9.母国の英雄

⑴不審者

 Dare to wear the foolish clown face.

(あえて愚かなピエロのお面を付けるのさ)


 Frank Sinatra








 汚れた猫が歩いて行く。寝床へ帰るのか、餌を探しに行くのか。


 既に日の落ちた街道に人気は無い。疎らな外灯の下で濡れたアスファルトがオレンジ色を反射している。帰路を急ぐ霖雨は、ひっそりと静まり返った街を息を殺して進んで行く。


 自分が変質者に目を付けられ易いことは重々承知だ。そして、自分が窮地に陥れば、自身の危険も顧みず助けに来る馬鹿なヒーローがいることを知っている。自分が危機に晒されるだけならまだ救いがあるが、他者を巻き込むことは堪らない。


 夜になると雰囲気が変わるのは、母国も異国も同じようだ。怪物の口のように闇の色を濃くする路地裏では、如何にも不審な人物が周囲へ眼を光らせている。売女は衣服を崩して通行人を窖へ淫らに誘い込もうとしている。霖雨は、今歩いている場所が切り立った崖を進む一筋の道のように感じていた。一歩踏み外せば千尋の崖へと墜落し、二度と這い上がっては来られないのだ。人生とは、綱渡りなのだろう。


 同居人からの連絡が入ったのは随分と前だ。今頃就寝の準備をしているだろうか。夕食は取って置くと言っていた。


 大学の講義が長引いて、アルバイトに遅刻して、何時もは閑古鳥の無く書店が何故だか妙に忙しかった。ドミノ倒しみたいに帰宅時間が遅れてしまったので、霖雨としても今日は何となく忙しなかった印象だった。通り過ぎていく野良猫のゆったりとした足取りが恨めしいくらいだ。


 少し先を歩く猫が、ふと足を止めた。漆黒に染まる路地裏をじっと見詰めている。


 猫には霊感があるという何の根拠も無い話を、思い出した。秘密の話を告げるように口角を釣り上げて言ったのは、故郷に残して来た友人だったように思う。下らないと思うが、目の前にいる猫には確かに、自分に見えない何かを察知しているようだった。背筋に何か冷たいものが走り、霖雨は見なかった振りをして傍を通り抜けようと急いだ。


 猫が鳴く。何かを訴え掛けるように、その二つの金色の瞳は霖雨を見ていた。金縛りに遭ったように、霖雨は足を止めた。視線は闇に沈む路地裏へ向けられる。何かが、横たわっていた。


 四肢を投げ出して寝転ぶ様は酔っ払いのようにも見える。けれど、雨上がりのアスファルトを染める闇色の液体に、霖雨は悲鳴を上げそうになった。


 死体だ。人が、死んでいる。


 この年になると、人の死に触れる機会も増えて来る。それでも、通り過ぎようとした路地裏に見知らぬ人間が血溜まりの中で死んでいれば、呼吸の仕方も忘れるというものだ。事故ではなく、何かの事件だ。悲鳴ごと息を呑み、霖雨は咄嗟に一歩後ずさった。あれ程存在した不気味な浮浪者も何時の間にか消え失せ、此処が切り取られた別世界、パラレルワールドなのではないかと錯覚してしまう。


 その場に縫い付けられたように霖雨は動けなかった。こんな時、臨機応変に人命救助へ動き出せる和輝の度胸や、何も無かったように通過出来る葵の器用さが羨ましい。身動き一つ出来ず凍り付いたままの霖雨の耳に、微かな呻き声が届いた。それは横たわる影から発せられている。


 こんな時、葵なら如何するのだろう。それでも見なかった振りをするのだろうか。面倒だからと止めでも刺して帰るのかも知れない。


 彼等のようになれない霖雨は、ぎゅっと唇を噛み締め、覚悟を決めて路地裏へ足を進めた。


 動かない影の側にしゃがみ込む。地面に血溜まりが出来る程に出血しているのだから、よもや無事ではあるまい。血の気の無い面には、大きな眼帯が装着されている。それはただの医療用とは思えない大きさで、彼の顔の右半分を覆い隠してしまっている。闇に浮かび上がるように白い眼帯にも血が付着していた。ぼろぼろではあるけれど、黒いスーツを着込んでいるので一般人なのかも知れない。生地の薄い、如何にも安っぽいスーツだ。


