⑶神様のサイコロ

 黴臭い饐えた空気に満ちている。

 獣が唸るような鼾が聞こえる。


 周囲はぼんやりと明るい。それは光に照らされた為ではない。自分の目が闇に慣れたのだ。


 霖雨が目を開いた時、其処はゴミ捨て場の様相を呈していた。雑貨が其処此処に投げ出され、生ゴミが腐乱している。黴菌の温床と化した室内は、最早人間の住処ではない。


 それでも目を覚まさない男はランニングシャツと下着だけを纏い、床に大の字で転がっている。無精髭、頭垢、脂。人が嫌悪し、生理的に受け付けない状態が其処にある。霖雨は地中に埋まる蝉の幼虫のように、手足を縮め、部屋の隅に身を寄せている。


 湿気に満ち、不快指数は上昇している。それでも、身体は着衣水泳した後のように重く、立ち上がることすら躊躇する。否、躊躇するのは不快指数の為ではない。


 目の前で鼾を掻く獣を起こさぬように、だ。


 霖雨は小学生の頃に事故で両親を失った。以降、高校入学と共に一人暮らしを始めるまでは、親戚の家を転々としていた。その間、両親の遺産は文字通り食い荒らされた。自身の欲を満たせばお払い箱とばかりに霖雨は人から人へと投げ渡され、到達した先が此処だった。


 男は酒に溺れていた。親戚中の厄介者だった。

 多額の借金を抱え、近隣住民とも度々諍いを起こす。当時の霖雨にとっては形式上の保護者だったが、男がその義務を果たしたことは一度も無い。目を覚ませば男は拳を振り上げる。霖雨には抵抗の手段が無い。他に行き場所も無い。逃げ場も無い。誰にも見付からないように、ただただ身体を丸めるだけだ。


 霖雨にとって、この頃の記憶は振り返りたくない過去だ。そして、現実には存在しない。


 妄想の類かも知れない。

 自分は幻を見ている。

 一人ぼっちの筈が無い。

 何故なら、自分には血を分けた双子の兄がいて、片時も離れなかった筈なのだから。


 男の鼾が不自然に途切れる。覚醒の時が近い。霖雨は益々身体を丸めた。寝起きの男は頗る機嫌が悪い。意識を失うまで殴られたこともある。酒に酔えば悪戯しようとする。救いようの無いクズだ。けれど、そのクズに怯える自分は一体何なのだろう。クズ以下のゴミか。存在すら許されない、認められない、ただの虚無か。


 これは妄想だ。幻覚だ。自分の身を哀れんで、誰かの同情を引こうとして作り上げた創作だ。


 じゃあ、この身体の痛みは、胸の苦しさは何なのだろう。


 兄のいないこの状況は夢なのだろうか。否、兄がいることが幻想で、この薄汚れた過去が現実なのかも知れない。


 冬眠から目覚めた熊が餌を探し求めるように、男が立ち上がる。床を軋ませ、雑貨を踏み潰し、異臭を放ちながら彷徨う。酒に濁った瞳がぐるりと旋回し、部屋の隅で丸くなる霖雨を見付けた。


 見付かった――。

 霖雨は身体を強張らせた。


 獲物を視界に捉え、男が一歩ずつ踏み締めるようにして距離を詰める。霖雨は動けない。


 これは夢なんだ。妄想なんだ。現実じゃない。

 男が手を伸ばす。手を伸ばす。手を伸ばす。


 霖雨の喉が痙攣のように震えた。生命の危機に等しい恐怖が全身を包み込む。悲鳴を上げることも出来ない。


 怖いよ。

 辛いよ。

 苦しいよ。

 誰か。

 誰か、助けて。


 誰か助けて。






「助ける」




 ぱちん、とシャボン玉が弾けるように。


 男の姿が消えた。茫洋とした視界が鮮明になる。白磁のような滑らかな肌、くっきりとした二重瞼、大きな瞳、通った鼻筋、小さな唇。万人が羨むような美しい相貌で、少年が微笑んでいる。


