⑷抵抗
目の前に、真っ黒いバンが滑り込んだ。
荒っぽい急ブレーキが悲鳴のように耳を打つ。霖雨は反射的に身を竦めた。扉がスライドし、中から明らかに堅気ではないだろう風体の男達が飛び出して来たので、咄嗟に後ずさった。
筋肉に覆われた大きな男の腕が、霖雨を掴む。
日の落ちた周囲に人気は無い。悲鳴を上げる間も無く、霖雨の体は車内に押し込まれた。男が荒っぽく側のポリバケツを蹴り飛ばし、割れる音がした。得体の知れない雑貨が散乱する車内で後ろ手に拘束され、扉が閉じると同時に車は走り出す。荒っぽい運転に霖雨の身体は激しく揺さぶられた。
帰宅しない和輝を心配して、呼ばれもしないのに駅まで迎えに行った途中だった。夜を迎える町並みは、黒く覆われた車窓からは殆ど見えない。辛うじて見えるのはオレンジ色に点在する街灯だけだ。
何が起こっているのかも解らない。動転しているのか、冷静なのかも判断出来ない。
これが夢か現実か、それすらも曖昧だ。霖雨は背中から伸し掛られたまま、首を持ち上げて車内を見渡す。
運転者が一人、助手席に一人、背中から押さえ付ける一人――計三人の屈強な男が、覆面をしている。何か犯罪に巻き込まれている。その予兆すら見逃して気付けなかった。日常と非日常は表裏一体で、簡単に入れ替わってしまう。
これが現実なのか、平行世界の一部なのか。霖雨は、思考を停止した。目の前で起こる現象を、現実と捉えなければ生きていけない。
伸し掛った男が荒い呼吸で言う。
「ずっと、君を見ていたんだよ」
粘着質な声で、男が舌なめずりをする。
身体の芯から震え、肌が粟立った。
男が霖雨の腕を撫でる。汗で湿った掌に、喉の奥から不快感が込み上げる。
伸し掛ったまま、掌が背中に触れた。生理的な不快感に、身体が震え、奥歯が音を立てる。
怖い。気持ち悪い。
スピードを出した車は、確かな目的を持って一直線に進んでいく。信号機すらその障害にならない。誰にも止められない車両が、底の見えない奈落の其処へ滑り落ちていくようだ。
抵抗を見せない霖雨を、自分の行為に対する肯定と受け取ったらしく、男は愉悦に喉を鳴らした。
腹の下にエンジンの振動を感じながら、霖雨の口からは否定の言葉は一つも出て来ない。目隠しをされ、ますます身体が恐怖によって強張った。
助けてくれ。
誰にともなく、霖雨は祈る。そうして縋る対象がいないことに、絶望を覚えた。此処にヒーローはいない。否、ヒーローは実在すると葵が断言した。手を伸ばせば、必ず掴んでくれる。
助けてくれ。
言葉は声にならない。
どのくらい時間が経ったのか、車両は目的地に到着したらしく停止した。運転席、助手席の順で降りると、手首を拘束されたまま霖雨は引き摺り出された。両足がもたついて上手く歩けなかった。男に引き摺られるようにして移動される。
ひやりとした空気が頬を撫で、何処か建物へ移動したことを肌で感じた。安っぽいパイプ椅子に座らされ、紐か何かで拘束されたまま霖雨は身動き出来ない。漸く目隠しが外された先、目に映ったのは冷たいコンクリートの壁だった。
周囲をコンクリートで囲まれた部屋は、箱と呼ぶのが相応しい。天井から吊るされた白熱灯が眩しかった。身動き一つできないままの霖雨の前に、先程の覆面男がしゃがみ、労わるように覗き込む。白く混濁した瞳は正気とは思えない。
「君と二人きりになれるのを、ずっと待っていたんだよ」
先程の運転手達は、いない。
正しく二人きりになった空間を、湿気を帯びた空気が満たしている。
「霖雨も僕に会いたかっただろう。待たせて、ごめんね」
否定も拒絶も、喉の奥に張り付いて言葉にならない。元より、男は霖雨の意思等気にしていない。
人形だ。
この男が欲しいのは、自分という人間ではなく、喋らず動かない人形を求めている。霖雨はそう思った。
「これからは、ずっと一緒だからね」
男の口角が釣り上がり、三日月のように歪む。霖雨は、はくはくと声にならない空気の塊を吐き出した。
何かを言わなければ。嫌なら抵抗しろ。沈黙は肯定だ。
我らがヒーローはそう言った。
「此処から出せ」
やっとのことで、霖雨は訴えた。露出した男の目が、不思議そうに細められる。
「どうして? 霖雨は僕とずっと此処で暮らすんだよ」
「止めろ! お前なんて知らない!」
男の目が悲しそうに揺らいだ。目の前にいる霖雨が、否定の言葉を吐き出すと予期していなかったようだ。
