⑶光り輝くもの

 霖雨が目覚めた家の中に、昨夜の予言通り和輝はいなかった。


 出不精なオーナーはリビングの定位置で、人間観察が趣味だと宣う世間知らずな学生の如くぼんやり虚空を見詰めている。心無しか疲れているような葵の前には、食べ掛けのトーストとスクランブルエッグ、サラダ、スープが並べられていた。


 和輝が出掛けたことは解っているので、霖雨も敢えて問い掛けはしない。自分は保護者ではなく、ただの同居人だ。故に行き先も把握する権利は無い。葵は霖雨を横目に伺うと、億劫そうに食事を再開した。


 霖雨の席には同じメニューの朝食が用意されている。ひと皿ずつ丁寧にラップで梱包されていた。あの小さな青年が並べる様を想像すると、幼児の御飯事のようで可笑しかった。其処にいなくとも、確かに存在したという痕跡が其処此処に残っている。


 視線も向けず、点けたままのテレビをぼんやり見ながら葵が言った。




「おはよう」

「ああ、おはよう」




 霖雨も挨拶を返し、席に着く。パンはトーストされていないが、面倒なのでそのままでいい。


 調理人不在であるが、霖雨は手を合わせた。葵がレタスを頬張っている。繊維の潰れる音が小気味良く、食材の新鮮さを感じさせた。


 音を立ててスープを飲む葵は、椅子の上に立て膝で、背中を丸めている。最低に行儀が悪い。咎めようかと口を開き掛けた霖雨を遮り、葵が言った。




「昨日、あの馬鹿が学校に来ただろう。騒ぎを起こさなかったか」

「ああ。バスケットボールでスーパープレイを見せて、観客を大いに沸かせていたよ」




 何をしに行ったんだ。葵は忌々しげに吐き捨てる。




「和輝の身体能力の高さに驚かされたよ。自分より一回りも二回りも大きい選手を躱してゴールを決めたんだ。最高に格好良かったさ」

「故障さえしていなければ、大舞台で輝かしく表彰されるような人間だ。それを隠そうとしなければ、目立って当然だ」

「故障って、完治したんじゃないのか?」




 霖雨は、以前与えられた情報を思い返す。和輝は学生時代、傷害事件に巻き込まれて右腕と肩を故障した。だが、血の滲むようなリハビリの末に乗り越えた。そう聞いている。葵は答えた。




「人体機能の破壊だ。完治はしない」

「そうなのか……」




 勿体無いな、と霖雨は胸の内に吐き出した。あれ程の身体能力ならば、世界でも十分に通用するだろう。故障している現在でさえ、初見の観客にすら大きな感動を与える男だ。健在ならば、一流のエンターテイナーに成り得ただろう。


 霖雨の沈黙を横目に、葵が言った。




「表舞台から消えた英雄は、屡々創作題材として挙げられる。人々は悲劇のヒーローを望む」

「悲劇を望んでいる訳じゃない。困難を乗り越える様を見て、勇気付けられたいんだ」

「困難に喘ぎ、辛苦に呻く様を見て、それでも背中を押す。――チャップリンの映画、ライムライトを観たことがあるか?」




 目を細めた葵の声が、刃のように霖雨へ刺さる。




「観客一人一人は良い人たちだが、集団になると頭の無い怪物だ。どちらを向くか予想不能で恐ろしい」




 霖雨は溜息を吐いた。だが、呆れてばかりもいられないので、すぐに切り返す。




「私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ」




 目には目を、歯には歯を、引用には引用を。


 葵は少しばかり目を見開いて驚いたようだった。けれど、可笑しそうに口角を釣り上げた。




「同情する者は自分が強者であると信じている。だから、助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる」

