⑵白昼夢

 和輝がアルバイトを始めたというので、家の中は葵と二人きりだった。


 以前、破壊された住居は補修したというのに、転居すると言って聞かない葵の為に荷物を纏めている。各々荷物は決して多くないので、作業自体は少ない。自分で決めた癖に文句ばかり言う葵は、意外にも手際良く殆どの行程を終えていた。


 太陽が中天へ差し掛かり、昼食時だと腹時計が告げる。

 ふと目を向けると、葵は床に胡座を掻いて読書に没頭していた。




「昼食にしよう」

「いらない」




 にべにもなく、提案をばっさりと切り捨てられ、霖雨は肩を竦めた。

 提案者が和輝だったなら、葵はすぐさまメニューを尋ねただろう。


 少食の上に偏食の葵は、手軽なインスタント食品やファーストフードばかりを口にする。飲酒や喫煙の影響もあり、健康体とは言えないだろう。懸念した和輝が生活習慣を改善させているが、彼がいなければ葵は引き籠もりの駄目人間だ。


 会話の糸口も見付からず、かと言って気まずくも無い空気のような沈黙をそのままに、霖雨はキッチンへ向かった。


 転居直前まで稼働予定の冷蔵庫を開ける。中は空に等しい。調味料の他に、長方形のプラスチック容器が二つ存在している。春らしいパステルカラーの弁当箱だ。出掛ける前に和輝が用意して行ったのだろう。霖雨は振り返り、背中を丸めて読書する葵を見た。




「弁当があるよ」




 顔を上げた葵が、やれやれと言わんばかりに溜息を零す。

 猫のように気まぐれな葵が、積み上げられたダンボール箱の群れを躱しながら食卓へ着いた。


 弁当箱を電子レンジへ押し込む。ふと振り向いた先、キッチンの入口に葵が立っていたので霖雨は驚いた。全く存在感の無い幽霊のような男だ。葵は足音も無く換気扇の下にしゃがみ込むと、灰皿を寄せて煙草へ火を点けた。


 電子レンジの唸り声が、紫煙と共に換気扇へ吸い込まれて行く。煙草の灰を落とし、葵が顔を上げた。




「あの馬鹿は何のアルバイトを始めたんだ?」

「さあ。肉体労働だとは聞いているけど」

「児童ポルノかな」

「最低だな」




 葵は皮肉っぽく笑った。


 自分達は同じ屋根の下で暮らしているが、仲が良い訳ではない。互いの込み入った事情には極力介入しないよう、暗黙の了解がある。しかしながら、不在の主人公体質の同居人が持つ強烈な引力で、屡々事件へ巻き込まれるのだ。何事も無かったかのように見捨てられない程度には交流があり、信頼関係がある。


 電子レンジが陳腐な音を立てる。霖雨が弁当箱を取り出すと、葵も煙草の火を消し潰して食卓へ戻った。


 丸いテーブルを二人で挟み、手を合わせる。特に会話も無く、互いに無言で蓋を開けた。


 長方形に収められているのは、色鮮やかな――所謂、キャラ弁だった。得体の知れない、恐らくは幼児向けのアニメのキャラクターが不気味に笑っている。思わず蓋を閉ざしたくなる。正面にいる葵の弁当を見遣るが、此方は謎の五色のヒーローがポーズを決めていた。


