6.福音

⑴慈悲

 Don’t worry we shall have wonderful dreams, and when we wake up it’ll be spring.

(心配しなくていい。僕等は素晴らしい夢を見るから。そして目覚めたらもう春だよ)


 Tove Jansson








 あ、と思った時には遅かった。


 導かれるように手を伸ばした和輝を、霖雨の腕が絡め取る。ホームから転落した人影は呑み込まれた。


 弾丸のように地下鉄駅を通過した車両が、突風を連れて消え去って行く。肉を引き裂き、骨を砕く鈍い音が響き渡った。皿の割れるような悲鳴が構内に反響し、時雨の如く頭上から降り注ぐ。


 頬に受けた返り血をそのままに、葵は振り返った。




「何が正しかったと思う?」




 血に染まったホームは阿鼻叫喚の地獄絵図だ。手品師のように両手を広げ、葵が目礼する。


 背後より羽交い締めにされた和輝は、伸ばしていた手をぎゅっと握り締めた。


 世界では80万人以上が自殺している。これは約40秒に一人という頻度になる。米国だけでも4万人を越えている。


 生活水準の向上は自殺増加の歯止めにならない。人は豊かになる程、自ら死を選ぶ傾向がある。――これは葵の持論だ。


 FBIに保護され、長い事情聴取から解放された帰り道だった。電車の通過に注意を促すアナウンスに導かれ、一人の男性が幽霊のように立ち上がった。その面に血の気は無く、感情そのものを削ぎ落としたかのように無表情だった。彼がホームへ吸い寄せられると同時に和輝が手を伸ばし、それを霖雨が押し留めた。


 目をまん丸にした和輝がその場に崩れ落ちる。慌ただしく動き回る駅員と、見物しようと身を乗り出す野次馬、無関係ながら悲鳴を上げる利用客。全ての時間軸から棄てられた霖雨は、呆然とその光景を見ている。弛緩した和輝の身体が僅かに強張るのを感じ、それを押さえ付ける。


 葵が、愉悦に口角を釣り上げる。陽炎のように希薄な存在感で、この世の不幸を嘲笑う。




「神なんて、絶対にいない」




 大きな双眸が、ナイフの切っ先のように鋭利な光を放つ。霖雨は声を発することが出来なかった。


 レイラは信頼の置ける福祉施設へ預け、既に此処にはいない。彼女の将来が光多いものであるように願ったその先で、自分達の倍近く生きたであろう壮年の男が呆気なく死を選んだ。やっとのことで一つの命を守ったのに、いとも容易くそれは奪われる。


 糸の切れた人形のようだった和輝が、弾かれるように顔を上げた。




「――それでも!」




 今にも泣き出しそうに潤んだ瞳が揺れる。逃げ水の如く霞む葵の姿をしかと捉えている。




「それでも、何時か届くと信じている」




 葵が訝しげに目を細めた。理解出来ない人間であると諦めるように、境界線を引くように睨んでいる。


 届かなかった指先が軋む程に握られている。霖雨は小さな肩を抱き寄せ、目を閉じた。


 彼はずっと、こうして生きて来たのだ。馬鹿にされて、否定されて、後ろ指差されて、――それでも、諦めなかった。


 強い人間だと思う。

 誰もがそうして生きられる訳じゃない。彼はダイヤモンドに似ている。世界最強の硬度を誇る宝石に、地に埋もれる石ころの気持ちは解るまい。大空を翔べる鳥に、地面を這う蟻の気持ちは解らない。


 彼は自身のヒロイズムを満たす為だけに、自己を犠牲に出来る。

 縁もない赤の他人の為に、千尋の崖から身を投げ出すことが出来る。

 そういう人間に救われる人は必ずいる。けれど、側にいる人間は、少し、辛い。朝の来ない夜は苦しいが、夜の無い朝も辛い。そんな気持ちが、彼に解るだろうか。


 葵は興味を失ったように踵を返し、歩いて行った。霖雨は後を追うべきか逡巡したが、和輝を置いて行くことは出来なかった。











 6.福音

 ⑴慈悲









 此処にはもう住めないな。

 フローリングに散乱した硝子片を革靴で踏み付け、葵は薄暗い室内を見渡す。


 界隈を纏める犯罪組織からの襲撃を受けた住居は、最早廃屋と呼ぶに相応しかった。白い壁には銃弾による穴が空き、カーテンは鋭利な刃物で切り付けられ、室内は無残な有様だ。


 同居人を駅のプラットホームへ捨て置き、葵は住居を見分している。FBIによる調査は終わったらしい。


 硝子の破られた窓から夜の冷たい風が吹き抜ける。頬を撫でるそれは、プラットホームで受けたあの突風を思い起こさせる。血腥い風が室内を満たすような気がして、葵は舌打ちを漏らした。


 犯罪組織に狙われたこの住居を再び使用することは出来ない。転居が必要だ。当面はビジネスホテルにでも泊まるしかない。早い内に転居先を見付けて、それで――。


 葵は、ふと、得体の知れない不安を感じた。こんなことは初めてだった。心臓がぎゅっと竦むような、危機が背後から迫るような緊張感だった。振り返る。誰もいない。誰もいないことに安堵し、また、嫌な緊張感を覚える。


