⑸アルビレオ

 死には二種類存在する。


 一つは生命活動の停止だ。昨今では脳死状態を、死亡と定義付けるか否か、様々に議論されている。生命維持装置を必要として、意識の回復が絶望的である状況を果たして生きていると呼べるのかという倫理的な問題だ。


 心臓さえ動いていれば生きているという考えもあるが、その大半は周囲の人間が持つ一縷の希望へ縋るような祈りだろうと和輝は思う。


 医療に従事する立場から語るのならば、新鮮な臓器を必要としている人へ提供する方が遥かに生産的だろう。個人的な意見ならば、生命維持に膨大な費用が掛かったとしても、意識回復の見込みが絶望的だとしても、生きていて欲しいと思う。正論が正解とは限らない感情論の問題だ。


 そして、死にはもう一つ。世界中の人間から存在を忘れられた時だ。


 記憶の中で生き続けることは不可能だ。現在はいつか過去となる。思い出は記憶となり、風化し、やがて消失する。


 だから、この場所は墓場なのだ。和輝は壁を埋め尽くす膨大な資料の中で顔を上げる。


 大学病院の凡ゆる患者の記録が保存されている。人間を記号化し、アルミラックへ分類する。前後左右を埋める記録は此処にいるのだと切に訴え掛けるように、酷い圧迫感で侵入者の呼吸すら飲み込もうとする。


 水中で僅かな酸素を追い求める魚類のように、静謐な室内で息を殺し、足を踏み出す。


 天井程もあるアルミラックの上部は、平均身長にも満たない和輝の体格では届かない。据え付けられた移動式の梯子を転がし、目的の棚へ手を伸ばした。


 比較的最近の記録だ。司法解剖され、警察によって検証された筈のカルテが、まるで存在すら許されないように棚の奥深くへ追いやられている。和輝は指を滑り込ませ、ファイリングされたカルテを一部取り出した。


 深夜、搬入された二十代男性。違法薬物の中毒症状があり、解剖の結果、確たる証拠である成分も体内より検出されている。死因はライフル銃で心臓を撃ち抜かれたことによる出血性ショック死。殆ど即死状態。それがこの大学病院の公的な記録だ。


 けれど、病院入口で救急隊員より直接受け入れた和輝の記憶とは異なる。右脇をライフル銃で撃ち抜かれ、出血多量状態。混濁していたが、意識はあった。会話が可能で、物的証拠もある。


 彼が何か犯罪に巻き込まれたことは明白だが、そういった個人情報は開示されない。事実は闇の中だ。


 全ての真実を白日の下へ晒したいなんて使い古された正義感を振り翳す気は無い。ただ、自分が納得出来ないだけだ。


 死の間際、混濁した意識の中で彼は和輝をヒーローと呼び、手を伸ばした。そして、和輝はその手を取った。


 医師免許を持たない和輝は手術室の向こう側、境界線を越えられない。越えられないが故に手を離し、結果、彼は闇に葬られた。人は神ではなく、医師も同様だ。全ての命を救えるなんて烏滸がましい考えだと思う。それでも、届かなかった彼の祈りを掬い上げ、捨てられた矜持を守り、名誉を回復させたい。


 病的に白い光を放つ蛍光灯の下、記録者の名前を確認する。脳裏に浮かんだ爬虫類のような双眸に、和輝は口の中に苦味が広がったような気がした。


 フラッシュバックとは、強いトラウマ体験を受けた場合に、後になってその記憶が突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象だ。


 蛍光灯の光すら遮ろうとする巨大なアルミラックに寄り掛かり、和輝は大きく深呼吸する。瞼の裏に浮かぶ暗闇、蠢く気配。押さえ付ける太い腕、吐き出せなかった悲鳴。頭痛を堪えるように顔面が痙攣した。


 ポケットから振動を感じ、過去へ回帰していた意識は急浮上した。携帯電話が着信を告げている。


 常盤霖雨。


 呑気な同居人からの着信が、夜明けを告げる鐘の音のように胸に響いた。闇に沈む思考が照らし出される。和輝は通話の為、画面へ指を伸ばした。だが、突如背中を走り抜けた悪寒に、指先が凍り付いた。


 頭から冷水を被ったように、身体が芯から震えた。携帯電話が掌から滑り落ち、床の上で羽虫のように震える。脊髄反射の如く振り向いた先に、あの爬虫類を思わせる双眸が光っていた。




