程までの冷たく丁寧な態度は消え、慣れた間柄と解る乱暴な口調に変わる。携帯の向こうで和輝が何かを言っているが、聞き取れない。
「今日が何月何日か言ってみろ。先週、メール送っただろ。――はあ? 返事までして置いて、見てないなんて言い訳は通用しねぇんだよ」
手持ち無沙汰になって、霖雨は目の前で口喧嘩でも始めそうな青年を観察する。
初夏を迎えた界隈に似合う、爽やかな青のシャツを着ている。糊の効いたスラックスは埃一つ付いていない。年期の入っているだろうスニーカーは綺麗に洗濯されている。清潔感溢れる青年と自分を見比べ、別に不衛生な訳でもないのに、急に恥ずかしくなる。男の一人暮らしなんてこんなもんだろうと思うけれど。
「良いから、さっさと帰って来い。チケット? だから、今すぐ日付を確認しろっつってんだろ!」
何やら、事情が読めて来た。きっと、我らがヒーローは日付を間違えたのだ。
馬鹿らしくなって、霖雨は先程の青年のようにしゃがみ込みたくなった。額を押さえ、溜息を零す。怒鳴り付けた青年が丁度通話を終えた。というよりも、強引に終了させたようだった。
「――はあ。なんか、すみません。家の前で煩く騒いで」
「いや、大丈夫です。和輝、帰って来るって?」
「ああ、はい。あの馬鹿、日付間違えてんですよ。今、空港にいるみたいなんで迎えに行こうかと思います。今頃、大慌てで戻る支度してんじゃないですかね」
再び溜息を零した青年の口調はすっかり砕けている。和輝と知り合いだというので、苦労しているのだろうなと何となく思った。和輝は顔が広く、界隈に名前も知れ渡っている。その御蔭で訳の解らない犯罪組織に命を狙われたり、母国の殺し屋に助けられたりしている。
真面目そうな目の前の青年とは、どういう知り合いだろう。霖雨は問い掛けた。
「和輝の友達ですか?」
「あー……。友達というより、腐れ縁ですかね」
短い黒髪を掻き混ぜながら、青年が言った。如何にも釈然としない答えだ。
霖雨の不審を察したように、青年は名乗った。
「申し遅れました。俺は、白崎匠と申します。蜂谷和輝の幼馴染なんです」
幼馴染。
昨日の夜、和輝の作っていたホールケーキを思い出す。中央に座っていた白猫の砂糖菓子。目の前の青年は、あの猫にそっくりだった。
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