8.二十億光年の孤独

⑴舞台裏

 Sweet are the uses of adversity, Which, like the toad, ugly and venomous, Wears yet a precious jewel in his head.

(逆境が人に与えるものこそ美しい。それはガマガエルに似て醜く、毒を含んでいるが、その頭の中には宝石を孕んでいる)



 Shakespeare










 寂しかったと、囁くように言った人がいた。


 寂しかったのかな。

 脳の奥、箪笥の奥に追い遣られた季節外れのセーターみたいに、幼い頃の自分が膝を抱えて蹲っている。誰か助けてと祈るばかりで、一向に能動的な行為を起こそうとしない。マスコミの主観的な、芸能人のバッシングに首ったけの大衆のように無責任で酷く腹立たしい反面、焦がれる程にそれが羨ましかった。


 人生は選択の連続だ。軽率な判断は自身の首を絞める。けれど、もしも、その選択肢を他人へ委ねることが許されるのならば、それほど楽な人生は無いだろう。そして、窮地に陥れば必ず救ってくれるヒーローが存在するのならば、これ程頼もしいことはない。


 ヒーローは、いる。



 ただ、俺の前には現れなかっただけだ。




「葵」




 昼下がりの休日、微睡んだ和輝が譫言みたいに呼んだ。


 葵が振り返れば、和輝は大きな目を歪めて睡魔と格闘していた。地べたに胡座を掻いて、テーブルに頬杖を突いている。側に置かれたマグカップには半分程カフェオレが注がれ、既に冷め切っている。




「葵」




 返事もせず、今にも眠ってしまいそうな和輝をじっと見詰める。そろそろと瞼が降りてきて、舞台が終幕を迎えるようにして和輝は眠りに落ちた。


 葵はテーブルに突っ伏した和輝の腕を取り、脈を測る。眼球運動を確認し、彼の意識が完全に無くなったことを知る。


 ポケットには青色の小さなピルケースがあった。収められた二つの白い錠剤は、バルビツール酸系の睡眠薬だ。脳に直接作用し、強制的な睡眠へ引き込む。反面で心身への影響も大きく、脳だけでなく広い範囲で作用し、依存性も高い。


 和輝の身を案じない訳ではないが、確実な作用が望ましい。脈拍から正常な入眠へ移行したことを確認し、葵は立ち上がった。


 成人男性とは思えない程に華奢だが、トップアスリート並の身体能力を有している。然るべき場所に収まっていれば、彼はきっとスーパーヒーローになれたのだろう。




「葵」




 和輝が呼び掛ける。譫言だ。


 寝言に返事をすると、死後の世界へ引き込まれるという。葵は肩を竦め、返事の代わりに寝癖の残る小さな頭を撫でた。和輝はそれを返事と受け取ったのか、ふにゃりと口元を歪ませ、静かになった。




「悪いな。今回、ヒーローの出番は無いんだよ」




 ブランケットを肩に掛けてやり、葵は部屋を出た。











 8.二十億光年の孤独

 ⑴舞台裏









 雑多な都会から捨て置かれたかのような寂れた病院は、その外観と等しく寂れていた。


 青々とした芝生の上を撫でるように進みながら、葵は幽霊のような希薄な存在感をいいことにすんなりと侵入する。受付の看護師は視線すら向けず、此処に人間が立っていることにすら気付いていないようだ。


 物心付いた頃から、葵は存在感が希薄だった。唯一の肉親だった兄だけが自分の存在を知覚し、守ってくれていた。


 まるで、世界から拒絶されているようだ。葵はそんなことを思った。それでも存在することは誰にも否定出来ない。学生の時分には、出席を取る際に名前を呼ばれ、挙手しても気付いてもらえないことが多かった。行事でグループを作れば必ず取り残された。自発的に行動へ移さなかった自身の非を認めているが、それでも、其処にいないもののように扱われ、目の前で陰口を叩かれるのは随分と堪えた。


 あいつ、気味悪いよな。

 何考えているのか解らない。

 幽霊なんじゃないか。


 表立って庇ってくれる人間なんている筈も無い。そういう人間関係を構築して来なかった自分の落ち度だ。

 悩んだところで解決しないのなら、諦めた方が楽だ。生まれ持ったものは仕方ない。スポーツの世界では才能の有無が顕著だが、生きていくことさえ難しい自分は恐らく、長く生きられないだろうと思った。


