⑶女優

 寂しかったよ。


 天才子役として鮮烈にデビューし、ハリウッド女優として世間を席巻し、稀代の悪女として名高く、常にその名は流れ続けた。その強い女性が、まるで置いて行かれた迷子のように、幼い少女のように、呟いた。


 葵は、苦虫を噛み潰したような顔をした。


 泣き言を言うなんて、卑怯じゃないか。お前が覚悟を決めて選んだ道なんだろう。

 それなら、清濁併せ呑むくらいの生き方をして、見事に散って欲しい。間違っても、こいつにだけは、助けを求めるな。


 葵の祈りにも似た願いは届かない。和輝は、表情を失くしたアイリーンの面を覗き込む。




「誰も、愛してくれなかったんだね」




 ぽつりと零された和輝の言葉が合図だったように、アイリーンはその場に蹲った。


 相手はハリウッド女優だ。これが演技でない保証が何処にある。百歩譲って、葵の調べた過去が真実だとしても、同情する余地が何処にある。そんな義務は存在しない。霖雨は蹲る彼女へ、駆け寄ろうとは思えなかった。けれど、全て身から出た錆だと嗤うことも、出来なかった。




「愛してくれただろう」




 眉を寄せ、理解出来ないものを見るような侮蔑的な視線を向けて葵が言う。




「お前にも、ファンがいただろう。女優として生きると決めたなら、ファンの応援を糧とするのが筋だろうが。こんな、見ず知らずの馬鹿に縋るな」




 突き放すような物言いで、葵は、アイリーンを和輝から遠ざけようとする。


 アイリーンが言った。




「ファンが望むのは、画面の向こうにいるただのキャラクターよ。等身大の私の居場所なんて、何処にも無かったわ」

「だから、恥も知らず近付く男全てに肌を許したのか? その場凌ぎの快楽を求めて?」




 アイリーンは答えなかった。霖雨も、葵と同意見だった。人の価値観や生き方を否定したくはないけれど、共感は出来ない。理解したくもない。それでも、和輝は突き放せないだろう。


 葵は言った。




「お前は才能に恵まれたんだ。そして、それを活かせる環境がある。自分を貶めるような、安売りするような真似をしなければ、幾らでも返り咲ける。その手段を放棄して、他人に未来を委ねるな。それこそ、無責任だろう」

「才能なんて、私は求めなかったわ!」

「天才には天才の悩みがあるだろう。凡人にも凡人の悩みがある。だが、生まれ持ったものに今更文句を言ったところで何も変わらないだろう。お前は山頂を目指して登っている途中だ。だが、凡人は皆、出口の無いトンネルを歩き続ける」

「葵」




 和輝が、弱り切った声で呼んだ。葵は唇を噛み締める。


 伸ばされた手を掴んだら、こいつはどうしたってそれを離せない。

 アイリーンが善人でも悪人でも、和輝は自分が転落すると解っていても手を離せない。


 そして、それが何時か取り返しの付かないことになると解っている。


 アイリーンが言う。




「一人ぼっちが嫌だった。認められたくて、我武者羅に頑張った。でも、私が頑張れば頑張る程、独りぼっちになった」




 その言葉に、和輝が辛そうに眉を寄せた。まるで、彼自身が鋭利な刃で切り裂かれたようだった。


 解るよ。

 独り言みたいに零された共感は、確かに届いていた。霖雨は苦く思う。アイリーンの気持ちが、和輝には解るだろう。そんなことは予想していた。


 彼等は、天才だった。けれど、周りの人間には、彼等がまるで化物に見えただろう。強烈な破壊力を持つ者は、恐竜のように愚鈍であるべきなのかも知れない。その繊細な感性が傷付かぬよう、鈍重であるべきだった。




「……どう思う」




 葵が、霖雨へ耳打ちする。腹芸の苦手な霖雨はなるべく表情に出さぬよう注意するのが精一杯だ。


 和輝が天才と呼ばれる人間であることは解っている。彼はヒーローで、スターだ。けれど、霖雨は、彼が強さも弱さも併せ持つ一人の人間であると知っている。長い付き合いではないが、和輝の人となりは知っている。


 だが――。

 霖雨はアイリーンを見た。


 彼女の本質を、霖雨は知らない。知らない人間を信用しろというのは、無茶な話だ。


 葵は溜息を一つ逃がし、顔を上げた。




「兎に角、移動しよう。この場所にいても、何にもならない」




 その言葉に従って霖雨は歩き出す。和輝は蹲るアイリーンの腕を引き、労わるように足を踏み出した。



 日の落ちた界隈は闇に染まっている。小汚い浮浪者が徘徊するばかりの路地裏は生ゴミの腐臭が漂っている。こんなところに世界的スターと名高い女優がいるとは、誰も夢にも思わないだろう。