 周囲は薄闇に包まれていた。人気のないプラットホームのベンチで、どうやら眠っていたらしい。


 地下鉄の駅だ。日差しが無いから、時刻が解らない。時間の経過が解らなければ、自分の居場所も不明だった。ただ、隣にいる少年の温もりだけが確かだ。


 穏やかに微笑む青年――蜂谷和輝が、労わるような優しい声で言った。




「もうすぐ電車が来るよ」

「俺、寝てたのか」

「ちょっとだけね」




 肩を竦めて和輝が笑う。霖雨は、和輝の手を握っていたことに気付いた。


 慌てて引き剥がせば、和輝が困ったように眉を寄せた。それが嫌悪でないことは明白だ。




「白昼夢でも見たかい。駅まで見送るつもりだったけど、あんまりぼんやりしているからホームまで付いて来たんだよ」

「迷惑掛けたね」

「俺が心配だったんだ。お前が迷惑じゃないなら、何の問題も無い」




 普段と変わらない和輝に、霖雨は安心する。


 何処からが夢で、何処からが現実なのだろう。霖雨は振り返ろうとするが、何故だかそれが途轍もなく恐ろしいことのような気がして躊躇われた。


 電車の到着を告げるアナウンスが響く。駅員が両手を広げ、危険を知らせる。和輝が立ち上がったので、霖雨も引き釣られるようにして腰を上げた。


 銀色の車両が滑り込む。和輝が言った。




「俺も一緒に帰りたいんだけど、まだ仕事が終わっていないんだ。最寄駅まで、葵を迎えに行かせるよ」

「大丈夫だよ」

「そうだね」




 霖雨の言葉を受け止めつつも、提案を退ける気は無いようだ。


 柔和に見えて頑固な和輝らしい。


 電車が到着し、扉が開く。其処を潜るのは一人だけだ。霖雨は車両に足を踏み入れ、振り返った。ホームに残された和輝が、少しだけ寂しそうに眉を寄せている。


 まるで、別れを惜しむようだ。その表情に後ろ髪引かれるようで、霖雨はすぐにでも車両を降りたい衝動に駆られた。


 今生の別れじゃあるまいし――。

 否、そうなるかも知れない。未来は何が起こるのか予測出来ない。人間は未来を予測する程に発達していない。解らないから、怖い。絶対なんてものは、絶対無い。


 扉が閉まる気配に、霖雨の心臓は早鐘のように高鳴った。止める間も無く、言葉が溢れた。




「いつか、この世界が偽物だと言われるような気がして、怖いんだ。全部が都合の良い夢だったなんて言われたら、俺はもう、生きて行けない――」




 笑うだろうか。

 呆れるだろうか。

 あわよくば否定して欲しい。


 確実なもの等一つも無いこの世界で、ヒーローとして凛然と生きる彼に、証明して欲しい。こんな独り善がりな願いを馬鹿にするだろうか。否定して欲しい反面で、肯定を望んでいる。


 和輝は笑った。




「例え、この世界が全て偽りであっても、必ず君に会いに行くよ。夢から覚めたその時は、絶対に迎えに行く。だから、怖がらなくていい」




 もう逃げるな。

 扉によって遮断された瞬間、霖雨は縋り付きたくなった。届く筈が無いと解っているのに、手を伸ばしたくなった。


 きっと彼は、この手を掴んでくれる。











 6.福音

 ⑶神様のサイコロ










 駅を出ると、陽炎のような青年が待っていた。


 目を疑う程に存在感の無い青年は背景の一部として同化し、其処には何も存在しないかのように通行人にも知覚されない。彼――神木葵は透明人間だ。


 和輝の呼び出しに応じたらしい葵は、不機嫌さを隠そうともせず口を尖らせている。この出不精の同居人を引き摺り出す為に、和輝は一体どのような手段を講じたのだろう。上手いこと口が回る訳ではない。けれど、もしかしたら、ただ呼び掛けるだけで此処まで来てくれたのかも知れない。


