⑵ピエロ

 講義が早く終わったものだから、ゆっくり過ごそうと真っ直ぐに帰宅してみれば、リビングでは机に突っ伏すようにして和輝が眠っていた。

 肩には紺色のブランケットが掛けられていたので、まさか葵がやったのかと思うと俄かには信じ難かった。彼にもこんな優しさがあるのかと、感動すら覚えた。


 机の上にはすっかり冷めたカフェオレが半分程注がれ残っている。どのくらい眠っているのだろうか。時刻は午後四時半。界隈はまだ明るいが、日差しは下って、やがて夜の帳が落ちるだろう。夕飯の準備でもしようかと、リビングのソファに鞄を置く。鈍感そうに見えて鋭い筈の和輝が、目を覚ます気配は微塵も無い。


 それはちょっとした違和感だった。


 このまま寝かせて置いてもいい。彼は現在フリーターだが、多忙だ。こんな日があってもいいとは思うが、これで夜に目が冴えてしまっては気の毒だ。霖雨はキッチンに向かう前に、成人男性とは思えない程に薄い肩を揺らした。




「おい、和輝、起きろよ」




 されるがままで、和輝は起きない。

 違和感を覚えて、何度も肩を揺らす。しかし、起きる気配はない。違和感が嫌な予感に変わり、霖雨は強く和輝の肩を揺さぶった。




「おい、和輝!」




 微睡んだまま、和輝の大きな瞳がゆっくりと開かれる。くっきりとした二重の瞼も、鉛のように重そうだった。


 茫洋とした目付きだ。焦点が定まっていない。肩に掛けられていたブランケットがずり落ちるが、気にならない。漸く目を開けた和輝が、掠れた声で呼び掛けた。




「葵?」

「違うよ、馬鹿」




 何を勘違いしているんだ、この馬鹿。

 霖雨はほっとすると同時に、気が抜けてその場に座り込んだ。和輝は相変わらず眠そうに、頻りに目を擦っている。


 擦るな、赤くなるぞ。

 保護者のようにその背を摩ってやる。




「あ、霖雨?」

「そうだよ」




 寝ぼけたままの和輝に再度ブランケットを掛けてやり、霖雨は立ち上がった。今晩の夕食は自分がしようと思った。


 霖雨が背を向けた先で、和輝は身体中の倦怠感に違和感を覚える。

 うたた寝したのか。違う。この怠さは異常だ。風邪でも引いたのだろうか、否、引き始めか。


 キッチンへ入る霖雨の姿が見える。手を洗う流水音が聞こえる。けれど、思考回路は錆び付いたまま、違和感の正体に辿り着けない。


 手を洗い終えた霖雨が、冷蔵庫を覗きながら言った。




「葵はどうした?」




 頭が痛い。

 和輝は蟀谷を押さえながら、質問の意味を反芻する。


 葵。葵は、どうした。確か自分は葵と一緒にいた筈だ。一緒にいたのに、何時の間に眠ってしまったのだろう。リビングで、ぼんやりとテレビを見ていた筈だ。その時に、葵が何かをくれた。


 白い錠剤だった。風邪が流行っているから、予防に呑んでおけと言われて、何の疑いも無く呑み下した。先日の拉致事件の反省はまるで活かされていない。


 ああ、葵が変な顔をしていたな。自分が渡した癖に、迷いなく受け取って呑み込んだことに眉を寄せていた。それが悪意なら、俺だって拒絶するよ。

 でも、そうじゃなかっただろう?




「和輝?」




 黙ったままの和輝を不審に思ったらしく、霖雨が問い掛ける。途端、和輝は弾かれるように顔を上げた。




「葵!」




 だから、葵じゃねーよ。

 まだ寝ぼけていると思い込んで、霖雨が苦笑いする。


 和輝は勢いよく立ち上がったつもりだった。けれど、身体中が重く、頭が痛い。思った通りに身体が動かない。何だ、これは。葵の奴、また訳の解らない薬だったのかよ。悪態吐くが、倦怠感は無くならない。


 睡眠薬だ。

 和輝は直感する。時計を確認するが、まだ薬の作用は切れていない。だから、こんなにも体が重くて思考回路も鈍いのだ。




「霖雨」




 冷蔵庫を閉めた霖雨が、眉を寄せて戻って来る。和輝の異変に気付いたのだ。




「葵、何処にいるか解るか? 電話、してくれないか?」

「部屋にいると思っていた。電話してみるよ」




 霖雨が電話を掛けている横で、倦怠感をどうにかしようと和輝は蹲る。もう一度眠ってしまいたい。抗い難い生理的欲求だ。けれど、葵へ掛けた筈の携帯がソファの隅で鳴り出したので、和輝は顔を上げた。