 目指す先は、寂れたホテルの一室だ。格安で、泊まる人間の素性は問わない。犯罪者御用達のような建物が街には溶け込んでいる。淀みない葵の案内で、一行は裏道からホテルの受付に到着した。殿でアイリーンの手を引く和輝は静かだった。


 霖雨は、まるで此処がフィクションの世界なのではないかと錯覚してしまいそうになる。こんな非現実的な状況は、初めてではない。非日常と日常は平行世界で、何時交わるか誰にも解らないのだ。


 慣れたようにチェックインを済ませ、俯き黙ったままのアイリーンの元へ向かう。葵は和輝の手を離さないアイリーンを忌々しく睨んだ。




「303号室だ。朝になるまで、潜めていろ」




 エントランスホールに人気は無い。受付らしいラフな服装の男が、皺だらけの古新聞を退屈そうに眺めている。


 安っぽい鍵を手渡そうと差し出すが、アイリーンは一向に反応を示さない。和輝の腕を二度と離すまいと強く握り締めている。和輝も振り払えない。それが、一層葵を苛立たせる。




「好い加減、離せ。ほら」




 引き離そうと、手を伸ばした瞬間だった。


 葵の目に銀色の閃光が映った。大きく振り翳された刃が、頭上から照らす白熱灯の光を反射する。


 霖雨が何かを叫ぶ。

 アイリーンの手には、その身に見合わぬ大きな刃が握られている。その切っ先が狙うのは、逃すまいと捕らえた和輝だった。葵の脳が判断を下し、伝達を受けた四肢が動き出すまでのコンマ数秒。刃は真っ直ぐに振り下ろされた。


 カシャリ。

 カシャリ。

 何処かでシャッターの音がしていた。白熱灯を掻き消す程の強烈なストロボの光が網膜を焼く。それでも止まらない刃は振り下ろされ、獲物を引き裂いた。




「――和輝!」




 悲鳴のように、霖雨がその名を呼んだ。和輝は煤けた絨毯の上に倒れた。


 カシャリ。

 カシャリ。

 パシャッ。

 シャッター音が響く。

 伏せたままの和輝は起き上がらず、その様をアイリーンが獣のように睨んでいる。更に襲い掛かろうと刃を振り上げたアイリーンを、葵が一瞬で組み敷いた。一分間にも満たない十数秒が、霖雨にはコマ送りに見える。




「和輝」




 アイリーンが、呪うようにその名を呼ぶ。和輝の背がびくりと震えた。


 ゆっくりと起き上がった和輝の頬には、線のようにか細い切り傷があった。けれど、その痛みすら知覚していないのか、和輝は泣き出しそうにアイリーンを見ていた。




「筋書き通りになったかい」




 その声を打ち消すように、影を潜めていたパパラッチの群れが押し寄せた。同時に駆け付けた警官がアイリーンを拘束し、凶器を取り上げる。パパラッチに出遅れたテレビカメラとリポーターが忙しなく状況を訴える。


 拘束されたアイリーンが連行される。しゃがみ込んだままの和輝へ無数のレンズが向けられ、霖雨は遮るように立ち塞いだ。




「こっちは一般人だ。映すんじゃない」




 霖雨の言葉を意にも介さず撮影を続ける一同をそのままに、葵は和輝の腕を強引に取った。


 一瞬にして、湯が沸き立つように騒がしくなったエントランスホールに、何事かと野次馬が押し寄せる。葵は今にも崩れ落ちそうな和輝の腕を引っ張って、ホテルを出て行った。











 7.a woman actor.

 ⑶女優











 アイリーンによる傷害事件が、世間を賑わせている。


 和輝は被害届けを出さなかった。一連の騒動は新作映画の遣り過ぎた宣伝であるとされ、問題視されながらも注目を集めている。新作映画は間違いなく大ヒットするだろう。


 テレビは先日の騒動の話題で持ち切りだ。和輝は痴呆のように窓の外を眺めている。ここ数日、そのままだ。初夏の眩しい日差しに照らされながら、車両整備士のアルバイトも休んでいるようだった。霖雨はその姿が見ていられなくて、息苦しくなる。煙草の臭いを漂わせながら、葵が現れた。


 リビングで虚しく騒ぐテレビの電源を落とし、ぼうっとしている和輝の後頭部を叩いた。




「何時までやってんだ。顔洗って来い」

「葵」




 和輝は眉を寄せ、目を伏せた。


 一体、何処から何処までが、彼女のシナリオだったのだろう。全てが演技だったのだろうか。和輝は、それが知りたかった。


 投身自殺しようとしていた瞬間から、アクションは始まっていたのだろうか。じゃあ、彼女の零した言葉も全てが嘘だったのか。虚構の世界で生きて来た彼女にとって、現実等、最早虚構にも劣る滑稽な世界なのだろうか。


