⑷ハヤブサ

 濡れたアスファルトを叩く乾いた音が反響する。

 身構えた神木葵が、庇うように蜂谷和輝の前に立つ。そんな彼等を後ろに、近江は闇の向こうをじっと見詰めていた。


 腹がじくじくと滲むように痛んだ。


 三日前、敵対する犯罪組織に雇われたヒットマンと近江は相対した。異国の地で命を狙われるとは思いもせず、命辛々逃げ出したのは事実だ。無用な諍いは避けるに越したことはないし、銃弾が勿体無いというのも本心だ。端金で雇われたフリーの殺し屋は執拗だった。要するに、近江は油断した。


 通常なら銃弾の届かないだろう場所まで避難した筈だった。けれど、奴はその距離をものともせずに狙撃し、着弾させた。素人ではない。人を殺す玄人だ。背中に隠した彼等が、勘違いしているならそれでいい。奴の狙いが誰だったかなんて、知る必要も無いのだ。




「やっと会えたな、ハヤブサ」




 その名に、背中で二人が訝しむのが解る。

 近江は苦々しく言った。




「何だか知らねーが、手を引け。一般人にまで手を出すんじゃねーよ」

「巻き込んだのは、お前だろ」




 闇の中に、くすんだ金髪が浮かぶ。濁った碧眼に何が映るかなんて、近江には興味も無い。


 男が銃口を突き付ける。近江もまた、鏡のように銃を向けた。


 肌を刺すような緊張感が張り詰める。一応、一般人の枠に収まるらしい二人が臨戦態勢を取る。怯えを見せるような可愛らしい神経はしていないらしい。それが可笑しかった。




「ハヤブサを追い掛けてみりゃ、噂のチビもいるし。一石二鳥だな」




 言い切ったと同時に、男の指が引き金を引いた。乾いた音が響き渡る。同時に、近江も発砲した。


 銃弾は弾け飛んだ。それを肉眼で追えなかったらしい男が怪訝に眉を寄せる。遠距離でターゲットを狙撃することに慣れた男には、この距離で外す理由が解らないのだろう。




「走れ!」




 近江が叫んだ。二人は男から逃れるように、闇の中へ駆け出した。


 男が舌打ちをする。その視線が闇に向けられた刹那、近江は発砲した。


 銃弾は男の眉間を貫いた。穴の空いた頭蓋骨がアスファルトに叩き付けられる。後方に倒れ込んだ男は動かない。脳漿が下水に流れ込む様を、近江は冷たく見下ろした。


 闇の中で、乾いた発砲音が続いた。近江は舌打ちをする。流石に一人ではなかったらしい。二人の無事を願いながら、近江は後を追った。


 目は闇に慣れている。水の流れさえ捉えられた。母国とは違い、広大で整備のされていない下水道は迷路と呼ぶに相応しかった。土地勘も無いだろう彼等がどのように逃げるのか等解らない。微かに聞こえる足音で判断するしかない。


 いたぞ。あっちだ。捕まえろ。――殺せ。


 罵声が響いている。近江は唇を噛み締めた。脳裏に過る二人の姿に、縺れそうになる足を必死で動かす。


 後方から声が響き、録に狙いも定めず発砲する馬鹿がいる。まるで当たらない銃弾はそのままに、近江は疾走した。傷口から血の滲む感覚がしたが、それどころではなかった。


 目の前の道が二つに割れている。所謂Y字路だ。

 右か左か悩み、耳を澄ます。


 足音は其処此処に反響し、最早誰のものなのか判別は出来ない。

 ふと見詰めた闇の先で、左右の道に一人ずつ男が転がっている。右手の男は仰向けに倒れ、両目を見開いている。左手の男は俯せであるが、微かに上下している。


 近江は、左手を選んだ。

 ヒーローが付いていながら、簡単に人を死なせるとは思えない。


 俯せの男を飛び越え、角を曲がる。途端、銃声が轟いた。待ち伏せされていたのだろう。銃弾が頬を掠め、右目を覆う眼帯を切り落とした。近江は舌打ちを漏らす。けれど、角の向こうで男達の悲鳴が聞こえた。顔を覗かせて見れば、神木葵と蜂谷和輝が男達を制圧していた。


