⑹「助ける」

 身体がバラバラになったようだ。


 霖雨は、高速度で空中へ投げ出され、酷い浮遊感に内蔵がひっくり返るような気がした。すぐ様襲い来る重力によって身体は落下し、コンクリートのように硬化した水面へ叩き付けられた。


 春先の冷たい川は、身体の芯から熱を奪っていった。水面を目指してもがき、顔を出すと同時に大きく息を吸い込む。


 川原には、ガソリンと肉の焼ける嫌な臭いが漂っていた。水面から顔を出した霖雨の双眸には、爆破炎上する乗用車の影が鮮明に映った。


 霖雨が小学生の頃、家族で初めて花見をした。けれど、桜は時期を逃し、長雨によって散ってしまっていた。骨組みのような桜の枝を、父が残念そうに見ていたが、霖雨を励ますように笑った。母は白いワンピースを纏い、少しだけ困ったように笑った。また来年。当たり前のように告げられた言葉に、霖雨は頷いた。


 帰り道、急カーブから飛び出して来た対向車両を避けようとして、父は大きくハンドルを切った。車はガードレールを突き破って宙に浮かんでいた。霖雨が覚えているのは此処までだ。


 鎮火の気配も無く赤々と燃える車両に、母の白い腕が見えた。水面から顔を出したままの霖雨は、動けなかった。


 泣いたのかも知れない。

 叫んだのかも知れない。

 霖雨はもう、覚えていない。空を舐めるような猛火を、ただただ恨んだ。


 両親の葬式は、親戚だけの密やかなものだった。


 引き取り手のいない霖雨を哀れんで、親戚連中が好き勝手なことを囃し立てた。手前勝手な同情や憐憫の言葉を、他人事のように聞き流すだけだ。


 その群れから顔を出した中年の男が、霖雨へ手を差し伸ばした。他に選択肢は無かった。


 男は霖雨を歓迎してはいなかった。目的は両親の残した遺産だった。


 霖雨をいないもののように扱った。庭先の物置が霖雨の居場所で、食事は主に冷たい食パンだった。小学校の兎の方が、栄養をとっていたのではないかと思う。


 その家の子どもには散々甚振られた。殴られた、蹴られた、暗闇に閉じ込められた。霖雨が泣いても怒っても、縋っても祈っても、誰も助けてくれなかった。


 祈るように、霖雨は一枚の絵を描いた。父と母で行った最後の花見だった。散った桜は其処に無く、隅に一本の木を描いた。梅の木だ。寒風の中咲き誇り、散っても尚、強い香りを残す――。


 絵画は突然、破かれた。子ども達が愉悦に顔を歪めている。真っ二つに破られたそれは、両親の死別を示すようだった。


 そんなことは、解っている。父も母もいない。

 そんなことは、解っている!


 霖雨は初めて抵抗した。彼等を殴り、蹴り、戦った。誰もそれを認めなかった。霖雨は暴力の罰として物置に閉じ込められた。体中に生傷や青痣があった。痛みを堪えながら、破かれた絵画を見ていた。涙が、一つ溢れた。


 霖雨は親戚を盥回しにされ、文字通り遺産を食い荒らされた。それを止める手段も方法も知らなかった。目を閉じて身体を丸めることだけが、自己防衛の手段だった。


 中学生の頃、或る男の元へ送られた。男は親戚中の鼻摘みものだった。酒に酔っては暴力を振るい、金に困っては借金を繰り返す。霖雨が預けられたのは、獣のように欲望を剥き出しにする男の元だった。


 殴られたし、蹴られた。けれど、霖雨にとっては暴力なんて慣れていた。だから、一番辛かったのは、男から振るわれる性的虐待だった。霖雨には抵抗の手段が無い。けれど、堪えられない。警察に駆け込んだこともあった。学校へ訴えたこともあった。その度に激しく折檻された。何処へも逃げられない。誰も助けてくれない。この世は冷静な天国で、祝福された地獄なのだ。祈る対象も、縋る相手も霖雨にはいない。――死にたかったのかも知れない。


