⑵悪女
インターネットの普及は、果たして人類の進歩と呼べるのだろうか。
部屋を出ること無く、人とのコミュニケーションや世界の情報を知ることが出来る。それは裏を返せば、自分の情報すらだだ漏れということだ。一度インターネットへ流れた情報は消すことが難しい。悪性腫瘍が体中に転移するように、プライバシーは侵害されている。
和輝は葵の隣で、ノートPCを眺めている。ネット上に溢れる膨大な情報の中で、アイリーンのことを検索すれば目を覆いたくなるような悪評ばかりだった。フィクション世界のような悪事が大々的に流されているのは、需要があるからだ。世界は彼女の失墜を望んでいる。
アイリーンは気にする様子も無く、優雅に足を組んでダージリンティーを啜っている。けれど、まるでそれが一枚の薄いガラス板を挟んだ虚構の世界を見ているようで、和輝は嫌な既視感を覚える。
無意識に顔を歪めた和輝を横目に捉え、葵が言った。
「ネット上の情報なんて、真偽不明だ。情報を上げる人間のモラルは低下しているが、読み取る側の人間の質も悪化している。此処は人間の本性が覗ける掃き溜めだ」
インターネットに詳しくない和輝としては、葵の言葉を信じるしかない。
嘘も真実もごちゃごちゃに攪拌されて、元々の情報すら判断出来ない。張本人が何を訴えたところで火に油。のめり込めば人間不信になるぞ、なんて葵は冗談交じりに忠告した。和輝とて、そんなことは解っている。人伝に聞いた情報が正確なものとは限らない。真偽を分別出来る判断力が求められているのだ。
けれど、この胸の痛みは何だろう。まるで、胸の内側から握り潰されるような、心臓が激しく拍動して息苦しくなるような、この痛みは何なのだろう。
和輝が黙っていると、足を組み直したアイリーンが言った。
「全て、真実よ」
事も無げに吐き出された言葉に、目眩がした。和輝は思わず目頭を押さえる。
「援助交際も、不倫も、賄賂も、枕営業も、全て真実よ」
「希代の悪女が健在で嬉しいよ」
黙った和輝に代わって、葵が笑って返した。
「中々楽しそうな人生じゃないか。最後はどうやって幕を引くんだい? ――通勤ラッシュ時の投身自殺じゃ、話題性が足りないように思うけど」
和輝は、葵に何も話してはいない。けれど、何か確信を持ったらしい強い言葉だった。
「俺としては、何か大事件を起こして、警官隊に射殺されるくらいのインパクトが欲しいね」
「それもいいわね」
アイリーンは薄く笑った。
ついて行けない。
二人の会話に挟まれ、逃げ道を求めて霖雨を見ると、気の毒そうな顔をして手招きをしてくれた。
そっと席を立って霖雨の隣に座る。霖雨が耳打ちした。
「関わらない方が良いんじゃないか?」
「でも」
「助けを求めているようには、見えないけれど」
和輝は口篭る。
自分は余計なことをしたのだろうかと悲観的になるけれど、目の前で死のうとしている人がいたら、助けようとするだろう。それが間違っているとは、思わない。葵はきっと、自己責任だと吐き捨てるに違いない。
不吉な笑い声を漏らすアイリーンへ向き直り、和輝は問い掛けた。
「家族はいるのかい?」
「インターネットに書いていなかった?」
「俺は、今、君の口から聞きたいんだ」
アイリーンはやれやれと言わんげに溜息を零し、答えた。
「いないわ。所謂、天涯孤独の身って奴ね」
「そうか……」
「私が殺したの。七歳の時に」
流石に、和輝は黙った。彼女がからかっているようにも、冗談を言っているようにも見えなかったからだ。
灰皿はある?