 携帯電話は着信を告げている。持ち主は不在だ。




「なんだ、あいつ。置きっぱなしかよ」




 やれやれと言わんばかりに肩を竦めた霖雨の腕を、和輝が掴んだ。




「嫌な予感がするんだ。探そう」




 握られた手首が凍るように冷たかったので、霖雨は漸く只事ではないと理解する。


 探そうと言っても、自分達は葵のことを何も知らない、唯一の連絡手段である携帯電話がこの場所に置き去りにされている時点で、もう手段は無いに等しかった。幽霊のように存在感の希薄なあの青年を、何の手がかりも無く探せる筈も無い。


 霖雨が黙り込んでいる横で、和輝が閃いたように言った。




「病院だ」

「何で」

「俺、あいつに風邪薬だって言われて、睡眠薬呑まされたんだ。俺は耐性無いから余計に効いたんだろうけど、普通、こんなにすぐ眠くなるような強い睡眠薬は手に入らない。それこそ闇ルートか、病院で処方してもらうか」

「突っ込みたいところは幾つかあるが……。まあ、闇ルートが妥当じゃないか? 葵だぞ?」

「葵は、闇ルートで手に入れた薬を、俺に呑ませない」




 断言するように和輝が言うので、霖雨は思わず黙った。




「何処の誰が調合したのか解らないような薬を、葵は俺に呑ませない」

「何なんだよ、その訳の解らない自信は……」

「用意周到だからな、あいつ。俺が眠ってて、霖雨がいない間に、何かしたかったんだ」

「何を」

「解らないよ。でも、きっと知られたくなかったんだ。その為に、殆ど正規のルートで睡眠薬を入手したんだ」




 和輝の言っていることは解らなくもないが、荒唐無稽な作り話にも聞こえる。考え込む和輝の横で、霖雨は冷めた目でそれを見遣った。


 何で、そんな風に信じられるんだ。赤の他人だぞ。

 ――でも、和輝が言うなら、信じてみたいと思う。


 大きく溜息を一つ零し、霖雨は床に落ちたブランケットを拾い上げる。角を合わせて丁寧に畳みながら、神妙な面持ちで考え込む和輝に言った。




「葵なら心配いらないだろうけど、和輝がそうしたいって言うなら付き合ってやるよ」

「霖雨」

「今日は外食かな」




 大きく伸びをすれば、自然と欠伸が漏れた。睡眠薬を呑まされた和輝としては、葵の行動は不自然で心配なのだろう。傍観者でしかない霖雨にとっては、葵の気紛れな悪戯だ。それでも、和輝がそうしたいと言うなら、付き合ってやってもいい。


 自室からヘルメットを二つ持ち出して、一方を手渡す。和輝は表情とは裏腹に、酷く緩慢な動作でそれを受け取った。睡眠薬を呑まされたというのは本当なのだろう。怠そうだと、他人事のように思いながら手を差し出す。


 小さな掌が迷いなくそれを取って、身体が持ち上げられた。見下ろす程の身長差だ。けれど、その存在感は睡眠薬の作用中である筈の今でさえ鮮明だった。












 8.二十億光年の孤独

 ⑵ピエロ










 非常ベルが鳴り響いた瞬間、葵の体は硬直した。


 驚愕故ではない。強烈なフラッシュバックだった。数年前の出来事が脳裏に、鮮明に浮かび上がる。武装グループが大学構内を占拠した時も、非常ベルが鳴り響いた。続けざまに発砲音。あれはマシンガンだった。白い壁にも人間にも、関係なく銃弾が撃ち込まれた。あっという間に血の海になった。