「……照れているのかい? そんなに興奮して」
話が通じない。霖雨は拳を握った。
背後で扉の開く音がした。目の前の男と同様の、先程は運転席にいたらしき覆面男が現れた。その手には掌程のケースが乗せられている。
男はケースを受け取ると、嬉しそうに言った。
「あの変な奴等に騙されているんだね。霖雨は優しいから、洗脳されているんだよ」
話も通じないが、男の言葉も理解出来ない。
ただ、男の指す変な奴等が、和輝と葵のことだということだけは、解った。
洗脳されているのかも知れない。けれど、霖雨としては、絆されているという印象だ。自分に何か変化があったならば、確かにそれは彼等によって齎された。ただ、それが間違っているとは思わない。
自分が、望んだのだ。
和輝を、葵を、霖雨が選んだのだ。
「洗脳なんかじゃない! 俺を、あいつ等の元へ帰せ!」
それが合図だったかのように、男から感情の類が一瞬にして削ぎ落とされた。
体感温度が急激に下がったような気がして、霖雨は息を呑む。男は、能面のような無表情でケースを開けた。中には何か液体に満たされた小瓶と、注射器が収まっていた。
「騙されているんだよ。――今、目を覚まさせてあげるからね」
注射器が小瓶へ向けられる。針の先が蓋を破って、液体を吸い込んで行く。
半透明の液体が注射器に満たされた。男は恍惚の表情で注射器を眺めた。拘束され身動き一つ出来ない霖雨の背後に周り、腕を取る。舐めるように視線を巡らせている。針の向けられる気配に、霖雨は叫び出した。
「止めろ! 離せ!」
「霖雨もすぐに思い出すよ。僕等は運命によって、選ばれたんだからね」
狂っている。
針が、皮膚を食い破った。
痺れるような痛みと共に、液体が肉体に注がれていく。生理的な恐怖によって体中が震えた。
何だ。
何が起きている。
これは何だ。
最後の一滴まで惜しむように搾り出し、針が抜き取られる。
途端、霖雨の視界はぐるりと回転し、歪んだ。
6.福音
⑷抵抗
鍵の落ちる音がして、葵は膝の上に広げていた本を閉じた。
カモメのジョナサン。和輝の置いていった文庫本だ。葵はそれをテーブルの上に置き、同居人を迎えるべく玄関へ向かった。短い廊下の向こうで、靴紐を解く小さな背中を見付ける。グレーのトレーナーはところどころ黒く変色し、機械油のような臭いが漂っている。
こいつは何をして来たんだ。
葵は溜息を吐きながら、リビングを繋ぐ扉を開いて固定する。
小さな同居人が、頬に汚れを付着したまま笑った。
「ただいま」
「……おかえり」
漸く靴を脱いだ和輝が、行儀良くそれを並べている。そういうところに育ちの良さを感じる。
リビングに入った和輝は、真っ先に手洗いうがいを済ませる。葵は壁に凭れ掛かったままそれを見ていた。和輝はそんな視線を気にする様子もなく、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に煽った。
喉を鳴らして飲み干して行く様は、いっそ気持ちが良い。
大きく息を吐き出した和輝が、ペットボトルの蓋を締め直しながら漸く目を向けた。
「どうした?」
「いや、腹減った」
「珍しいね」
嬉しそうに、和輝が言った。葵としては、単純な欲求だ。けれど、和輝にとっては違うらしい。
自分の作る食事を待っていた。それを存在の許容、或いは必要性と受け止めている。ポジティブな思考回路を揶揄しても良かったが、面倒なので葵は何も言わなかった。
冷蔵庫から幾つかの食材を取り出し、和輝は鼻歌でも歌いそうな上機嫌で調理器具を用意する。葵はキッチンの入口を潜り、換気扇の下を陣取った。何時の間に片付けたのか、先程までは煙草の吸殻が崩れそうな様相だったのに、今では空っぽになっていた。
炊飯器に米が残っていることを確認し、フライパンに油を敷き、メカジキの白い切り身を並べる。
今夜は照り焼きだよ。
和輝が此方を見て微笑んだ。葵は生返事で煙草に火を点ける。
「弁当美味かった?」
「まあまあ」
フライパンを見詰め、火加減を調節しながら、和輝は笑う。
上機嫌だな、と葵はぼんやり思った。
「キャラ弁作るの結構楽しかったから、つい凝っちゃったんだ」
葵は煙を吐き出した。
食事を楽しむには、味だけでなく香りや彩も不可欠だという。それを合成着色料や香料で埋めないところが、彼らしい。海苔やチーズを細かく切って作ったそうだ。今朝はやけに早起きしていたから、余程暇だったのだろう。