 Yシャツの腹部に出血の跡が見えるので、其処が傷痕なのだろうと悟る。この場で止血等の応急手当を施すだけの技術は霖雨には無い。恐る恐る呼び掛けてみるが、先程の呻き声以降の反応は見られないので、いよいよ死んだかと背筋が寒くなる。


 自分の選択肢は三つ。一つは、寝覚めは悪いがこのまま知らん顔をすること。もう一つは、大人しく救急車を呼ぶこと。


 後者が最も人道的に思われるが、その後の事件に巻き込まれる可能性が霖雨にはある。葵には常々トラブルメーカー、或いは変人ホイホイだと言われているので、流石に自覚している。かといって、知らん顔をする度胸も自分には無いので、必然的に三つ目の選択肢を選ぶ他無いのだ。


 霖雨はポケットから携帯電話を取り出した。着信履歴から、目的の人物へ電話を掛ける。


 呼び出し音が続く。寝ているのだろうか。時刻は午後九時半で、就寝には些か早いように思うけれど。


 ぷつ、と音が切れ、雑音が混じる。その奥で、低く掠れ微睡むヒーローの声がした。寝ていたらしい。霖雨は状況を忘れ、少し笑った。




「ごめん、寝ていた?」

『別にいいよ』




 昨今の子どもだって、九時には寝ないだろう。

 寝る子は育つという迷信を律儀に信じて就寝する和輝は、子どものような低身長を気にしているのかも知れない。


 どうした、と睡眠中に起こされたことを欠片も気にしない穏やかな口調で、和輝が尋ねた。葵ならこうは行かない。今頃、訳の解らない早口で罵声を浴びせられたかも知れない。




「ちょっと、困っているんだ。今から、来られるかい」

『いいよ。今何処?』




 欠伸を噛み殺しながら了承した和輝に、現在地を簡単に告げる。これから向かうという和輝は、多分、基本的に御人好しなんだろう。


 何時の間にか猫も消え失せていたので、霖雨は身動きすら出来ない瀕死の他人と二人きりになった。奇妙な感覚だ。自分から面倒事に首を突っ込むような真似は、昔ならば絶対にしなかった。何が変わったのだろうと首を傾げた。


 間も無く、静かな街路に一台の軽トラックが滑り込んだ。白塗りのペンキが所々剥げ、年季が入っていることが伺える。自分の知り合いに軽トラックを運転する人間はいないので、咄嗟に身構えてしまう。けれど、その助手席から小さな青年がひょっこりと顔を覗かせたので、霖雨は拍子抜けした。夜の街に太陽が顔を出したようだ。強烈なまでの圧倒的存在感は、助けを求める人間に対する無言のメッセージなのかも知れない。此処にいるぞ、と訴え掛けている。


 ベッドから抜け出して来たらしい寝癖頭で、上下ジャージ姿の和輝が軽く手を上げる。大きな二重瞼は、眠そうに半分下がっていた。そんな和輝が軽トラックで乗り付ける意味が解らず、車両を凝視していると、運転席で陽炎のように空気が揺れた。透明人間こと、神木葵が退屈そうに座っていた。




「如何して、毎回毎回、面倒事に首を突っ込むんだ? 成人男性のヒロイン属性なんて、何処にも需要は無いんだよ」

「好きで首を突っ込んでいる訳じゃない。向こうからやって来るんだ」

「解決能力が無いなら、素通りしろよ。降って来る災難全部に対応していたら、命も時間も足りないんだよ。何時もみたいに、脳内完了自己満足で終わらせて置けよ。お前なんて人類最弱の雑魚なんだから」




 酷い言い様だ。早口に捲し立てる葵には、何を言っても無駄だ。一つ反論すれば十の罵倒が返って来る。


 どうせ、自分が何をしたって文句を言うのだ。放って置くことにする。


 霖雨が叱責されている間に、和輝は路地裏に倒れ込む影の傍へ膝を付いていた。患部を素早く見極め、持って来たらしい包帯とタオルで応急処置を施している。流れるような処置は、流石は元救急隊員と言うべきだろう。モグリだけど。