「ニーチェか」

「そうだ。きれいごとも理想論も結構だが、現実を知るべきだ。自分の立つ地面を知らずに空ばかり眺めていれば、進むべき道を見失う」

「俺が空想家だって言いたいのか?」

「物事を一方から眺めて判断するなと言っているんだ。お前にとっての変質者は、誰かにとっては掛け替えのない家族だ。世間にとっての英雄は、本人にとっての強迫観念だ」




 ああ、和輝のことを言っているのか。

 霖雨は唐突に理解した。


 口調は淡々としているのに、何処か嘆いている風でもあるのはその為だ。霖雨は悟る。


 ごちそうさまでした。いっそ嫌味なくらい丁寧に手を合わせ、葵は席を立った。苛立っている訳でも当たり散らしている訳でもないのに、何となく居心地が悪い。霖雨は知らん顔をしてテレビを見詰めた。










 3.Twilight.

 ⑶光り輝くもの










 死ぬ寸前の夕日を背負った和輝が、大学院の門扉で待っていた。


 昨日のように見学者を装って中で待っていれば良いのに、と霖雨は思った。和輝は霖雨の姿を認めると片手を上げて応える。綺麗な面はオレンジ色の光に照らされ、飼い主の帰還を喜ぶ忠犬のようだった。


 ぺちゃんこのバックパックを背負い、和輝が微笑む。


 ちょっとだけ付き合って欲しいところがある。

 逡巡すら躊躇われる強さを持った言葉だった。すぐに踵を返した和輝の背中を追い、霖雨も歩き出す。何の説明も無いまま、疑問符を浮かべるばかりだった。


 到着した先は、大学院から徒歩圏内の小さな診療所だった。ビロードのような滑らかな芝生の上に、色褪せた白い箱のような建物がある。個人医院らしい。ペンキの剥がれ掛けた看板が、年月の経過を物語っているようだ。


 自宅の庭であるように迷い無く進む和輝を追う。両開きの扉をノックも無く押し開ける。内部は閑散としていて、受付には病院の関係者だろう老婆が鎮座していた。会釈する和輝を呼び止めはしない。霖雨もそれに倣って会釈すると、老婆は品定めするように視線を巡らせた。


 和輝の歩調は淀みない。ただ、振り返らない背中だけが無性に不安にさせる。


 短い廊下の先に診察室が一つ。黄色い電灯に照らされた壁が照らされているのか煤けているのか霖雨には判断が付かない。和輝は診察室の向かい側にある扉の前に立ち、漸く振り返った。




「会って欲しい人がいる」

「俺に?」

「そう」




 理解が追い付かない。此処は何処で、どんな要件があるのだろう。


 和輝は痛ましげに目を伏せ、叱られた幼児のように言った。




「人の好意は、恐ろしいかい?」




 すぐに、答えられなかった。


 好意――他人の勝手な期待だ。

 対象の本質を理解しようともせず、自己満足の為に偶像を作り上げ、押し付ける。想像に反せば罰せよと声を上げ、期待を裏切れば罵詈雑言を浴びせる。


 渡米してから霖雨が出会って来たのは、そういう愚かな民衆だ。痴漢、ストーカー、変質者。誰も彼もが勝手な言い分で作り上げた理想像を押し付ける。対象を理解しようとはしない。理解していると、信じているからだ。


 だからこそ、霖雨にとってあの家は居心地が良かった。和輝は理想を押し付けないし、葵は干渉しない。


 霖雨が黙っていると、和輝はそっと言った。




「あの仙人掌の処分に困っただろう。一週間放置して、最近開封して、中身が仙人掌だと知った。正体不明の贈り物なんて不気味だった。でも、蕾が付いていたから、捨てられなかった」

「――そうだ」

「あわよくば枯れてくれればいい。そうすれば、正々堂々と捨てられる。世話をしている形跡は無かった。仙人掌は強い植物だから、そう簡単には枯れない。だから、寒気の吹き込む窓辺に置き去りにした。あの仙人掌の置かれた位置に日差しは差し込まない。ブラインドカーテンには埃が積もって、開閉される様子も無い」