 この頃のことはもう、よく解らない。


 記憶が抜け落ちることがあった。霖雨がそれを自覚したのは、高校生になり、男の元から脱出し、一人暮らしを初めてからだった。辛かった筈なのに、覚えていない。確かに起こった筈なのに、知らない。そんなことが度々あった。そして、その間の自分の姿を、周囲の人間は別人のようだと言った。


 多重人格を疑ったのはその頃だ。

 精神病院へ通院を始めた。暫く通院すると、医師は静かにそれを肯定した。


 自分は精神病だったのだ。

 霖雨は、諦念を抱いた。


 世界は冷たい。夢も希望も無い。死にたい。誰も助けてくれない。独りきりだ。時間を消費するだけの毎日を惰性で送る。その中で、霖雨はこれまでの反動とも呼ぶべき幸運と出会う。


 友達が、出来たのだ。


 彼等は、霖雨を受け入れた。何の見返りも無く、等身大の霖雨を受け入れてくれた。彼等と過ごす毎日は光に満ちていた。そして、或る時、霖雨は別人格と遭遇した。名前を春馬と言った。


 春馬は理性的で、常に冷静な頼もしい存在だった。霖雨は自分の中に存在する春馬に度々勇気付けられた。友人は春馬の存在も受け入れてくれた。霖雨にとっては過ぎた幸福の日々だった。けれど、望んでしまったのだ。


 春馬が、現実に存在したなら良いのに。春馬が、自分の家族になってくれればいいのに。

 一度願えば、それは止められない。抗いようの無い現実と願望の狭間で、霖雨の精神は再び闇に沈んで行った。


 人格統合。

 医師はそう呼んでいる。友人の助けを借りて、霖雨は春馬を自身の人格の一部として受け入れた。医師はそのように診断しているが、霖雨には解らない。現実が分岐したのはこの頃だ。


 春馬が実体を持って、実在するようになった。春馬は、兄になった。


 この過程を、霖雨は夢だったと思っている。けれど、友人の一人はそれを現実だと認めている。霖雨は解らない。


 春馬は存在する。周囲の人間はそれを認めていた。霖雨も、それを否定する理由を持たなかった。喉から手が出る程に祈った未来が、現実のものとなったのだ。否定の言葉等、死んでも吐きはしない。――けれど、霖雨には解らなくなってしまった。


 自分の記憶が正しいのか、そうでないのか。


 独りきりで過ごしたあの地獄のような日々は何だったのだろう。夢だったのだろうか。


 春馬は実在し、自分と異なる記憶――二人で日々を乗り越えて来た記憶を持っている。それを裏付ける証拠が其処此処へ溢れている。ならば、自分の記憶は夢なのだろう。


 自分は悪い夢を見ていたのだ。春馬の言うことが正しい。それならば、自分はどうしてそんな馬鹿げた勘違いをしているのだろうか。あの日々を忘れたことはない。身体が覚えている。痛みも苦しみも辛さも、忘れようとして忘れられるものではない。


 兄の存在を否定している。或いは、そんな願望を持ち合わせている。だから、馬鹿げた勘違いを起こしているのだ。


 友人の一人は、勘違いではないと言った。霖雨の記憶が正しいと訴えた。

 証明できなくとも実在した。未来が変わったことで、過去も変わったんだ。救われたんだ。それでいいじゃないか。


 その言葉に酷く安心した一方で、恐ろしくなった。未来も過去も不確定ならば、自分の存在をどのように証明すればいいのだろう。

 此処に自分が存在するということを、誰が証明出来る?


 或る時、霖雨は量子力学の存在を知った。観測者効果、シュレーディンガーの猫、平行世界。次第にその世界へ傾倒した。自分はパラレルワールドを垣間見たのではないかという考えに囚われるようになった。平行し交わらない筈の未来が交差し、入れ替わってしまった。霖雨はそう考えるようになった。


 兄がいて、友達がいる。自分は、そういう幸せな世界に迷い込んだ。――ならば、入れ替わった一方の世界はどうなったのだろう。その世界で存在した筈の救いを、全て自分が搾取してしまったのではないか。平行する世界の一方には、救われないままの自分がいるかも知れない。そして、過去も未来も不確定ならば、何時また入れ替わるとも解らない。


