⑵仙人掌

 鳥のようだ。


 助走、跳躍、着地。流れるような滑らかな動作は、翼を持つ鳥類の飛翔に似ている。


 顔程の大きさもあるバスケットボールが、確固たる意思を秘めた一つの生物であるかのようにゴールへ吸い込まれる。小気味いい音が尾を引いて静かに響いた。


 一瞬の静寂。そして、割れんばかりの拍手が体育館を包み込んだ。


 大学院に設置された体育館は、その真価を発揮せんとばかりに人で埋め尽くされている。今も称賛の眼を向けられる青年は、勝鬨を上げる戦士のように拳を頭上へ掲げた。悲鳴染みた歓声が耳を劈く。


 其処には人の可能性がある。


 人類が初めて地球の重力圏外へ進出し、月面着陸を果たした瞬間のように。

 幾つもの難解な数式が、幼児のただ一つの動作を糸口にするすると解かれていくように。

 目の前が闇に染まる窮地から、颯爽と現れた英雄によって一筋の光明を掴んだように。


 人の持つ無限の可能性が、恰も凡庸な己にも啓示されているような錯覚をしてしまう。そして、己の無力さを痛感していても信じてみたくなる。身も世もなく縋りたくなる。


 弾む呼吸を整えるような早足で、バッシュのスキール音と共に和輝が歩み寄る。意図せず衆目を集めた霖雨は、惜しみない拍手の余韻に浸りながら英雄の凱旋を出迎えた。


 額に汗の雫を光らせながら、和輝が拳を向ける。称えるべき健闘も霖雨には見当たらないが、導かれるようにして応えた。


 その場の思い付きで大学院へ来訪した和輝を研究室へ待たせ、霖雨は予定の通り講義を受けていた。講義終了後、急ぎ足で研究室へ戻る途中、通り掛かった体育館が平時には無い程の賑わいを見せている。


 興味本位で覗いた先で、待たせていた筈の和輝がバスケットボールのミニゲームに参加していた。クラブの選手以上に活躍し、大勢の観客に囲まれ、有り余るセンスをいかんなく発揮していたのだから、霖雨は目玉が飛び出す程に驚いた。


 チームメイトとハイタッチを交わし、初対面だろう選手に馴染む和輝の腕を掴み、逃げるようにして霖雨は体育館から脱出した。強引に連れ出した和輝はにこにこしながら手を振って、男女問わず赤面させ、好意に満ちた視線へ応えている。悪びれもせず、煩わしそうな素振りも見せず、終始誠実に振舞うことに何の違和感も無いのだから性質が悪い。


 歓声の届かない構内、研究室へ引っ張り込み、後ろ手に扉を閉めて漸く息を逃がした。


 和輝は変わらず微笑みを浮かべ、研究室に置かれた観葉植物を眺めている。霖雨は額を押さえた。




「待っているって、言ったじゃないか」

「退屈だったんだよ」




 ごめん、なんてしゅんとして言う和輝に、それ以上の叱責を向けることは躊躇われる。


 二の句が継げないでいると、和輝は滑らかな頬を滑る汗を乱暴に拭い、地上を照らす日輪のように笑った。




「楽しかった」




 裏表の無い純真な言葉だった。


 確かに、見上げる程に大きな体格の選手を、瞬く間に躱して行く和輝の姿は、見ているだけで興奮させられた。エンターテイメントの殿堂とばかりに観客をその世界へ引き込んで行く。楽しかった。悔しいが、霖雨とて同感だ。


 ふっと息を逃す霖雨に、和輝が微笑む。吸い込まれそうに透き通った双眸が、槍のように霖雨を貫いている。


 彼の目は、美しい。ダイヤモンドに似ている。世界最高の硬度を誇り、自身が光源でもある宝石のようだ。


 透明度の高い彼の目には何が見えるのだろう。紛い物の星空すら美しいと言う彼の心には何が映るのだろう。その両目を刳り貫いて双眼鏡へ嵌め込んだなら、彼と同じ世界が見えるのだろうか。


 こんな狂った思想なんて理解出来ないだろう和輝が、見るものを惹き付けて離さない綺麗な相貌で微笑んでいる。この世の不幸等知らないとばかりに軽やかな足取りで歩き出す。何の変哲も無いリノリウムの退屈な廊下が、青々と茂る草原を彷彿とさせる。瞬きする度に揺れる睫毛に星が滑るような気がした。




