⑵レイラ
銀色に輝く飛行機が、空港へ滑り込む。
それは、鳥類が水面下の獲物へ狙いを定めるように。
大きな硝子の向こう、だだっ広い滑走路には幼稚園児のように行儀良く順番待ちをする飛行機が並んでいる。その隙間を縫うように着陸する飛行機を、葵はじっと見詰めていた。10000km以上もの空路を旅して来た偉大な鉄の塊とその搭乗員へ、胸の内で敬礼をする。
翼を持たない人間が、空の旅なんて傲慢な言い方だと常々思っていた。だが、道具を駆使して鳥類の如く空へ羽撃き、此処まで進化を齎した執念へ感服する。
剰え、それを個人の夢に止めず、大勢を運搬する旅客機すら開発しているのだから、僅か1250cc程しかない脳には、それ以上の可能性が隠されているのだという誇大妄想も好意的に受け止められる。
葵は目を細めた。
燦々と照り付ける初夏の日差しに、銀色が瞬く。空気抵抗を抑える美しい流線型だ。形式的に設けられた窓が鏡のように黒く反射している。副腎髄質より分泌されたホルモンが血中へ放出されているのが解る。心拍数と血圧が上昇している。アドレナリンの分子式を思い浮かべ、ささくれ立つ神経を鎮めようと深呼吸をする。――刹那。この世の終りとばかりの爆音が轟いた。
銀色の機体が粘土細工のようにひしゃげ、蒼穹へ朦々と爆炎が昇る。動揺に満ちた人々の喧騒の中で、サイレンが狂ったように鳴り響く。ジェット燃料への引火から、機体は追い打ちを駆けるように更に爆発した。心臓が破裂するような内部爆発だ。天空で乗客を守っていた外壁が吹き飛ばされる。悪魔の舌の如く紅い炎が、乗客の悲鳴を嘲笑うように機体を飲み込み、空を舐めた。
悲鳴、怒号、嗚咽。混乱し阿鼻叫喚となった空港内で人々が喚き立てる。葵の耳には、全てが雑音のように響いた。
飛行機を囲む消防隊。避難を促すアナウンス。崩れ落ちる人々。絶望で埋め尽くされた空港は、地獄と呼ぶに相応しい。
硝子の向こうで起こる出来事は、現実感を欠いている。けれど、現実であることを葵は理解していた。
消防隊は近付けない。爆炎の勢いは増す一方で衰える気配も無い。乗客も添乗員も出て来ない。皆が悲鳴を上げて、手を拱いている。空港内は隔離され、目の前で起こっている筈の惨状は、魚河岸で見る鮪の解体ショーのように思えた。
絞り出すような祈りも、縋るような悲鳴も、全てが炎に呑み込まれる。そして、それをすくい上げる掌は何処にも存在しない。
嗚呼、やはり。
この世は絶望だ。
5.悪魔の証明
⑵レイラ
退屈なアルバイトから帰宅して見ると、霖雨が赤子を抱いて四苦八苦していた。
悲鳴を上げる赤子の存在を無視して、葵は換気扇の下へ向かった。同居人の決めた規則で、喫煙所はキッチンの一角のみとなっている。ポケットに押し込んだ煙草を取り出すと、それまで赤ん坊ばかりに気を取られていた霖雨が弾かれるように顔を上げた。
「子供の前で煙草を吸うな!」
葵は口を尖らせ、ライターへ伸ばしていた手を置いた。
「喫煙は俺の権利だ」
「子供の前で煙草を吸うなんて非常識だろ!」
ヒステリックに喚く霖雨の腕の中で、赤ん坊は泣き喚く。脳波を乱す最悪のBGMだ。
一先ず煙草は置き、室内へ視線を巡らせる。こういう問題ごとを持ち込むのは、大抵あの小さな同居人だ。リビングには真新しいベビー用品が山のように置かれているが、生憎、彼の姿は見当たらない。
「あいつは何処に行ったんだよ」
「オムツを買いに行った」
玩具で必死にあやす霖雨は目もくれない。
葵は溜息を吐いた。
「その子供は何だ」
「訳ありで預かっているんだ」
「訳もなく預かるなんてことは無いだろう。どういう訳だ」
「非行少年の更生、或いは慈善事業だ」
「あいつ、やっと転職したのか」
「無職だ」
葵は目を瞬かせる。
「――とりあえず、そのガキを黙らせろ。耳障りだ」
「出来るならとっくにやっている。ああ、もう!」
苛立たしげに霖雨が叫んだ。
そして、何を思ったのか葵の元まで歩み寄り、赤ん坊を押し付けた。
「ちょっとトイレに行きたいんだ。抱っこしていてくれ」
「嫌だ。赤ん坊なんて嫌いだ」
「お前だって昔は赤ん坊だっただろう。ちょっとの間で良いから」
「床にでも置いておけ。どうせ泣き喚いているだけだ」
なんて酷い奴だ!
