4.Twilight.

⑴かもめのジョナサン

 Life is riding a bicycle.

 To keep your balance you must keep moving.

(人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには、走らなければならない)


 Albert Einstein








 馬鹿の癖に洋書なんて読んでいるものだから、今日は春の大雪かと懸念した。


 一限目から講義があると早々に霖雨は外出した。必然的に葵は和輝と残された。


 先日の違法薬物騒動で和輝の勤務先である大学病院は慌ただしかった。マスコミが押し寄せるものだから、関係者の和輝は有給消化とは表向きに、自宅謹慎処分となった。


 始めこそ霖雨も理不尽だと憤っていたが、和輝は神様の依怙贔屓と言わんばかりの持ち前の身体能力を使って、バスケットボールやらサーフィンやら休暇を有意義に過ごしている。


 そんな最中に名誉教授の汚職問題が明るみに出て、病院は実質閉鎖状態だ。休暇中の和輝の被害は皆無と言っていい。運が良いんだか悪いんだか解らない。


 葵は講義が無いのを良いことに、昼過ぎに起き出した。

 在室の癖に沈黙を守る同居人の部屋の扉を蹴飛ばす。


 腹が減った。返事が無いので、問答無用で扉を押し開ける。各部屋に鍵は付いているが、和輝は大体施錠しない。家の中で施錠が必要なのはトイレくらいだと豪語するだけある。大雑把な性格に見えて部屋の中は片付いているので、育ちが良いのだろうと葵は思った。


 部屋の中央に置かれた一人掛けのソファで、うたた寝をしているらしい。膝の上にはハードカバーの洋書が広げられたままだった。悪戦苦闘しながら専門書を読み込んでいる姿は度々目にしたが、小説を読んでいる姿は初めて見た。興味をそそられて表紙を覗き込み、妙に納得した。


 かもめのジョナサン。


 最近、物語の最終章が加筆されて販売されたとテレビで見た覚えがある。


 生きる為に飛ぶのではなく、飛ぶ為に生きたい。逸脱した価値観から群れを追われたジョナサン・リヴィングストンは、空軍宛らの飛行技術を身に付けていく。その生き方を嫌悪する鳩派が大半だが、若者の中にはジョナサンへ憧れる者が現れる。販売当時の時代を彷彿とさせるストーリー展開は、ファンタジー小説とだけは言えないだろう。


 和輝とジョナサンは似ている。大方、知人の誰かに贈られたのだろう。そして、それを律儀に読んでいて睡魔に負けたのだろうと見当を付ける。




「おい、起きろ」




 ソファを揺らすと、漸く閉ざされた瞼が開く。白磁のような頬に、長い睫毛が影を落とし、ビスクドールに似ていると思った。


 和輝の大きな瞳に自分の顔が映る。




「腹が減ったぞ」

「はいはい」




 欠伸を噛み殺し、和輝が目を擦る。開きっぱなしの本を閉じて立ち上がった。


 寝起きにも関わらず凛と背筋を伸ばして歩く姿は優等生といった印象を与える。キッチンへ入って行く背中を見届け、葵はリビングの定位置に腰掛けた。


 テレビの電源を入れる。何となく習慣化している報道番組をぼんやりと見詰めていると、キッチンから和輝が呼んだ。




「目玉焼き作るけど、幾つ焼く?」

「一つ」

「あ、そう」




 じゅうじゅうと卵の焼ける音と香ばしい匂いがする。今日は洋食らしい。


 時刻は既に午後二時を迎える。寝過ごしたとは思わない。目玉焼きとサラダを運んで来た和輝が席に着いた。


 挨拶もそこそこに、葵の三倍の食事を真顔で咀嚼しながら和輝が言った。




「かもめのジョナサン、読んだことある?」

「うん」

「最終章が加筆されたんだぜ」

「知ってる」




 退屈な報道番組をぼんやり眺めていると、和輝が苛立ったようにリモコンへ手を伸ばしたのが見えた。間一髪でリモコンを守り、届かない位置へ移動させる。不満げに口を尖らす和輝はそのままに、葵は言った。




