⑵需要と供給
街の界隈がオレンジ色の夕日に照らされる頃、霖雨は帰宅した。
彼は如何なっただろうとリビングに続く扉を開け放つと、ソファの上で眼帯男がジャージ姿で胡座を掻いていた。切れ長な目が霖雨を見る。鋭い眼光に思わずたじろぐが、キッチンから和輝が顔を覗かせたので如何にか踏み留まることに成功する。
「おかえり」
「あ、ああ。ただいま……」
そのままリビングへ入る度胸は無いので、手を洗う振りをしてキッチンへ逃げ込んだ。和輝は何時ものように穏やかな微笑みを浮かべている。その両手には山盛りの大学芋が皿に載せられ、湯気を昇らせている。
そのまま眼帯男の傍まで行くと、和輝は言った。
「おい、詰めろよ。座れねーだろ」
砕けた物言いに、眼帯男が素直に従った。猛獣使いのようだ。
キッチンのカウンター越しに二人を観察する。和輝は黙ってフォークを手渡し、眼帯男はそれを受け取る。阿吽の呼吸は、まるで熟年夫婦のようだった。揃って手を合わせ、大学芋を食べ始める。時刻は午後三時、おやつの時間だった。
「おお、美味いな」
「だろ? 蜂蜜も水飴も無いから、醤油と砂糖で作ったんだぜ。でも、十分美味いだろ」
「大学芋って、作るの面倒臭そうだよな」
母国の言葉だった。親しげに話す二人は間違いなく、初対面の筈だった。自分が大学へ行っている間に何が起こったのだろう。霖雨は理解の追い付かない状況に額を押さえた。
大学芋を咀嚼しながら、和輝が思い出したように言った。
「あ、お前、挨拶しろよ。あいつが、お前のこと見つけてくれたんだぞ」
「そうなの? サンキュー!」
軽い。
思わず殴りたくなる軽さだ。
眼帯男が振り返り、満面の笑みで礼を言う。誠意が感じられないとかそういう問題ではない。道端に落としたハンカチを拾って貰ったような軽さだ。少なくとも、命の恩人に対する礼ではない。
そんなことに腹を立てはしないけれど、謎に包まれた眼帯男の意外な中身に落胆する。
眼帯。男は未だ、血の付着した眼帯を装着している。それが意外だった。
「俺は近江哲哉。二十七歳。殺し屋だ」
宜しくな!
人懐こく笑う近江に、霖雨は一瞬言葉を失った。
何でもない顔をして、この男、今何て言った?
「こ、殺し屋って?」
「依頼を受けて、人を暗殺する簡単なお仕事だよ」
頭が痛い。目眩がする。自分は夢でも見ているのだろうか。
軽快に笑う男は、自分が殺し屋だと言って憚らない。
普通、そういうことは隠して置くのではないだろうか。
全然一般人ではないじゃないか。
此処にいない葵に文句をぶつけたい。和輝はこの状況をどのように捉えているのか、普段と変わらない自然体で、まるで古い友達みたいに近江と接している。
どういう状況なんだ。
「助けてくれたお礼に、依頼があれば安くしておくよ」
「いや、結構だ……」
殺し屋のイメージが崩れていく。寝ている時は、ゴルゴ13みたいなハードボイルドな雰囲気を醸し出していたのに、意識を取り戻したら、コメディみたいな軽快さだ。何処からが冗談なのか解らない。
「ちょっと身辺騒がしくなって来たから、海外逃亡していたんだよ。まさか、あいつ等がこっちまで追い掛けて来るとは思わなかった」
ちょっとコンビニに牛乳買いに来た、みたいな軽さだ。命を狙われて、生死の境を彷徨った直後とはとても思えない。
和輝が隣で笑っているのが、意味不明だ。何でこの状況に付いて行けるんだ。自分がおかしいのだろうか。
「普段は日本で活動しているんだ。こっちには知り合いもいないから、本当に助かったよ。ありがとうな」
白い歯を見せて子どもっぽく笑う近江に、自分は本当にこの男を助けて良かったのだろうかと疑問すら抱く。あのまま捨て置いた方が世の中は平和だったのかも知れない。
「殺し屋って、隠さなくていいのか?」