 携帯が震えた。霖雨はポケットに押し込んでいた携帯を取り出す。着信、蜂谷和輝――。




「はい」

『弁当見たか?』




 弾むような軽やかな口調で、和輝が言った。

 電話の向こうで浮かべられているだろう子どもっぽい笑みを想像し、霖雨は肩を落とした。文句を言う筋合いは無いが、その嬉しそうな声に何も言えなかった。




「見たよ。今から葵と食べるところだ」

『葵、喜んでる?』

「無表情で食べているけど」




 ちぇ、と和輝が可愛らしく舌打ちした。

 霖雨は吹き出すようにして笑った。




『引越しの準備は整ったか?』

「滞り無く。概ね完了だ」

『それは何よりだ。――じゃあ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど』




 柔らかな口調に、否定を許さない強さが滲む。霖雨は嫌な予感を覚えた。


 彼がこうして何か頼みごとをする時、必ず犯罪に関わる事件へ巻き込まれる。和輝がトラブルメーカーなのか、霖雨がトラブルホイホイなのか判断に迷うところだ。


 咄嗟に言葉を返せなかった霖雨の掌から、葵が携帯を奪い取った。




「食事中だ。切るぞ」

『頼みごとがあるんだよ』




 取り付く島も無く切り捨てようとした葵も、和輝の弱った声には流石に躊躇するようだ。

 庇護欲とか良心の呵責とか、そういう次元ではなく、脳へ直接電気信号が送られたように断れないのだ。


 葵は苦々しげに言った。




「お前の頼みごとは、大抵碌でもない」

『でも、問題解決能力は折り紙付きだろ?』




 まるで反省する様子の無い和輝に、葵は諦めたように携帯を霖雨へ戻した。


 再び携帯を耳へ押し当て、霖雨は問い掛ける。




「どんな用だ」

『じゃあ、今からメールを送るから』




 用件だけ告げて一方的に通話が切れる。通話終了の通知を見遣り、霖雨は電源を落とすか否かを逡巡した。


 けれど、動作を起こす前に届いた電子メールに、霖雨は思考を放棄し、薄ら笑いを浮かべるキャラクターの額へ箸を入れた。












 6.福音

 ⑵白昼夢










 金色の光が蛍のように浮かび上がる。手を伸ばしても触れることは無い。

 漆黒の闇を仄かに照らす灯火の向こうに、誰かが立っている。正体を見極めようと目を凝らす。――そして、霖雨は気付く。それが自分と寸分違わぬ出で立ちで、此方を見返していることに。


 それが鏡なのか、母国に残して来た双子の兄なのか――。実体なのか、虚像なのか、霖雨には解らない。


 足元より浮かび上がる金色の光は、闇に呑み込まれるようにして消えて行く。周囲は闇に閉ざされる。これが夢なのか現実なのかすら、霖雨には解らない。解らないことが何よりも恐ろしい。けれど、誰かが正解を呈示してくれる訳でも無い。自分はただ当ても無く彷徨い歩くだけなのだ。疑心暗鬼に囚われ、縋る先も無く、終焉を焦がれ歩き続ける運命の奴隷。


 突如、頭上から高らかなオーケストラの演奏が始まった。徐々に音量を上げていく格調高い演奏は、闇に塞がれた界隈を切り裂き、春の日差しのように照らしていく。長い夜が終わり、朝が来る。悪夢は終わり、現実が始まる。


 だが、その悪夢すら惜しむ自分は、狂っているのだろうか。こんな思考は誰にも理解出来ないだろう。一人ぼっちだ。何処まで言っても平行線で交わることはない。平行世界から、異なる軸の世界へ干渉出来ない。


 何が正しかったと思う?

 葵の声がする。そんなの、俺だって知りたいよ。


 何も正しくないだろ。

 和輝が言う。どうしてそんなことが解る。


 前進も後退も出来ず、停滞するのがやっとの自分は、凄まじい速度で進む現実について行けない。此処に置いてけ堀だ。否、停滞すら危うい。自分は暗がりに沈み込まぬよう、必死に藻掻き、水面へ手を伸ばす惨めな遭難者なのだ。


 此処は夢か現実か。


 ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。


 がたん。



 階段を踏み外したような転落感に、霖雨は目を開いた。

 地下鉄の車内は乗客も無く、線路と車輪の擦過音が僅かに響くだけだ。


 霖雨は額に手を遣った。空調の効いた涼しい車内にも関わらず、僅かに汗を掻いていた。


 嫌な夢を見た。自分が未だ夢を彷徨っているような気がして、現実感が無い。ポケットに押し込んだ携帯を掌へ乗せる。


 和輝からの頼まれごとを確認する。メールに添付された地図は、住居の最寄駅から二つ程離れた駅の傍にある児童養護施設を示していた。


 郵送不可の重要書類を預かって来て欲しいと連絡を受け、不承不承、暇を持て余していた霖雨は従った。

 前置きだけでも嫌な事件に巻き込まれる予感がしたが、断るという選択肢は存在すらしていない。目的地を目指して地下鉄に乗れば冷や汗を掻くような悪夢だ。溜息を零せば幸せが逃げるというが、それを留める術を霖雨は持たなかった。