アイリーンの問い掛けに、葵はキッチンを親指で指し示した。
「この家は換気扇の下だけが喫煙所なんだ」
「あら、家の中だっていうのに不自由ね」
「全く、同感だ」
悪童のように嗤い、葵はキッチンへ消えるアイリーンを見送った。
残された和輝と霖雨が居心地悪そうに肩を寄せ合っているので、葵は笑った。
「お前が連れて来たんだろ。最後まで面倒見てやれよ」
「それを求めているようには見えないよ」
霖雨が庇うように言った。葵は更に続ける。
「一応調べてみたけど、情報は全部真実で裏付けがある。三歳の時に天才子役として鮮烈にデビュー。七歳で両親を殺害し、財産目当ての親戚を躱して、未成年ということで施設に預けられた。そのまま女優として活躍し、最近は話題に事欠かない」
「何で?」
「何が?」
和輝の問い掛けに、葵が訊き返す。
和輝は言った。
「何が彼女を駆り立てているのかな」
「……何処までも性善説で行くつもりか?」
葵が呆れ切ったように吐き捨てた。
「あの子の選んだ人生を、お前の物差しで測るなよ。お前の思う正解を押し付けて、あの子にも事情があったんだと言いたいのか? 別にいいじゃないか。あの子が満足なら、それでいいんだよ。誰の指図も受けなくていい。風の向くまま気の向くまま自由に生きているじゃないか」
「そうかも、知れないけど」
「生まれたからには天寿を全うせよ、とでも謳うつもりか? 夭折が悪だとでも?」
「解らないよ。解らないけど」
「お前、あの子に誰を重ね見てる」
槍で貫くように、びしりと葵が言った。咄嗟に言葉が出ず、和輝は硬直する。
「他人の人生に口を出すな。お前は親切のつもりでも、大きなお世話だ」
「――何を意地になっているんだよ、葵」
見ていられなくなった霖雨が、間に入るようにして制止する。漸く葵は黙り、背凭れへ大きく倒れ込んだ。
和輝はすっかり俯いてしまっている。カウンターキッチンの向こう側で、この遣り取りを聞いていた筈のアイリーンは何も言わない。
静まり返ったリビングで、重苦しい沈黙を取り払うように霖雨が言った。
「葵は、和輝が心配なんだね。厄介事に巻き込まれて欲しくない」
「違う」
「そうじゃないか。違うなら、忠告なんてしないで、放って置けばいい」
穏やかな口調でありながら、霖雨は決して折れない強さが滲む。和輝はそれが何だか眩しくて、目を細めた。
遣り取りを聞いていたらしいアイリーンが、煙草の臭いを纏いながらリビングに戻った。
「貴方達、どういう関係? 家族にも見えないけど、友だちとも思えないわ」
「友だちだよ。大切な」
照れも怯えも無く、霖雨が言った。和輝は擽ったそうに笑った。
アイリーンが小馬鹿にするように鼻を鳴らしたその一瞬、目を細めた。それはまるで、先程の和輝が眩しさに目を細めるのに似ていた。茶番だと言いたげな葵は立ち上がり、大きく背伸びをした。
「お茶も飲んだみたいだし、そろそろ退出願いたいんだが」
「葵」
霖雨が止める中、葵は手元のノートPCをくるりと回転させて見せた。
玄関らしい映像が映っている。端に映る数字が、今現在の時刻であることを告げている。鮮明な映像には見覚えのないニット帽の男が二人、様子を伺うように映っていた。
「何だ、こいつ等」
「パパラッチだよ」
ほら、と葵が指差す先に、男の持つカメラが映った。何処から付けられていたのだろう。和輝は自分の不覚を恥じる。
葵は準備運動のように腕を伸ばし、屈伸する。
「これだけ世間を賑わせているんだ。そんな女が男に連れられて、一般民家に足を運ぶ筈も無いだろう」
「お帰り願えないかな。丁寧にお断りしてくれよ」
「火のないところに煙は立たないというが、ないところには火を点ける奴等だぞ」
行くぞ。
珍しく乗り気な葵に釣られるようにして、和輝と霖雨も立ち上がった。
7.a woman actor.
