⑷春
「今から五年くらい前に、異常犯罪者による大きな事件があったんだよ」
ぺたりぺたりと裸足でアスファルトを踏み締めながら、和輝が言った。
故郷の思い出を語る彼の口調は、いつだって軽やかなのに、この時ばかりは暗く、まるで夜の湖畔に沈む流木のようだった。霖雨はずきずきと痛む足を動かしながら、問い掛けた。
「どういう事件だったんだ?」
「異常犯罪者を中心として、それを崇拝する信者がある人物を目的に大学構内を占領した。犯人グループは武装し、構内にいた百人近くを人質にとって、ある人物を呼び出そうとしたんだ。その人物を誘き出す為に人質を一列に並ばせて、端から順番に撃ち殺したり、目の前で暴行を加えたりしたらしい。俺も実際に見た訳じゃない。報道にも規制が掛かっていたから、情報は少ない」
路地裏から避難場所を求め、二人は和輝の提案でエリザベスの家へ向かっていた。
安全とは言い難く、彼女を事件に巻き込みたくはないが、他に行く宛も無かった。それに、はぐれた葵と合流出来る可能性があるとしたら、其処しか有り得なかった。
和輝は脳に浮かぶ記憶を辿りながら歩き続ける。
「異常犯罪者――主犯の狙いは、一人の学生だったらしい」
「……葵か?」
苦く、霖雨は問い掛ける。和輝は頷いた。
和輝も学生として母国にいたが、当時は自分の身の回りのことで精一杯だった。部活で傷害事件に巻き込まれ、仲間が自殺し、有りもしないデマが報道され、周囲は敵だらけだった。
大事件である筈の大学占領事件が報道規制された反動で、和輝の関わった傷害事件は長い間世間を賑わせた。今となれば、何故あの頃執拗にマスコミが自分を追い掛けたのか解る。良い迷惑だとは思うが、社会の秩序を維持する為に必要な犠牲だったのだろう。
霖雨は和輝の肯定を横目に、そっと息を逃した。
「どうして、葵が狙われるんだ」
「霖雨と同じ理由だよ」
和輝は言った。
口調は鋭いが、沈み込んでいる。
「ある特定の人間に対して、異常な執着を与える人種が存在する」
「ある特定の人間って、さっきの、サイコパスのことか?」
霖雨は度々ストーカーや痴漢、変質者に遭遇する。そういう異常者に対して霖雨は無防備で、狙われ易い。
葵は存在感が希薄で周囲の人間に知覚され難く、隙も無い。けれど、特定の人間に対して認知され異常な執着を与える可能性がある。――それが、和輝の見解だ。
「葵を誘き出そうとして、サイコパスの主犯は数十人を殺害した。結局、葵は犯人の元に出向いて、殺そうとした」
銃規制のある母国では俄かに信じ難い血腥い、現実味を帯びない事件だ。
霖雨の眉が訝しげに寄る。和輝は続けた。
「葵は殺人未遂だったみたいだ。同級生が、止めてくれたらしい」
「それで、渡米したんだな。居場所も無かっただろう」
「渡米して数年経って、止めてくれた友人が飛行機事故で亡くなった。国際犯罪組織による自爆テロだったみたいだ」
霖雨は目を瞬かせる。耳を疑う大量殺人事件が立て続けに起こっている。それも、葵の周囲で。
和輝は目を伏せた。
「此処までが、俺の聞いた情報」
「例の情報通の友達?」
「そう」
広い大通りに出た。人気は疎らだが、若い和輝と霖雨を好奇の目で見ている。
霖雨は痛ましげに目を伏せる和輝の横顔を見遣った。オレンジ色の街灯に照らされながら、霖雨は絞り出すような悲痛な声で言った。
「俺には、あの時の葵の言葉の意味が解るよ」
何が正しかったと思う。
和輝と葵は違う。それ以外の選択肢を選べなかった和輝と違って、葵は選択したのだ。例えそれを意図しなくとも、自ら選んだ未来だ。選択することで未来は分離する。平行世界が生まれる。葵の未来は分岐した。
正解や不正解なんて誰にも解らない。それでも、問い掛けずにはいられない。他の未来が存在したことを証明して欲しい。そんな感情が、和輝に解るだろうか。分岐した未来を後悔するなんて、誰に理解出来るだろう。
もうすぐ着くよ。
和輝が言った。
5.悪魔の証明
⑷春
そして、それは呆気なく。
破裂音、硝煙の臭い。
追い掛ける血の臭いの中で葵は立ち尽くす。周囲は血に塗れ、起き上がる者はいない。
和輝の知人であるというエリザベスの家に向かったが、道中は武装した組織の人間で固められていた。突破するには立ち向かうしかなかった。