棚から料理酒や味醂を取り出し、振り掛ける。側には醤油も用意されていた。メカジキに火が通る合間、ほうれん草を千切ってサラダを作る。缶詰のスイートコーンを散らし、賽の目に切ったトマトと混ぜ合わせる。ドレッシングは彼のお手製だ。和風の味付けがされたそれを回すようにして掛け、菜箸で混ぜ合わせる。
サラダが出来上がる頃にはメカジキにも火が通っている。和輝は火加減を再度調節し、少量ずつ、醤油を回し掛けた。
醤油の焦げる香ばしい匂いがする。一本目の煙草を消し潰し、二本目を用意する。
「もうすぐ出来るから、最後にしろよ」
お節介な忠告に、ぞんざいな返事をした。
ぷかりと煙を浮かべ、葵は小さな背中をじっと見詰めていた。
コンロの火を止め、棚から平皿を三枚取り出す。メカジキの照り焼きと、ほうれん草のサラダ、白米。更に、冷蔵庫から昨夜の煮物を取り出す。手際の良さに驚きつつも、口に出して賞賛はしない。調子に乗らせるのも面倒だ。
リビングの机を片付ける為、和輝はキッチンを出て行った。カウンターの向こうに、上機嫌な和輝の横顔が見える。文庫本を見て、和輝は愛おしむように目を細めた。
有り触れた文庫本だ。けれど、彼にとっては違うのだろう。葵はふと、問い掛けた。
「それ、誰かに貰ったのか?」
「そう。俺の高校時代の先輩がくれたんだ」
「何で?」
「さあ。俺が馬鹿だから、活字を読んで慣れろってことじゃない?」
ふうん。
葵はまた、曖昧な相槌を打った。
「お前、誰かを尊敬したことあるかい?」
「あるよ」
当たり前のように答える和輝は、見向きもせずテーブル上の片付けを行っている。
その秀麗な横顔に、葵は重ねて問い掛ける。
「こんな人になりたい。こんな風に生きたい。そう願ったことがあるかい?」
漸く、和輝が顔を上げて此方を見た。不思議そうに小首を傾げている。
和輝は答えなかった。大きな双眸が透明な光を放っている。――簡単に頷かない思考回路が、葵には興味深い。
彼の脳内で、目まぐるしく情報が伝達されているのが解る。座学が壊滅的だという脳だが、それは一般的な人間と比べた結果だ。脳の構造が違う。思考回路が違う。性格や人柄なんて曖昧なものでは無く、彼は一般人の枠組みには収まらない。
葵は、その思考回路に釘を刺すつもりで言った。
「お前は誰かに憧れた訳ではなくて、その向こうに理想の自分を描いていただけだろう。人のいいところだけを見て、悪いところには目を瞑る。そうして、継ぎ接ぎしたヒーローになろうとしている」
和輝は口を尖らせ、腕を組む。
こんなことで激昂しない。暫しの逡巡の後、答えた。
「そうだね」
和輝が笑った。
葵としては挑発したつもりでも、そうと受け止めなかった和輝は、また、鼻歌交じりにキッチンへ戻って来た。
「だって、虚しいじゃないか」
三つの皿を器用に両手で運び、テーブルへ並べる。忙しなく夕食の準備をしながら、和輝は笑う。
「いいことばかりでは無いけど、悪いことばかりでも無いさ。人を信じる覚悟無く、信じて欲しいなんて横暴だろ」
「だから、全部許容するのか?」
「其処まで心広くないよ。でも、信じたいじゃないか」
サラダ、煮物、白米。夕食の準備を終えて、和輝が振り向いた。
「それでいいじゃん」
葵は肩を落とした。灰皿を端に寄せ、立ち上がる。
「馬鹿だね、お前」
「よく言われる」
「馬鹿につける薬は無いな」
彼がただの馬鹿ではないことを、葵は知っている。
彼は馬鹿だが、愚かではない。身の程を弁えている。
夕食の席に着くべくキッチンを出る。和輝が言った。
「霖雨を呼んでくるよ」
そう言って、彼の部屋へ向かう。葵は眉を寄せた。
「駅までお前を迎えに行ったよ」
「えっ?」
ドアノブに掛けていた手を離し、和輝は振り向いた。葵は怪訝に眉を寄せたままだ。
「駅で会わなかったのか?」
「会ってない。会っていたら、一緒に帰って来るよ」
嫌な予感というものがあるなら、正しくこれがそうだった。
テーブルの上で湯気の立ち上る夕食を葵は見遣る。和輝は、その葵の面を怪訝に見詰めた。
確かに存在した筈の同居人が、忽然と姿を消していた。
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