 苛立っているらしく目を細めている葵を見上げ、それでも和輝は問い掛けずにはいられなかった。




「俺は、あの子を、救えたのかな」




 葵は、言葉を呑み込んだ。


 騙されて、怪我までさせられて、何を言っているんだ。

 葵は、黙って舌打ちを零した。


 何処までが、彼女のシナリオだったのだろう。

 そんなことは葵にも解らない。ただ、最悪のシナリオを思い描いている。


 あの日、あの場所でアイリーンは和輝を殺害し、自殺する。それを撮影させ、悲劇のヒロイン、稀代の悪女として幕を引く。

 それが、葵の思い浮かぶ最悪のシナリオだ。




「全ての人と解り合えるとは思わないよ」




 和輝が言った。

 それは至極当然のことなのに、あってはならない悲劇のような響きを帯びていた。


 天才と呼ばれる人間がいる。和輝も、アイリーンも、きっとそうだった。凡人から敬遠され、憎悪と羨望の対象とされ、打ち倒すべき敵であり、乗り越えるべき壁だった。けれど、ただの人間だった。


 彼等にとっては、解り合えない人間が大半だった。だから、アイリーンは選んだのだ。虚構の世界で、全てを欺く役割を選んだのだ。和輝は、それでも諦められなかった。


 だからそれは、解りたくて、解り合えなくて、救えなくて、届かなくて、傷付いて立ち上がれない程に疲弊した中で悟った諦めの言葉なのだ。


 沈黙した二人を横目に、霖雨はコーヒーでも淹れようと立ち上がる。丁度その時、来客を告げるチャイムが鳴り響いた。


 立ち上がったついでにと玄関へ向かう。覗き穴から扉の向こう側を見る。霖雨は、自分の目に映るものが信じられず声を上げた。


 その声に反応した和輝と葵が、何事かと顔を見合わせた。また、面倒事が転がり込むかも知れない。身構えながら玄関へ向かうと、腰を抜かしたのか霖雨が座り込んでいた。




「お前、何やってんだよ」



 呆れたまま葵は玄関の扉を開けた。そして、目を疑った。


 凶器のように鋭いピンヒール。ティアドロップのサングラス。死人のように白い頬。血のように赤い唇。目深に被られたベースボールキャップから金髪が溢れ落ちている。数日前と変わらぬ、まるでタイムスリップでもしたかのように、寸分違わぬ女性が其処に立っていた。




「アイリーン」




 和輝が、その名を呼んだ。


 アイリーンはサングラスを外した。碧眼の嵌め込まれた美しい瞳が、和輝を捉えて細められる。真っ赤な唇が弧を描いた。




「久しぶりね」

「どうして此処へ?」




 不思議そうに和輝が問い掛ける。先日、殺されかけた相手とは思えない反応だ。


 咄嗟に身構える葵を一瞥し、アイリーンは微笑んだ。




「撮影で近くまで来たから、挨拶でもしようと寄っただけよ」

「そうか」




 和輝も、それきり何も言わない。

 黙った和輝に代わって、葵が問い掛けた。




「何処までが、お前の筋書きだったんだ?」




 すると、アイリーンは嬉しそうに微笑んだ。和輝には、何故だかそれが酷く虚しく見えた。




「筋書きの無い世界なんて、あるのかしら?」




 葵は黙った。言い返さない葵が珍しく、和輝はその苦々しく歪められた横顔を見詰める。


 アイリーンが言った。




「和輝、また会いましょう」

「そうだね」




 和輝は、全ての柵から解き放たれたかの如く、美しく微笑んだ。

 アイリーンが驚いたように目を丸める。




「貴方、感情が無いの? 私が憎いとも思わないの?」

「別に」




 尻餅を付いたままの霖雨を助け起こし、和輝は微笑みを崩さない。




「全てが偽りで、真実なんて何処にも無いのかも知れない。自分で選び取ったと思う未来が、本当は誰かの筋書きに過ぎないのかも知れない。――それでも、あの時の君の言葉全てが、嘘だとは思えないから」




 だから、俺はそれでいい。

 そうして何事も無かったかのように和輝が笑った。


 隣で葵が、呆れて物も言えないように眉を寄せている。霖雨は、それでこそ和輝だと言うように誇らしげに微笑んだ。




「馬鹿な男」




 そう言って、アイリーンは鼻を鳴らした。


 外されたサングラスを掛け、美しく踵を返す。レッドカーペットを歩いているかのように凛然と進む彼女は振り返らない。葵は疲れを滲ませ、乱暴に扉を閉めた。


 全てが嘘だとは思えないから――。


 和輝は目を閉ざす。あのティアドロップのサングラスが碧眼を覆い隠す刹那、確かに和輝は見たのだ。ダイヤモンドのように透明な光が、確かに零れ落ちる様を――。




「コーヒーを淹れよう」




 切り替えるように霖雨が言った。




「よく蒸らせよ」




 葵が口を出す。


 解ってるよ。

 五月蝿そうに手を振る霖雨の後を追って、葵も歩き出す。

 和輝は、もう見えない筈の彼女の姿を打ち消すように、そっと鍵を落とした。

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