⑺救いの手

 目を覚ました時、和輝が泣き出しそうに顔を歪めていた。

 現状把握も出来ない微睡んだ思考の中でも、目の前の青年に見て見ぬ振りは出来なかった。

 俺が何かを言うより早く、和輝は凍り付いたように強張る掌を包み込むようにして固く握った。俯き、何も言わず、祈るように掌を握った和輝の掌は、微かに震えていた。




「お前のこと、ずっと待っていたんだぞ」




 開け放たれた扉に凭れ掛かるようにして、葵がぞんざいに言い捨てる。




「おかえり」




 掠れるような震える声で、確かに和輝が言った。

 頬は扱け、深い隈の為なのか大きな双眸は落ち窪んで見える。時間の経過を感じさせるには、十分だった。

 俺は問い掛けねばならなかった。まるで、それこそが魂の命題であるとばかりに、急かされるように声にした。




「何で?」




 自分でも稚拙な物言いであることは解っていた。けれど、和輝が顔を上げた。疲れ切っていても尚、見る者全てを惹き付ける美しい相貌だ。そして、それは再度くしゃりと歪められた。




「何でなんて、訊くな……!」




 何処にそんな力があるのか、小さな掌は壊れそうに強く掴まれた。まるでこの場から消えていなくならないようにと、船を繋ぎ留める錨のようだ。

 伏せられた顔の下、一筋の雫が伝う。滑らかな頬を滑った雫は真っ白なシーツに吸い込まれ、小さな円を描いた。




「お前のことが、大切なんだよ」




 一言一句聞き間違うことのないように、静かながら強い祈りを込めた言葉が反響する。彼を救ってやりたいと切に願う。この握られた掌にその力があるのならば、幾らでも骨を砕こう。けれど、俺は問い掛けねばならなかった。




「どうして」




 まるで、幼児の問答だ。和輝は気を悪くした風も無く、振り絞るように告げた。




「友達だから、大切なんだ。笑っていて欲しいんだ。此処にいて欲しいんだ。――生きていて欲しいんだよ」




 それが全てだと、和輝が訴える。他の誰でも無く、俺自身が大切だと和輝が言う。嘘偽りの無い等身大の言葉で、飾り立てることのない真実だ。

 何の取り柄が無くても、己の利益にならなくても、見返りを求めず訴える。その言葉を、俺は、ずっと求めていた。




「生きていて、良かった……」




 俯く和輝の顔は見えない。

 勝手に殺すなよ、と葵が揶揄しても、和輝は何も言わなかった。

 存在の肯定。ただ、此処にいるだけで、認められる。許される。代替出来る誰かじゃなくて、俺自身を望んでいる。例え世界中の何が信じられなくなっても、この言葉だけは疑いようも無かった。方法的懐疑が脳裏を過るけれど、それすら霞む強い祈りだった。








 6.福音

 ⑺救いの手








 縫い針が見付かったよ。


 霖雨を誘拐した実行犯は、病院へ搬送されるも敢え無く死亡した。その報告を受け、和輝は既に通い慣れてしまったN.Y.P.D.へ急行した。このことは、入院している霖雨にも、自宅で惰眠を貪る葵にも黙っている。

 懇意にしているFBI捜査官が、苦虫を噛み潰したような顔で出迎えた時点で、嫌な予感がしていた。

 促されるまま、無人の会議室へ足を踏み入れる。捜査官は、一枚のレントゲン写真を呈示した。

 胸部レントゲン写真。肺、気道、心臓を守るようにして胸骨が囲む。内蔵の核とも呼ぶべき心臓を凝視する。糸のように細い筋が浮かんでいた。


 これが、死因だよ。


 失血死だ。その言葉に、まるで頭から真っ逆さまに転落するような恐怖が襲った。

 普段の態を崩さぬよう表情筋に力を入れ、何でもないことのように問い掛ける。


 どうして縫い針が?


 白々しいと、感情の機微に気付かれたかも知れない。しかし、百戦錬磨の捜査官は敢えて追求はしなかった。

 男は病院へ搬送された時には手遅れだった。和輝は顔面の強張りを感じながら答えた。


 室内は物が散乱していましたから、運が悪かったのでしょう。


 嘘だ。自分の言葉を否定する。

 心臓の真上へ意図的に刺されたそれは、胸骨を避け、明らかな殺意を示している。男は殺されたのだ。そして、手を下した人間を、和輝は知っている。

 縫い針から指紋は検出されなかった。計画的だ。あの場所へ向かう時から、彼は殺意を持っていたのだろうか。

 捜査官は、何かを言いたげにじっと見詰めていたが、遂に問い掛けることは無かった。和輝とて、答える術も無い。何処にも証拠は無い。誰にも証明出来ない。

 ただ、間に合わなかったことを悟った。


 *


 最新鋭の薄型ディスプレイの向こうで、カメラのフラッシュが激しく点滅している。

 母国に比べ、この国のパパラッチは執念深く、陰湿だ。ハリウッド女優のプライベートを探りスクープするマスメディアを、霖雨はぼんやりと眺めている。


 NY郊外の長閑な田舎町にある小さな診療所が、今の霖雨の居場所だ。ベッドは古いが、布団は良く干され、日光の匂いがする。煤けた壁も味があると思えば、悪い環境ではない。


 ベッドサイドのチェストにはガーベラが二輪、コップに活けられている。ピンクと黄色のガーペラは彼等からの見舞いの品だ。霖雨は退屈凌ぎに見ていたテレビの電源を落とし、背凭れへ身体を預けた。


