5.悪魔の証明

⑴呼び込んだ災難

 God doesn't play dice.

(神はサイコロを振らない)


 Albert Einstein







 薄いディスプレイに映る秀麗な横顔が、身近な誰かに似ていると思った。


 整備されたグラウンドは観客に包囲され、逃げ場も隠れる場所もありはしない。春の日差しに照らされながら、白いユニホームを着た青年が大きくワインドアップする。


 レッグアップ、流れるようなステップを踏んで――、投球。

 唸るような剛速球は、肉を打つような乾いた音と共にミットへ吸い込まれた。アウト。主審が大きく拳を掲げる。その瞬間、観客の声が津波のようにグラウンドを包み込んだ。


 霖雨は、それを傍観している。テレビの向こうは熱気に満ちているのに、この場所は冷蔵庫のように冷たく隔離されている。チームメイトに包容され、綺麗な面に喜びを滲ませる青年をじっと見詰める。煙を吐き出した葵が、言った。




「兄貴だよ」

「何?」

「だから、それ、和輝の兄貴」




 テレビに映るのは、メジャーリーグで祝福される母国きっての大投手だった。


 エースナンバーの上には、確かにHachiyaと記名されている。


 親の敵だというように煙草を消し潰す葵は、まるで興味が無いらしく目も向けない。霖雨は隔絶された世界で賞賛を受ける母国の英雄をただただ凝視するばかりだった。


 和輝に似ている。

 長い睫毛に彩られた大きな目は、吸い込まれそうな透明感を放つ和輝のそれと同じだった。


 兄の面影を色濃く残した弟は、比べて体格に恵まれなかったらしい。

 それを補って余り有る身体能力と才能を持って生まれたのかも知れないが、何かと比較されて育ったことだろう。輝かしい栄光の道を進む兄の影が、和輝には見えない。この世の不幸なんて知らないように天真爛漫に振る舞い、無邪気に笑う和輝に、卑屈さは微塵も無い。


 喫煙所である換気扇の下から移動した葵が、テーブルの隅に追い遣られたレポート用紙の束を投げ渡した。咄嗟に受けた霖雨が目を通すより早く、葵はいつもの淡々とした口調で言う。




「あいつの父親は臨床心理学会の権威で、世界的な有名人だぞ」




 何やら小難しそうなレポートは、その臨床心理学会の権威が記した事例検討集らしい。刻まれたHachiyaの名前にうんざりする。血統書付きのスーパーエリート、サラブレッドじゃないか。


 その箱入り息子は、友人に会いに行くと言って、今朝早くから外出している。


 太陽のように明るい和輝がいないと、家の中は何となく閑散としていて、薄ら寒い。同じ感想を持ったのか否か、葵はレポートの束を小脇に抱え、自室へ向かって歩き出していた。出不精な葵は、食事以外の時間は大抵自室に篭っている。其処で何をしているのか霖雨には解らないが、干渉する権利も無かった。


 引き止める理由も見当たらないので、霖雨はテレビの電源を落とし、自室へ篭る葵を見ていた。


 突き抜けるような晴天だ。霖雨は大きな窓を一瞥し、背伸びをする。欠伸を噛み殺し、キッチンのコーヒーメーカーに電源を入れる。葵が使用して間も無い為、マシンは未だ熱を持っていた。


 講義の無い土曜日は、所謂休日だ。休日を喜ぶ学生は正しいのか霖雨は測り兼ねるが、穏やかな一日の始まりに胸が踊る心地は誰にでも解るだろう。台風よりは、晴天が良い。夜よりは、朝が良い。太陽の光が胸に満ちて、ソーラーカーのようにエネルギーが蓄えられる。予定の無い一日の始まりだ。


 家事は全て和輝が朝の内に済ませている。葵を見習って読書に没頭しても良い。買い物に出掛けて時間と資産を浪費するよりも建設的だと思う。読み掛けの小説を思い出し、霖雨はコーヒーの満ちたマグカップを片手に立ち上がった。


 無人となるリビングを背中に、自室の扉を押し開ける。ローテーブルの上には小説――カモメのジョナサンが鎮座していた。最終章の加筆されたハードカバーの小説は同居人からの借り物だった。