 人間が沢山死んでいた。それは当然だろうと思う。多量失血ならば仕方無い。でも、あのアナウンスが、俺を呼んだ。


 兄を殺した殺人鬼が、今度は俺の友人を人質にして俺を呼んだ。だから、俺は応じたんだ。



 ジェイドが驚いたようで肩を跳ねさせる。慌てふためきながら廊下へ飛び出す。


 火事か、事件か。

 そんなことを気にする。非常ベルが鳴っているということは、非常事態ということだ。地震大国である母国ではない。ならば、早くこの場から避難するべきだ。


 葵は扉へ向かってすっと歩き出した。廊下へ飛び出したジェイドが、マネキンのように凍り付いていた。


 ジェイドの視点は固定されている。葵も導かれるようにその先を見た。


 男が立っていた。

 片手に何かをぶら下げている。ぽたりぽたりと雫が落ちる。

 ああ、人間の首だ。切り口が綺麗だったので、うっかり見蕩れてしまった。もう一方の手に大振りのナイフが握られている。

 上手く切ったなあ、なんて思う。


 真っ青になったジェイドが叫んだ。




「Who are you!? What is being done?」



 そんなことを聞いてどうするのかと馬鹿らしく思った。けれど、それ以上に訊きようも無かったのだろう。

 男は死んだような無表情で距離を詰めて来る。エレベータは男の背後だったので、脱出には目の前の奴をどうにかしなければならない。


 何かの焼ける嫌な臭いがする。火災だ。窓の外に黒炎が昇っているのが見えた。


 男の手にぶら下げられた生首が、受付にいた女性だと気付く。驚愕に目を見開いたまま絶命したのだろう。開き切った瞼の下、眼球は作り物のように光っている。男の体は返り血に塗れていたので、手に掛けたのは彼女だけじゃないだろうと察した。


 動揺を隠し切れないジェイドが叫ぶ横で、葵はその腕を掴んで引き寄せる。


 男が言った。




「Where is the diamond?」



 葵は、自分と男の目的が同じであることに不快感を覚えた。


 怯え部屋に逃げ込もうとするジェイドを捕まえたまま、葵は動かない。部屋に立て篭ったところで、火災からは逃げられない。扉が突破されれば袋の鼠だ。

 俺達の選択肢は、目の前の男をどうにかするしかないんだよ。




「ダイヤに何の用があるんだ?」




 ジェイドに代わって問い掛ければ、お前には関係無いと一蹴される。

 まあ、ご尤もな意見だった。


 男の目的はダイヤという青年だ。その手段として、担当医だったジェイドに狙いを定めている。胡乱な目付きで、男が口角を釣り上げて嗤う。




「ダイヤに逢いたいんだ。世界から拒絶されても尚、生きなければならないという人間に興味があるんだ」

「うんうん、解るよ」

「そうだろう? だが、ダイヤは此処にはもういないと言うんだ。おかしいじゃないか。世界は彼を拒絶したのだろう? なのに、どうして世界で生きられるんだ?」

「そうだねえ」




 ちらりとジェイドを伺うが、真っ青で凡そ冷静とは言い難い様子だった。




「私もね、世界から拒絶されたんだよ」




 詰め寄っていた足を止めて、男が言った。




「毎日毎日身を粉にして働いて、ボランティアとして恵まれない子どもの資金援助をして、社会貢献も果たしている。なのに、世界は私を拒絶したんだ!」

「拒絶?」

「そうだ! 会社から不当解雇されたから、上司を殺してやった! そうしたら、刑務所に押し込まれた! それが世界の摂理なら従うしかない。長く服役して漸く復帰したのに、私を求める場所は何処にもない! 私には能力があるのに、馬鹿な人間共は、上司を殺したことを責め立てて認めようとしない! 私は社会の規則に従って服役したのに、誰もそれを認めない! だから、そいつ等も殺してやった!」

「ふうん。腹が立ったから、殺したのか?」

「そうだ。殺せば何も言わなくなるからな!」

「そりゃ、そうだ」




 うんうん、と頷きながら、葵はジェイドを背中に隠す。

 こんな時、和輝なら、霖雨ならどうしただろう。




「テレビで、ダイヤのことを知ったんだ。世界から拒絶された青年のことだ。私と同じだと思った。彼なら、きっと共感してくれる。私を認めてくれる。そう思った。だが、こいつ等は言うんだ。ダイヤはもう此処にはいない。世界を旅して回っているから、此処に戻ることはない、と!」




 裏切り者だ。

 男が叫んだ。


 随分と勝手な理論だなと、葵はぼんやりと思った。




「それで、殺したのか?」

「ああ。私を認めない人間なんて、必要無いだろう?」

「うーん。認められるかどうかは知らないけど、人間には相性ってもんがあるからね。誰にでも受け入れられる訳じゃないと思うよ」

「そんな人間に価値は無いだろう? じゃあ、殺したっていいじゃないか」

「うーん」




 解るよ。

 葵は、内心吐き捨てる。


 殺したっていいじゃないか。

 うんうん、俺もそう思うよ。部屋の片付けだって、邪魔なものは退かすか捨てる。ましてや、此方に敵意を持つ人間がいるなら、殺してしまえばいい。だって、いらないじゃないか。


