⑶氷の棘

 それを、俺に近付けるな。


 親の仇でも見るかのように、葵がレイラを睨む。確かに子供好きには見えないが、此処まで嫌悪感を出す必要も無いだろう。和輝はレイラを背中に負ぶい、呆れて肩を落とした。


 200ccのミルクを飲み干すと、レイラは直ぐに欠伸をして入眠の姿勢へ入った。環境の変化に対応出来る手の掛からない子だ。


 彼女を寝かせる布団も無いので、仕方無く和輝は自身の背中を提供する。両手が自由になり、まるで拘束から解き放たれたかのような開放感だ。既に目を閉じているレイラはレム睡眠に入ったのだろう時折、引き付けのようにびくりと小さな身体が震える。


 彼女はSIDSだけでなく、野蛮な犯罪組織によって生命の危険に晒されている。その境遇を思うと、憐憐憫の念を禁じ得なかった。




「葵は酷い奴だねえ」




 そりゃ、嫌われる訳だ。

 染み染みと、霖雨が言った。問題ごとへ巻き込んだ張本人としては肩身が狭く、和輝は苦笑いを浮かべるに留める。




「こんなに可愛いのにね」

「泣き喚いている時は、まるで化物のようだった」

「それだけ、お前のことが嫌だったんだろうさ」




 へらりと霖雨が笑った。


 葵が抱いた時のレイラは、正しく火が付いたように泣き喚いていた。和輝は背中で寝息を立てるレイラを見遣った。先程までが嘘のように、穏やかに眠っている。




「子供の顔の造作は、大人の気を引くために作られている。庇護欲を掻き立てる為の計算だ」

「ひねくれ者だなあ」




 呆れたように霖雨は肩を落とす。葵は換気扇の下で壁に寄り掛かり、火の灯されない煙草を指先で弄んでいる。


 二人の遣り取りを横に、和輝はこれからのことを考える。当然だが、いつまでもこの場所にレイラを保護することは出来ない。かといってエリザベスの元へ戻す訳にもいかないし、危険は未だ去っていない。


 葵の言うように、一個人が犯罪組織を相手取ることは無理だ。ヒーローが活躍出来るのはフィクションの世界だけ。


 ――それでも、放り出せない。


 自分の衣服を固く握るレイラを、和輝は切り捨てられない。自分へ伸ばされる手を、振り払えない。


 和輝が黙っていることに気付き、霖雨が話を振った。




「随分と子供の扱いに慣れているよな。何か経験でも?」

「PICUの手伝いへ駆り出されていたことがある。小児科にも」

「大学病院で色々と経験して来たんだな」




 感心とも呆れとも付かない息を吐いて、霖雨が肩を落とす。和輝は曖昧に笑った。貴重な経験と言えば聞こえは良いが、実際は便利に扱われていただけだった。




「レイラは手の掛からない方じゃないかな」

「おんぶ紐姿が板に付いて来ているよ。和輝も母親におんぶされていた?」

「母は俺を産んで死んだ」

「そうか……」




 霖雨が痛ましげに目を伏せる。やはり、彼は基本的に人が良いのだろう。他人の感情一つ一つに丁寧に共感してくれる。その優しさが変質者に漬け込まれるのだと、和輝は未だ忠告するタイミングを見計らっていた。


 それまで黙っていた葵が、煙草を置いて言った。




「お前の父親は、男手一つで兄弟を養って来たんだな」

「そうだよ。立派な父親で、俺の憧れだ」




 和輝が告げると、葵の目が不機嫌そうに細められた。何か、地雷を踏んだのかも知れない。


 葵は秘密主義なのか、自分の情報を殆ど開示しない。それでも僅かに感じる警戒が、和輝には声のように聞こえる。


 リビングに戻った葵が、テーブルの上に分厚い紙の束を投げ出した。ファイリングされた書類――レポートの表紙には、父の名前が記されていた。英語で書かれたタイトルは小難しいが、要はカウンセラーとして活躍する父の対応した事例集だ。レイラを起こさないように手を伸ばそうとしたところで、葵が言った。




「機会があれば、お前の父親に会ってみたいね」

「……時間さえ合えば、快く受け入れてくれるよ」




 葵の言葉には棘がある。彼は仙人掌のように表皮を棘で包み、何者も内側へ招き入れない。


 鋭い棘は猛毒を持ち、近付く者全てを敵と認識し、傷付ける。和輝は伸ばし掛けた手を止め、葵の講義を聞く体勢に戻った。




「父親は、お前と一緒に汚れてくれたかい?」




 和輝にはその意味が、解らなかった。話の繋がりが見えない。葵と話をしていると、時々こういう事態に陥る。IQに絶望的な格差が存在する為なのか、性格上の問題なのか和輝は解らない。