 霖雨は、その考えに取り付かれるようになった。量子力学の更なる就学を求めて留学を決めた。疑心暗鬼に囚われた霖雨にとっては、その世界からの逃亡と同義だった。



 世界は何時も冷たかった。

 霖雨は抵抗の手段を持たず、世界は常に害を与える。霖雨は享受し、堪えるだけだ。


 この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ。

 ならば、何にも縋らなければいい。求めなければいい。何も感じず、何も応えず、ただ呼吸を繰り返していればいい。何時か命が終わるその時には、正解であったか不正解であったかの答えも出るだろう。



 ぽたん。ぽたん。ぽたん。


 雨粒が木綿に染み込むように、何かが溢れ出す。

 増水し決壊したダムが崩れ落ちるように、霖雨の胸の中から溢れた何かが外界を侵略する。


 辛いよ。

 苦しいよ。

 悲しいよ。

 痛いよ。

 怖いよ。


 蓋をして隠して来た筈の感情が、表面張力の水面から溢れ出る。堪え切れない。


 心に許容量があるのならば、もう、限界だ。自分は強い人間ではない。ただ、人から見限られるのが怖くて、強い振りをして来ただけだ。何も感じない振りをして来ただけだ。


 誰か。

 誰か。

 誰か、助けて。


 どうすればいい。何が正解だ。――いつもそうだ。


 どんなに迷っても、どれ程覚悟を決めても、どんな行動を起こしても、確かなものは一つも無くて、大切なものは守れない。いつも最後は蹲って、自分の無力さを呪うだけだ。


 蹲り、耳を塞ぐ。もう何も見たくない。聞きたくない。失うくらいなら、何も手に入れられなくていい。

 諦めてしまえと誰かが嘯く。何もかも捨ててしまえ。それでいいのかも知れない。もう堪え切れないんだよ。もう、いやだ。


 ――誰かが、耳を塞ぐその手を取った。


 導かれるように顔を上げた先に、目が眩むように綺麗な顔があった。


 人形のように造作が整い、感情を感じさせない無表情だ。けれど、丸く大きな双眸だけが確かな光を持って、此方をじっと見詰めている。


 その秀麗な男を、霖雨は知っている。透き通るような光を瞳に宿し、そっと問い掛けた。




「どうしたい?」




 否定も肯定も、正解も不正解も、全てを許容するかのような穏やかな声だった。

 霖雨は、混乱し錆び付いた思考回路の中から、その奥底に眠る一つの願いを吐き出した。




「助けて」




 僅かに掠れた声は、歪な岩場を抜ける虚しい風の音にも似ていた。


 和輝は、其処で漸く、蕩けるように微笑んだ。




「助ける」




 それを待っていたと言わんばかりの、自信に満ちた強い声だった。


 ほら。

 和輝が腕を引いて促す。着衣水泳でもしたかのように重かった身体が、無重力空間へ投げ出されたようにふわりと浮かび上がった。隣に並んだ和輝の旋毛を見下ろすと、寝癖が彼方此方に跳ねていて、何とも格好が付かない。それでも、一歩前へ進み出て振り返れば、其処にいるのは最強無敵のヒーローだった。










 6.福音

 ⑹「助ける」










 バイクで二時間程走って到着した先は、一軒の寂れた家屋だった。

 こんなところに人がいるのか疑問に思うけれど、葵が言うならそうなんだろう。和輝はバイクから飛び降りた。


 周囲に民家は無い。この世の果てであるように、荒地が続いている。けれど、家屋の隣には黒いバンが乗り捨てるように停められていたので、和輝は確信を持った。滑らかにバイクを停車させ、葵は何やら携帯電話を操作している。和輝が目を遣れば、警察関係者へ通報しているのだと、さらりと答えた。


 入口であるドアには当然ながら、鍵が掛かっている。早る心臓の音を抑えながら様子を伺っていると、後ろで葵が笑った。




「お前を救出に行った時は、もっとスリリングだったよ」




 和輝は眉を寄せた。ジョークではなく、彼の現在の心境なのだろう。


 人の命が懸かっているんだぞ、とは言えなかった。そんなことは思いたくない。それに、口にしたところで葵に伝わるとは思えなかった。彼とは思考回路が違うから、価値観も異なる。