「ファンの間じゃ、その可否について熱く議論されているみたいだな」

「なんで?」

「人間の心理なんてそんなものだろう。変化に対して共感してみたり、否定してみたりして自己表現しようとする。高尚な意思がある訳ではなくて、単純な気分の問題さ」




 口一杯にサラダを頬張った和輝が、それを飲み下し、口の中を空にして言う。




「原作者が作り出したなら、それでいいじゃん。読者の感想は有象無象で、作品の世界に何の影響も齎さない」




 さらりと言ってのけた和輝に、葵はほくそ笑む。彼は馬鹿だが、愚かではない。座学は壊滅的だと聞くが、頭の回転は速い。情報処理能力が異様に高いのだ。


 葵は言った。




「人間を宗教へ駆り立てるのは神秘体験だと言われている。つまり、人は自分が体験したものしか信じることが出来ない」

「ジョナサンは宗教を興した訳じゃないだろ」

「だが、結果は偶像崇拝に至る訳だろう。幾ら彼が唱えたところで、かもめ達の崇拝は止まない」




 眉間に皺を寄せる和輝は、何やら考え込んでいるらしい。その内、思考回路が焼き付いて全て放棄するかも知れない。




「さて、此処で問題だ」




 フォークを置き、大袈裟に両手を広げて見せると和輝が目を見張る。




「言論は思想を制圧し得るだろうか」




 テレビの雑音をBGMに、リビングは沈黙に包まれる。数秒の内に葵は待つことに飽きてフォークを持ち、食事を再開する。小難しい顔をして考え込んでいた和輝は、スイッチが切り替わったようにはっとして動き出した。


 葵は時計を見遣る。和輝が口を開いた。




「今日の夕飯、唐揚げにするよ」




 思考放棄まで十五秒。

 彼にしては努力したのだろう。











 4.Twilight.

 ⑴カモメのジョナサン










 神木葵は変な奴だ。


 大体家にいる癖に大学院生で、幾つもの奨学金を受ける所謂エリートなのだという。引き篭りで働いてもいないのに金に困る様子は無いし、倹約家でもない。恐ろしく頭の回転が速いのだろうと察しが付くものの、それが自分とどの程度違うのか解らない。


 週三日は深酒して泥酔している。料理は一切作らない。非常に少食だが、偏食ではない。文句は言うが、残したことは無い。界隈のアンダーグラウンドに精通していて、通常知り得ないことまで把握している。大変な読書家で、一日の大半は読書している。姿勢が悪く猫背だが、身体能力は高い。


 存在感が希薄で、気配が無い。厭世家の節があり、すぐ屁理屈を捏ねる。我が儘、毒舌。けれど、悪人ではない。


 和輝は洗い物を片付けながら、リビング定位置でテレビを見ながら読書する葵を見遣る。それでどちらも理解しているのだから、人間って不思議だと思う。


 要するに、和輝にとって神木葵は、だった。


 テレビでは大学病院の汚職に付いてコメンテーターが熱く語っている。和輝は関係者だが、終わったことは幾ら話しても仕方が無いと思う。


 今では顔も曖昧にしか覚えていない爬虫類男が、地下の遺体安置所で発見されたと、エリザベスから連絡があった。密閉空間で窒息死していたそうだ。腕には注射の痕があり、違法薬物の成分が血液より検出された。四肢は太い革ベルトで拘束され、明らかな他殺だった。FBIは犯罪組織による犯行だろうと結論付けているが、和輝は些か不穏に思った。


 読書する葵の手は淀み無く紙を捲っている。和輝には理解不能の専門書を読んでいるらしいが、相変わらず恐ろしい速読だ。それで内容を理解した上で殆ど丸暗記している。


 和輝は、確認したかった。

 お前、あの日、何処で何をしていたんだ?


 その疑問を呑み込んで、和輝は泡だらけになってしまった平皿を洗い流す。訊くべきではない。どんな答えを聞いたって、どうせ納得出来る訳じゃない。


 突然、葵が本を閉じて立ち上がった。




「ちょっと行って来る」

「何処に?」

「バイト」

「はあ?」




 何でもないように告げる葵に、和輝は皿を取り落としそうになる。




「お前、バイトしてたのかよ」

「してるよ。金に困ってないから、気が向いた時だけ」




 羨ましい限りだ。和輝は内心悪態吐く。


 そういえば、新しい職場を早く探さなければいけない。転職先の目処も立たない自分に比べ、凡ゆる面でハイスペックな葵は引く手数多なのだろうと思った。


 自室に入ったかと思えば、上着一枚羽織って葵が出て来る。蛍光色のウインドブレーカーは着る人を選ぶのだろうが、非常に残念なことに、よく似合っていた。それでも存在感が希薄なのだから、訳が解らない。




「じゃあ」

「変なバイトじゃないだろうな」

「普通の居酒屋だよ」

「酒弱い癖に」

「うるせー、チビ」




 心配しているというのに、酷い言い様だ。和輝は苦笑した。


 早々に玄関へ向かう葵を見送る為に後を追う。今朝早くから霖雨も大学院へ行っているので、家の中は静かだ。少し前までは逆の立場だったことを思い返し、葵も見送る時は少しばかり寂しかったのだろうかなんて思う。そして、直ぐに否定する。あり得なかった。


 とりあえず、残される和輝は特にやるべきことも無く退屈だった。霖雨に合わせて起床したので、掃除洗濯は終わっている。今日は出掛ける予定も無い。


 鮮やかな青のスニーカーを履いた葵が、振り返ることなく玄関の扉を押し開けた。




「俺も行きたい」

「未成年の飲酒は法律で禁じられています」




 そう言って、葵は扉の向こうに消えた。


 何が未成年だ! 俺より酒に弱い癖に!