 両親は警察官だった。その職務を全うし、葵が小学生の頃には既に他界していた。周囲はそれを褒め称え、立派だと胸を張れと言った。兄は溢れそうな涙を堪えながら、頻りに頷いていた。両親は立派だった。人の厚意を真っ直ぐに受け入れ、前を向いていける人間だった。だから、後を追うように警察官の道を目指した。


 葵は違った。人の厚意に鈍感だったのだと、葵は振り返る。


 死んだことが、立派なのか。

 ――それはまるで、両親が死んだことを誰もが喜ばしいことだと叫んでいるように感じられた。


 兄に倣って、葵も泣かなかった。ただ、解らなかった。両親の死を褒め称える他人の中で、硬い兄の手を握りながら如何することが正解なのか解らなかった。その頃から、葵は外界を遮断して生きていくことを決めた。


 存在感が希薄で他人に知覚され難い葵は、ある一定の人間に対して過剰に影響を与えた。考察するに、それは葵と等しく世界から拒絶された人間、或いは世界を拒絶したいと願う人間だ。


 母国の自殺件数を鑑みるに、そういった人間と出会す頻度は高かった。擦れ違うだけの赤の他人が、後を追うようになる。同じ電車に乗っただけの人間が、人気の無い暗がりへ押し込んで来る。そういうことが葵には日常茶飯事だった。


 考えても仕方の無いことは考えない。思考を放棄すれば、それは家畜と同じだ。


 或る一人の異常者の存在が、葵を悩ませた。どうしても諦めず、毎日のようにストーカー被害に悩まされた。大量の隠撮写真や、切り取られただろう髪の毛の束を送られたこともあった。兄は毎日のように仕事で帰宅が遅い。すると毎晩のように、誰かが戸を叩く。非通知の電話が掛かって来ては、只管に葵の名を連呼する。


 送られて来る写真がズタズタに切り裂かれていたことがあった。自分のものだけではなく、兄の写真もあった。其処で漸く、限界だと感じた。それまで黙っていた事の次第を兄に告げた。兄は何でもないことのように頷いて、解ったと返事をした。


 兄が死んだのは翌日だった。件の異常者が、刃物を持って襲い掛かり、兄の頚動脈を切り裂いた。異常者は逮捕された。兄は頚動脈を切り裂かれても尚抵抗し、犯人の足に噛み付いたらしい。その兄の首を、犯人は刃物で切り落とした。


 周囲の人間は、やはり、兄を褒め称えた。立派な兄だ。立派な警察官だ。ーー本当に、そうなのか?


 葵には解らない。今も解らないままだ。兄を殺したのは、本当は。


 大学生になった。周囲からは警察官への就職を期待されていたが、葵に選べる筈も無かった。


 大学でも葵は幽霊のようなものだった。けれど、哲学科へ進学したことと恵まれた学力から『平成のニーチェ』という訳の解らないあだ名を付けられて、そこそこ、周囲の人間から知覚されるようになった。そんな中で、生まれて初めて友だちが出来た。


 嘔吐するまで飲み明かしたり、合コンで相手方にドン引きされたり、旅行で訳の解らない変質者を捕縛したり。


 のらりくらりと躱す葵に、真っ向からぶつかって来る馬鹿な友だちだった。そして、もう一人、優柔不断でお人好し。けれど一度決めたら迷わない頑固な友だち。振り返れば、和輝と霖雨に似ていると思った。


 平和に過ぎていく日常で、兄を殺した犯人が刑務所から脱獄したと報道された。何となく聞き流していた筈の報道は、目の前に降って沸いた。あの時の犯人が、軍隊のように武装した部下を引き連れて大学を占拠した。


 抵抗する者もしない者も、逃げる者も立ち尽くす者も呆気なく殺して行った。阿鼻叫喚の地獄絵図で、葵はその場から消えようと思った。あの犯人をこの場所へ引き寄せたのは自分だ。だから、消えなくてはならない。そう思った時、校内放送が響き渡った。


 それは、自分への呼び掛けだった。大人しく投降しなければ、人質を一人ずつ殺す。その人質には、葵の友人が含まれていた。葵は踵を返し、犯人の元へ出向いた。犯人の占拠する放送室では、既に人質の大半が射殺されていた。


