⑶境界線

 汚れた路地裏に、捨てられた不用品みたいに小さな青年が蹲っていた。


 危うく見逃すところだったと、近江はその側に膝を着く。

 自分より先に出た筈の神木葵は未だ到着していなかったらしい。恐らくGPSを使用したのだろうけれど、追われる彼がわざわざ居場所を教えるようなものを携帯して逃げる筈も無い。今頃、彼の友達は棄てられた携帯電話に行き着いただろうか。近江は小さく息を吐き出した。


 蜂谷和輝、二十歳。

 大人と呼ぶには、未だ、幼い。置いて行かれた迷子みたいだな、と思った。


 顔を上げない蜂谷和輝に、近江は眉を寄せる。まさか、怪我でもしているのだろうか。そっと手を伸ばし触れた肩が、燃えるように熱かった。彼は母国で高校生の頃、刑事事件に巻き込まれて再起不能の怪我をしている。ぶり返したのだろう。両目は固く閉ざされ、開かれる気配も無い。



 もう日は沈み、街は顔を変えている。万人に愛されるヒーローが太陽ならば、此処はもう彼の住むべき世界ではない。秩序の死んだ夜の街は、自分達のものだ。


 彼方此方でアスファルトを叩く音がする。此処に来るまでに、如何にも不良という風体の少年達を何十人も見掛けた。犯罪組織の出した端金に釣られた愚かな人間達だ。その端金で、人間は簡単に良心を捨て、道を踏み外す。




「そういう奴等の為に、君みたいなヒーローがいるのにな」




 神木葵の話を思い出す。救う人間がいれば、奪う人間もいる。この世界は需要と供給で成り立っている。どちらが悪いかではなく、どちらも必要なのだ。善悪は多数決で決まる。自分のように供給する人間が少ないから、世間一般では悪と呼ばれるだけのことだ。


 意識の無い蜂谷和輝を見下ろす。外傷は無い。疲労だろうか。この状況で眠れる程に神経が太いのか、余程疲れているのか。そういえば、自分のことを徹夜で看病してくれたと言っていた。そのまま訳の解らない逃走劇なのだから、疲労困憊になるのも仕方無いのだろう。


 小さな身体を背負うと、想像以上に軽くて驚かされる。巷で噂のヒーローを担いでいるとは、思えない。


 その時だった。正面を立ち塞ぐように、汚れた少年達がずらりと並んだ。




「見付けた」




 褐色の肌の少年が、愉悦に口角を釣り上げている。堅気の生き方を捨て、裏社会で生きることが偉いと勘違いしている馬鹿な子どもだ。

 鈴生りに愚かな若者が喜色に満ちた笑みを浮かべている。




「そいつを寄越せ」




 近江は鼻を鳴らした。質で勝負出来ないから、数で対抗しようとしているのが丸解りだ。塵も積もれば山となると言うけれど、それは誤りだ。塵は積もったところで塵の山で、本物の山脈には敵わない。


 じりじりと距離を詰める少年達は、何を警戒しているのか様子を伺っている。強気な物言いと臆病な態度がちぐはぐで滑稽だった。


 蜂谷和輝を背負ったまま、近江はそっとポケットへ手を伸ばす。その時だ。


 路地裏の壁を成していた廃墟から、猫のように人影が舞い降りた。重力を受けた影が、先頭の少年の首筋へ踵を叩き込む。下手をすれば首の骨を折る強烈な一撃だった。鈍い音がして、その黒目が消える。そのまま前方へ倒れ込んだ少年に周囲が悲鳴を上げた。

 突然降って沸いた災難ーー。透明人間と呼ばれる神木葵が、胡乱な眼差しで立っていた。


 彼の苛立ちが、近江には解る。それを隠す気も無く、殺気として放つ様が若いな、と感じられた。


 動揺は恐怖に代わり、興奮を齎す。少年達は怯え、各々手にした武器を掲げる。神木葵は顔色一つ変えないが、流石に多勢に無勢だ。彼なら首を切り落とされても、敵に喰らい付くのだろう。けれど、それでは何の意味も無い。


 近江はポケットから取り出した装置を、地面に落下させた。途端、界隈は白い煙に覆われた。


 激しく噎せ返る少年達の中、臨戦態勢を解かない神木葵の腕を掴む。煙に乗じて一人二人殺そうという物騒な顔付きだった。近江はその腕を引いて走り出した。








 9.母国の英雄

 ⑶境界線









 時刻は既に真夜中だ。水音の反響する下水道は、その性質故に酷い腐臭を放っている。


 近江は蜂谷和輝を背負ったまま、先導する。後ろに続く神木葵は何も言わなかった。ただ、ぴりぴりと肌を刺すような殺気が漏れている。

 殺し屋には向かないな、と呑気に思った。


 神木葵の変貌には少なからず驚かされた。彼の生い立ちを知っている。その性質も解っている。だからこそ、感情を爆発させたように衝動的になる姿なんて想像も出来なかった。


 黙って付いて来ていた神木葵が、後ろで言った。




「如何して、殺さないんだ」




 何の感情も孕まない淡白な声だ。先程の激情は既に収まったのだろう。


 彼は地雷と同じだ。埋まっているだけならば、何の問題も無い。ただ、それを踏んだ瞬間、全てを呑み込んで爆破する。そういう危険性を秘めている。近江は、仕事柄、そういう人間に出会うことがある。彼等は人間と物の区別が付かないのだ。だから、何が間違っているのか解らない。