 電車がホームへ滑り込む。――先日の、目の前で起こった投身自殺が脳裏を掠める。


 慌てて頭を振って思考の外へ追い遣った。胸に棘が刺さっているようで、霖雨は眉を寄せる。認めたくはないが、自分は罪悪感を抱えている。


 あの日、あの瞬間、和輝が自殺者へ手を差し伸べた。霖雨がそれを押し留めた。車両は肉を引き裂き、骨を砕いた。鮮血に染まるホームで、和輝が泣き出しそうに顔を歪めた。


 自分がそれを押し留めなければ、彼は助かったのかも知れない。その可能性があった。有り得た筈の未来を、自分勝手な期待で閉ざした。それが恐ろしい。救われなかった未来が、恨めしげに此方を見ている。どうして助けてくれなかったんだと責め立てる。今にも耳を塞ぎしゃがみ込みたくなる。霖雨は必死に車両を抜け出した。


 ホームは閑散としている。利用客は疎らで、駅員さえのんびりと佇んでいた。霖雨は鞄を背負い直し、地上へ出るべく階段を上がる。地下の冷たい空気が薄れ、日差しに照らされた温もりに安堵した。


 引きずってでも、葵を連れて来るべきだった。霖雨は後悔する。転居の手続きで忙しいと煙草を片手に葵は吐き捨てた。こんな時、和輝なら上手いこと葵を連れ出せたのだろう。自分の不甲斐なさに溜息ばかりが溢れる。


 何か事件に巻き込まれた時に、自分一人で解決出来るとは思えない。何故か戦闘能力に長けた同居人達とは違い、自分は極普通の一般市民なのだ。余計なことには首を突っ込むまいと肝に銘じ、細心の注意を払って目的地を目指す。――が、目指すも何も、目的の児童養護施設は正しく目と鼻の先だった。青々とした芝生の庭を抱えた白い一階家だった。


 敷地は黒い策で覆われ、門扉にはオートロック式の錠前、カメラ付きのインターホンがある。施設の性質上必要なものなのだろう。霖雨はインターホンを押した。


 落ち着いた女性の声が対応した。名前と用件を告げると、錠前は音を立て解除された。


 後ろ手に扉を閉めると、すかさず鍵が落ちる。敷地内へ入って見ると、外界から身を守る筈の先が、その身を閉じ込める牢獄のように感じられた。コンクリートで舗装された小道を進み、家屋の扉を叩く。先程とは打って変わって扉がすぐに開いた。体の大きな女性が、両手を広げて招き入れてくれた。


 目の端に寄った笑い皺が、親しみ易さを感じさせる。慈善事業に携わる人間特有の温かい微笑みだと思った。


 女性に促されるまま応接室へ入り、ソファへ座った。扉の向こうの廊下からは子どもの笑い声がする。リノリウムを駆けて行く足音に何故だか安心する。穏やかな日常が其処にある。


 ローテーブルを挟んだ向こうに、眼鏡を掛けた壮年の男性が座った。はち切れそうな腹が白いポロシャツで覆われている。男は穏やかに微笑んだ。




「話は伺っていますよ」




 そう言って、男はA4サイズの茶封筒を差し出した。


 郵送不可の重要書類。

 そんなものを、部外者の自分が預かって良いのだろうか。


 霖雨は封筒を受け取り、何故だか居心地悪くなって急いで鞄の中に押し込んだ。

 この後、隣の駅で和輝と待ち合わせ、手渡す予定になっている。一刻も早くこの場を辞したいが、人の良さそうな二人を前に、中々霖雨は立ち上がれない。まるで、自分が後ろめたいことをしている気になってしまう。




