⑶スポットライト

 ジェイドと霖雨が揃って答えに詰まるので、退屈になる。

 葵は再度ナイフを振り上げた。


 今度は止める間も無く、男の胸部にそれを突き立てた。霖雨が口を抑えて悲鳴を呑み込んだ。胸骨を避け、上手く心臓を貫いているだろう。男は断末魔さえ上げなかった。




「何が正しかったと思う?」




 生首。

 死体。

 血溜まり。


 此処に霖雨しかいなかったことが心底残念だった。あの小さな青年に、見せてやりたかったと、うっとりと思う。


 手を伸ばされたら掴めると思っている。掴んだら救えると信じている。あの甘ったれた男――和輝に、見せてやりたい。


 お前が思う以上に、世界は残酷なんだよ。お前は容易く他人を救って見せるけど、それは表舞台だけなんだよ。全部、フィクションなんだ。お前だって本当は俺と同じ人間なんだろう。それなのに、どうして綺麗なままなんだよ。それが腹立たしい。


 突き立てたナイフは勢い良く引き抜いた。傷口が塞がっていたら、死ぬものも死ねないだろう。親切のつもりだった。世界から拒絶されたと嘆いているのだから、別の世界へ送ってやる。ほら、俺にだって救えたじゃないか。


 そんなことを思って、泣きたくなる。頬に張り付いた返り血が憎らしかった。


 何が違うんだ。解らない。なんで、俺ばかり。




「葵は、」




 さっきまで腰を抜かしていた癖に、真っ青な顔色を隠せもしない癖に、霖雨が真っ直ぐに此方を見て来た。




「葵は、どうして、泣くの」




 言われて、気付く。頬に付着したそれが返り血だけではないと。

 室内は煙が充満している。熱に瞳が潤んだのだろう。生理的な反射だ。


 けれど、霖雨は問い掛ける。




「どうして、正しいと思えないの」

「何を」




 黒い筈の霖雨の瞳が、炎を映して金色に光って見えた。

 霖雨は目を伏せ、言った。




「……何が正しいと思うって、前にも訊いただろう。それってさ、正しいと思えなかったから、訊いたんだろ」




 周囲で建物の崩壊の音がする。避難しなければならない。頭ではそう解っているのに、座り込んだままの霖雨の話を聞きたかった。




「どうして、正しいと思えないの」

「周りと、違う」

「周りが間違っているとは、思わなかったんだろ? 皆と一緒が良かったんだろ?」

「それが、正解だったんだろ」

「正解不正解じゃない。感情論だ。誰かと一緒に、いたかったんだろ」




 誰と――?

 葵は黙った。


 自分は誰かと一緒にいたかったのだろうか。両親も兄も死んだ。友人も死んだ。誰もいないじゃないか。

 誰、も。



 ガツンと、鈍い音がした。

 非常口が吹き飛ばされた。


 熱でひしゃげた扉だ。蹴破るしかなかったのだろうが、相変わらず野蛮だなと思う。

 火の手の迫る廊下の奥で、夜空を背景に小さな青年が立っている。




「助けに来たよ」




 煤だらけで、汗だくで、薄汚い。

 俺と何が違うんだ。


 苛烈な存在感と圧倒的な才能の反面、澄んだ水面に浮かぶ波紋のような静謐な空気。


 助けに来たよ、だなんて。


 霖雨が嬉しそうに頬を綻ばせる。ジェイドが驚いたように目を見開きながらも、その美しい相貌に見蕩れる。


 重い腰を上げた霖雨が、ジェイドへ手を差し伸べる。二人は立ち上がって非常口まで駆けて行く。葵の両足は根っこでも生えたように動かなかった。


 燃え盛る廊下が、あの日、空港で見た光景と重なる。


 窓の向こう、まるで対岸の火事を眺めているようだった。


 この声も、この手も届かない。

 誰でもいいよ。誰でもいい。だから、誰か助けてくれ!

 喉がからからに乾いていた。俺はもしかしたら、叫んでいたのかも知れない。助けてくれ、誰かあいつを助けてくれ!


 飛行機の中で悶え苦しみながら、焼かれて死ぬ友人が瞼に焼き付いている。


 感謝も謝罪もしてない。次は俺が救う番だと約束したんだ。俺は誓ったんだ。もう、俺のせいで誰も死なせたくない。守りたい。


 誰か助けてくれよ!


 身動き一つ出来ない、この泥濘のような地獄から、救い上げてくれよ。好転することの有り得ない現場を、人知の及ばない乱数に支配された絶望の未来から、俺を助けてくれよ!