⑵悪女
「I don't know.」
馬鹿みたいに、そればかりを繰り返す。葵は好い加減うんざりする。
今頃、和輝と霖雨はアイリーンを連れて裏口から脱出している。この家の中に彼女はいないし、パパラッチの喜ぶ餌も無い。痛くもない腹を探られるのは構わないが、好い加減飽きてしまった。
丁度、ポケットに入れた携帯電話が震えた。葵は見せびらかすようにして着信に応えた。和輝だった。
「そうか。じゃあ、俺ももう行くかな」
それだけ答え、通話を終える。目の前のパパラッチに、嫌味な程晴れ晴れと微笑み掛ける。
「これから出掛ける用事があるんだ。俺はお前等の探すハリウッド女優とは面識も無いし、家の中に情報も無い。探すならご自由に。でも、何も見つからなければ、相応の報復は覚悟して頂きたい」
淀み無く言えば、パパラッチは諦めたように舌打ちを一つ零して、名残惜しげに去って行った。
葵は携帯電話を見遣る。間も無く、彼等は目的地に到着するだろう。
和輝は、人気の無い裏通りを歩いている。ただでさえ存在感のある人間を連れているのだから、わざわざ人通りの多い場所は選ばない。少し後ろで聞こえるピンヒールの音。隣で霖雨が言った。
「訳が解らないな」
悪戯っぽく、霖雨が笑う。場を和ませようとしていると解る。和輝も微笑んだ。
あの時――。葵の言葉で我に帰った。自分は誰と重ね見ていたのだろう。救えなかった少女か、それとも。
悪質なマスコミによる根も葉もない報道に苦しめられたのは、自分だった。和輝は、アイリーンを自分に重ね見ていたのだ。救いたかったのは目の前の彼女ではなく、哀れな過去の自分だ。その馬鹿らしい自己擁護行為が、今は何より腹立たしい。
高かった筈の日は傾いて、周囲は橙色に染まっている。直に日が落ちて闇に染まるだろう。その前には目的地に到着したいが、葵と早急に合流したいとも思った。自分の弱さに打ちのめされそうになる。霖雨はきっと慰め、励まし、優しく肩を抱いてくれる。けれど、今は、叱咤し、突き放すような残酷さを求めていた。
「天涯孤独の身だって言っていたね」
和輝は自分の思考に囚われている横で、霖雨はアイリーンへ声を掛けた。悪意無く接する霖雨に、人は警戒心を緩めてしまう。そういう隙が変質者に狙われるのだ。アイリーンは穏やかな霖雨へ目を向け、溜息混じりに肯定した。
霖雨は少し困ったように眉を寄せ、笑った。
「俺も、そうだった」
ぽつりと零された霖雨の声は、静かに反響した。
日が落ちる。闇が降りて来る。
それでも、霖雨の周囲だけが無数の光の粒子に照らされているように明るく見えた。
「両親がいたんだけど、二人共事故で亡くなった。俺は親戚中を盥回しにされて、遺産を食い荒らされた」
霖雨の話を横で聞きながら、和輝は記憶違いかと首を捻る。確か、彼には双子の兄がいた筈だった。
霖雨は続けた。
「俺は辛かったよ。無宗教だから、縋る神もいないし、誰にも助けを求められなかった」
「そう」
「君は、違ったのか?」
アイリーンは何も言わなかった。重く苦しい嫌な沈黙が流れた。
漸く、アイリーンが口を開いた。
「貴方は、弱い人間なのね」
「そうだよ。俺は、弱かった。傷付くことが怖くて、膝を抱えて蹲っていたんだ」
「そんなことない」
和輝が否定する。
和輝にとっては、それは弱さではなく、優しさだった。
けれど、アイリーンは言う。
「貴方は逃げることを選んだ」
「そうだ。そして、君は戦うことを選んだ」
穏やかだった霖雨の瞳に、強い光が滲む。和輝ははっとした。
正面から、原動機付きバイクに跨った葵が迫っていた。
葵は道の端にバイクを停めると、ヘルメットを脱いだ。霖雨が嬉しそうに駆け寄る横で、和輝は地面に縫い付けられたように動けなかった。アイリーンが言った。
「私は何も間違っていないわ。私が思うように、私が責任を負うつもりで、私が覚悟をして、生きて来たのよ」
それは強がりに聞こえた。和輝は胸が軋むように痛んだ。
その意味を、和輝は既に知っていた。
「人は独りきりじゃ生きられないんだよ」
その瞬間、激昂したかのようにアイリーンが叫んだ。