 葵は霖雨の姿を早々に見付け、歩み寄ることすら気怠いというように手招きをする。霖雨も促されるまま、葵の側に行った。其処で漸く葵の存在を知覚したらしい通行人が何人か振り返るが、立ち止まること無く目的地へ歩を進めていく。




「目の下に隈があるぞ」




 指摘した葵は、別段気にする様子も無く踵を返した。霖雨も引き寄せられるようにして後を追う。


 会話は無い。

 長閑な田園風景に夕暮れが迫っている。赤みを増した太陽が沈もうとしている。誰がどんなに骨を砕こうと、日はまた昇るし、夜は訪れる。此処にいることは正しいのだと、誰にも証明出来ない。


 夢の中を未だに歩いているような気がする。

 突然目が覚めて、全部夢だったなんて言われたら、自分はもう、生きていけない。誰かが採点してくれる訳じゃないと我らがヒーローは言うけれど、自己評価だけでは生きていけない。


 道端の叢から、薄汚れた猫が顔を出す。此方を警戒しているように訝しげに睨む瞳を、霖雨はぼうっと見詰めた。がりがりにやせ細っている。子猫なのかも知れない。しゃがみ込んで手を差し伸べたい衝動に駆られるけれど、立ち止まりはしなかった。例えこの場所で餌をあげたって、その先で生きられる訳じゃない。


 横目にこの逡巡を捉えていたらしい葵が、感情を含ませない冷たい声で言った。




「あの日、ホームから飛び降りたのは、児童養護施設の職員だったらしいな」




 霖雨は視線を上げた。葵の秀麗な横顔が、夕日に照らされている。




「何も解らない赤ん坊の頃に施設へ引き取られて、生きて来た。成人を迎える頃には施設を出て独り立ちしなければならない。けれど、彼は施設に就職することで外の世界を拒んだ」




 先程の和輝の口述と合っている。霖雨は口を挟まない。




「一度は救われた命だ。けれど、外界を拒み、結局は自滅した。恵まれた環境とは言えないかも知れないが、同情の余地は無い。あの日、例え手を差し伸べて助けたからといって、救われた訳じゃない。延期になっただけだ」

「救われた可能性が、あっただろう」

「そうだよ」




 昨夜とは打って変わって、葵は断言する。




「解らないんだ。今いる場所が正しいのか、そうではないのか、誰にも解らない」




 何が正しかったと思う?

 葵の声がして、霖雨は俯いた。




「ずっと、迷っている。大切なものは、亡くしてから気付く。俺の側にいる人はすぐに死ぬ」




 霖雨は、葵の過去を聞いている。

 大学時代に猟奇殺人事件に巻き込まれ、犯人を返り討ちにしようとして殺人未遂。渡米した先で、後を追って来た友人が犯罪組織の自爆テロに巻き込まれて死亡。肉親はいないと言う彼の周りは、いつも死で溢れている。