「蜂谷和輝君の友達なんだってね」

「ええ、まあ」




 霖雨の煮え切らない返答に、気を悪くする様子も無い。


 蜂谷和輝の名前が免罪符であるかのように、二人は霖雨へ全幅の信頼を寄せている。沈黙が堪えられず、霖雨はつい切り出した。




「和輝とはどういった御関係なのですか?」




 問い掛けた手前、自己紹介すらしていないことに気付く。

 表面上に出さぬようにしながら、霖雨は動転した。けれど、二人の笑みは崩れない。




「ボランティアで、子ども達にバスケットボールやベースボールを教えてくれています。彼は子ども達のヒーローなんですよ」




 ちりり、と胸が痛んだ。霖雨にはその痛みの意味が解らなかった。


 下らない嫉妬だろう。二人に気付かれないよう、霖雨は拳を握って痛みを殺した。


 もう堪えられないとばかりに、霖雨は立ち上がった。早々に退出を願い出る。二人も立ち上がり、玄関まで見送ってくれた。芝生の庭では、十歳にも満たないだろう子ども達がキャッチボールをしている。傍らでは女児が軽やかに踊っていた。


 児童養護施設というものが、どういうものなのか、霖雨は知らない。ただ、様々な事情で親元を離れざるを得なかった未成年者が生活する場所だと認識している。その背景に何があるのかなんて勝手な想像はしたくない。けれど、楽しそうに戯れる子ども達の笑顔は明るく、後暗い背景等、微塵も感じさせない。


 門扉に到達したところで、足元に白いゴムボールが転がって来た。掌程の大きさのボールを、霖雨は何気無く拾い上げる。




「Hey!」




 ベースボールキャップを被った少年が、大きく手を振っている。霖雨は慣れないながら、大きく振り被った。


 ボールは少年の元を僅かに逸れ、芝生の上に弾んだ。少年がそれを拾い上げる。




「Thank you!」




 晴れやかな笑顔に、霖雨が毒気抜かれた心地だった。


 門を出れば、背後で鍵が落ちる。霖雨は一度だけ振り返って建物を眺め、歩き出した。


 駅はやはり閑散としている。田舎なのだろう。人の良さそうな駅員が会釈したので、霖雨も同様に返した。利用客が少ないから、顔も覚えられたのだろうと察した。


 決して眠り込むまいと力を入れると、先程のゴムボールの感触が掌に残っていた。地下鉄に揺られながら目的地を目指す。車両はすぐに駅へ停車した。降車を急かすように閉じる扉の間を摺り抜け、霖雨は待ち合わせ場所へ向かう。駅の側にある公園の前だ。休日だというのに公園に子どもの姿は無く、ベンチはホームレスが横たわっている。


 色褪せた滑り台の下、柱に寄り掛かるようにして俯く人影があった。


 それが誰かを認識する前に、視線が強烈に惹き付けられる。公園の住人であろうホームレスの群れすらも、其処へ佇む人物に居心地悪そうに目を背けている。


 闇に慣れた手前、太陽に目が眩む様に似ている。或いは犯罪者が自身の罪を後ろめたく思い、制服を来た警官を見て避けて歩く様に似ている。けれど、光は誰にでも平等に降り注ぐし、警官は犯罪者を検挙する。霖雨は、声を掛けた。




「和輝」




 掌程の文庫本に目を落としていた和輝が、此方を見て微笑んだ。蕾が綻び開花する様に似ている。


 文庫本を閉じ、和輝が歩み寄る。グレーのトレーナーと褪せたジーンズをルーズに着熟している。和輝にして見れば作業着も同様なのだろうけれど、ナチュラルな佇まいは背景の公園に溶け込み、好印象を与える。


