⑸矛先

 霖雨がいない。


 その事実に気付いた瞬間も、二人は冷静だった。

 否、気は動転していたかも知れないが、対応は適切だった。


 互いの存在が思考を落ち着かせていたのだ。和輝はすぐに霖雨へ電話を掛け、葵は大学院とアルバイト先へ連絡を入れた。双方に収穫が無いことを確認し、次の手段を講じる。


 同居人のプライバシーには干渉しない。共通の友人もいない。和輝は思い当たる先も無いので、彼の自室から知人らしき電話番号へ片っ端から連絡を入れた。葵は何処かへ電話を掛けているが、普段と何ら変わり無い落ち着き払った様子だった。


 何の情報も得られず、和輝は携帯を置いた。葵もまた、同様だった。




「霖雨がいない」




 事実を確認し、和輝は拳を握った。


 何処か寄り道でもしているんだろう等と、希望的観測はしない。最悪の事態を想定しなければ、万が一の時に動けない。


 葵は目を細めた。




「此処で待っている」

「解った」




 和輝はリビングを飛び出して、玄関へ向かった。


 何か事故や事件に巻き込まれた可能性がある。彼のこれまでの遍歴を思えば、その可能性が高い。何処かに何らかの痕跡を残しているのではないだろうか。駅へ向かったなら多少人通りはある。目撃者がいるかも知れない。


 葵はリビングまでノートPCを運び出し、警察の監視カメラ映像を確認すべくセキュリティへアクセスした。無数のファイヤウォールを突破し、パスワードを解読する。不正アクセスを問い質す人間は此処にはいない。葵は或る映像を選択した。表示されたのは現在の駅前の様子だ。片田舎の駅は利用客の疎らだった。これでは目撃者も期待出来ない。見覚えのある小さな少年が忙しなく動き回るのが見えて、その足の速さに驚く。


 もう、駅まで着いたのかよ。


 彼が現在駅にいるならば、自分は過去を探ろう。監視カメラ映像は時間が経てば自動的に消去される。映像を逆再生させ、退屈な駅の様子を凝視する。恐らくこの先、会話どころか顔を合わすこともないだろう無数の通行人が、画面に映っては消えて行く。


 駅に霖雨の姿は無い。ならば、到着する前だ。カメラ映像を切り替える。

 携帯電話が震えた。着信、蜂谷和輝。葵は次のコールを待たずに応答した。




「何か見付けたか」

『駅前商店街の裏通り、俺がよく近道に使う通りなんだけど』




 ディスプレイに地図を表示する。GPSだ。通話相手である和輝が赤く点滅する。

 側で、青く点滅する印がある。――霖雨だ。




『霖雨の携帯が落ちていた』




 そうだろうな。

 ディスプレイを見ながら、葵は頷く。根拠の無い期待はしない。電話が繋がらない時点で察していた。


 電話の向こうで和輝が言う。




『地面は古いアスファルトだ。ブレーキ痕がある』




 葵はカメラ映像を切り替え、和輝の現在地を表示しようとする。しかし、警察のカメラには映らない死角のようだ。舌打ちを零し、裏通りへ入る商店街のカメラへ切り替える。


 電話越しに、和輝が言った。




『タイヤの大きさから見て、普通乗用車じゃないな。恐らく、バンだろう。落ちていた霖雨の携帯も傷が付いている。取り落としたって感じだな』

「黒いバンだよ」




 葵は、裏通りへ急発進する黒いバンを、映像の中で見ていた。


 車窓は黒く覆われ、中を見ることは出来ない。それでも、長閑で寂れた商店街の裏通りへ滑り込む車両は際立っていた。


 目撃者がいないものだろうか。葵は逡巡するが、映像の中に人通りが無いことから、可能性は低いと察した。




『郊外へ向かって急発進している。……足跡がある。大きいな。30cmはあるぞ』




 葵は情報を耳にしながら、再びカメラ映像を切り変え、黒いバンが逃走する様を探す。


 現場検証する和輝のことは信頼して良い。靴の大きさから、犯人の身長を想定する。


 何の抵抗手段も持たない霖雨を拉致することなど、雑作も無いだろう。呆気なく攫われたに違いない。それが彼よりも大きな男ならば尚更だ。犯行人数は恐らく三人以上。運転者、見張り、犯行者。


 葵の脳内に目まぐるしく情報が行き交う。何かの犯罪に巻き込まれたのだろうか。否、そんな兆候は無かった。自分が見落としていただけなのだろうか。気付いていたのに、救えなかっただけか?