 弾むようなメロディが、背中に刺さる。後ろ手に閉じ掛けた扉を止め、霖雨は振り向いた。


 リビングのテーブルに置いて行かれた携帯電話が、室内の沈黙を打ち破るように鳴っている。ウィリアム・テル、序章。


 登録した覚えの無い曲だ。何となく不気味に感じ、霖雨は恐る恐る近付く。マグカップの中で闇の色をしたコーヒーが揺れる。


 着信だ。

 電話の相手は、件のサラブレッドだった。




「何か用か?」




 通話の開口一番に、霖雨が言った。電話の向こうから微かに笑う息遣いが聞こえた。




『今、暇か?』

「質問しているのは、こっちだぞ」

『通話出来る余裕があるなら、続きを話すよ』




 普段と何ら変わりの無い軽やかな口調で、和輝が言った。


 きっと、ろくな用件じゃない。そんな気がして、霖雨は溜息を零す。




「いいから、話せよ」

『じゃあ、今から言う場所へ来てくれ』




 何なんだ。

 霖雨はコーヒーを置き、カウンターに置かれたメモ帳を引き寄せ、ペンを掴んだ。


 淀み無く、和輝が住所を告げる。頭の中に地図を思い浮かべ、符号から場所を推察する。自信が無かったので聞きながら地図を開いて確認した。その場所は、以前、和輝が犯罪組織に拉致監禁された港の倉庫だった。


 また犯罪にでも巻き込まれたのかと、背中を嫌な汗が伝う。だが、和輝の口調は変わらない。




「そんなところで何をしているんだ。友人と会うって、言っていただろ」

『サーフィンする予定だったんだけどさ、海が荒れていたから中止したんだ。童心に帰って飲み明かそうって話になったら、ちょっと色々あって』




 ろくな用件じゃなかった。

 今すぐに通話を終えたかったが、叱られた幼児のように俯く和輝の姿が瞼に浮かんで躊躇われた。絆されている。甘やかすから付け上がるんだと苦く思うが、通話を切断する選択肢なんて始めから存在もしていない。


 場所を確認し、霖雨は答えるしかなかった。




「なるべく早く行くよ」

『待ってる。葵には、内緒だぞ』




 密やかな蜜を漂わせるように、和輝が言った。











 5.悪魔の証明

 ⑴呼び込んだ災難










 サーフィンなんて嘘だろう。


 オーバーオール姿の和輝が可愛らしく手を振っている。背景の寂れた倉庫とのミスマッチが、何とも不気味だった。


 犯罪組織御用達と言わんばかりの気味の悪さだ。固く閉ざされたシャッターには無数の穴が空いている。以前、FBIが突入した時に出来たものだろうか。物騒なことこの上ないが、被害者である筈の和輝が欠片も気にせず笑っているので霖雨は肩を落とすばかりだ。


 友人とやらは何処にいるのか、和輝の周囲には誰もいない。


 歩み寄る霖雨に、和輝は笑い掛ける。




「待っていたよ。さあ、こっちだ」




 当たり前のように手を引いて裏口へ回る和輝は、隠れ家を案内する子供のようだった。


 鍵の壊れた裏口は、以前のままだ。葵がピッキングした折に破壊したのだ。連れられ扉を潜った霖雨の目には、がらんとした倉庫内部が広がって映る。貨幣偽造に使われた印刷機なんかは、当然影も形もない。


 代わりに、中央には縄で打たれた少年が三人背中合わせに座っていた。




「何だ、こいつ等」

「友達」




 少年等の元へ進み、踊るように和輝が振り返る。


 少年等は目を背け、口を尖らせている。如何にも非行少年といった様子で、とても友人には見えない。




「なんで拘束されてるんだ」

「逃げるから」




 友達なら逃げないだろう。

 霖雨は黙った。


 ぶすっとした少年の側に膝を突き、和輝は美しく微笑んだ。


 大きな瞳が星のように煌めいたと思った瞬間、それは鋭利な光を放つ刃の切っ先と重なった。鋭く細められた眼差しは、あの大投手がバッターを見据える様に酷似している。




「非行少年集団の一員で、違法薬物の売買に関与している。情報提供の協力を求めているところだ」

「強要じゃなくて?」

「あくまで、平和的に」




 何処が平和的なのだろう。霖雨には解らない。


 三人組の内の一人、キャップを被った褐色肌の少年が吠えるように口を開く。




「こんなことして、ただで済むと思うなよ!」




 三下が口にする定番の台詞だ。呆れる霖雨の隣で、和輝の口元が愉悦に歪む。




「虎の威を借る狐――。こいつ等のチーム名、知ってるか?」




 霖雨は首を振った。母国語での遣り取りは、彼等に通じないらしい。


 成人男性とはとても思えない幼い笑顔を見せ、和輝が言う。




「Devil's Children」




 その名を口にした瞬間、少年等の眼差しが一斉に和輝に向けられた。錐のように鋭く突き刺さる視線をものともせず、和輝は幼児の悪戯を許容する保護者の如く穏やかに微笑んでいる。