 武装する犯行グループの一員を一人ずつハードルを越えるように薙ぎ倒し、葵は放送室へ向かう。途中、もう一方のーー和輝に似た友人に遭遇した。

 彼は言った。


 逃げろ。

 行っちゃいけない。

 危ないだろう。


 葵はそれを振り切って、殴り飛ばして、それでも放送室へ向かった。


 嬉しそうに切り刻まれながら、葵は、犯人を打倒した。そして、ナイフを向けた。殺すつもりだった。事実、振り落としたのだ。ーー和輝に似た友人が飛び込んで、殴り掛かって来なければ殺していた。


 間も無く警官隊が突入し、呆気なく事件は収束した。けれど、自分に存在感が殆ど無いからと言って、そのままその場所で生きていける筈も無かった。


 大学を辞め、葵は渡米した。誰も葵を知らない地で、母国の匂いのない国で生きていくのは楽だった。幸い、語学には堪能で、両親や兄の残した遺産のお陰で不自由もしなかった。


 二年程経った頃、何の前触れも無く突然エアメールが届いた。何故か毛筆の妙に力強い字で、渡米する旨が記されていた。葵は変わらない友人の強引さに呆れながら、了承の返事をした。嬉しかったのだ、本当に。けれど。


 友人を乗せた銀色の旅客機が、国際犯罪組織の自爆テロで爆発炎上したあの日、葵は世界の摂理を唐突に思い出した。


 この世界は冷たくて残酷だ。

 けれど、これ以上のものは何処にも無い。逃げ場も無い。


 ヒーローがもしも存在するのなら、どうしてもっと早く、自分の前に現れてくれなかったんだ。


 エレベータの扉が開く。乗っていた人間が何もなかったように降りて行く。人の波に揉まれる葵を知覚する人間はいない。自分はこの世界から拒絶されている。周囲の真似事をするようにエレベータへ体を滑り込ませ、目的階のボタンを押す。誰も咎めはしない。扉が開いたことに不信を感じても、声にすることはない。上下するだけの鉄の箱を見送る。


 暖色に包まれた穏やかな廊下は無人だった。外界から遮断され、リノリウムの床は蛍光灯の光を固く反射している。


 叩き付けるつもりで足音を鳴らしても、誰も咎めない。不躾に、赤の他人の病室を押し開けても、文句すら無い。


 個室だ。窓辺には無人のベッドが鎮座している。使用者がいないことを訴えるように、シーツには皺一つ無く、花を活けるべき花瓶すら見当たらない。酷く残念に思うと共に、安堵した。誰もいない病室を見渡して、果たして自分は此処へ何をしに来たのだろうと、今更疑問に思う。――和輝に睡眠薬を呑ませて、まで。




「Diamond's acquaintace?」




 背後から声を掛けられて、ぼうっと立ち尽くしていたことに気付く。


 振り返れば、金髪碧眼の青年医師が微笑んでいた。白衣に碌な思い出の無い葵としては、眉を寄せるしかない。


 医師は葵が反応しないと、少しだけ頭を傾けて問い掛けた。




「Japanese?」

「……Yes」

「――そうか」




 途端、青年医師はからりと微笑んで、母国の言葉で返事をした。




「じゃあ、ルビィの知り合いかな。残念だけど、あの子はもう」

「知り合いではありません」




 ばさりと切り捨てるように言えば、青年医師は驚いたように目を丸くした。




「ただ、逢ってみたかっただけです。……世界から拒絶されたあの人に」




 あの人――。

 詳しいことは何も知らない。無遠慮なマスコミが、プライバシーも無視して『彼』を勝手に報道しただけだ。


 先天性の免疫不全による感染防御機構不全。擦り傷すら致命傷になりかねず、生まれた時から無菌室で生きて来た。そして、徐々に肩甲骨が隆起して行く後天性の奇形。病名すら付けられない『彼』を学者は実験動物と同等に扱い、偉そうな顔をして論文を書き上げては発表し、自らの名誉を訴えた。治療法等無い。そもそも、『彼』を治療しようだなんて誰も思ってはいなかっただろう。此処は病院という名を借りた見世物小屋だ。医者は経過観察として、人工的に完璧に管理された空間で飼育して来たに過ぎない。