 ただ、自分の何かに対して葵は過剰反応し、言葉に毒を混ぜる。それが何なのか、和輝は未だに解らない。


 話の風向きが良くないと、霖雨が口を挟もうとする。けれど、葵は闘牛士のように躱して講義を続けた。




「彼の記したレポートは、2000件もの事例をプライバシー保護法に従って明細に挙げている。患者との対話による治療へ重きを置いて、薬剤に頼らないアプローチは彼の誠実な人柄が滲み出ている。だが、それはプライベートにも通じるのかな」

「……俺にとっては、自慢の父親だよ」

「レポートの中で、反社会性人格障害にも言及している。――サイコパスは、社会に置ける捕食者だ。人は誰もその種を内包して出生する。幼児期には発芽し、成長の過程でやがて萎える。だが、この種子を開花させる人種が存在する。これは遺伝や環境に起因しない脳の機能障害だ。捕食者の花は一定数咲き出て、社会へ根を張る。それが花であると気付く捕食者はいない。この人種を理解することは難しい。故に、我々は咲き誇る花に対して、異なる生物であると認識する必要がある」




 和輝は首を傾げた。解るような、解らないような。

 聞き手の反応に関心を示さず、葵は涼しい顔をして、幾らか早口に言う。




「こうした事例を通して尚、彼は対話によるアプローチを続けている」

「そういう仕事で、性格だ」

「それは、家族に対しても?」




 頭がこんがらがって来た。

 和輝は頬を掻く。




「俺がサイコパスだって言っているのか?」

「もしも息子がサイコパスだったとしたら、彼は対話によるアプローチを試みただろうか」

「家族だぞ」

「サイコパスでも? 犯罪者でも? 世間に後ろ指差されるような醜い人生を歩んでいても、自分の息子だと胸を張って庇ってくれたか? 同情し、共感してくれたか? 共に荊棘の道を歩いてくれたか?」

「だから、俺は此処にいる」




 胸を張って、和輝は言った。背中でレイラが僅かに身動ぐが、目を覚ますことは無かった。


 葵は、可笑しそうに目を細めた。小馬鹿にするような態度に今更腹を立てて文句を言いはしないが、不快に思わない訳ではない。わざとらしく両手を広げ、葵が弁明する。




「批難している訳じゃない。純粋に興味があったんだ」

「悪意が感じられる。裁判なら心証を失くしていたぞ」

「裁判所ではなくて残念だ」




 三日月のように葵の口角が釣り上がる。嫌な笑みだ。


 和輝はテーブルに置かれたレポートの束を見遣り、溜息を零した。表紙に記された父の名前に辟易する。誰も自分を知らない筈の異国の地で、生まれを問われるとは思わなかった。


 だが、自分は人に咎められるような生き方を選んだつもりは微塵もない。だからこそ、此処で退く訳にはいかない。




「葵はこれを研究レポートだと思っているみたいだから、訂正させてもらう。これは患者を対象にした臨床心理学の研究レポートではなくて、ただの事例集なんだよ。俺の父は研究者ではなくて、一介のカウンセラーだ。それ以上でも以下でもない」