喚き立てた霖雨に押し切られる形で、葵は赤ん坊を受け取った。こんなことならば、さっさと自室へ篭れば良かった。
抱き留めたその小ささに、驚く。同じ種族の幼体が、これ程までに華奢で、脆弱とは思わなかった。伸ばされる掌の小ささに反比例して、泣き声は凄まじい。快と不快程度の感情しか持ち合わせておらず、自己防衛も生命保持も出来ない。保護してくれる誰かを求めて泣き喚く。それ以外の主張を知らない――。
霖雨がトイレへ駆け込み、葵は赤ん坊と取り残された。空間へ反響する悲鳴が、蝉時雨の如く葵へ降り注ぐ。
早く、誰か助けて。
人種、国境を問わない赤ん坊の泣き声が葵に突き刺さる。何故だか、それが無性に憎らしく思えて、ネグレクトする母親の気持ちが理解出来るような気がした。
小さな頭と身体を繋ぐ首は細い。これを捻るだけで、泣き声は途絶えるだろう。ほんの少し、力を入れるだけで。
銃の引き金に指を掛けることと同様だ。ただ、それだけのことで。
扉が開いた。蝶番の軋む音に、葵は我に帰る。玄関とリビングを繋ぐ扉は開け放たれ、惑星のように強烈な引力を持つ青年が立っていた。何か動作を起こした訳でもないのに、その存在感に目が惹き付けられ離せない。蜂谷和輝は、僅かに驚いたように目を丸めていた。
「なんで葵が抱っこしているんだよ」
静かに歩み寄った和輝が、赤ん坊へ腕を差し出す。導かれるように赤ん坊の手は伸ばされた。
こんな小さな体躯で、手を伸ばすべき相手を見極めているのか。葵はそれが恐ろしかった。葵は、子供は天使だと妄執する愚かな群衆を否定的に見下している。子供は無邪気ではなく、有邪気だ。生きる為、随時、他者を比較し取捨選択をしている。
和輝の腕に収まった赤ん坊は、鎮火されたように静かになった。オーバーオールの胸元を、二度と離すまいと握り締めている。
もう大丈夫だよ。
大型のエコバッグを肩に掛け直し、和輝が微笑む。見計らったように、霖雨もトイレから現れた。
エコバッグの中身は徳用サイズのオムツだった。それをベビー用品の山の隅へ置き、和輝は定位置の椅子へ腰を下ろす。僅か数分の出来事にどっと疲れ、葵も倒れ込むようにして椅子へ座った。
「――それで、それは何だ」
「Leila」
レイラ。
女児だったらしい。葵は鼻を鳴らす。
「経緯を説明しろ。簡潔に」
「非行少年の更生に関わって、犯罪に巻き込まれそうな赤ん坊を保護した」
「理由は。簡潔に」
尋問する葵には目を向けず、レイラをあやしながら和輝が答える。
「目の前で困っている人がいたら、助けたいと思うだろう」
「理由による」
漸く顔を上げた和輝が、溜息を吐いた。隣に座った霖雨も肩を竦めるばかりだった。
「二つの犯罪組織が勢力争いをしていて、非行少年が尽く巻き込まれ未来を潰している。勢力争いの一つが蔓延する違法ドラッグの存在だと知って、放って置けなくて介入したんだ」
以前、和輝はその違法ドラッグで関わった患者を亡くしている。関連する事件に巻き込まれたこともある。他人事と放って置けないことも理解出来るが、事実、他人事だろう。
「その違法ドラッグをばら撒いた一方の犯罪組織が、或る殺人事件を起こした。関係者を始末しようとしている」
「赤ん坊が、関係者か?」
「そう」
さも当然のように、和輝が肯定する。
概要は把握した。葵は肩を落とす。
「赤ん坊の位置関係が解らないな。その殺人事件っていうのは?」
「表向きは交通事故だ。先週、深夜に女性の運転車両が木に突っ込んだ。人通りが少なかったから、発見された時には既に息を引き取っていた。車両は爆破炎上し、被害者は頸椎骨折による即死と診断されている」
口を挟まない霖雨は、既に概略を聞いていたのだろう。和輝の口調も淀みなく、説明に慣れている様子だった。
「それに他殺の可能性があるのか?」
「指の爪が全て失くなっていた。証拠隠滅されたか、或いは」
「拷問された」
和輝は頷く。
「それから、右手首に螺旋骨折があった。遺体の損傷は激しかったが、レントゲンで確認出来る」
「右腕を掴まれ、振り解こうとしたのか」
「話が早いね」
嬉しそうに和輝が言う。話の内容と感情は乖離しているようだ。
「被害者はシングルマザーだ。半年前に会社を辞め、転居している」
「理由は?」