 霖雨は目を閉ざし、研究室の窓辺に置いた仙人掌を夢想する。和輝の言う通りだ。枯れてしまえば良いと思った。


 彼から仙人掌の花言葉を聞いて、一層不気味に思った。その場で処分しようとした。けれど、和輝がそれを踏み止まらせた。仙人掌は、葵に、霖雨に似ていると嬉しそうに言うから――。


 和輝は伏せた目を上げ、祈るように言った。




「この部屋に、あの仙人掌の贈り主がいるんだ。……人は恐ろしい。醜悪で冷酷だ。だけど、それが全てでは無い」

「うん」

「好意に必ず応えなければならないとは思わない。霖雨は何も間違っていないし、逆の立場なら俺も同じことをしたかも知れない。だから、これは自己満足なんだ。俺の勝手な期待だから、応えなくて良い。扉を開けるか否かは霖雨次第だ」




 此処まで来て、踵を返す選択肢もあるのか。霖雨は呆れた。この期に及んで選択肢を呈示する和輝の図太さに呆れたのではない。此処まで導きながらも拒絶を想定内としている周到さに、呆れたのだ。


 許容も拒絶も、和輝は受け容れるだろう。それでいいよ、と言うだろう。


 霖雨は肩を落とした。親に悪戯を報告して懲罰に怯える子どものような和輝が、びくりと震える。その細い肩を叩き、霖雨は笑った。




「――あの仙人掌、持って帰るから、お前も世話をしろよ」




 それで貸し借りは無しだ。

 霖雨は驚き顔を上げる和輝の横を摺り抜け、扉を押し開けた。


 殊勝な態度が演技とは思わないけれど、予定調和に等しい一連の出来事に、一喜一憂する様は何処か滑稽だ。


 扉を押し開けた先は、現実離れした白い光に埋め尽くされていた。安っぽい蛍光灯に照らされる室内は物寂しく、死んだように静まり返っている。等間隔に響く電子音だけが異物のように、耳に残った。


 窓辺のベッドには、一人の少女が横になっている。幾つもの点滴が繋がれ、固く閉ざされた瞼は開く様子も無い。血の気の失せた白い面には、薄らと雀斑が散っている。綺麗に結われた三つ編みが枕の端で蟠っていた。


 窓辺には、仙人掌が置かれていた。小さな蕾を付けている。


 後を追う形で部屋に入った和輝が言った。




「バスケットボールクラブのマネージャーだ。一月前に交通事故で脳と内蔵に損傷を受け、意識不明の重体だ。一時は意識を取り戻したが、現在は目を開けることも無い。大学病院に入院していたが、汚職問題で病院が閉鎖して、この診療所へ移動された。機械によって生かされているが、間も無く生命維持装置は外される」

「どうして」

「莫大な金が掛かるんだよ。延命したからと言って、意識が戻る可能性は無い。脳はもう死んでいる。心臓だけが機械によって動かされている状態だ」




 果たして、それは生きていると言えるのだろうか。霖雨には解らない。


 沈黙を守る少女は、仙人掌と同じだ。だが、何時か花開く仙人掌と違い、この少女は永遠に目覚めない。


 既に手遅れと呼べる状態の少女へ引き合わせて、和輝は何をしたいのだろう。

 霖雨が目を向けると、ばつが悪そうに和輝が言った。




「俺の自己満足なんだよ。一時的に意識を取り戻した彼女は、真っ先に霖雨へ仙人掌を贈ることを思い立った。そして、その結果を知らずに脳は停止した」




 ああ、そうか。手遅れとか、そういうことではないんだな。

 ドラマで、刑事が犯人を逮捕したことを墓前へ報告するのと似ている。少女を知らない霖雨は、それ以上の感想を持ちようが無い。




「死ぬ瞬間に、人は自らの歩んだ道程を走馬灯として見るらしい。その時に、嫌なことや悲しいこと、遣り残したことばかりを振り返るんじゃ、虚しいじゃないか」




 馬鹿だな、とは笑えなかった。和輝の言わんとしていることが、霖雨には痛い程に解る。


 触れるように項垂れた頭を撫で、霖雨はベッドの側に膝を突いた。二度と目覚めない少女。その目を見ることも、声を聞くことも無い。外界の刺激を受容することなく、反応も示さない。