 葵の表情は変わらない。和輝は続けた。




「他人は自分を映す鏡だと言う。こんなもの、大仰な名前を冠してはいるけど、結局のところは、ただの紙の束だ。――お前は此処に何を映したんだ?」




 問い掛けた瞬間、劇薬を口にしたかのように葵の表情が強張った。一気に畳み掛けるつもりで、和輝は口を開いた。


 その時、葵が何かを言った。

 聞き間違いかと思う程に小さく、掠れるような声だった。


 追及しようとした瞬間、室内の明かりがぶつりと消えた。

 夜の闇の如く暗転した室内に、霖雨が声を上げる。




「何だ! 停電か?」

「予備電源が作動する筈だ」




 感情の読めない冷淡な葵の声がした。目の前の見えない暗闇で、和輝は互いの気配を探ろうとする。


 掌にはテーブルの硬い感触、背中には確かな生命の息遣いがある。そして、次の瞬間、耳を塞ぎたくなるような硝子の割れる音が響いた。




「お客さんだ」




 凍るような葵の声がした。


 室内を土足で踏み鳴らす音がする。押し寄せる無数の気配に、和輝はレイラを括るおぶい紐を握り締めた。

 敵襲。和輝は身構える。予備電源は作動しない。隣で誰かが和輝の腕を掴む。霖雨だ。押し殺した声で和輝とレイラの無事を確かめる。扉の蹴破られる音がした。


 暗闇の中で、敵意、或いは殺気が溢れる。

 一流の殺し屋は気配すら感じさせないという。彼等は素人だ。所謂、鉄砲玉だ。上の指示に従って思考を放棄し、使い捨てられる駒でしかない。だから、何をするか解らない。


 装置を起こす音がする。和輝とレイラを庇うように霖雨が横から抱え込む。


 破裂音。――銃声だ。


 生暖かい液体が和輝の頬を伝う。霖雨が微かな呻き声を発する。その向こうで、何かが床に叩き付けられる鈍い音と聞き覚えの無い他人の悲鳴が上がる。混乱し動転する室内に硝煙と血の臭いが広がった。和輝の背中で、状況を察したのかレイラが声を上げる。


 一斉に銃口が向けられるのが解った。何も見えない闇の中で、和輝の首筋に冷たい何かが押し当てられる。ひやりとした感触に身を強ばらせた瞬間、背後から耳を塞ぎたくなるような鈍い音がした。




「――走れ!」




 葵の怒声が響く。和輝は弾かれたように駆け出した。


 背中で、ぶつりと引き千切られる音がして足を止めた。

 途端に背中が軽くなり、暗闇で赤子の悲鳴が上がる。




「レイラ!」




 切り捨てられたおぶい紐が解け落ちる。和輝は振り返った。


 闇の中で、微かにレイラの影が浮かぶ。何かに引き寄せられるようにレイラが離れていく。咄嗟に伸ばした腕を、銃弾が掠めた。反射的に和輝は身を強ばらせる。火が付いたように泣き喚くレイラへ、凶器が翳されるのが解った。


 そんなものを子供に向けるな!


 一瞬にして和輝の頭に血が昇る。だが、その怒りは発することが無かった。悲鳴の元、葵の右足が振り切られた。


 凶器は音を立ててリビングの床を滑り、肉を打つ乾いた音と共に悪意が崩れ落ちる。




「葵!」




 闇の中で、葵がレイラを抱き留めた。




「脱出するぞ!」




 和輝も霖雨も、葵の言葉を合図に走り出した。


 記憶を頼りに玄関を飛び出す。無数の殺気が追い掛けて来る。星に照らされた街中の明るさに、こんな時になって気付く。住居を脱しても追って来るのは、如何にもギャングといった風体の若い男達だった。昼間に会ったD.C.の一員に似ている。


 少し遅れて追い掛ける霖雨の腕を掴む。街頭に照らされた面は紙のように白く、血の気が無い。

 葵とレイラの姿は見えない。探す余裕も無く、和輝は霖雨の腕を引いて駆け出した。今は葵を信じて身を隠すしかない。


 突っ掛けた薄いサンダル越しにアスファルトの感触が嫌に残る。追って来る男達を躱す為、自宅の庭のように慣れた界隈を駆けずり回る。遅れそうな霖雨を引っ張って走る。


 銃声を聞き付けたパトカーのサイレンが聞こえるが、敵か味方か判断出来ない今は、自分を信じて身を隠すしかない。人気のない裏道へ駆け込み、和輝はゴミ箱の影にしゃがみ込んだ。


 自分達を探す一団が、声を荒らげ焦ったように通り過ぎて行った。和輝はほっと息を吐き、隣の霖雨を見遣った。


 蒼白な顔色の霖雨が、壁に凭れ掛かる。見れば裸足だった。咄嗟に何かを履く余裕も無かったのだろう。和輝は履いていたサンダルを脱いで譲る。霖雨の両足は出血している。硝子片でも踏んだのかも知れない。