「殺す必要無いだろ」

「如何して? 後が楽じゃないか」




 神木葵の言い分も、理解出来る。

 殺せば楽だ。当たり前だ。


 彼の中では既に答えが出ているのだ。それでも、指先一つで人を殺せる銃器を携帯することもなく、たった一人友達の為に丸腰で駆け出した意味が、自分でも解らないのだろう。




「銃弾が勿体無い」




 近江が言うと、神木葵は納得したようだった。


 一休みしようと提案すれば、神木葵は従った。先程までが嘘のような従順さだった。


 今も眠ったままの蜂谷和輝を一瞥する。




「こいつ、良く寝るな」

「以前、睡眠薬を呑ませたことがあって、その後遺症なんだよ」

「はあ?」




 意味が解らなかった。同居人に睡眠薬を呑ませるという状況が、普通に考えれば有り得ない。


 神木葵が煙草を取り出し、火を点けた。勧められるまま、近江も一本咥える。湿気を帯びた下水道に、白い紫煙が漂った。慣れた煙草の匂いは、汚臭の中に消えていった。




「人を殺す時、何を考える?」

「そうだなあ。俺も何時か、こうして死ぬんだろうなって、思うよ」

「ああ、そうだろうね」




 紫煙を吐き出しながら、神木葵が同意する。なんというか、掴み所が無い。

 近江はぼんやりと汚水の滴る背景を眺めていた。相変わらずヒーローは目覚めないし、神木葵は無表情だ。




「如何して、殺し屋なんてやっているんだ?」

「親が殺し屋だったから、そのまま」

「つまんない人間だねえ」




 嘆くように、神木葵が言った。

 一々、人の神経を逆撫でする男だ。

 こんな男と同居しているという蜂谷和輝や常盤霖雨は、普段どんな会話をしているのか気に掛かる。




「じゃあ、お前は?」




 訊けば、神木葵は首を傾げた。その問い掛けは、暗に『お前も人殺しだろう』と言っている。けれど、彼は気にしないのだろう。如何して人を殺してはならないのか、解らないからだ。


 彼のような人間を、サイコパス、と呼ぶのだ。社会に於ける捕食者だ。




「別に何も。だって、仕方無いじゃないか。邪魔だったんだから」




 そうだ。

 彼にとって、人の命は物と同じなのだ。邪魔だから捨てるように、邪魔だから殺す。その程度の価値しか見い出せない。全てではなくとも、近江にはそれが解る。殺し屋なんて謳われるが、所詮は人の命を金に替える薄汚い殺人鬼だ。


 けれど、神木葵が今も其処で踏み止まっている理由も、解る。




「殺したことを、後悔しているんだろ」




 言えば、神木葵は力無く笑った。




「こいつ、俺が人を殺そうとすると、必死に止めるんだよ」

「そうか」

「俺が人を殺せば、それが辛いみたいな顔をする。その癖、何度も止めようとする。馬鹿みたいだろ」

「ああ」




 そういう人間の為に、ヒーローがいるのだ。近江は思う。

 神木葵は大きく息を吐き出し、言った。




「狸寝入りは止めろ。悪趣味だぞ」




 その途端、眠っていた筈の蜂谷和輝の肩が震えた。そろそろと瞼が押し上げられ、大きな瞳が闇の中で神木葵を捉える。目を奪われる程の強烈な存在感だ。犯罪組織に目を付けられる訳だと、近江は納得した。


 蜂谷和輝は微睡んだ目で、神木葵を見遣った。




「上手く説明出来ないけど、人を殺して欲しくないんだよ。だって、罪を犯せば罰せられるだろう。そうしたら、お前は遠くに行ってしまうだろう。……命が大切とか、誰かが悲しむとか、そんな格好良いことは言えないよ」




 近江は笑った。弱り切った様が、捨てられた子犬のようだった。


 美しい言葉や綺麗な理由じゃなく、ただのエゴだ。万人に受け入れられる言葉ではない。けれど、目の前の神木葵を救う、最大の願いだ。彼はその為に、何度でも手を伸ばすのだろう。


 不貞腐れたように、神木葵が言う。




「そんなこと、誰も望んでねーだろ」

「だから、俺の勝手な思いだよ。自己満足だ」

「馬鹿みてー」




 吐き捨てるように、神木葵が哂った。頭を抱え、蹲る。それは、子どものようだった。


 神木葵には、解らないのだ。だから、悩む。今、此処にいるヒーローは、彼にとって最後の救いの手だ。彼もそれを知っているから、自身の危険も顧みず助けに行くんだろう。ヒーローは何度でも手を伸ばすけれど、不死身ではない。そんなこと、神木葵自身が一番よく知っている筈だ。




「正論イコール正解じゃない。でも、結局最後は、正論に行き着くんだよなあ」




 それは、そうだ。

 善悪なんて多数決だ。彼は未だ解らないのだろう。


 世界には明確な善悪が存在していて、自分が未熟だから理解出来ないだけだと信じているのだ。その曖昧さに気付いた時、彼は絶望するのだろうか。それでも、前を向いて生きて行けるのだろうか。


 会話は途切れ、沈黙が幕のように降りて来た。近江は懐の銃を取り出す。下水道の奥、闇に沈んだ彼方から微かな殺気が漏れている。神木葵も、蜂谷和輝も気付いていない。近江が拳銃を取り出したことに、怪訝そうに眉を寄せるだけだ。




「良い友達じゃないか。大切にしろよ」




 我ながら親父臭い台詞だ。

 彼等は揃って微笑んだ。


 考え方も価値観も、生き方も何もかもが違うのに、同じものを見ている。そういう関係が此処にある。


 例え自分が薄汚れた殺人鬼であっても、守ってやりたいと、思う。

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