「安心感があるってことだね」

「少なくとも、同伴者を気に掛けなくて良いからね」




 葵の言葉を肯定的に受け止めつつ、和輝は鍵穴に針金を突っ込んだ。


 針金クリップを伸ばしたものだ。何処にでもある事務用品だが、古い鍵を開けるだけなら十分だ。一分も掛からず三つの鍵を解いた和輝に、葵は驚いた風も無い。葵にだって朝飯前なのだろう。


 極力音を立てないように扉を押し開けるが、古い蝶番は悲鳴を上げるように軋んだ。


 扉の奥に光は無かった。闇に満ちた回廊を、息を殺して進む。右手の扉は崩れ落ち、内部は強盗にもで遭ったような荒れ様だった。敵は少なくとも三人以上。組織の者がいるとは考え難いから、人数は少ない筈だ。ただし、武装している。


 更に進もうとしたところで、後ろにいた葵が手を引いた。和輝は足を止め、振り返る。




「俺が先に行くよ」




 眠そうな目で、葵が言った。和輝は躊躇する。




「武装した男が、何時出て来るか解らないんだぞ」

「お前に任せたら、目的地に到着する頃には日が暮れるよ」




 そう言って先に出た葵を、和輝が慌てて制止する。




「危ないんだぞ」

「俺より、自分の心配をしろよ。この家の図は頭に入っているし、周りをぐるっと回ったから位置関係も大体把握してる」




 何時の間に。

 和輝が感心する間も無く、葵は急かすようにして歩き出した。


 こんなに積極的な葵は初めて見る。俄かに目の前の姿が信じ難い。葵は振り返り、口角を釣り上げて笑った。




「これでも、とんかつ楽しみにしてるんだぜ」




 軽口を叩く葵に、すっと肩の力が抜けた。和輝は弛緩していたつもりの頬が強張っていたことに気付き、苦笑した。


 言葉の通り、葵の歩調は淀み無く進む。けれど、周囲への警戒を怠らない。和輝は改めて、彼が何者なのだろうと疑問に思った。この軍人のような戦闘能力や身の熟しも、透明人間のような気配の希薄さも、彼の存在に疑問を抱かせる。


 葵が掌を翳して制止を示すので、和輝も足を止めた。家屋の、恐らくはリビングに当たるだろう広間が見える。薄く開かれた扉の向こうで、点け放されたテレビが騒いでいた。


 呑気なものだ。和輝が中を探るように視線を巡らしていると、葵はさも当然のように扉を開けた。そして、何の予備動作も無く、ソファに寝ていた男の首を掴んだ。


 男のくぐもった呻き声が漏れる。


 首を折る気だ。

 和輝は煤けたフローリングを蹴った。


 首の骨を折ろうと腕に力を込めた瞬間、葵は肩を掴まれた。和輝が泣き出しそうに眉を寄せていたので、思い出した。


 彼は、自分が人を殺すことを望まないのだ。それを思い出し、葵は男の首を絞めて意識を落とすだけに留めた。その後ろに、招かれざる訪問者に声を上げようとする大男が見えた。葵の視線に気付いた和輝が、猫のように身を低くして一瞬で間合いを詰める。膝を曲げ、其処から渾身の力を込めて右足が振り上げられた。顎を捉えた強烈な一撃に、男の身体がぐらりと揺れる。巨体が響かせるだろう音を懸念したが、その背後にはポリ袋が山積みにされていた。


 得意のハイキックを決めた和輝が、ほっと息を吐いた。


 和輝は葵に駆け寄る。




「霖雨は」




 問い掛けの言葉が出し切られぬ内に、葵はリビングの隅を顎でしゃくった。切り抜かれたような地下への入口だ。魔物の口を彷彿とさせ、和輝は僅かに緊張した。


 葵が足を踏み出そうとしないので、和輝は怪訝に思いつつも先行しようとした。その肩を掴んで、葵が問い掛ける。




「霖雨が拉致されてから三日間だ。噂の違法ドラッグが投与されていたとしたら、既に依存状態にあるだろう」

「……手遅れだって、言いたいのかい?」




 葵は肩を竦めた。




「あくまで、可能性だ。覚悟はした方が良い」

「何の覚悟だよ。救えなかった時、絶望しない為の覚悟か?」

「希望的観測は止めろ」

「捨てないよ。最悪の時のことは、葵が考えてくれる。それなら、俺は前だけ見て、自分に出来ることをやるだけだ」




 和輝は笑った。人々を魅了する、輝くような笑みだ。


 葵はやれやれと言わんばかりに息を吐いた。勝手な奴だ。けれど、そういう人間がいても良いのだろう。


 警戒しながら階段を下る和輝の後ろを、葵は見ている。昏倒した男達は念の為手足を封じているが、暫く目を覚ますことは無いだろう。殺してしまえば楽なのに、と葵は思う。けれど、和輝はそれを望まない。