 和輝がいて、霖雨がいて、自分がいる。あの空間はもう戻らない。


 その時、玄関が開き、砂利を踏み締めるような音がした。




「酷い有様だね」




 霖雨が、苦く笑った。


 傍らには何処で調達したのか大きなダンボールを抱えている。隣には、すっかり意気消沈した和輝が、スーパーマーケットのビニール袋を下げて連れ添っていた。


 何も返さない葵を無視して、霖雨は割れた窓を見詰めた。室内は薄暗く、電灯は灯されない。


 和輝が、袋から蝋燭を取り出す。硝子片の飛び散ったテーブルの上に突き立て、火を灯す。仄かな光が薄闇を照らす。


 霖雨が明かりを頼りに、割れた窓をダンボールで塞いでいく。和輝が袋から粘着テープを取り出し、補強する。くっついていればいいと言わんばかりの雑な作業に、霖雨も文句は言わない。それでも要領良く隙間を塞いでいく。


 窓が塞がれ、室内の闇は深まる。蝋燭の頼りない光に照らされ、闇が揺れる。葵は、二人の背中を見詰めている。


 黙っている葵を不審そうに霖雨が見遣る。




「どうした?」




 葵は、心臓の辺りを握り締めていた。何故だか胸が苦しかった。不整脈だろうか。


 和輝が、泣き出す寸前の幼児みたいな顔で言う。




「痛いのか?」

「いや、痛くはない。ただ、少しだけ、苦しい」




 医療に従事していた和輝ならば、自分よりも詳しいのだろう。

 葵はそんなことを思った。


 覗き込むようにして、和輝が言う。




「胸が苦しいのか」

「そう」




 ふと顔を上げると、和輝と霖雨が揃って此方を見ている。蝋燭に照らされた美しい面が、伺うように向けられている。


 蝋燭の熱が伝わったのか、周囲が僅かに暖かく感じた。何故だろう。葵には解らない。彼等になら解るだろうか。




「お前等のいないリビングが、急にがらんとして静かになった気がした」




 心臓の上を握り締めながら、葵は言う。




「何故だかそわそわして、落ち着かなくて、いてもたってもいられなくて、呼吸すら苦しかった。――おかしいよな、慣れていた筈なのに」




 半年にも満たない僅かな付き合いで、雇用主、或いは賃貸主、それだけの筈だ。

 それだけの筈なのに。




「寂しいと、思った」




 こんなことを言えば馬鹿にされるとは、思わなかった。

 彼等は嗤いもしないだろうと、何故だか確信していた。


 和輝と霖雨は鏡のように揃って微笑んだ。




「独りに慣れたら、駄目だよ」

「孤独に慣れて如何する。孤独なんかに慣れるな」




 霖雨が、和輝が訴える。


 この世は無情で、不条理だ。

 命は例外無く死へ向かう。虚しいと思う。

 結果ではなく過程に意味があるなんて、世間知らずの甘言に縋る気はない。蝋燭の灯火に似た儚さで、二人は葵を見ている。


 蒼穹から滑り降りた機体が爆発炎上したあの瞬間、理解した筈なのだ。

 祈っても縋っても、救いはない。そう解っていた筈なのに、手を伸ばしたくなる。


 電工盤を見て来る、と和輝が玄関へ向かう。

 擦れ違い様、そっと葵の肩を叩いた。小さな掌は服越しでも解るくらい温かかった。血の通った人の温かさだった。


 残された霖雨は、小さなヒーローの去ったリビングで名残惜しげに扉を見詰めている。




「和輝は、ヒーローみたいだね。ピンチに颯爽と駆け付けて、簡単に救ってみせる」




 霖雨は目を伏せた。自分の両手を見詰めている。




「駅で、あの人が飛び込む瞬間、和輝が手を伸ばしたんだ。俺が止めなければ、間に合ったかも知れない」

「二人で死んでいたかも知れない」

「……葵は優しいね」




 くしゃりと、霖雨の表情が歪んだ。




「死にそうな人を前にして、迷いなく助けに行ける和輝が少し羨ましいよ。危険も顧みず、何の利益も無いのに、誰かの為に自分を犠牲に出来る。俺にはそんなこと、出来ない。――あの瞬間、俺は選んだんだ」




 霖雨が、崩れ落ちるようにしてしゃがみ込む。頭を抱え込む腕の隙間から、絞り出すような声がした。




「死にそうなあの人を捨てて、和輝を選んだ」

「当然の選択だ」




 正解か不正解かなんて、葵には解らない。誰もが救われる未来が存在したかも知れない。その可能性を、霖雨は後悔している。


 選択することで未来が分岐するなら、自分のいる現実は正解なのだろうか。間違った道を選んではいないのか。そんなこと、葵には解らない。だから、幾度となく問い掛ける。


 何が正しかったのだろう。

 こんなこと、和輝には理解出来ない。


 和輝ならきっと、それでいいよ、と許容してくれる。正解でも不正解でも、自分で選んだものならそれでいいじゃないかと言ってくれる。


 けれど、それは何故だか、ずるいような気がした。




「どうして、もっと」




 霖雨が吐き出した瞬間、電灯に光が点った。


 蝋燭の灯火を一瞬にして掻き消した人工の光は、室内を余すことなく照らしている。破壊されただろう電工盤の修理に成功したらしい。この場にいない小さな青年の万能性には驚かされる。


 絶望を知らないヒーローが、戻って来る。

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