 処置を終えた和輝は小さく息を吐いた。早過ぎる手際に最早賞賛の声も無い。ぐったりしている眼帯男は今も意識不明だが、和輝が処置をしたということは生きているのだろう。見捨てなくて良かったと、こっそり胸を撫で下ろす。


 軽トラックを降りた葵が、怪訝に見下ろしていた。




「そいつ、如何するんだ?」

「うーん。病院には、届けない方が良いかもね」




 和輝が、意味深なことを言った。

 目を覚まさない青年の脇から手を入れ、ゆっくりと立ち上がる。和輝も背が低いが、眼帯男は霖雨や葵くらいの上背がある。よく持ち上げられたなと遠いところで感心する。


 迷いなく軽トラックへ運んで行く和輝を、葵は今更咎めはしない。この場所へ着いた時点で、解っていたのだろう。




「いいのか?」




 今更な問いを、口にする。葵は運転席に戻りながら答えた。




「どうせ、何言ったって、聞かないんだ。流れに身を任せることにした」

「違いない」




 霖雨は苦笑した。









 9.母国の英雄

 ⑴不審者









 輸血なんて大掛かりなことは出来ないから、せめて、意識を取り戻すまでは看ているよ。


 眼帯男をリビングのソファへ寝かせ、和輝が言った。無関係の他人だというのに、和輝は大概御人好しだ。元救急隊員の血が騒ぐのかも知れない。徹夜で看病するという和輝に申し訳無く思い、交代を申し出るが一蹴された。


 曰く、容態が急変したところで対応出来ないだろうとのことだ。

 ご尤もで耳が痛い。


 葵は早々に自室へ篭もり、施錠していた。これ以上、自分を巻き込むなと暗に言っている。


 朝になっても目を覚まさない青年の傍で、和輝がコーヒーを飲んでいた。霖雨は朝から大学院の講義があるので家を出なければならない。和輝もアルバイトへ向かう予定だったらしいが、今日は休むことになった。拾った癖に世話をしないというのは無責任に感じて、手伝いを申し出るが、やはり却下された。邪魔だと言われた。それも間違い無かった。


 朝食のトーストを口へ運びながら、霖雨は斜め前に座る葵を見遣る。新聞を片手にコーヒーを啜る葵は退屈そうだった。




「この人、何者なんだ?」

「知らねーよ。でも、面倒なことに巻き込まれているんだろ」




 なあ、和輝。

 葵の言葉に、和輝が苦く頷いた。小さな指が、眼帯男の腹部を指し示す。




「腹部に銃創があった。銃弾は貫通して体内には残っていないみたいだけど、これが出血の原因」

「銃創……」

「多分ね、狙撃されたんだ。それも肉眼では見えないようなところからね」




 何処のSFだと笑おうとして、失敗する。

 徹夜で看病した和輝の目の下にある隈が、態々嘘を吐く必要なんて無いだろうと訴え掛けている。和輝は続けた。




「周辺に弾痕は無かった。争いの形跡も無い。……これは推測だけど、彼は何処かで狙撃されて、致命傷に等しい腹部の出血を自力で抑えながら、あの場所まで逃げ延びたんだ」




 一般人とは思えないよ、と眼帯男を見遣る和輝は真剣だった。

 霖雨は、自分の拾った面倒事が想像以上に大事だったことに愕然とする。新聞を眺めていた葵が、ふと顔を上げる。




「暗殺され掛けた一般人が、火事場の馬鹿力で命辛々逃げ延びたのかも知れないだろ」

「一般人は暗殺されないだろ」

「じゃあ、犯罪組織に命を狙われているお前は一般人じゃないな」




 葵の言葉に、和輝は逡巡するように黙った。D.C.と呼ばれる犯罪組織の起こす事件に、和輝は何の因果か度々巻き込まれ、結果としてその陰謀をぶち壊して来た。組織にとって邪魔な和輝は、非日常的だが狙われている。


 考え込んでいた和輝は顔を上げた。




「彼は一般人だね」




 たった数十秒で意見を翻した和輝に、葵が嘆息を漏らした。


 行って来ます。

 新聞を投げ出し、葵は出て行った。

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