 地団駄を踏みたい心地で、和輝は踵を返した。


 無人のリビングでテレビが騒いでいるので、恨めしく思った。電源くらい落として行けよと内心で詰る。葵の帰宅時間は解らない。霖雨は夕方になれば帰って来るだろう。


 早く霖雨、帰って来ないかな。溜息を零しそうになるが、和輝は同時に思い立った。彼の通う大学院へ行ってみよう。


 すぐさま部屋に篭り、ノートパソコンを起動する。霖雨の通う大学院を検索し、住所を調べる。歩いて通える圏内ならば、今から行けば会えるかも知れない。


 大学院のHPが画面に映り、想像以上に大きく立派な建物に少し驚いた。最終学歴が高校卒の自分とは天と地程違うのだろうと卑屈に思うが、後悔はしていない。住所を確認し、支度を始める。


 持ち物は財布と携帯電話、家の鍵。手ぶらで行くのも心苦しいので、大したものは入っていないがリュックサックを背負う。大学院の受付で警備員に止められるかも知れないが、その時のことはその時考えよう。其処で霖雨が来るのを待っていたって良い。


 戸締りを確認し、和輝は勇み足で家を出た。


 春先の町は暖かな日差しに照らされ、爽やかな風が吹いている。過ごし易い季節だ。


 母国ではちょっと見掛けないような広々とした道路の隅を歩く。足取りは軽かった。宛も無く彷徨うことと、目的地があることは大きな違いだ。自分が迷子になり易く、トラブルへ巻き込まれ易いことも自覚しているので警戒はしているが、気分は高揚している。


 学校なんて、何年ぶりだろう。


 十五分程歩いて見えた格式張った建物に、自然と口元が弧を描く。学生らしき若者が盛んに出入りしている。入口は警備員が立っているが、警備自体はザルだろう。念の為に警備員室を覗くと、気の良さそうな年老いた警備員が会釈した。


 見学者は身元を明らかにする必要があるらしい。升目の描かれた書類へ記名すると、警備員は快く中へ通してくれた。


 警備は形式上の問題なのだろうと見当を付ける。テロリストが強行突破して来たら、彼ではとても止められないだろう。


 晴れて見学者の肩書きを手に入れたが、和輝に目的地は無かった。建物内の案内図を見ると、タッチパネル式だったので驚かされた。霖雨の専攻は量子力学だが、大学院には決まった教室がある訳ではないらしい。高校までの経験しか無いので、和輝には大学院の仕組みがよく解らない。暫く案内図と睨めっこしていると、背中に覚えのある声が掛かった。




「和輝?」




 訝しげな声に振り返れば、探し人から現れてくれた。降って沸いた幸運に和輝は駆け寄った。


 霖雨は、春らしいパステルカラーのシャツを着ていた。それが彼の儚い印象を一層強め、庇護欲を掻き立てる。だからと言って似合わない訳ではない。非常に似合っているし、格好良いと思う。暖かな日差しに満ちた構内に立つ霖雨は、完成された美しい絵画の世界のようだった。


 突然の来訪を迷惑がることなく、霖雨は優しく和輝を受け入れてくれる。




「こんなところで何してるんだよ」

「退屈だったから、霖雨に会いに来たんだよ」




 素直に告げれば、霖雨は少し照れ臭そうに笑った。




「仕方無い奴だな。葵はどうした?」

「バイトだって言って出掛けた」

「置いて行くなんて、酷い奴だな」




 これでもつい最近まで社会人として、地元医療に従事していた成人男性なんだぞ。

 和輝は思うが、口にはしなかった。


 霖雨は腕時計を見遣った。防水性に優れ軍隊でも使用されるという代物だ。一層腕が華奢に見えるが、似合っていない訳ではない。むしろ、良く似合っている。


 困ったように眉を寄せ、霖雨が言った。




「まだ講義があるから、帰れないんだ。何処かで待っているか?」

「そうしようかな。一緒に帰ろうぜ。今日は唐揚げを作るんだ」




 和輝が言うと、霖雨は眩しそうに目を細めて頭を撫でた。

 よしよし。犬のような扱いだが、不快感は無い。





「じゃあ、俺の研究室で待っていてくれよ。迷子になったら困るからさ」




 おいで、と霖雨が微笑んだ。


 霖雨が、日頃から痴漢やストーカー被害に悩まされる理由が、和輝には何となく解った。優しくて綺麗で、隙だらけだ。ちょっと間違いを起こしても、霖雨はきっと許してくれる。そういう甘え、隙がある。


 歩調を緩め待っていてくれる霖雨を追い掛け、和輝は足を速めた。

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