 もう、嫌だ。




「助ける」




 階段から真っ逆さまに落ちるような浮遊感に、意識が急激に現実に引き戻された。

 一瞬にしてどっと冷や汗を掻いていた。和輝が、目の前にいた。




「お前のせいじゃない」




 お前の両親も、兄も、友達も。お前のせいで死んだんじゃないよ。

 汗で湿った掌が、和輝の温かいそれに包まれていた。

 大きな瞳に、酷く窶れた自分の顔が映っている。




「解るよ」




 掌が、強く握られる。一回り小さな、子どもみたいな掌だ。




「周囲から常に糾弾されると、自分が間違っているのではないかと錯覚してしまう。俺も、そうだった」




 和輝は母国にいた高校生の頃、性質の悪いマスコミによって根も葉もないゴシップ記事で責め立てられていた。無実でありながらそれを口にはせず、黙って周囲からの罵詈雑言に堪え続けた。葵には意味の解らない行為ではあったが、見事だと思った。




「人との違いを列挙したところで、自分が自分であるという自信が持てるのかい?」




 和輝が、不思議そうに小首を傾げて問い掛ける。まるで、周りの状況なんて欠片も見えていないみたいな普通の顔をしていた。




「人と比べてどうかなんて気にしなくていい。自分がどうしたいのかを考えようぜ。人生は配られたカードで勝負するしかない。神様に文句を言ったところで、換えてくれる訳でもないからね」




 その体躯には見合わない力強さで、葵は引っ張られた。和輝は葵を引き摺るようにしてぐんぐん廊下を突き進む。


 熱のせいだろうか。

 何故だか、涙が溢れそうだった。




「どうして、もっと、」




 こんなことを言っても仕方がないのに。

 これだけは言うまいと決めていたのに。

 何の不具合なのか、口からは押し込んでいた筈の声が漏れた。




「どうして、もっと早く、俺の前に現れてくれなかったんだ……!!」




 両親が死んだあの頃でもいい。

 兄が殺されたあの時でもいい。

 大学が占拠されたあの瞬間でもいい。

 旅客機が爆破炎上したあの日でもいい。


 どうして、もっと早く助けてくれなかったんだ。


 開け放たれた非常口を飛び出し、ぼろぼろの非常階段に身を乗り出す。

 下は野次馬や消防隊が集まっていた。葵は頬の汚れを落とすと同時に目を擦った。




「気付いた時には遅過ぎる。本当に大切なものは、失くしてから気付く」




 今にも崩れ落ちそうな階段を勢いよく駆け下りながら、和輝が言った。




「本当の大切さに、気付けたんだよ。だから、前を向いて生きて行ける。夜も冬もやって来る。けど、日はまた昇るし、春は訪れる。禍福は糾える縄の如しと言うだろう」




 そんなことを言って、和輝が笑う。

 全く笑えるような状況ではないのに、意味が解らなかった。




「絶望と思うなら、希望のある世界にしようとしろよ。何でいつも受身なんだ。納得出来ないなら、徹底抗戦しようぜ」




 非常階段から地上へ到着した後ろで、建物が悲鳴を上げて崩れ落ちるのが見えた。間一髪という奴なのだろう。


 どうして、こいつばかり。

 酷く憎らしいのに、殺そうとは思えない。この手を離すことすら惜しかった。


 救急隊に介抱される霖雨とジェイドの姿が見えた。野次馬の中に大嫌いなマスコミもいる。けれど、和輝は手を繋いだままだ。振り返った顔が泣き出しそうに笑っていた。




「また、間に合わなかったな。ごめんな」




 和輝が謝る必要なんて一つもない。何の過失もない。

 けれど、其処で思い出す。彼は、自分が人を殺すことを好まないのだ。自分が人を殺すと、まるでそれが辛いみたいな顔をする。




「俺だって、全部全部救ってやりてーよ。霖雨のことも、葵のことも守ってやりたいと思ってるよ。傲慢だって解ってる。自己満足だって知ってる。でも、救ってやりたいんだよ」




 また、間に合わなかったけど。

 悔しそうに和輝が言った。

 それでも、何度でも助けに来るんだろう。不死身の勇者みたいに。無敵のヒーローみたいに。



 難しいことは解んねーけど。

 俯いた和輝が、絞り出すような情けない声で呟いた。

 そして、勢いよく顔を上げると、噛み付くみたいに言った。




「うるせえ! 生きろ!」




 それは、何時か何処かで聞いた言葉の筈なのに。


 ただの言葉の羅列だなんて、思えなかった。

 それはずっと俺が欲しかった言葉だった。









 8.二十億光年の孤独

 ⑶スポットライト








 検査の為に病院へ搬送される。

 睡眠薬の効果がまだ継続中だったらしい和輝は、建物を脱出した後、崩れ落ちるように座り込んだ。そのまま担架に乗せられて運ばれる様を見送りながら、葵も別の救急車へ向かう。


 その時。




「歯ぁ食いしばれ」




 後ろから声が聞こえて、振り向いた瞬間、頬を思い切り殴られた。


 どよめく野次馬の声を背景に、葵は拳を振り上げた男を見上げる。

 人を殴ったことなんて無かっただろう。自分の頬よりも、霖雨の拳の方が痛そうだなとぼんやり思う。




「何で、和輝に睡眠薬を呑ませた。何の疑いも無くそれを呑んだ和輝を、どう思った」

「馬鹿だと思った」

「……同感だ」




 舌打ちをして、霖雨は葵の手を引いて救急車の中に引っ込んだ。


 外界から遮断された車内で、霖雨は悔しそうに言った。




「何が正しかったと思う、ってお前が訊いた時。本当は、殴ってやりたかった」




 何も正しくないだろ!