 自分へ異常な執着を持つ変質者に誘拐され、違法薬物を投与された。約三日間の監禁、及び薬物投与の末、霖雨は同居人によって救出された。


 俄かには信じ難い救出劇だったと事情聴取で聞かされた。

 霖雨とて同感だが、スーパーマンのような彼等ならば可能なのだろう。霖雨は、違法薬物による昏睡状態の中で、確かに彼の声を聞いた。助けを求めて手を伸ばした。それをしかと握った小さな掌を、今も覚えている。


 当分は入院生活だ。薬物による後遺症も現在のところ見られないが、何が起こるか解らない間は絶対安静となっている。


 入院生活は安全だが、退屈だ。暇潰しに、見舞いの品の一つである雑誌へ手を伸ばす。


 乾いた音が転がった。此方の返事を待たずして、扉が軋むように開かれる。現れた小さな人影に、霖雨の視線は強烈に吸い寄せられた。強力な磁石のように、引き合う水滴や惑星のように、霖雨は小さな影を見詰め、微笑む。



「やあ、和輝」



 件のスーパーマン――蜂谷和輝が、神様のえこ贔屓とばかりの美しい相貌で笑った。


 霖雨は雑誌を元に戻し、側に置かれたパイプ椅子を勧めた。和輝は促されるまま其処へ腰掛けた。


 見舞いの品らしきビニール袋を手渡され、礼もそこそこに霖雨は中を覗いた。麩菓子が入っていた。懐かしい茶色の長方形をした駄菓子に、霖雨は毒気抜かれた心地で笑う。




「実家から荷物が届いてね、大量の駄菓子が入っていたんだ。お裾分け」




 子どものように無邪気に和輝が言った。霖雨は包装された麩菓子を一つ取り出す。


 黒糖の甘い香りが鼻腔を擽った。駄菓子に思い出は無くとも、何故だか無性に懐かしい気がする。不思議な感覚に囚われる。齧り付けば特有の軽い食感が返って来る。


 むしゃむしゃと頬張っていると、和輝が窓の外を見遣りながら言った。




「調子はどうだい」

「いい感じだよ。退屈さえしなければ、ずっと此処にいてもいいくらいさ」

「そうか」




 軽口を叩くが、和輝は笑わなかった。困ったように眉を寄せている。




「俺が、お前を巻き込んだ」




 仮面のような無表情を貼り付けて、震える声で和輝が言った。


 本来の彼は論理的で、冷静なのだろう。頭の回転も早く、感情の切り替えも早い。けれど、楔のように深く突き刺さった何かがそれを阻害している。和輝から漂うのは後悔、自責の念だ。


 彼が負い目を感じる必要は何処にもない。霖雨は憔悴したヒーローを見る。




「お前の何処に非があるんだ?」

「……D.C.の報復で、狙いは俺だったんだ」




 ぽつりと零された言葉は懺悔のように虚しく響いた。


 報復。ヒーローには必ず敵がいる。平和を乱し、安全を遠ざける敵。ヒーローは常に狙われる。




「俺と関わらなければ、こんな目に遭わなかったんだ」




 和輝が呟くと同時に、霖雨は手を伸ばした。このまま、和輝が消えてしまうような気がした。


 驚いたように目を丸める和輝に、霖雨は訴える。




「でも、助けてくれただろう」

「運が良かっただけだ。この先、きっとまた危険が迫る。次は間に合わないかも知れない」

「珍しく弱気だな。何かあったのか?」

「怖いんだよ」




 微かに腕が震えた。その細さに今更ながら気付く。身体も小さく、腕も細い。それでも彼はヒーローだ。


 ふっと掌から力が抜けて、腕を弛緩させた和輝が言った。




「怖いんだ」




 まるで、それが許されないことみたいに。


 落下した言葉は霧散する刹那、霖雨に拾い上げられた。何時でも自信に満ち溢れた光り輝くヒーローである筈の和輝が、蜃気楼のように揺れたように見えた。




「もしも、この手が届かなかったらと思うと、怖いんだ。……救えなかった人がいる。届かなかった祈りがある。全てを救えるとは思わないけれど、大切なものが一つ増える度に恐ろしくなる」




 画面の向こう側にいるヒーローが、ずしりと質量を持って現れたようだった。彼――蜂谷和輝が、本当はただの人間であることを知っている。ずっと、その感情を抱えたまま、見ない振りをして来た。


 俺は弾かれるように口を開いた。




「俺達は、いなくならないよ」




 どうか、この言葉が届けと祈るように。流星に願いを込めるように。


 死の淵で、霖雨は確かに聞いた。消えてなくなりたいと願うその手を、確かに和輝が取った。


 遠い異国の地で、こんな風に思いを伝えて、受け入れてもらえる。これを幸福と言わず、何と言うのだろう。当たり前だなんて贅沢な思考回路はしていなかった。夜明けを告げる鐘の音のように、福音が其処此処から聞こえる。


 雪のように、降り積もるもの。

 面を上げた和輝が、それまでを消し去るような晴れやかな顔で笑った。




「後悔するなよ」




 伸ばされた手を掴んだなら、絶対に離してやらない。泣いても喚いても、光の下へ連れて行くよ。

 溢れそうな涙を堪えながら、和輝が言う。霖雨は応えるようにして、笑った。




「上等だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る