 人の死を恐れている。

 同じように、自分が手を汚すことを嫌がっているようだ。


 葵には解らない。

 慎重に進む背中を見詰め、後を追う。


 地下は古い白熱灯がぽつぽつと照らすだけで、昼間とは思えぬ闇に支配されていた。和輝の足取りが鈍ったので、葵はその隙を突いて前に進み出る。闇に目が慣れるまで、少し時間が掛かるらしい。夜目は葵の方が利くようだ。


 殆ど一方通行の廊下の先に、嵌め込まれたような真新しい扉があった。鍵が付いている。侵入者を想定している。鍵を開けようと提案する和輝を押し留め、葵は懐へ手を伸ばした。


 古びた裁縫道具だ。拳銃でも取り出すのではないかと懸念した和輝が、葵の後ろでほっと息を吐く。葵は待針を取り出すと、慣れた手付きで解錠した。


 音もなく扉が開く。正面に男が立っていた。和輝がびくりと肩を跳ねさせる。意外にも繊細な神経を持っていたらしいと感心しながら、葵は男の鳩尾に踵を叩き込んだ。


 呻き声が漏れ、腹部を押さえながら男が蹲る。天井から吊るされた白熱灯が、コンクリートで固められた部屋を不気味に照らしている。まるで、牢獄のようだ。開け放った扉を摺り抜けた和輝が、部屋の中央に置かれた椅子へ駆け寄った。


 安っぽいパイプ椅子だ。

 人が、ロープで括り付けられている。




「霖雨!」




 縋るように、和輝がその名を呼ぶ。


 力無く俯いた霖雨は、身動き一つしない。葵は二人を目の端に捉えつつ、蹲る男を仰向けに倒した。


 懐を探り、裁縫道具を取り出す。待針を指定の場所へ戻し、今度は縫い針、長針を手に取った。

 わざわざこんな男を縫い付けはしない。

 葵は動けない男の胸へ針を押し込んだ。心臓の真上だ。


 この部屋は、この家屋の他の場所に比べて最近作られたものだ。誰かを拘留する為に、牢獄の代替品として地下深くへ製造されている。そして、恐らくこれはきっと、頭のおかしい男の異常な執着を満たす為だけに用意された訳ではない。組織の邪魔になるだろう青年を、拘束し、拷問し、殺害する為に用意されたのだ。


 葵は必死に呼び掛ける和輝の背中を見遣り、無性に苛立った。彼を抹殺しようとした人間がいる。それも、残虐な方法で。それを思うだけで、葵は胸の中にどす黒い憎しみが炎のように燃え上がるのを感じた。