 彼――ダイヤモンドという名の、18歳の青年。


 青年医師は苦く微笑んで、言った。




「世界から拒絶された――か」




 溜息混じりに零された言葉は、葵に対する侮蔑も含まれていただろう。


 眉一つ動かさない葵に、青年医師は言った。




「僕はJadeという。ダイヤモンドの担当医をしていた」

「……申し遅れました。神木葵と申します。失礼な物言いを致しました。申し訳ありません」




 Jade――ジェイドは首を振った。




「気にしないでくれ。残念だけど、ダイヤモンドはもう此処にはいないよ。きっと、戻っても来ない」

「……何処へ?」

「世界へ」




 晴れ晴れとした笑顔で、ジェイドが言った。其処には何の打算も無く、ただ只管に、彼――ダイヤモンドの幸福を喜んでいる様子が伺えた。




「ダイヤモンドは世界から拒絶されているのではない。あれは正に、人類の進化の過程なんだよ」

「論文を読みました。絵空事です」

「無菌室から出ることが出来ないと言われて来たダイヤモンドが今、世界中を旅して回っている。それでも?」

「旅? 免疫不全でしょう。死に至りますよ?」

「適度な日光と風さえあれば、治癒力は常人より遥かに高い。……実は一度、無断で中庭へ連れ出したことがある。誤って茂みで指先を切ったんだ。慌てて患部を診たんだが、僕が何かをする間も無く傷口は何も無かったかのように塞がってしまった」

「そんな馬鹿な話を誰が信じますか」

「誰も信じなかったよ。あいつは無菌室でしか生きられない。本人にも周囲にもそう思い込ませた。学者達が己の下らない虚栄心を満たす為にね」




 葵は黙った。この馬鹿げた与太話を何時まで聞けばいいのだろう。

 けれど、ジェイドはそれが真実だと訴え掛ける。




「この場所に閉じ込めて、出て行けば死ぬと知らしめた。鳥籠の中の鳥にした。でも、本当は、渡り鳥のように飛び続けることが、あいつにとっては最良で、最適な世界だった」

「渡り鳥……」

「そうだよ。現に、あいつは今も世界を旅しながら生きている。劣悪な環境も、悪質な伝染病もものともせずに、今もこの世界で呼吸をしている」




 そんなことがある訳が無い。葵は思う。

 けれど、もしもそれが真実ならば?




「あいつを連れ出してくれた人がいたんだ。君と似た、黒い髪と瞳をしていた女性だった」

「……その人は信用に足る人物なのですか?」

「身元は保証する。まあ、仮に彼女が悪質な詐欺師だったとしても、それを退けられるくらいに、あいつ等は強いから大丈夫だよ」

「あいつ等?」

「ああ、そう。ダイヤの育ての親――悪友みたいな奴がいてね。そいつを連れて、三人で世界を回っている」

「学会は許さなかったでしょう。あなたの立場も危ういのでは?」

「お陰で、こんな辺鄙な病院へ左遷させられているよ。でも、俺は最良の判断をしたと思っている。あいつが生きていることが、俺にとっての幸せだったから」




 眩しそうに目を細めたジェイドは、葵を見てはいなかった。まるで何処か遠くを見据えるようだ。


 誰もがそうして献身的になれる訳じゃない。こんな奇跡は通常起こり得ない。作り話だ。御伽噺だ。――けれど、これがもしも真実ならば?


 ヒーローはいる。救いの手はある。

 この世界は絶望ではない。明けない夜は無い。


 当たり前みたいにそう言って笑う同居人の顔が思い浮かぶから、葵は息苦しくなった。

 まるで心臓が握り潰されるかのように軋んだ。




(止めてくれ)




 葵は俯いていた。唇を噛み締め、拳を握る。そうでなければ、下らない言葉が漏れてしまいそうだ。さもなくば、両耳を塞いで目を閉じて、蹲ってしまいそうだった。


 ヒーローは、いる。――じゃあ、なんで。



 なんで、俺の前に現れてくれなかったんだ!



 葵が胸の内に吐き捨てた瞬間だった。

 耳を劈くような非常ベルが鳴り響き、死んだように静まり返っていた院内が息を吹き返すが如く動き始めた。

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