 乾いた声で言う葵を、霖雨は弁解した。




「お前のせいじゃない。悪い偶然が重なっただけだ」

「神はサイコロを振らない。俺はその予兆に気付いていた筈なんだ。けれど、防がなかった」

「防げなかったんだろ。その時のお前は最善を尽くした」

「どうなんだろうな。俺は何処ぞのヒーローみたいに、身を呈した訳じゃない。ただ見ていただけだ」




 一陣の風が吹き抜ける。落ち葉を吹き飛ばす風は、朧な存在感を持つ青年の後ろ姿さえ、掻き消してしまいそうだった。


 自分達は、この場所に立っていることすら不安なんだ。生きている自分の存在を証明出来ない。選択の正しさを受け入れられない。だから、縋ってしまう。


 それでもいいよと手を差し伸べてくれるヒーローに、縋ってしまう。


 ぽつりと、霖雨の口から言葉が漏れた。




「兄が、いるんだ」

「うん」




 前を向いたまま振り向きもせず、葵が頷く。




「一卵性双生児で、生まれた時からずっと一緒に育ったんだ。この証拠が、世界の至るところに存在する」




 母子手帳、戸籍謄本、卒業記録。

 挙げればきりがない程の証拠が存在する。――けれど、霖雨にはその記憶が無い。




「でも、俺に兄はいなかった。高校時代、俺は多重人格と診断されていたんだ。その中の一つの人格が、兄だった」




 自分と瓜二つの存在。

 家族に対する羨望が生んだ愚かな妄想。




「人格が統合した時、兄は現実に現れた。そして、周囲の人間もそれを認めた。彼は始めから此処に存在しただろう、と」




 霖雨は立ち止まった。


 訳が解らなかった。混乱し暴走する自分の思考を抑えるように、頭を抱える。


 葵は立ち止まり、その様をただ見ている。




「俺には、一人で生きて来た記憶がある。兄には、二人で生きて来た記憶がある。証明可能なのは、兄の記憶だ。俺だって、独りきりで生きて来たなんて妄想したくない。でも、確かに覚えているんだ」




 それを証明する手段は無い。




「俺は未だに精神病に罹っているのかも知れない。頭がおかしいのかも知れない。――でも、気付いたんだ」




 顔を上げた霖雨の双眸は、硝子玉のように冷たい光を宿していた。




「俺は平行世界を垣間見た。分岐し、遮断された筈の未来が交差して、入れ替わってしまった」

「非科学的だな」

「けれど、それを否定することは出来ない。悪魔の証明だ」

「うん」

「自分が此処にいることが正しいのか、目に見えているものが本物なのか、俺にはもう判断出来ないんだよ」




 霖雨は笑った。泣き出しそうな笑みだった。




「俺が今いるのは、兄の存在する幸福な世界だ。でも、本来は独りきりの不幸な世界なのかも知れない。何時か、これは全部夢で、取り残された世界に戻されるんじゃないかと、怖いんだよ」




 葵には解るだろうか。ポケットに手を突っ込み、退屈そうに葵が言う。




「パラレルワールドの存在は、面白い思考実験だと思うよ。そして、俺の結論を言うなら、お前は精神病だ。でも、それでいいんだろ」




 彼らしくない曖昧な答えに、霖雨は首を傾げる。太陽が沈み、夜が訪れる。




「悪い夢を見たんだろう。それが正解でも不正解でも、自分が満足する答えを探せば良い。その不幸な過去、或いは妄想が現実だったとしても、誰一人救われない。なら、忘れてしまえばいい」

「そんなことが、できれば!」

「だから、手を差し伸べるんだろ」




 吐き捨てるように告げたその声が、此処にいないヒーローの声と重なって、霖雨の胸は軋むように痛んだ。


 どうして、もっと。


 勝手な期待を寄せてしまう。

 縋ってしまう。八つ当たりをしてしまう。

 こんなことは望んでいない。

 けれど、祈りたくなる。

 ――どうして、もっと早く、自分の前に現れてくれなかったんだ。




「神が人を創ったのか、人が神を創ったのか。永遠の議論だ。神という概念次第で答えは百八十度変わってしまう。俺にとって神様というのは、人間が縋り崇拝する偶像で、思考上にのみ存在する。詐欺と同じ手口だ。祈って良い目が出れば神様のお陰で、悪い目が出れば、それはまだマシなんだと納得する」

「現実主義だな」

「俺は理想主義だよ。最近、変えたんだ。自分の受け止め方次第で、事象は好転する可能性がある。人知の及ばぬ乱数に影響を齎す可能性がある」

「何が言いたい」

「ヒーローは、いる」




 ぴしりと断言した葵が、急激に鮮明になる。消えかかった幻のような影が確かな質量を持って存在している。




「此処に和輝がいたら、きっとこう言うよ」




 其処で小さく息を吸い込み、葵は言った。




「うるせえ、生きろ!」




 途端、霖雨の瞳に薄い膜が張った。


 ずっとその言葉を探していた。待っていた。

 途方もない祈りが届いたような気がして、霖雨の瞳から雫が一つ、溢れ落ちた。


 何もかも信じられる訳じゃない。何時かこの世界から放逐されるような気がして恐ろしい。何処かでまだ、信じ切れない自分がいる。けれど。


 たった一つでも、本当に信じられるものがあれば、それだけで生きて行ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る