 神木葵は振り上げた足を下ろし、忌々しげに溜息を吐く。息も絶え絶えな蜂谷和輝の首根っこを引っ掴んだ。




「お前は引っ込んでろ!」

「何でだ!」

「邪魔なんだよ!」




 状況が認識出来ているのか二人は言い争いを始める。仲が良いのか悪いのか解らない。


 その二人を狙う銃口が、近江の視界に映った。二人は気付いていない。近江は引き金を引いていた。


 殺された銃声が、まるで空気の抜けるような音となって響いた。余談だが、消音器は殺し屋のマナーだと近江は思っている。


 掴み合う二人の向こう、銃を構えた四人の男がゆっくりと崩れ落ちた。言い争っていた二人は沈黙し、息絶えた男達を一瞥すると、油の切れた機械のように近江を見た。




「あんた……」



 蜂谷和輝の大きな双眸に、眼帯の落ちた近江が映っていた。


 猛禽類を思わせる金色の右目。その下、紺色の鷹が翼を広げている。近江は大きく息を吐き出し、その場に座り込んだ。




「こんな時に、何を喧嘩してやがるんだ……」




 ぴんぴんしている二人に脱力し、近江は今更になって疲労を感じた。

 面目ないという表情を浮かべる蜂谷和輝に対し、神木葵は近江の右目を見ていた。




「噂は、聞いたことがある。最速を謳われる伝説のヒットマン、ハヤブサ……」




 神木葵が目を丸くしているので、珍しいものを見たような気になる。近江は立ち上がった。


 小首を傾げる蜂谷和輝は何処かあどけなく、赤子が生命維持の為に大人の庇護欲を掻き立てる様に似ている。放って置くことに罪悪感を覚えるような、何かを超越した空気を持っていた。


 神木葵は絶命した男と近江を見遣り、言った。




「噂は本当だった訳か。母国の英雄に逢えて、嬉しいよ」




 演技掛かった動作で、神木葵が右手を差し出した。釣られるように近江も右手を差し出し、何故か握手する。


 蜂谷和輝は子どものように目を輝かせているので、居心地が悪い。そんな期待に満ちた目を向けられても、何も応えられない。真正面から賞賛されると照れ臭さもあって素直になれないのは、大人の性なのかも知れない。神木葵も思うところがあるのか、苦笑いをしていた。




「あの一瞬で、よく彼処まで正確に撃てるな。素直に賞賛するよ」

「そりゃ、どうも」




 彼等の雰囲気に惑わされてしまうが、環境は最悪だ。真夜中の下水道に死体が幾つも転がっているのだ。


 近江としてはこのまま遁走したいところだが、そうは行かないのだろう。尊敬の眼で見詰める蜂谷和輝が、この場から逃げることを許さない。傍らで神木葵は携帯電話を取り出していた。




「電波はあるな。じゃあ、もうすぐか」




 意味深な発言だ。追求しようとした近江の耳に、微かなサイレンが聞こえた。


 警察だ。近江は肩を跳ねさせた。


 神木葵は口元に微かな笑みを浮かべて言った。




「犯罪組織に目を付けられているこいつが、警察に覚えられていない筈無いだろ。もうすぐ、FBIが到着するぜ」

「FBI!?」




 声を上げた近江に、神木葵が悪戯っぽく嗤う。




「霖雨が通報したんだ。位置情報はあいつに送られている」




 携帯電話を翳す神木葵は、何処か嬉しそうだった。


 ちぐはぐで、不格好で、不明瞭な三人組だ。けれど、彼等は何故か正義の五人組を思わせる抜群のチームワークがあるようだ。近江は苦笑した。




「良い仲間じゃないか」

「大切な友達だよ」




 蜂谷和輝が、迷い無く言う。

 そういう真っ直ぐさが眩しいのは、自分が年老いたせいなのだろうか。近江は目を細め、並び立つ二人を見た。




「じゃあ、俺はさっさと逃げるとするか」

「逃げられるかな、このFBIの包囲網を」




 助けてやったのに、なんて言い草だ。

 飄々とした神木葵を、近江は忌々しく思う。けれど、こんな安い挑発に乗る程、自分はもう若く無い。




「逃げ切るさ。ハヤブサは最速のヒットマンだぜ?」




 神木葵が不思議そうに片眉を跳ねさせる。近江は笑った。


 蜂谷和輝が蕩けるような笑顔を浮かべた。闇の中にいても尚、其処にいると解る強烈な存在感を放っている。まるで光源だ。眩しくて堪らない。




「近江さん、助けてくれてありがとう」




 本当に、この男は如何しようも無い。

 真っ直ぐにぶつかって来て、簡単に逃げ道を塞いでしまう。


 その内、神木葵も全ての逃げ道を塞がれるのだろう。

 そうして、彼の手を取る以外の選択肢を失ってしまうのだ。それは遠くない未来のことなのだろう。


 近江は癖の無い丸い頭を撫でた。




「常盤霖雨にも宜しく」

「伝えて置きます」

「じゃあ、またな」




 サイレンの音が近付いている。手触りの良い髪から離れ、近江は闇の中へ消えて行った。 









 9.母国の英雄

 ⑷ハヤブサ









 地上へ這い出ると、霖雨が待っていた。

 パトカーの犇めく界隈は騒がしく、野次馬の群れが形成されている。


 子犬が飼い主へ駆け寄るように、霖雨の側に向かう和輝を、葵はぼんやり眺めた。下水道の臭いが移ってしまったらしく、霖雨が鼻を摘んでいる。和輝が構わず駆け寄るので、追いかけっこのようになっていた。