左手にぶら下げた拳銃がやけに重い。人の命を奪う行為を、人は科学の力で手元から遠ざけようとしている。拳よりも刃物を、刃物よりも銃器を、銃器よりも爆弾を。今やスイッチ一つで人の命は奪えるようになった。実に手軽で効率の良い筈の機械が、何故だか妙に重い。葵は銃弾の失せたそれを落とした。
頬に受けた返り血を乱暴に拭う。レイラは腕の中で凍り付いたように動かない。身を固め、まるで動けば死ぬと解っているようだ。霖雨は子どもの前で煙草を吸うことすら咎めたけれど、今じゃ目の前で人を傷付けている。
激怒するだろうか、呆れるだろうか、突き放すだろうか。葵には解らなかった。今は、前進するしかない。
ふと、気付く。選択肢は翳されている。葵は前進以外の選択肢を、知っている。
身を固くするレイラを見下ろす。地上で最も醜悪で、脆弱な生物の幼体――。
血塗れだ。自分も、周囲も、全てが血塗れだ。後悔はしない。これ以上の選択肢は無かった。
嘘だ。
選択肢があることを、自分は知っている。この思考は無意味だ。正解や不正解が解らないから、誰かの採点を求めて自問自答している臆病な精神の自己防衛機能に過ぎない。
足元に転がった拳銃を拾い上げる。銃弾の装填を確認し、照準を定める。首をへし折るまでも無い。この指先を引けば終わりだ。何とでも言い訳は出来るし、事実も隠蔽可能だ。誰にも責められる謂れはないし、生き存えたところで幸福になれる確率は低い。
全ての状況を想定し、確率を計算する。判断し、選択しろ。自分が選ばなくとも未来は存在する。干渉してはいけない。干渉されたくないのならば。
レイラの翡翠の双眸に、自分が映る。返り血を受けた醜い姿だ。他者が自身を映す鏡ならば、この赤子の双眸に映る化物は自分なのだろう。力を込めた筈の指先が何故だか強張って、思い通りに動かない自分の身体の異変に気付く。
どうせ、この世は綻びだらけで不条理なんだ。幾ら願っても祈っても縋っても、何一つ得られやしない。――だけど、欲しい。
たった一つでいいから、揺るぎない大切なものが欲しい。
路地裏から武装した男が飛び出す。罵声と共に銃口を向けた男に、葵は反射的に左手を持ち上げた。指先に力を込める為の、脳内の電気信号が途絶える。シナプスが錆び付く。銃弾が放たれる。――刹那、小さな影が躍り出た。
此処にいるよ、と全身で訴え掛けるような苛烈な存在感。それでいいよ、と両手を広げるような信頼。
和輝と霖雨の顔が脳に浮かび上がって、何故だか胸が軋むように痛んだ。慣れた筈の孤独が、酷く寒く感じた。
躍り出た影が鋭く突き出された槍のように、男の顎を捉え振り抜かれる。人体の急所を突いた強烈な一撃に起き上がれる筈も無い。後方へ倒れた男の後頭部が地面に打ち付けられた。
血腥い路上で、まるで其処にだけ天上から光が差し込んでいるようだ。振り返った秀麗な顔に、レイラが救いを求めて泣き叫ぶ。小さな腕が伸ばされ、それを受け容れるように和輝は微笑んだ。
葵は、左手を下げないままヒーローの登場を見ていた。
これじゃあ、まるで喜劇だ。デウス・エクス・マキナだ。予定調和のように物語は進行していく。神がサイコロを振らないのなら、自分が神に取って代わると尊大な物言いをした和輝が、驚いたように目を丸める。
こんなの、ずるいじゃないか。
彼の周りは光に満ちていて、必ず救いがある。無数に存在する選択肢に気付きもしない癖に、正解だけを奪い去っていく。彼がヒーローならば、どうしてもっと早く、自分の前に現れなかったのだ。
彼は自分を救いに来たのではない。レイラを救いに来たのだ。この血塗れで薄暗い不正解の世界から、レイラだけを救い出す為に存在する。
そんなのは、卑怯じゃないか。
「葵」
表情を消し去ったヒーローが、此方を鋭く見詰めている。
葵は照準を和輝の額に合わせた。指先を引くだけで、ヒーローは退場する。この指を引くだけで。
睨み合う二人を、霖雨は部外者のように見詰めるばかりだった。
あと少しでエリザベスの家に辿り着くというところで聞き付けた銃撃戦に、和輝が弾かれるようにして駆け出した。一瞬で悪者を退治したヒーローは、救った筈の仲間に銃を向けられている。味方の裏切りはフィクションの世界でもよくあることだ。けれど、フィクションではないことを霖雨は痛い程に解っている。