 肩に掛けた鞄を下ろしながら、霖雨は問い掛けた。




「休憩時間か?」

「いや、抜け出して来た。休憩時間なんて、あって無いようなものだよ」




 白い歯を見せて軽く笑う和輝に、社会の闇を垣間見る。相変わらず、ブラック企業に縁があるらしい。

 何のアルバイトをしているのだろう。口にはしなかったが、視線で察したらしい和輝が答えた。




「車両整備士の手伝いをしているんだ」




 ちょっと意味が解らない。

 彼のこれまでの遍歴に一切関わらない業務だ。霖雨の疑問を、和輝は問い掛ける前に答える。




「何かあった時に便利だろ」




 最早反論は不要だ。

 霖雨は早々に諦め、鞄に押し込んだ茶封筒を手渡した。


 ありがとう。

 和輝は礼を言ったその場で開封する。中には何か文字の印刷されたコピー用紙が数十枚入っていた。




「何のトラブルにも巻き込まれなかったか?」




 悪戯っぽく笑う和輝に、霖雨は肩を竦めた。



「お陰様でね。……いいところだったよ」

「そういう側面もあるだろうね」




 煮え切らない和輝の返答に、霖雨は違和感を覚える。

 和輝は書類から目を上げた。




「内側と外側では違うものが見えることがある」

「あの施設に何か問題でも?」

「問題の無い施設なんて無いさ。金銭面、安全面、衛生面、人件面。どんな事業も多かれ少なかれ問題を抱えている」

「何か含む言い方だな。要領を得ない。お前らしくない」




 曖昧に笑って、和輝は答えなかった。

 書類を封筒へ戻し、和輝は言った。




「これは、或る人間の生きて来た記録なんだよ。此処に記されているのは、人生だ」




 人生――。

 その言葉によって、何でもない茶封筒がずしりと重みを持った気がした。




「少ないと思わないか? でも、他人から見た人生なんてこんなものなんだよ。本人にとって大事件でも、他人にとってはただの文字の羅列だ。生まれて、死んだ。それで、おしまい」




 おしまいよ、ソロモン・グランディ。

 マザーグースの一節を口ずさみ、和輝が微笑む。




「あの施設は、福祉施設の中でも高い水準にある。もっと劣悪な環境は幾らでもあるからね」

「それで、それは誰の人生なんだ」




 和輝は答えた。




「あの日、線路へ身を投げた男の人生さ」




 全身から血の気が引いたのが解った。足元がぐらりと揺れる。和輝は微笑みを崩さず、微動だにしない。


 プラットホームから身を投げた男――。肉を裂き、骨を砕く鈍い音。視界が赤く染まる。


 絵画のように動かないまま、和輝が言う。




「あの施設で生まれ、育った職員だったそうだ。ストレスからギャンブルに傾倒し、多額の借金を抱え、それを施設長には打ち明けられず、資金を横領。良心の呵責から遂には自殺を選んだ」

「ーーそんなことを、俺に教えて良いのか?」

「俺が話すことが事実という保証は無いぞ。同情を引こうとして作り話をしている可能性もある」

「メリットが無いだろ」

「人は利益にならないことを平気で実行するんだよ。必ずしも天秤の傾いた一方を選ぶ保証は無い」




 やけに饒舌だな、と思った。

 和輝は理想論者に見せて、その実、現実主義者だ。人格は完成されているのに、その不完全さがどうしようもなく人を惹き付ける。




「観測者効果とは、観察するという行為が観察される現象に与える効果を指す。世界で起こり得る事象は未確定で、予想出来ない。けれど、アインシュタインは、神はサイコロを振らないという言葉で、それを否定している。世界で起こる全ての事象は偶発的なものではなくて、人知の及ばない乱数によって発現している」




 座学が壊滅的だという彼に見合わない演説だ。目の前にいる人物が本当に蜂谷和輝であるのか、霖雨は不安になる。


 そうだ。彼が此処にいるという保証は無い。姿形を似せた別人かも知れない。


 否。彼にはそういう側面があるだけだ。目の前にいるのは蜂谷和輝だ。

 否。それをどのように証明する。自分が出会った蜂谷和輝という人物すら、実在していないのかも知れない。自分は長い夢を見ているだけなのかも知れない……。


 ぐるぐると思考は堂々巡りして、到着することが無い。




「霖雨?」



 訝しげに呼び掛ける少年は、果たして本当に蜂谷和輝なのだろうか。霖雨は不安に囚われている。


 今の遣り取りの何処までが現実だったのだろう。


 夢を見ていたのかも知れない。

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