『葵』




 スピーカー越しに呼び掛ける和輝の声で、葵ははっとする。




『犯人は三人以上だな。目撃者もいないし、犯行時間も短い。恐らく計画的犯行だ』

「ああ、同感だ」

『身代金目当ての犯行じゃない。純粋に、霖雨へ執着する変質者だ』

「まあ、そうだろうな」




 身代金に期待出来るような相手じゃない。霖雨の姿を思い浮かべ、葵は舌打ちする。


 彼がストーカー被害に遭っていたなんて情報は無かった。この家の界隈に異常者はいない。見落としていたのだろうか。D.C.の下っ端が襲撃したこともあった。この家は安全ではない。




『目撃者には期待出来ないけど、情報収集する』

「警察には?」

『知り合いのFBI捜査官へ、連絡しておくよ』




 何時の間に知り合いになったんだ。葵は鼻を鳴らす。


 電話の向こうで、和輝が訊いた。




『俺のせいかな』




 消え入りそうな声だった。


 D.C.との一件が影響しているのではないかと懸念しているのだ。葵は否定の言葉を口にしなかった。何も解らないこの状態で、安易に可能性を制限する訳にはいかない。


 そう思っていたのに、葵の口からはつい言葉が溢れた。




「大丈夫。必ず、見付けるさ」




 ディスプレイに、通話しながら俯く和輝の姿が映った。カメラが設置されていることすら気付いていないらしい無防備な姿に、つい言葉が溢れたのだ。


 ふと、和輝が顔を上げる。画像の荒いカメラ映像越しでも解る程に、美しく整った、可愛らしい相貌だ。大きな瞳に確かな光を宿して、頷く。




「勿論」




 映像の中から、和輝が消える。葵はカメラを切り替えた。その足取りは、帰路を辿っている。


 切るぞ、と言いおいてから、和輝は通話を終えた。


 葵はノートPCを捜査し、近隣のカメラ映像を探る。GPSが使えないのでは、ローラー作戦しかない。界隈の映像を虱潰しに探していく。郊外へ向かっているという和輝の情報を信じて、その方面を中心に探し続ける。せめてナンバープレートでも解かれば、情報を制限して検索し易いのだが、それも望めないだろう。


 目が痛くなる程、ディスプレイを見詰めている。和輝が帰宅した。




「おかえり」




 画面から目を離さないまま、葵は言った。背中で、和輝が苦笑するのが解った。


 ただいま。

 ただそれだけの遣り取りを彼等は喜んでいる。葵にはその感情が理解出来ない。


 そのまま背中に突然話し始めたので、葵は少しだけ驚いた。




「そう。黒いバンだ。郊外へ向かっているようだ。30cm近い足跡があった。恐らく三人以上の犯行だ。……え? そんなの解らないよ」




 どうやら、誰かと通話しているらしい。彼の持つ情報通の友達とやらだろう。


 その友達も、手を焼いている筈だ。此方の情報は少ない。界隈の膨大な犯罪記録から探し出すのは、夜の海で一本の針を探すようなものだ。それでも、望みを捨ててはならない。葵もまた携帯電話を取り出した。