怖いと、純粋に思った。
当たり前のものが当たり前でなくなる瞬間、鏡に映る自分が別人になるような恐怖だ。足元が音を立てて崩れ奈落の底へ嵌るような、ずぶずぶと底無し沼へ沈み込むような気がした。
「葵」
掠れる声で、喘ぐように呼ぶ。
視線すら向けない葵は、ごっそりと感情を削ぎ落としたように無表情だった。拳銃を向ける左腕は下ろされず、レイラの声ばかりが響いている。
呼吸すらままならない霖雨の目の前を、疾風の如く和輝が通過する。何の予備動作も無い行為に、反応出来なかっただろう葵の腕が掴まれる。このまま消えて失くなりそうな葵を現実へ繋ぎ留めるように、銃を向けていた左腕はしかと握られている。
葵が、口を開く。霖雨にはそれがコマ送りに見えた。
「何が正しかったと思う?」
あの問いだ。
霖雨の脳裏に、冷たく伽藍堂の瞳が浮かんで見えた。
葵には、本当に解らないのだ。正解や不正解ではなく、物事の善悪が理解出来ないのだ。そして、本当に恐ろしいのは、解らないまま正常な人間として生きて来たということだ。
我々は違う人種であるということを理解しなければならない。和輝の父の記した一文が、霖雨の耳に蘇る。
けれど、和輝は伽藍堂の瞳をじっと見詰め逸らさない。和輝には、何故解らないのか解らないだろう。彼にとっては、当たり前のことだからだ。此処が境界線だ。
和輝は訝しげに目を細め、至極当然のように言った。
「何も正しくないだろ」
解り合える筈の無い平行線。
それでも、和輝は言葉を止めない。解りたいと、全身で訴えている。
「誰かが採点してくれるのかよ。何か罰則でもあるのかよ。そんなこと考えて、誰かが救ってくれるのかよ。自分が思うようにしろよ」
「そんなの、ずるい」
絞り出すように、葵が言った。和輝はレイラに手を伸ばし、抱き留めた。安心したようにレイラは泣き止み、彼の服を二度と離すまいと強く握り締めている。
和輝は銃を握ったままの葵の掌を掴んだ。冷たく強張った掌を解すように、熱を分け与えるようにしてそっとその腕を下ろさせる。
「正解も不正解も自己満足だろ。自分が許せないだけだろ。間違ったっていいだろ。誰かがお前を責めるのか? 誰かがお前を否定するのか?」
葵が、僅かに俯いた。返り血を浴びた横顔が、街灯に照らされている。
「もしも、誰かがお前を許さないって言うなら、俺がそいつに言ってやる。じゃあ、お前は間違ったことが無いのか。誰もがお前を肯定するのかって」
畳み掛けるような切口上で、和輝は続ける。
「たった一度や二度間違ったからって、お前の全てを否定する権利なんて、誰にも無いだろ。誰かが否定するなら、認められるような人になれ。自分を許せる生き方をしろ。それでいいじゃん」
「それじゃ駄目なんだよ」
「その時のお前は最善を尽くした。それでも、守れないものがあった。じゃあ、次はどうする。――生きてりゃ同じようなこと、何度だって起こり得る。その時、お前は蹲っているだけなのか。自己嫌悪して黙っているだけなのか」
和輝の言葉に必死さが滲む。
現実から乖離してしまいそうな葵を、言葉で繋ぎ止めようとしているからだ。
「頼れよ、友達だろ。あとほんのちょっとが足りない時にこそ、頼ってくれよ」
レイラを腕に抱きながら、和輝が訴える。
縋っているのは和輝なのか、葵なのか。
和輝が言った。
「手を伸ばせ。必ず、掴んでやるから」
葵の掌が解かれた。拳銃がアスファルトへ落下する。
だらりと下げられる腕を掴んだまま、和輝は言った。
「全てを解り合えると思うなら、それは世間知らずだろうね。人は解り合えない。――それでも、解りたいと願う気持ちが信頼なんじゃないかな。そして、それが尊いと、俺は思う」
くつくつと、葵が可笑しそうに喉を鳴らす。皮肉っぽい嫌な笑い方だ。
「理想論で綺麗事だねえ」
「よく言われるよ」
もう慣れてしまった。
和輝が、からりと笑った。
葵も釣られるように笑った。
疲れ切った、けれど、憑き物が落ちたような何処か晴れやかな笑みだった。
彼の纏う棘は猛毒だ。けれど、それはきっと、氷で出来ている。
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