 口元に笑みを残したまま、その双眸は僅かに細められた。




「自分達が組織の一員だと思っているなら、訂正してやる。お前等は組織の末端で、言わば捨て駒だ。銃弾のように代わりは幾らでもいるし、上層部は回収に奔走したりしない」




 言い聞かすように、諭すように、はっきりと和輝が言う。

 侮辱されていると解っていても、無下に出来ない誠実さが滲んでいた。本心からその身を案じていると解る。反論の言葉を失くした少年達が、ばつが悪そうに視線を外へ投げる。




「薬の売買には一切関わるな。それは超えてはならない一線だ」

「……何を、偉そうに」

「年長者の言うことは、素直に聞くものだ」

「年長者って」




 吐き捨てるように少年が言った。彼等の目には、和輝が同い年かそれ以下に映るのだろう。


 侮る視線も気にせず、和輝は続ける。




「今なら、まだ引き返せる。お前等には、未来がある」

「知ったような口を叩きやがって!」

「知っているんだ」




 透き通るような眼差しが、不意に細められる。まるで深淵を覗いて来たような不気味で伽藍堂の瞳だ。


 少年等の息を呑む音がした。和輝は作り物のように完璧な微笑みを浮かべて、言った。




「さあ、子供はもう帰る時間だ」




 和輝が拘束するロープに手を掛ける。それは手品のようにするすると解かれた。


 呆気無い解放に少年等は居心地悪そうに目を伏せる。親しい友人にするように、和輝はリーダー格の少年の肩へ手を置いた。




「There is not the next」




 囁くような微かな声で、けれど鉛のような重さを持って突き刺さる。

 少年等は顔面を硬直させ、転がるように我先へと倉庫から逃げ出した。


 その後ろ姿を晴れ晴れと見送った和輝が、普段と何ら変わりのない呑気な顔で霖雨へ向き直る。




「じゃあ、本題だ」




 それまでが余興であると躍けて和輝が笑う。霖雨は頭が痛くなった。




「今、この界隈では二つの犯罪組織が勢力争いをしている。多感な年頃のティーンエイジャーは挙ってこの抗争に参加し、巻き込まれ、社会復帰の望めない暗い窖へ嵌って行っているんだ」

「それで?」

「彼等の行動は浅慮で愚かしいけれど、誰もが通る道だ。正解や不正解を知るのは、彼等が成長して自己を顧みられるようになってからだ。だから、彼等には必ず逃げ道や救いの手が無ければならない」




 彼は何者なんだろう。

 霖雨はつくづく思う。


 座学が壊滅的であるにも関わらず、言葉は理路整然として、確かに知性の光が其処かしこから顔を出している。


 最も理解出来ないのは、道端の石に気付きながら避けようとせずに転ぶところだ。或いは、アスファルトと茨の二つの道で、迷いなく茨の道を選ぶところだ。




「……非行少年の更生へ手助けをしろってことか?」




 和輝は首を振った。




「本当の意味で更生するとしたら、自分で変わろうと決意した時だよ」

「時間が解決するか?」

「医者が風邪を引くように、時間も病気になる。彼等の積み重ねる時間の健康診断は必要だけど、それは専門機関の領分だ」




 要領を得ない和輝の言葉に、霖雨は溜息を零す。




「何をして欲しいんだ」




 其処で、和輝が苦く笑った。


 今のは惜しかった。

 そんな彼の言葉が聞こえて来るようだ。霖雨は理解する。これは誘導尋問だったのだ。彼にその意図が無くとも、何をしたらいいのか、という言葉を引き出したかったのだろう。


 どちらでも同じことだ。

 霖雨もまた、苦く笑った。彼の提示する条件が何れにせよ、この場を立ち去るなんて霖雨には出来ないのだから。


 和輝はことりと首を傾け、はっきりと言った。




「子供を預かってくれないか」

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