「あんたに何が解るのよ!」
「全部は解らないよ。それでも、俺は解りたい」
怯むことなく、和輝が言い返す。その様を見ていた葵が、ヘルメットを置いて歩み寄る。
「お前、虐待を受けていただろう」
アイリーンが、油の切れた機械のように動きを止めた。葵は尚も続ける。
「母親の強烈な押しで、お前は子役デビューした。子どもとは思えない天才的な演技と、類希な容姿に世間からは注目を集めた。結果、莫大な金が転がり込んだ。……お前の母親は、お前のことを娘と見ていなかっただろう。自己顕示欲を満たす道具、金儲けの手段。そう見るようになった」
「何処で聞いた話だ」
「インターネットだよ。今じゃ何処も記録は機械の中だからね。ネット回線さえあれば、幾らでも調べられる」
「違法だろうが」
「或いはね」
霖雨の追求を放逐し、葵は続けた。
「子どもの稼ぎを巡って両親は離婚。お前は母親に引き取られた。母親は若い男とすぐに再婚した。五歳の頃だ」
アイリーンは何も言わない。岩のように固まっている。葵は無表情で、その彼女を追い詰めるように問いを重ねた。
「新しい父親は優しかったか? 褒めてくれたか? 抱き締めてくれたか? ――だから、性的な関係を許容したのか?」
その瞬間、アイリーンの相貌から血の気が引いた。死人のような面で、真っ赤に塗られた唇だけが、酸素を求める魚のように忙しなく開閉する。
和輝は耳を塞ぎたくなった。或いは、葵の口を塞ぎたかった。そんなことを聞いても、誰の得にもならない。何にもならないなら、聞かなくていい。過去のトラウマを並べ上げたところで、不毛なだけだ。
「お前と夫の関係を知った母親は逆上した。そして、何があったかは知らないが、お前は二人を殺した。七歳の時だ」
「もういい」
耳を塞ぎ、蹲ろうとする和輝の腕を、霖雨が掴んだ。
良いから、聞け。
彼らしくもない厳しい口調だった。
「天才子役だったお前には、この程度の事件、痛くも痒くも無かっただろう。話題性から更に注目され、仕事も増えた筈だ。そのまま、お前は芸能界で尻軽女として遊んでいた。事実だろう。ネット上の情報の真偽を探るくらい、一般人の俺にだって出来るんだぜ」
葵は笑っている。
「麻薬と同じだ。一時的な快楽は得られても、根本的な解決には何一つ繋がらない。前進しているつもりで、泥濘に嵌ったように沈んでいるんだぜ」
「余計なお世話よ。私は、全部承知で、全部背負うつもりで、此処まで生きて来たのよ。何の後悔も無いわ。あんたに指図される謂れも無い」
「じゃあ、何で」
忌々しげに、葵の相貌が歪む。何かを一瞬躊躇うように口元を結び、視線を巡らせた。その目が泣き出しそうな和輝を捉え、喉の奥まで押し寄せた衝動は遂に吐き出された。
「何で、こいつに関わったんだ!」
くそ。
悪態吐く葵は額を押さえた。こんなことを言うつもりは無かったと、嘆くようだった。
和輝は、葵の言う言葉の意味が解らなかった。どうして、自分が引き合いに出されたのかも解らない。葵は、苦々しげに言った。
「死ぬなら、こいつのいないところで勝手に死ねよ。期待なんて押し付けるな。どうしたって、こいつは、伸ばされた手を無視することなんて、できないんだから」
其処で漸く、和輝は理解する。葵のこの叱責は全て、和輝の為なのだ。純粋な労わりなのだ。
不器用なこと、この上ない。
お前が心配なんだよと、ただその一言すら言えない。怒りに混ぜて吐き出すのが、やっとなのだ。
腕を掴んでいた霖雨の掌に力が篭る。気持ちは同じだと、霖雨も訴え掛けているようだ。
ぎゅっと押し黙っていたアイリーンが、僅かに口を開いた。それは錆び切った和輝の耳にも届いた。
「寂しい」
その言葉が光明のように、福音のように和輝には聞こえた。
助けて欲しいのに、手を伸ばすことも出来ない。伸ばしてくれなければ、掴めない。これが勝手な英雄主義であったとしても、そうとしか生きられない。
手を伸ばしてくれるなら、何度だって、その暗闇から引き摺り出してやる。
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