 その叫びを、呑み込んだ。

 ――呑み込んだ瞬間、気付いた。葵の纏う猛毒の棘は、氷で出来ている。溶けるまで待っていては間に合わない。だから、殴ってやろうと思った。


 硬い椅子で隣り合わせに座ったまま、霖雨が言う。




「誰かの肯定が無ければ生きられない。自分を認められない。――ふざけんな」




 彼の周囲はいつも死の気配に包まれている。


 それでいいの? 本当に?


 葵は俯き黙ったままだった。全てに耳を塞ぎ、世界から消えてしまいそうな彼へ届く一本の糸を探る。


 足掻け、躊躇うな。

 葵の引いた境界線は、生半可な覚悟じゃ絶対に越えられない。




「お前が大切なんだよ! お前に生きていて欲しいんだよ! お前の側にいたいんだよ! 解れよ! 友だちだろ!」




 こんなに声を張り上げたのは久しぶりだと、霖雨は大きく肩で息をしていた。


 僅かに頬を紅潮させながら霖雨が鼻を鳴らしてそっぽを向く。けれど、ふと目を向けた先で、葵が奇妙な顔をしていた。まるで、置いて行かれた迷子みたいな、このまま暗い淵へ沈み混んでしまいそうな顔だった。


 何だ、その顔は。

 思わず、霖雨は言ってしまった。




「……和輝は、手を伸ばされたら拒めない。掴んだら離せない」

「ああ」

「あいつは眩し過ぎて、時々、辛くなる。見ているだけでしんどいのに、平気で手を引っ張って行こうとする」




 あんな風には誰も生きられない。それを、彼だけが解っていない。


 彼が手を引く光の下で、生きられない人間もいる。其処は眩し過ぎる。だからといって、闇に慣れてしまって欲しくない。この冷たさに慣れてはならない。


 相手が殺人鬼で情状酌量の余地無しで、正当防衛が成立したとしても。


 葵がナイフを握ったあの瞬間に、止めてやれば良かった。霖雨は只管に後悔する。今はもうナイフは無い。けれど、確かに人を殺した葵の掌を掴んだまま、霖雨は目を伏せた。


 手を繋ごうよ。

 日向も日陰も歩いて行けるように、手を繋ごう。一緒に居られるように。独りきりに慣れないように。





 病院に搬送されたものの、検査もすぐに終わった。煙を吸った可能性があるということで、念の為一日入院することになった。味気ない病人食を夕飯に、霖雨と葵は手を合わせた。


 部屋の中にはベッドが四台。葵、霖雨、ジェイド、和輝だ。ジェイドはショックが大きかったのか夕食もそこそこにして、早々に眠ってしまった。和輝は搬送された時点で意識を失っており、身体に異常は見られないが、まだ眠ったままだ。


 睡眠薬を呑まされたとはいえ、昼間から今まで、よく寝るものだと感心してしまう。その割に低身長なのだから同情もした。


 味の薄い病人食を摘みながら、霖雨が言った。




「和輝が、嫌な予感がするから、一緒に葵を探しに行こうって言ったんだよ」

「ふーん」

「丁度、俺が夕飯作ろうとしてたからさ、葵を捕まえたら今日は外食にしようと思ってたんだ」

「それは、残念だったねえ」




 他人事と決め込んだ葵はただただ咀嚼している。張り合いのない相手だと霖雨は肩を落とした。


 丁度その時、和輝が目を覚ました。隣で寝ていた和輝の目が薄らと開かれたので、葵は食事を中断して顔を覗き込んだ。

 正面では霖雨が「行儀が悪い」と喚いているが、聞き流して置く。


 本当に煙を吸ったのか、睡眠薬の副作用なのか。

 茫洋とした目で視線を虚空に彷徨わせながら和輝はやっとのことで葵を見付ける。和輝が、言った。




「大丈夫か?」




 ベッドの上で、紙みたいに真っ白な顔色で、和輝が言う。


 痛いところはないか。

 しんどくないか。

 怪我してないか。

 皆、無事か?


 此方ばかりを労わり、何処までもお人好しで心配している和輝が、切なそうに眉を寄せた。

 葵は、ふと持ち上げられた掌を掴む。自分より一回り以上小さな掌が、微かに震えている。弱々しく包み込むように握られる掌に目を伏せた。




「大丈夫じゃない」




 ぽつりと、言葉が溢れた。

 和輝が、不安そうに唇を震わせる。




「お前が、大丈夫じゃない」




 訳の解らない薬を呑まされて、火災現場に踏み込んで、脱出した瞬間に副作用で倒れ込んで。


 それなのに、此方の心配ばかりしている。


 今更、霖雨の問い掛けたことの意味を知る。


 何の疑いも無く呑んだ和輝を、どう思った?

 馬鹿だと思った。

 だけど、こんなに。




「悪かった……」




 謝罪の言葉なんて何時以来だろう。

 悔しくて俯けば、和輝が呑気に頭を撫でて来た。並んで立ったら届かないだろう絶望的な身長差だ。普段なら実現不可能だろう。


 でも、今だけは、絆されても良いような気がして、葵は黙っていた。



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