 きっちり記憶されている番号をタップする。葵の知る、所謂情報屋の番号だ。




「ああ、報復なのか」




 背中から、和輝の声がした。葵は振り返る。


 通話を終えていた和輝が、ダンボールで補強された窓をぼんやりと眺めている。葵はその横顔を捉えながら、件の情報屋に事の次第を告げた。


 期待はしないが、何の成果も得られないとは思っていない。通話を終え、葵は和輝を見た。




「報復される覚えがあるのか?」

「解らないけど、俺を目障りに思う人間はいるだろう」

「敵のいない人間なんていない。いるとしたら、それは透明人間だよ」

「葵も?」

「何?」

「葵も、透明人間になりたかった?」




 ことりと首を傾け、和輝が問い掛ける。子どものような動作で、縋るように両目は潤んでいる。


 葵は溜息を吐いた。

 彼は自己犠牲主義であるが、被虐趣味もあるらしい。




「なれるものならね」




 罰を求めている。

 葵には、そう感じられた。










 6.福音

 ⑸矛先









 259,200秒。72時間。――三日間が、経過した。


 霖雨の居場所は、未だ解らない。FBI捜査官へ捜査依頼を出したと和輝は言っていたが、ただの大学院生が三日間行方を晦ましたからと言って、彼等がどの程度捜索するのか、正直高が知れていた。


 葵は本を読んでいる。一見、それは普段と変わらない。和輝は朝食用にスクランブルエッグを焼きながら、今にも消えてしまいそうな葵の横顔を見ていた。霖雨はいない。行方不明のままだ。


 正直、気が気でない。消息不明。生死も解らない。今頃、どんな目に遭っているのだろう。今すぐ家を飛び出して探し回りたいが、葵に止められている。この三日間、不眠不休で駆け回っていたところを葵に捕まったのだ。


 自分が焦っても、何の成果も上げられない。葵は幻滅したかも知れない。否、幻滅する程の期待を寄せてはいないだろう。興味も無いに違いない。自分のことなんて視界にも収まらない。取るに足らない路傍の石。


 視線が下がり、和輝は俯いていた。その肩を、何時の間にキッチンへ来たのか、葵が掴んだ。




「焦げるぞ」




 感情を読ませない淡々とした口調で、葵が言った。見れば、半熟にする筈のスクランブルエッグにはすっかり火が通っていた。


 和輝はコンロの火を止めた。その場にしゃがみ込み、両手で額を押さえた。


 頭が痛かった。

 がんがんと鈍器で叩かれるような頭痛だ。体中が重い。視界が白く霞んで、足元が不安定なゴムの上みたいに揺れる。疲れていると思考するが、理性が否定した。霖雨はもっと。焦燥感がじりじりと背中を焼いて、いてもたってもいられない。


 キッチンへ入った葵が、棚から皿を取り出した。火の通ったスクランブルエッグを、フライ返しで削ぎ落としていく。


 文句の一つも言わず、トースターから焦げた食パンを出して席へ着いた。普段の態をまるで崩さない葵に比べ、動揺して食事すらままならない自分が酷く情けなかった。


 手を合わせ、葵は朝食を取り始めた。


 互いの情報網を持ってしても、何の情報も得られない。ただ、常盤霖雨という人間が消えただけで、日常は滞り無く進んでいく。自分が悪い夢を見ているようだ。無表情で咀嚼していた葵が、不意に顔を上げた。




「一切を疑うべし、という方法的懐疑によって、自身を含めた世界の全てが虚偽だとしても、正にそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけは、その存在を疑い得ない」