 葵が側に寄ると、霖雨が盛大に顔を顰めながら言った。




「お前等、臭い。さっさと風呂入れよ」

「うるせーな。自分が一番解ってんだよ」




 言い返すが、霖雨は掌で臭気を散らすように仰いでいる。


 鼻を摘みながら、霖雨が問い掛けた。




「近江さんは?」



 この場にいない殺し屋の姿を探し、霖雨の視線が泳ぐ。本当にFBIの包囲網を突破したらしい。


 下水道の臭気を纏いながら野次馬の群れに溶け込んだとも思えない。もしかすると、今も地下の迷路を駆けずり回っているのかも知れない。ハヤブサの名に似つかない不格好さだ。

 だが、それが彼らしいとも思う。




「またな、って言ってたぞ」

「うーん。会いたいような、会いたくないような」




 彼に会う時があるならば、それはきっと訳の解らないトラブルに巻き込まれた時だ。そう思うと頭が痛い。眉間を揉む霖雨の肩を和輝が叩く。嗅覚が麻痺したのか、霖雨は最早文句も言わない。




「まあ、良いか。帰ろうぜ」




 今日は霖雨は夕食を用意してくれたらしい。素直に喜ぶ和輝が小躍りしている。


 ポケットに片手を突っ込んで歩き出す霖雨の後ろを、和輝が追い掛ける。目の前には明確な境界線があることを、葵は知っている。彼等と自分は別の生き物だ。


 立ち止まっていると、気付いた和輝が振り返って戻って来た。彼は何時もそうだ。前を見据えながら、進み続けながら、絶対に置いては行かない。




「葵?」




 霖雨もまた同じだ。諦め許容する癖に、本当に大切なものを見失わない。帰るべき場所を何時だって示してくれる。


 良い友達だと、良い仲間だと、あの殺し屋が言った。人殺しとは思えないくらい、明るく優しい男だった。




「俺はさ、世界中の人間から死を望まれていると思っていたんだよ」




 和輝が眉を寄せた。けれど、葵は続けた。




「育ての親である刑事に、サイコパスだと言われた。サイコパスは社会の捕食者だ。そう思うのも、無理無いだろう?」




 どうか笑い飛ばしてくれと願いながら、彼等が聞き入れることを知っている。

 こんな救いの無い願いを、祈りを聞き入れてくれる。




「でも、お前等と出会って、変わった。必要だと、生きていて欲しいと言ってくれた時、救われたんだよ、きっと」




 和輝が危険を顧みず手を伸ばして、嘘で躱す自分へ何時でも全力でぶつかって来た。

 霖雨が大嫌いな暴力を奮ってでも間違いを正し、それでいいよと許容してくれた。




「世界中の誰が否定しても、たった一人でも肯定してくれたなら、俺はそれで良いと思った。ーーそれで、いいじゃん。馬鹿みたいだけど、俺にとっては最高の言葉だ。お前等に出逢えて、良かった」




 こんなことを言う柄ではない。けれど、口にしなければ伝わらない。伝わらなければ、消えてしまうものがある。

 自己満足だった言葉に、和輝が泣き出しそうに笑った。




「届いたよ」




 何が、なんて問う必要も無い。

 和輝は縋るように葵の両手を取った。伸ばしていた手は、漸く届いたのだ。それを噛み締めるように、和輝の手に力が篭る。


 霖雨もまた、くしゃりと顔を歪めて笑った。




「お前は素直じゃないね。――助けてくれ、の一言が言えなかったんだねえ」




 許容するように、霖雨が言う。




「誰だって、どんな自分も好きになれる訳じゃないよ。許せる訳じゃない。だから、誰かに受け入れて欲しいんだろ」




 それでいいよ。

 二人が笑う。


 此処には境界線がある。決して超えることの出来ない断崖絶壁だ。

 けれど、互いに手を伸ばし続ければ、何時か届くのかも知れない。


 信じることを止めなければ、叶うのかも知れない。

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