 ポケットを探れば大判のハンカチが入っていたので、半分に破って両足へ巻いてやる。応急処置だ。鋭利な刃物で切り裂かれたように深い傷口だが、異物は残っていない。


 霖雨が力無く笑った。




「ありがとう。流石は元救命隊員」

「見習いだけどね」




 とりあえず、軽口を叩く元気はあるようだ。霖雨が逡巡し、伺うように和輝を見たが、サンダルを履いた。


 和輝はポケットから携帯を取り出す。

 葵は兎も角、レイラの安否が気掛かりだった。隣で溜息混じりに霖雨が言う。




「あいつ等、何者なんだ。お前の友達?」

「面識は無いよ。だけど、狙いはレイラだ」




 携帯を耳に押し当てる。呼び出し音ばかりで、繋がらない。

 通話を諦め、携帯を戻す。和輝は銃弾の掠めた腕の具合を確かめる。




「なあ、」




 霖雨が言った。




「さっき、葵が何て言ったか、聞いたか?」




 和輝は頷いた。


 暗転する寸前、葵が絞り出すように言った。罪人の独白のようで、裁判官の死刑宣告のようでもあった。感情を隠す意図的な冷めた声だと、和輝は思った。


 あの時聞いた言葉を辿るように、和輝は言った。




「何が正しかったと思う?」




 あの時、葵は確かにそう言った。それまでの会話と繋がらない、意味不明の問い掛けだ。けれど、霖雨には、其処に素通り出来ない悲痛な叫びが含まれている気がした。











 5.悪魔の証明

 ⑶氷の棘











 蒼穹を舐める紅蓮の炎を、今も覚えている。


 葵は、腐臭の漂う路地裏に座り込んでいた。片腕に収まる小さな生命体は泣き疲れたのか、状況も知らぬように安らかに眠っている。目を覚ましている時の嫌な強張り方は無いが、全体重を預けて来る存在がどうにも居心地悪い。先程までの警報にも似た悲鳴は何だったのかと辟易するばかりだ。


 和輝と霖雨は無事に逃げられただろうか。霖雨だけなら兎も角、界隈を知り尽くしたスーパーマンのような和輝が一緒ならば安心して良い。それは彼に対する信頼ではない。和輝はそういう人種だ。人を救い、安心させる。其処に見返りを求めない。


 危険度が高いのは、彼等よりも此方だ。男達――D.C.の狙いはレイラだからだ。口封じとして抹殺を狙ったとしても、優先順位はレイラの暗殺だ。


 逃亡か、潜伏か。


 何れにせよ、身一つで飛び出して来た今の状態は心許無い。赤子の扱い方も解らないし、此処には哺乳瓶もオムツも無い。抱き替えれば起こしてしまうような気がして、レイラのいる右腕を動かせない。そんなことはちっとも知らないレイラはすやすやと眠っている。


 良い御身分だな、なんて皮肉に思うが、どうせ伝わりはしない。


 二人と何処かで落ち合おうとポケットから携帯を探るが、傍受されている可能性を考えると通話は戸惑われる。葵は考えを巡らせた末、状況を打開すべく携帯を取り出した。


 その瞬間、レイラの双眸が開いた。


 翡翠のような両目に自分の顔が映り、葵は硬直する。此処で先程のような悲鳴を上げられたら、見付かってしまう。


 何かで口を塞がなければ、と考える必要も無かった。目を覚ましたレイラは、表情を変えず、泣き声も漏らさなかった。状況を察したのかと過大評価してしまう。レイラはぐるりと視線を巡らせて、携帯を見詰めた。


 腕の中でレイラが、携帯へ手を伸ばす。




「これは駄目だ」




 そっと携帯を遠ざける。レイラは、くしゃりと顔を歪めた。

 声帯が震える――。




「解った。交換条件だ」




 葵は携帯を差し出した。レイラは両手で携帯を抱え、満足したのか笑った。


 同時に、携帯が震えた。ディスプレイに映る番号は和輝だった。傍受の可能性も鑑みず、通話して来たに違いない。取り上げようと手を伸ばすが、レイラが再び顔を歪めたので、葵は溜息と共に通話を諦めざるを得なかった。


 このクソガキ。


 携帯は未だに震えている。位置情報が特定される前に、電話に出るか、電源を落としたい。


 だが、葵にはその手段が無かった。やがて通話が切れた。レイラは不思議そうに携帯を見ている。


 このままじゃ駄目だ。今はこの場所から離れた方が良い。事情を知っていて、レイラを預けることが出来て、二人と合流出来る可能性のある安全な場所――。


 そんな場所は何処にも無い。あるとすれば、襲撃を受けたあの家だけだ。

 背中に疲労がどっと押し寄せて、葵は壁に凭れ掛かった。ふっと下ろした瞼の裏に、過去の記憶が鮮明に蘇った。



 三年前の七月――。

 渡米して生活も安定し、充実した毎日を送っていた。新しい土地で新しい人間関係を構築し、何一つ不自由も無かった。あの日、一通のエアメールが届いた。それは母国に残して来た数少ない友人からの手紙だった。