「いや、もうバレてたし」
なあ、と近江は同意を求める。和輝は頷いて言った。
「左手の指に肉刺があった。慢性的に銃器を使用している証拠だ。問い詰めたらあっさり、フリーの殺し屋だって白状したんだよ」
「隠す理由も無いしな。むしろ、仕事に有り付けるかも知れない」
「貪欲だなあ」
「嘘を吐いたら、余計な誤解を生むような気がした」
近江が笑った。その時、音もなくリビングの扉が開け放たれた。
「ただいま」
霖雨は肩を跳ねさせた。相変わらず、存在感の無い葵が立っていた。
和輝と近江が揃って「お帰り」と笑う。
何時の間にか懐に入り込んでいるところが恐ろしい。葵は、目を覚ましている近江を怪訝に見遣って言った。
「なんだ、死ななかったのか」
酷い言い草だ。
冗談や軽口の類ではなく、思ったことをそのまま口にしているのだ。
近江は「酷い奴だな」なんて笑っているが、死に掛けていたことを知っている身としては、笑えない。
霖雨は逃げるように葵の側に寄った。葵は鬱陶しそうに眉を寄せた。
「こいつ、殺し屋って……」
「うわあ、出たよ、トラブルホイホイ」
殺し屋と名乗る近江ではなく、トラブルを呼び込んだ自分に辟易している。
何でだ。
霖雨は頭を抱えた。
9.母国の英雄
⑵需要と供給
バイトに行って来る。
当たり前のように出掛けて行った和輝を見送る。
何て事の無い日常だ。この部屋に、殺し屋がいなければ。
今もソファで寛ぐ近江は、昨夜、葵が広げていた新聞を熱心に読み込んでいる。情報収集でもしているのだろうかと霖雨は警戒していた。こんな状況に逸早く反応しそうな葵は既に飽きてしまったのか、何時もの指定席でノートPCを見詰めている。会話一つ無い家の中はテレビが騒ぐだけだ。霖雨は和輝が淹れてくれたコーヒーを啜った。
何なんだ、この状況は。
一人、置いて堀の霖雨だけがそわそわと浮き足立つ。顔も上げずに葵が言った。
「みっともないから、早くトイレ行けよ」
「違う!」
声を上げれば、近江も視線を向けた。
血の付着した眼帯をそのままに、切れ長の美しい目でぱちくりしている。
「こんな状況で良く落ち着いていられるな!」
「何をビビってんだよ」
漸く顔を上げた葵が、面倒臭そうに溜息を吐いた。
「殺し屋だぞ?」
「それが如何した。命を救う人間がいれば、奪う人間もいるだろうさ。病院が運営されるように、人を殺す仕事だって需要があるんだ。需要があれば供給される。普通のことだろ」
「そういうことじゃない!」
「殺し屋なんて、健全な仕事じゃないか。少なくとも、理由無く人を殺す快楽殺人者よりはまともで、安全だ」
平然と葵が返すので、霖雨は納得し掛ける。慌てて頭を振って否定するが、葵はまるで可哀想なものを見るような目をしていた。
渦中の人物である筈の近江が言う。
「そうそう。何も、取って喰いやしねーよ」
「お前は黙ってろ!」
思わず怒鳴れば、怖い怖いと近江が大袈裟に肩を竦める。自分がおかしいのだろうか。霖雨は肩を落とした。
葵はノートPCを閉じて溜息を吐いた。
「少なくとも、この男自体に危険は無い。殺意が微塵も無いし」
「そんなこと、解らないだろ」
「殺す気なら、とっくにやってるさ。お前が生きていることが、何よりの証拠だろ。人類最弱の雑魚なんだから」
葵の容赦無い罵倒は、気を許している証だ。というか、葵は常々自分のことを人類最弱の雑魚と評価していたのかと怒ればいいのか、嘆けばいいのか解らない。
遣り取りを聞いていたらしい近江が、嬉しそうに言った。
「君達、仲が良いねえ。如何いう関係?」
「ただの同居人とオーナーだ」
即答した葵に、近江がますます声を立てて笑う。とても、裏稼業の代表格である殺し屋とは思えない。