「書類には全て一身上の都合と」
「妊娠の兆候が周囲に知られる前に、仕事を辞めた。転居には費用が掛かる」
「銀行には独り身の女性が持つには不信な程の大金が預けられていたようだ」
葵は訝しげに目を細めた。
「随分と詳しいな」
「情報通の友達がいるからね」
葵は鼻を鳴らし、話の先を促した。
和輝が先を継いだ。
「彼女はある犯罪組織に関与する会社で、受付業務をしていた。その内に、上役と不倫し、レイラを身篭った。家庭のある上役は認知する訳には行かず、示談することにした。彼女は示談金を当面の生活費として受け取り、姿を晦ました――」
「そして、出産」
「この事実を知った何者かが、レイラを取引材料として利用しようと画策した。母親はレイラを信頼出来る人の元へ預け、何者かの拷問を受け、殺害された。これは俺の推測だ」
筋は通っている。葵は唸った。
「その信頼出来る人っていうのは?」
「俺が前に働いていた大学病院で世話になった看護師だ。エリザベスっていう女性だ」
「その女性が、相談を持ち掛けた?」
和輝は頷いた。
そして、現在に至るのか。
葵は天井を仰いだ。どうして、こうも率先して犯罪に巻き込まれに行くのだろう。
葵は溜息を飲み込み、問い掛けた。
「赤ん坊を狙っているのは、どちらの犯罪組織なんだ?」
「エリザベスの家を襲撃しようとしていたのはDevil's childrenの下っ端だったよ」
「D.C.か」
「知っているのか?」
それまで沈黙を守っていた霖雨が口を挟む。育児疲れでもしているのか、幾らか顔色が悪い。
「違法薬物を主な収入源とする犯罪組織の末端で、D.C.は田舎のヤクザってところか」
「そいつ等が何でレイラを狙うんだ」
「レイラを人質に交渉でもするんだろう。従わなければ、レイラの存在を公表する。若しくは殺す。尤も、殺されたところで痛くも痒くも無いだろう。上役――組織の跡取り息子の、社会的立場の失脚を狙っているのさ」
痛ましげに眉を寄せ、霖雨はレイラを見遣る。和輝の腕の中で安心したように、レイラは眠っていた。
葵は目頭を押さえ、頭痛を堪えるように言った。
「それで、どうするつもりなんだ。どうして此処へ連れて来た」
「NY市警には、手下が潜り込んでいる。通報すれば追い込まれる」
「だからといって、相手は犯罪組織だぞ。一個人が太刀打ち出来る相手じゃない。お前の正義感や自己犠牲主義は認めるが、それでどうにかなる程、現実は甘くない。ヒーローが活躍出来るのはフィクションの世界だけだ」
和輝が口をへの字に曲げた。何か反論の言葉を吐き出す前に、葵は畳み掛けた。
「この世は絶望なんだ。どれだけ骨を砕こうと、行き着く先は決まっている。予定調和なんだ。デウス・エクス・マキナだ。台本通りの世界だ。希望的観測は止めろ。神はサイコロを振らない」
押し黙って聞いていた和輝が、僅かに視線を鋭くして口を開く。
放たれた言葉は鞭のように撓り、叩き付けられた。
「絶望があるなら、希望だってあるだろう」
「……絶望の意味を理解しているのか? 希望が無いから、絶望と言うんだ」
すると、和輝は不思議そうに目を丸めた。
「逆じゃないかな。希望があるから、絶望したくなる。――パンドラの箱に残されたのは希望だって言うじゃないか。何でもかんでも簡単に諦められないから、絶望したくなる。本当の絶望なんて、無いんだよ」
透き通るような双眸が、きらりと輝く。自分の言ったことに一つの不備も無いと胸を張るように、堂々としている。
反論しようとして、葵は黙った。
それはチェスや将棋で数手先を読み、正しく予定調和の一手を指す瞬間に似ている。葵の脳内では、反論の反論の反論までもが一瞬にして構築された。けれど。
「それも、一理あるな」
葵は笑った。
卵が先か、鶏が先か。神が人間を作ったのか。人間が神を作ったのか。
そういう論争に似ている。
戸惑いや躊躇いの無い和輝の双眸が真っ直ぐに突き刺さる。其処には嘘偽りが潜む影すら存在しない。
「神様がサイコロを振らないなら、俺が神様になるよ」
俺がサイコロを振るよ、と言わないところが、彼らしいと思った。
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