 だが、その存在が和輝を突き動かして、霖雨を此処へ導いた。




「仙人掌、受け取ったよ。大切に育てるよ」




 この声が届かないとしても。




「ありがとう」




 自然と、霖雨の口元には微笑みが浮かんだ。動く筈の無い少女の表情筋が、僅かに緩んだ気さえした。


 帰り道は既に日が落ちている。点在する街灯の照らす帰路を辿り、霖雨は黙ったままの和輝を見遣った。


 表情は無い。其処に感情が無いというよりは、どういう顔をすれば良いのか解らないと言っているようだった。むっつりと口元を真一文字に結ぶ和輝に、霖雨は問い掛ける。




「あの子のこと、何処で知ったんだ?」




 沈黙が破られたことに安堵したのか、幾らかほっとした顔で和輝は答えた。




「大学病院の入院患者が彼方此方に移動されたことは知っていたんだ。あの子が入院していた時、担当したこともある。お前の研究室に置かれた仙人掌が、病室にあったものと同じだったから、ぴんと来たんだ」

「不思議な因果だな」




 和輝が、力無く笑った。




「最初は、黙っていようと思った。何にもならないなら、何もしない方が良い。何をしてもしなくても、あの子に未来は無い。奇跡なんて無いことを、俺は知ってる」




 それでも。和輝が続けた。




「あの子は確かに存在した。肉体は死んでも、誰かの記憶の中で人は生きられる。そう信じたいじゃないか。もしもそれが霖雨に十字架を背負わせる結果になるなら、俺は黙っているべきだった。――解らなかったんだよ、本当に」




 部外者が、当事者よりも頭を悩ませている。

 端から見れば馬鹿馬鹿しい。そんな気の使い方は無いだろうと思う。


 十字架を背負うなんて大袈裟な言い方だ。慎重なのか、悲観的なのか霖雨には解らない。底抜けに明るくて素直なように見せて、その内面は仄暗い。


 けれど、彼の縋るような祈りが、解るような気がした。不可能と承知の上で、全ての人を救いたいと思っている。誰にも傷付いて欲しくない。本心からそう祈ることの出来る人間が、此処にいる。


 一寸先すら見えぬ暗闇を、手探りで這うようにして、それでも何処かにある光を信じて進むことが出来る。

 俯く和輝の足元は暗い。頭一つ分小さい和輝を撫で、霖雨は笑った。


 夜明け前が一番暗いというのは俗説だ。実際に一番暗いのは深夜である。彼が進んでいるのは日没後でも深夜でもない、直に太陽が顔を出す夜明け前なのだ。それは最も暗く冷たい夜を越えた証だ。


 きっと、何程大勢の人間に否定されても、許されなくても、後ろ指差されても、自分の信じたことを信じるままに行動して来たのだろう。意志の揺るがない強い目をしている。同時に、風前の灯火にも似た儚い目だ。


 だが、彼が信じた道が、乗り越えて来た時間が、とても尊いと思う。それは他の誰にも真似出来ない、正真正銘、彼だけが持ち得る力だ。


 世界を変えるのは、都合の良い超能力や優れた技術ではない。ただ一人のヒーローだ。


 本当の勇気だけが、世界を変えられる。




「これで良かったんだよ」




 言い聞かせるように、ゆっくりと語り掛ける。


 顔を上げた和輝が微笑んで見せる。意図的に浮かべられた明るい笑みは、雰囲気を変える為に作られている。だが、作為的ではない。


 ふと今朝の遣り取りを思い出す。――葵は、一体何処まで理解していたのだろう。


 目前に迫った住居から漏れ出す明かりが、まるで道標のように見えた。


 ああ、仙人掌を持って帰らなければ。そんなことを考えていると、腹の虫が鳴いたので、和輝と顔を見合わせて笑った。


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