 この場所で生き存えても、組織は逃がさないだろう。死ぬなら相応の苦しみを味わうべきだ。


 己の心臓を押さえ、悶え苦しむ男を床へ蹴り倒し、葵は冷ややかに見下ろした。


 和輝は、反応を示さない霖雨へ何度も呼び掛けている。

 最悪の事態は葵が想定しているから、自分は前だけを見る。だからといって、不安が無い訳ではない。自分に言い聞かせただけだ。


 拘束を解く途中、その腕に針の跡が見られた。何か薬物を投与されたのだろう。


 人格破壊。

 その言葉が脳裏を過ぎった。


 男を倒した葵が歩み寄る。和輝は霖雨の首筋に手を当てた。




「息はある」

「それはそうだろうさ。こいつの目的は殺害じゃないからな」




 さも当然のように言い捨てる葵のことは追及せず、和輝は霖雨の肩を掴んだ。


 身体は氷のように冷たい。冬眠状態に近い脈の弱さだ。和輝は、頬を伝う冷や汗を乱暴に拭った。




「最悪の事態を想定していたか?」




 この状況が他人事のように、葵は問い掛ける。

 和輝は首を振った。




「想定はしていなかったよ。覚悟は、していたけど」

「何の覚悟だよ」




 和輝は、顔を上げた。薄暗いコンクリートに覆われた箱の中で、確かな意思を持った目を向けた。


 葵は息を呑む。

 絶望はしていない。この状況でも、尚。




「死の淵から、霖雨を救う覚悟だよ」




 すぐさま、和輝は霖雨を床に寝かせた。

 救急車及び警察へは通報している。間も無く緊急車両が到着するだろう。


 この場所で出来ることは少ない。回復体位を取らせると、和輝は冷え固まった霖雨の腕を摩った。体温を少しでも上げようと言うのだろう。薬物の依存性を成分から予測していた葵は、和輝の行為が無駄に見えて仕方が無かった。


 和輝は来ていたシャツを霖雨へ掛けた。底冷えする地下空間で、タンクトップ姿のまま和輝は懸命に体温を保持しようとしている。




「何もしないよりはマシか?」

「そうだ。俺は諦めが悪いんだ」




 真剣な目だ。幼さの残る横顔で、和輝は霖雨の身体を摩っている。


 無駄な行為だ。

 葵は早々に見切りを付けて、床にしゃがみ込んだ。煙草が吸いたいと思った。




「大丈夫」




 額に汗の雫を浮かばせながら、和輝が言った。


 自分に言い聞かせているのだと、葵は呆れた。けれど、意識の無い霖雨の瞼が、痙攣するようにぴくりと動いたように見えた。驚愕に葵は言葉を失う。地上から緊急車両のサイレンが聞こえた。和輝は手を止めない。

 救急隊を誘導しようと葵は立ち上がる。和輝が動きを止め、霖雨をじっと見詰めていた。


 その時だった。聞き間違いかと思う程の微かな声がした。




「助けて」




 和輝の横顔に、笑みが浮かんだ。葵は目の前で起こる事態が信じられなかった。


 違法薬物の依存性は知っている。人体に及ぼす影響も把握している。三日間投与された人間が意識を戻す筈は無い。この世に奇跡は起こらない。永遠のような時間が流れた。


 けれど、霖雨の目から雫が一つ溢れ落ちたのが見えた。


 生理現象だ。

 葵は思った。けれど、和輝はその雫に確かな可能性を見出したかのように微笑んでいる。絶え間無く動いていた右手が、霖雨の腕を掴む。




「助ける」




 その言葉が合図だったかのように。


 空を支配する闇が、一筋の光によって払われるように。


 長い睫毛が震える。血の気の失せた横顔に僅かな血色が戻ったように見えた。葵は地下から顔を出し、救急隊を誘導した。閉ざされていた霖雨の瞼が、コマ送りのようにゆっくりと押し上げられた。




「かずき」




 錆び付いた声帯を震わせて、掠れるような声で霖雨が言った。それは確かに、和輝を呼んでいる。


 応えるように、和輝はその手を握った。




「お帰り。今晩はとんかつだよ」




 和輝の言葉に、霖雨が笑った。凍り付いた蕾が花開くようだった。


 搬送される霖雨に寄り添いながら、和輝が地下空間を脱出していく。後を追って搬送される男は意識が無い。


 葵は暫し逡巡し、彼らの後を追う。家屋の外は夕陽に照らされていた。随分と長い間室内に篭っていたらしい。救急車の姿は既に無く、彼等は病院へ搬送されたのだろう。針を刺したあの男が、病院に着く前に息絶えていることを願う。救う価値も無い男の為に医師や看護婦が労働する必要は無いと思った。


 同伴したものとばかり思っていたが、和輝はバイクの傍で待っていた。夕方の冷えた風に当てられ、汗が冷えたのか寒そうにしている。葵は羽織っていたパーカーを投げ渡した。




「帰るぞ、クソガキ」




 バイクへ跨り、エンジンを吹かす。和輝が少しだけ笑って、後ろへ乗った。


 豚肉を買って帰ろう。

 弾むように声を掛けられ、葵は笑って頷いた。

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