「霖雨は優しいね」




 否定したところで、謙遜と受け止めるだろう純粋な言葉だった。


 どんな人間でもいい。それでいいよと許容する温かな眼差しだった。


 自分の存在が許されたようで、縋り付いて泣き出したくなる。世界に彼がもう百人程存在したならば、戦争なんて無くなるだろう。そんな馬鹿げたことを思った。


 観葉植物――20cm程の仙人掌を眺めていた和輝がふと顔を上げる。ブラインドカーテンから差し込む光が白磁のように滑らかな頬を照らす。和輝の形の良い唇が開いた。




「誰からの贈り物?」




 今にも咲き出しそうな白い蕾を見詰め、和輝が言う。霖雨は息を呑んだ。


 その表情は穏やかで、まるで揶揄するかのような軽やかな口調であるにも関わらず、直感は針のように鋭い。その仙人掌が贈り物だなんて、霖雨は一度も口にしていない。


 黙ったままの霖雨を一瞥し、つらつらと和輝が言った。




「仙人掌の花言葉は枯れない愛。内気な乙女。秘めた熱意。燃える心。――熱烈な告白じゃないか」




 可笑しそうに口元を歪ませる和輝に、霖雨は目を細めた。




「詳しいな。どうして贈り物だと思ったんだ?」

「何となく。植物を買い求める霖雨の姿が想像出来ない」




 カマを掛けた訳ではないのだろうが、霖雨は自分の失言に気付く。雉も鳴かずば撃たれまい。余計なことは口にするべきではなかった。


 確実な根拠を持って推論する葵とは違う。霖雨は観念して答えた。




「先週、梱包された状態で研究室の前に置いてあったんだ。宛名はあったけど、差出人は不明だ」

「蕾は?」

「蕾?」




 質問の意味が解らず復唱すると、和輝は探るように丁寧に言った。




「贈られた時、蕾は付いていたのかい?」




 ああ。

 霖雨は感嘆にも似た肯定の返事を示す。


 和輝は顎に指を添え、何か思案していた。

 何となく居心地が悪くなって、霖雨は苦し紛れに口を開く。




「和輝も誰かに贈られたことがあるのか?」

「ううん。病院勤務だった時、入院していた患者さんが恋人から贈られていたんだ。だから、花言葉も知ってる」




 滔々と、和輝は続けた。


 仙人掌の表面は、羽毛のように白く覆われている。だが、触れるものを皆傷付ける鋭い棘は、脆く柔い内部を守っているのだ。鉢植えに手を添え、和輝は訝しげに目を細めた。




「仙人掌って、葵に似てる」

「葵?」




 住居のオーナーである希薄な存在感の青年を思い浮かべ、霖雨は首を傾げた。


 和輝はそっと囁くように言った。




「外部は隙間無く刺で覆われて、触れようと手を伸ばすことも出来ない。刺の間から見える表皮が柔いのか硬いのか、想像することしか出来ない。咲き出でる花は美しいのに、決して長持ちはしない。葵は、仙人掌に似ている」




 和輝の言わんとしていることを朧に把握し、霖雨は唸る。彼には、葵がそのように見えているのか。


 傍目に見ても和輝への風当たりは厳しいけれど、それも肯定的に受け止めている。ともすれば理解不能の宇宙人のような葵を、和輝は理解したいのだろう。霖雨はそう思った。


 黙ったままの霖雨へ、和輝は笑い掛けた。




「でも、霖雨も仙人掌に似ているよ。棘を纏って身を守っているようで、本当は隙だらけなんだ。差し詰め、この蕾は控えめな自己主張ってところかな。此処にいるぞと訴えているけど、すぐに諦めてしまう」




 叙情的なのに、的を射ている。

 和輝は馬鹿だが、愚かではない。


 先程、彼の目を刳り貫いて双眼鏡にしたなら同じ世界が見えるだろうかと思ったが、間違いだった。見たものを濾過する心が無ければ、それは宝の持ち腐れなのだ。鋭い観察眼も、豊かな感受性があってこそ活きる。




「さて、そろそろ行こうぜ。鶏肉を買って帰らなきゃ」




 悪戯っぽく笑う和輝に、毒気が抜かれた霖雨は肩を落とす。弾むような足取りで歩き出す小さな背中と、窓辺に置かれた仙人掌を見比べ、霖雨は思い浮かんだことを呑み込む。


 君も、仙人掌に似ているよ。奥歯で噛み砕いた言葉は霧散した。











 3.Twilight.

 ⑵仙人掌











 葵はいなかった。


 一人分の夕食を丁寧にラップで包み、冷蔵庫へしまい込む。和輝はカウンターの向こうへ目を向けた。霖雨が読書に没頭している。理解不能の専門用語の羅列を、涼しい顔で読み込んでいる。傍らに置かれている辞書は形式的なもので、殆ど使用されない。


 和輝は冷蔵庫へ唐揚げをしまう代わりに、缶ビールを取り出した。備蓄されているアルコール類を主に消費するのは葵だが、和輝も呑めない訳ではない。二本取り出してリビングへ戻ると、霖雨が顔を上げた。和輝は問い掛けた。