けれど、そういうものなのだろうと霖雨は心の何処かで納得する。死神が、醜い容姿をして汚い路地裏にいるとは限らないのだ。綺麗な顔で、一般人と同じように日の下を歩んでいるのだろう。そうでなければ、仕事も成り立たない筈だ。毒されて来たとは思いたくないが、霖雨もこの非日常に慣れつつあった。
葵が言った。
「あんたのこと、調べたよ。殺し屋ってのは、本当みたいだな。一応実績もあるみたいだし」
「まあね」
「あんたを狙った組織とは、蹴りが着いたのか? この場所が危険に晒されるのは、困るんだ」
近江は逡巡するように首を傾げた。
「まあ、ある程度は、落ち着いたんじゃないかな」
「狙撃されたんだろ」
「よく解るな」
感心したように、近江が言った。葵は答える。
「うちの、自称一般人のクソガキが、そう言っていたよ。肉眼では捉えられない距離から狙撃されて、致命傷を負いながらも命辛々逃げ延びたんだろうって」
「すごいな、その自称一般人のクソガキは」
可笑しそうに近江が言う。和輝の推測が当たっていたことに、霖雨も僅かばかり感動を覚えた。
その時、近江がポケットを探った。発見当初の安っぽいスーツは洗濯だ。銃弾による穴が空いていたが、修復可能なのかと霖雨は疑問に思う。ジャージのポケットから出て来たのは黒い携帯電話だった。俯いた近江の顔は、血の付着した眼帯のせいで見えない。けれど、近江の言葉に霖雨は黙るしか無かった。
「その、件のクソガキ、危機に晒されているぞ」
「はあ?」
声を上げた葵が、そのままノートPCを開く。互いにディスプレイへ目を向けていた。
「本当に一般人なのかよ。犯罪組織から、依頼が出てるぞ」
その言葉に、葵が舌打ちをして立ち上がった。
またも状況に付いていけない霖雨は狼狽する。
「なんだよ、如何いうこと?」
「和輝を狙う犯罪組織なんて、一つしか無いだろ。そいつ等が殺し屋に出す依頼も、一つだけだろ」
吐き捨てるように言って、葵は乱暴にノートPCを閉じた。そのまま家を飛び出そうとする背中に、近江が投げ掛ける。
「俺も行くよ」
「何のつもりだ。恩を仇で返すのか」
「いいや、徹夜で看病して貰ったし、大学芋も美味かったからね」
勝手にしろ。
葵が駆け出した。
取り残された霖雨は、ゆっくりと腰を上げる近江を見ていた。
和輝の幼馴染のものだというジャージを脱いで丁寧に畳むと、ソファの影から洗濯済みのスーツを広げる。血のこびり付いたYシャツは流石に処分したようで、真新しいそれを丁寧に着込んで行く。汚れていたスーツも、新品みたいに糊が効いていた。
ジャケットを眺め、近江が言った。
「何、あの子。本職はクリーニング屋さんなの?」
「フリーターだよ、今は」
もしかしたら、そういう経歴もあるのかも知れないけど。
そんなことを思いながら、霖雨は言った。
笑いながらジャケットを着込んだ近江は、昨夜のボロボロの姿が嘘のように凛々しく見える。ジャージの中から一つの黒い鉄の塊を取り出し、内ポケットへ移す。それは確かに、拳銃だった。何でもない顔をして、この男は銃を携帯していたのだ。そういう雰囲気すら感じさせないことが、殺し屋たる所以なのかも知れない。
着替えを終えた近江が、霖雨へ向き直る。
「俺のこと拾ってくれて、ありがとう。命の恩人だ。俺は、恩は返すよ」
「止めろよ、死亡フラグだぞ」
「おっと」
けろりと、近江が笑った。霖雨もまた、笑う。
得体の知れない不思議な男だ。
謎ばかりなのに、何故か心を許したくなる。絆されていると解っていても、それでいいかと納得してしまう。
「和輝のこと、頼んだ」
殺し屋に人助けというのも、滑稽な話だ。
けれど、近江はしかと頷いた。
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