「葵?」

「自分の存在を懐疑的に思う自分自身の存在は否定できない。――我思う、故に我あり」

「聞いたことあるよ」




 ゆっくりと立ち上がり、和輝は曖昧に笑った。葵は感情を失くした人形のようだった。




「現実であるか、そうでないのか。当たり前のものが当たり前ではないと気付いた瞬間、目に見えるものが実在しているのか疑問に思った瞬間、人は疑心暗鬼に囚われる」

「そうかも知れないね」




 とにかく食事を取ろうと、和輝も席に着いた。同時に、葵がタブレットを見せた。


 ディスプレイには、日本語でも英語でもない――恐らくドイツ語だろう文章が映っている。


 生憎、語学に疎い和輝には理解出来なかった。それも見越しただろう葵が言う。




「D.C.と或る男の遣り取りだ。依存性の高い違法ドラッグによって、自我を崩壊させ、思いのままに操ることが出来るかと問うている」

「或る男って?」

「俺は面識が無いよ。恐らく、お前も。ただ、霖雨のことを知っている」




 和輝は身を乗り出した。




「大学院の事務員だ。遣り取りが不穏だったから、探ってみた」

「探ってみたって……」

「ギャンブル依存性で、多額の借金を抱えていた。一生掛かっても返せない額だ。それに漬け込んだ組織が、取引を持ち掛けた」




 和輝は用意した食事に手をつけないまま、葵の話に聞き入っている。




「薬物に因る人格破壊だ」

「そんなこと出来るのかよ」

「出来るよ。精神病の治療に、薬物によるアプローチが効果を示しているだろう」

「何の為に」

「報復だろう」




 小川のせせらぎのようにさらりと、葵が言った。

 和輝も同じことを思った。




「或いは、見せしめかな。組織は対象者を指定している」

「霖雨か」

「いや、お前だよ」




 ガラス玉のような葵の丸い目に、自分が映っている。和輝はぞっとした。


 血の気の引いた和輝を具に観察しながら、葵は続ける。




「組織の狙いはお前だ。だが、人格を破壊して自分へ従順にすることが出来る魔法の薬と知って、男は矛先を変えた」




 和輝は紙のように白い面で、呆然としている。恐怖ではないと、葵は知っている。


 罪悪感。或いは責任感。自分のせいで、霖雨が被害を被った。

 そんな思考が手に取るように解る。


 葵はタブレットをタップし、画面を切り替える。今度は英語の文章だった。




「ある青年を拉致監禁する為に、金で協力者を雇った。借金に借金を重ねて、頭がおかしくなったんだろう。理性もぶっ飛んで、残ったのは独り善がりな欲望だけだ。大学構内で見掛ける霖雨に対して、邪な考えでも起こしたんだろう」

「何処だ」

「落ち着け」

「霖雨は何処だ」




 顔色は真っ白なのに、その双眸だけがやけにぎらつく。獲物を前にした猛禽類と呼ぶよりも、我が子を殺された母親のようだ。

 葵は、この男もこんな顔が出来るのだな、と感心した。




「これから連れて行ってやる」




 最後の一口を放り込み、葵はもったいぶるようにゆっくりと咀嚼する。


 和輝は自分を落ち着けるように、暫しの間瞼を下ろして深呼吸をした。そして、再び目を開けた時には、焼け付くような鋭い光は消え失せていた。


 理性が感情をコントロールする。直情的に見えて理性的だ。和輝は普段と同じく淡々と、大量の朝食を平らげた。


 歯を磨き、顔を洗い、身支度を整える。葵は和輝を待ちながら、玄関でバイクの調子を確認している。目的地は郊外だった。公共機関の利用はじれったい。バイクは霖雨のものだ。彼の性格上、バイクに乗るとは思えないが、事実だ。ツーリングが趣味である。人は見掛けに拠らないものだ。


 玄関の扉が開き、葵は顔を上げた。


 爽やかなミントグリーンのシャツを纏った和輝が、普段と何ら変わらぬ輝くような笑顔で立っていた。これから犯罪者の元へ出向くとは思えない程の軽装だ。短髪が僅かに風に揺れる。彼が地面を踏み締める度に、鈍色の世界が色付いていくように感じられた。肩透かしを食らったような心地で、葵は眉を寄せる。


 和輝はスキニージーンズに、蛍光イエローの映えたスニーカーで歩み寄った。




「バイクの運転なんて出来るのか?」

「この辺りは不便だからな」




 葵が答えると、和輝は肩を竦めるようにして笑った。


 エンジンを掛けると、心臓の拍動のようにバイクが震えた。葵が跨る後ろに、和輝が乗った。フルフェイスの黒いヘルメットを渡され、和輝が被る。葵もまたそれを被りながら、問い掛けた。




「何を考えている?」




 先程の紙のような顔色の和輝を思い返し、葵は問い掛ける。口元は釣り上がり、何処か子どもが悪戯を試す風でもあった。和輝は少女のように首を傾げた。




「今日の夕飯の献立」

「何?」

「久しぶりに、とんかつでも作ろうかな」

「いいね」




 葵は、吹き出すようにして笑った。こんな風に笑うのも久しぶりだと思った。


 帰りに豚肉を買わなくちゃね。

 歌うような軽やかな口調で、和輝が言った。

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