「明日も大学?」

「そうだよ。和輝は?」




 ビールを一本差し出すと、霖雨は感謝の言葉と共に受け取った。本は傍らへ寄せられた。


 互いにシャワーを浴び、既に入眠の支度は整っている。プルタブを起こすと、空気の抜ける音がした。


 乾杯。

 缶の縁を当てる。静かに缶を傾ける隣で、霖雨が大きく仰ったのが見えた。さも美味そうにビールを飲み下す霖雨の横、和輝は曖昧に笑った。




「明日はちょっと出掛けるよ。朝食は作っておくから、後は適当に済ませてくれ。葵には弁当を用意する」

「母親みたいだな」




 可笑しそうに霖雨が言った。


 一気飲みしているにも関わらず、霖雨に酔いの気配は無い。顔に出ない性質なのか、酒豪なのかは解らない。


 だが、にこにこしている霖雨は上機嫌だった。和輝も缶を傾ける。




「葵がアルバイトしているなんて、知らなかったよ」




 思い出したように霖雨が言った。和輝が頷くと、霖雨も嬉しそうに頷いた。


 ミラーリングというコミュニケーション手法がある。相手の動作を鏡に映したように合わせることだ。真似ることで対象の相手に好意や尊敬を気持ちとして伝達させる。無意識的に心を許し合い、親密だと感じさせる。


 霖雨は意図しなくとも、そういう動作は多い。その意図としない相手へ伝達されることが誤解を招くのだろう。和輝はぼんやりと思う。




「俺も昔、居酒屋でアルバイトをしていたよ」

「意外だね」

「時給が良かったんだ。留学する前は苦学生だったからね」




 悪戯っぽく霖雨が笑う。今も苦学生じゃないか、という言葉を和輝はビールと共に飲み下した。




「平日は閑古鳥が鳴いていたけど、週末は凄まじい賑わいだったよ」

「変な客に絡まれなかったか?」

「酔っ払いは仕方無いね。でも、酷い絡まれ方をした時は友達が良く庇ってくれた」




 舐めるようにビールを啜る霖雨が、遠い目をする。その視線の先は、今では遠い故郷の友人を見ているのだろう。




「友達とは会えているかい?」

「難しいね。エアメールで時候の挨拶とか、偶にSkypeで会話するくらいかな」

「お兄さんも?」

「うん」




 霖雨が頷いた。




「皆、故郷で頑張っているよ。殆ど皆が就職して、社会人になって働いている」

「別に就業が偉い訳じゃない。社会貢献と自己実現は平行的に行われて然るべきだ」




 庇うように言えば、霖雨は僅かに肩を竦めた。




「和輝は優しいね」

「何処が」

「本当はもっと狡い生き方も出来るのに、しないところ」




 その言葉に、和輝の背中に冷たいものが伝った。見られてはいけないものを覗かれたような気がして、逃げ出したい衝動に駆られる。


 けれど、霖雨は最後の一口を飲み下すと、席を立った。空になった缶ビールの底から軽い音がした。


 おやすみ。

 空き缶をテーブルの端へ寄せ、霖雨は部屋へ消えていく。扉の向こうへ隠れる背中に何か言わなければいけないと中腰になるが、間に合わない。扉の閉まる音が、断末魔のように響いた。


 和輝は未だ半分程も残った缶ビールを見詰めた。琥珀色の液体はアルミ缶の中で闇を映し、静かに波紋を浮かべている。


 何故だか無性に泣き出したくなった。酒に酔ったと誤魔化せない程、思考は冷静なままだ。


 玄関から扉の開く音がした。廊下を越えて現れた葵は、昼間出て行った時と寸分変わらず澄ました顔をしている。リビングで缶ビールを睨んでいる和輝を怪訝そうに見遣るが、咎めることはない。ただいま。ただ、それだけを言った。


 おかえり。

 喘ぐように和輝も応えた。葵は一度自室へ消えたが、すぐに戻って来た。人形のように凍り付いた無表情には、何の感情も伺えない。それでも、葵の双眸の何処かには感情の灯が点っているような気がして和輝は覗き込む。葵は何も言わない。


 和輝は、口を開いた。舌の根が乾いて、正常な声にはならなかった。




「ごめん」



 やっとのことで吐き出した言葉は、掠れていた。漸く、葵は眉を寄せて嫌悪感を表情に出す。


 和輝は、ぶら下げられた両手を取った。夜風に当たった為か冷たい掌だった。




「ごめん」

「お前が謝ることなんて、何もないだろ」




 されるがままになりながら、葵は吐き捨てた。和輝は、縋るように両手を握り締める。


 酔ってるのか。葵が言った。酔っていないことなんて、葵も解っているだろう。逃げ道を提示してくれているのだと解る。今なら見なかったことにしてやるよ、と不器用な葵なりの優しさだ。


 それでも、和輝は謝罪しなければならなかった。灼熱の砂漠を彷徨い疲れ果て、漸く辿り着いたオアシスで、必死に水分補給する様に似ている。




「お前の手を、汚させた」

「憶測で物を言うなよ。こんな贖罪行為は無駄だ。お前の自己満足に、他人を巻き込むな」




 切れ味の良い日本刀みたいに、葵が切り捨てる。


 一縷の希望も甘えも許さない厳しい言い様だ。けれど、今の和輝にとっては、無邪気な幼児が蟻を踏み潰すような残酷さが必要だった。


 口を閉ざした和輝の上で、葵が溜息を吐いた。




「仕方無い奴」




 呆れ突き放すような物言いに、和輝は身を強張らせる。このまま置いて行かれるのではないかと想像して、心臓が軋むように痛んだ。だが、葵は縋るように掴んだ和輝の手首を握り返した。


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