 七月某日、渡米する。


 迎えに来いなんて不躾に、墨塗れの筆で記されていた。葵は突然の知らせに驚いた。母国に残して来た友人とは、生涯会う事も無いだろうと思っていた。否、会いたくもなかった。だが、自分が何を言っても海を越え、空を渡って来るだろう友人に対し、葵に拒否権は無かった。


 脳に寸分違わず記憶された番号へ電話を掛ける。小さな機械越しに聞こえた友人の声に、故郷を懐かしむ程の愛着は無かった。葵は一言だけ告げた。


 空港で待っている。


 断りの言葉を持たない葵の、唯一の返事だった。

 友人は「当然だろう」と尊大な言い方をして、通話は終わった。数年越しに会うとは思えない近しい距離感に、葵は苦笑いを浮かべた。


 約束の日、葵は空港へ向かった。着陸しようとする飛行機を見ていた。美しい流線型が滑走路へ滑り込む様を鮮明に覚えている。それが折り畳んだ足を下ろし、着陸の体勢を取った瞬間だった。


 恐らく客席だろう飛行機の部位は爆発炎上した。突然の事態に空港内は阿鼻叫喚の地獄と化し、滑走路はジェット燃料が溢れ火の海となった。駆け付けた消防隊も近寄れず、炎の中で悶え苦しむ客の影が照らされ、踊っているように見えた。


 鎮火まで丸一日掛かった。引火し爆発した機体は墨となった。乗員、乗客を含めた二百名近くの人間が骨も残らず消し炭になった。助かった人間は一人もいない。友人もまた、同様だった。


 乗客名簿に刻まれた友人の名前を、葵はじっと見詰めていた。初夏の日差しが真上から照らしていた。


 国際犯罪組織による自爆テロだと、報道された。死者を悼む葬儀は盛大に行われ、まるで大きな祭典のようだと思った。


 葵には解らない。葬儀に出席した葵は、その希薄な存在感の為に報道陣からの取材は一切受けなかった。この訃報を聞き付けた故郷の友人が、憔悴し切った声で労わりの電話を掛けて来た。葵の対応は事務的だった。――解らなかったのだ、葵には何も。


 憤るべきだったのか。

 泣き叫ぶべきだったのか。

 縋るべきだったのか。

 突き放すべきだったのか。

 葵には解らない。今も解らないままだ。


 葵に家族はいない。神木家は代々続く警官の家系で、両親と兄は葵が高校生になる頃には皆殉職していた。


 常識と呼ばれる社会的風習は知っている。周囲の人と違わぬように生きることが正しいのだと、教え込まれた。困っている人を助けることも、親切にすることも知っている。葵にはその価値が解らない。


 規則は知っているが、何故、それを守らなければならないのか解らない。社会に影響を与えぬ範囲で、自分の身を守り、殻に篭ることが最も平和的手段だった。誰にも干渉しないし、させない。人と深く関わらなくとも生きていける。否、深く関わるべきではない。干渉し合うから、人は死ぬのだ。


 黒炎を昇らせる爆炎の中、酸素を求めて黒い影が踊る。硝子越しのそれは、まるで喜劇のようだった。


 葵には、解らない。あの時、何をするべきだったのだろう。責めるべきか、打ち拉がれるべきか。何が正解だったのか、葵には解らない。



 奈落の底に転がり落ちてしまいそうな思考が、急ブレーキでも掛けられたように停止する。



 硬直し冷えて行く指先を、何かが縋るように握っている。葵は瞼を開けた。腐臭に満ち、ゴミ捨て場のように寂れた路地裏で、この世の不条理等欠片も理解出来ないだろう非力な生命体が、葵の指先を握っていた。


 地上で最も醜悪で、脆弱な生物の幼体だ。身を守る牙も鱗も毒も刺も甲羅も持たない。けれど、葵の指先を握る掌は力強く、温かかった。




「……悪かったな」




 葵は、立ち上がった。


 行く宛がある訳ではないが、この場所は安全ではない。

 体中に疲労感が滲む。


 レイラの握る携帯が、再び着信した。浮かぶ番号は和輝のものだった。傍受を恐れて葵はそっと手を伸ばす。レイラは携帯を握ったまま離さないので、そっと電源を落とした。


 同時に、葵は閃く。今の彼等が向かう場所、自分が行くべき場所が思い浮かんだ。


 住所は知っている。一度覚えたものを忘れることは難しい。葵は記憶を辿るようにして歩き出した。

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