 同意出来る筈なのに、頷くのは躊躇われた。葵は、知ってしまったのだ。自分が人を殺すと、泣きそうになる人がいることを。




「あんた、こんなことしたら、また服役しなきゃいけないんじゃないの? 人生、刑務所で終わっちゃうよ?」

「意味が解らない! 世界が間違っている!」

「そうだね」




 男は三十代だろうか。自分よりは年上だろう男を、葵はぼんやり眺める。


 世界が間違っているだなんて、今頃知ったのか。気付くの、遅過ぎるだろう。


 チン、と陳腐な音がした。男の後ろで、エレベータの扉がゆっくりと開く。現れた青年に、葵は少なからず驚かされた。




「葵!」




 霖雨が、叫んだ。


 下は火災なのに、エレベータで此処まで来たのかと呆れてしまう。そして、彼が此処にいることに疑問を感じる。どうして彼が此処にいるのだろう。


 霖雨は、生首をぶら下げた男を見てぎょっとして後ずさった。エレベータの扉は呆気なく閉まって、非常事態の為か停止してしまっている。登場と同時に逃げ道を見失った霖雨が狼狽している。何をしに来たんだ。


 男は振り返り、霖雨を見て微笑んだ。その横顔を見て背筋が冷たくなる。男は目的を霖雨に変えたらしく距離を詰めて駆け出した。葵も引っ張られるようにして後を追う。逃げ道の無い霖雨に、逃げろだなんて叫ぶ意味は無い。ナイフが振り翳される。それが振り下ろされる前に、葵の左足が男の即頭部を捉えていた。


 鈍い音がして、男が壁に叩き付けられる。生首が転がって此方を見たので、霖雨が短く悲鳴を上げた。


 腰が抜けたように座り込む霖雨はそのままに、葵は男に向けてナイフを振り翳した。


 殺したっていいじゃないか。邪魔なんだから。

 いらないよ。間違っているんだから。これが正解だ。だって、生かしておく意味が無い。


 そうしてナイフを握った手が、強く掴まれた。ジェイドだった。




「止めろ」

「何で?」

「殺すな」

「だから、何で?」




 葵は眉を寄せた。


 ジェイドが余りにも必死なので、馬鹿らしくなる。ナイフを捨てればジェイドがその場に座り込んでしまった。空気の抜けた風船みたいだった。


 意識を失った男と、廊下に転がった生首を眺めて葵は言った。




「俺もさあ、よく解らないんだよね」




 路傍の小石を蹴飛ばすみたいに、生首を転がした。青褪めた霖雨が女子みたいな悲鳴を上げるので、本当にこいつは何をしに来たんだろうと思う。




「部屋の片付けをしていてさ、いらないものがあれば捨てるだろ? 邪魔なものがあれば退かすだろ?」

「それとこれは違うだろ!」

「蚊に血を吸われそうになったら、殺すだろ? 雀蜂がいたら、殺すだろ? むしろ、人間ってだけで何で殺したらいけないのか解んない」




 ジェイドが言葉を失った。葵も、舌打ちしたくなった。


 こんな話をしたって、解る筈無い。誰も解ってくれない。自分は普通じゃない。

 だから、世界から拒絶されている?


 意識の無い男を踏み付けた。当然反応は無い。ジェイドは制止を訴えるが、葵は気にしなかった。




「ずっと、人の真似をして来たよ。だって、それが正解なんだろ。途中式が間違っていても、正解ならいいじゃないか」




 男の言葉を思い返し、胸糞悪くなる。結局、自分もこの男と同類なのだ。





「なあ、教えてくれよ」




 問い掛けても、答えは返って来ない。知っていた、そんなことは。


 自分は間違っている。世界から拒絶されている。同居人の父が記した臨床心理学の事例検討集の文章が、自然と脳裏に再生された。



 サイコパス(Psychopathy)は、社会に置ける捕食者だ。人は誰もその種を内包して出生する。幼児期には発芽し、成長の過程でやがて萎える。だが、この種子を開花させる人種が存在する。これは遺伝や環境に起因しない脳の機能障害だ。捕食者の花は一定数咲き出て、社会へ根を張る。それが花であると気付く捕食者はいない。この人種を理解することは難しい。故に、我々は咲き誇る花に対して、異なる生物であると認識する必要がある。



 違う生き物なんだ。捕食者だ。

 なら、殺したっていいじゃないか。



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