「こんなところで、何をしているんだい?」




 和輝は、答えられなかった。腕の中のファイルを背中に隠そうとして、その腕が背後より掴まれた。


 振り返った先に、医師らしかぬ屈強な体躯の男が立っている。和輝の腕を捻り上げたまま、ファイルを取り上げ、訝しげに吟味する。




「その患者は手を尽くしたが、搬入した時には既に息を引き取っていた」

「――嘘だ!」




 脊髄反射で、和輝は叫んでいた。




「俺が受け入れた! 会話もした! 物的証拠も、救急隊員の証言もある!」




 男の目が、すっと細められる。

 周囲の温度が下がったかのような緊張の中、和輝は必死に訴えた。




「彼は生きていた!」




 その瞬間、和輝の身体は無重力のように浮き上がり、リノリウムの床へ叩き付けられた。


 俯せに倒れ込んだ背中に男が伸し掛る。爬虫類男の革靴が目の前にある。痛みに呻きながら、和輝は噛み付いてやりたい衝動に駆られた。


 革靴の爪先が、和輝の顎を持ち上げた。




「それを、誰が信じるんだい?」




 幼子へ言い聞かすように、男が言った。

 和輝は奥歯を噛み締めた。


 男の後方で、携帯電話が転がっているのが見えた。着信も途絶え、死んだように沈黙している。真っ暗な画面は、和輝の脳内と同調していた。


 背後から羽交い締めにされ、地面へ縫い付けられ、身動き一つ出来ない。アルミラックへ押し込められた膨大な記録のように、耳も目も塞ぎ沈黙するべきなのかも知れない。それが賢い選択だ。身を守る最良の手段だ。――けれど、それでも、和輝は口を開いた。




「俺が証明する」




 口元は自然と弧を描いた。逆境に燃えるのは、性分だ。


 男が片眉を跳ねさせ、沈黙した。その後ろに無数の足音が迫る。狭い視界では、病院関係者の履く室内履きしか見えない。屈強な体格を思わせる大きな両足に息を飲んだ。


 蛍光灯が光っている。和輝はそろりと顔を上げた。見覚えのある男達の相貌に、視界が激しく点滅する。


 馬鹿な奴だ。爬虫類男が嗤う。締まりなく嗤う男達の眼球が異様にぎらついている。獲物を前に腹を空かせた野良犬のようだ。一歩一歩と詰め寄る無数の足が、和輝にはスローモーションに見えた。




「僕は君を甚く気に入っているからね、コレクションの一つの入れてあげるよ。――二度と、生意気な口が叩けないようにしてからね」




 粘着質な口調で、爬虫類男が言った。踵を返し、去っていく。


 忌々しげに和輝は顔を歪める。今すぐに追い掛けて、その澄ました横っ面を殴り飛ばしてやりたかった。


 腕はろくに動かず、立ち上がることも出来ない。迫り来る男達から逃げ出す手段も無い。助けを求める先も無い。自分は、なんて無力なのだろう。男がしゃがみ込み、顎を持ち上げ吟味するように覗く。卑しい微笑みを浮かべている面へ、唾を吐き掛けてやろうかと思った。


 だが、実際は舌の根が乾いて声一つ発せない。怯えるばかりの仔兎のように、生理的な恐怖に震えるばかりだ。押さえ付けていた男が、勢いよく和輝の身体を反転させた。背中に床の冷たさが広がる。


 天井から降り注ぐ光は白々しい。それを遮る男達の歪んだ笑みも、背景と化した人間の記録も、全てが思考回路を圧迫する。


 ハウリングのような耳鳴りがした。右腕が床へ縫い付けられ、勿体ぶるように丁寧に袖を捲くり上げられる。一人の男が注射器を取り出す。中には、半透明の液体が満ちていた。よもやまともな薬である筈が無い。


 従来とは段違いの依存性を持つ違法ドラッグ。犯罪組織御用達の品。葵の情報が脳の隅に蘇った。


 注射針の先端が、二の腕の内側へ向けられる。皮膚を突き破ろうとする針に、和輝は身を固くした。


 その時だった。忘れ去られた遺物である筈の携帯電話が、床で震えた。皮膚に突き刺さる瞬間、針が停止し、男達が一斉に振り返った。


 拘束する男の手が緩んだ隙に、和輝は腕を摺り抜けた。


 狭い通路を転がり出る。罵声が背中に突き刺さる。縺れる足を必死に動かし、アルミラックの形成する通路を曲がった瞬間、和輝の腕は強く掴まれた。


 拘束ではない。波に攫われ溺れる腕が、海岸より引き上げられるのに似ている。其処に立つ者を見た瞬間、和輝は何故か泣いてしまいそうだった。




「霖雨……」




 普段からは想像も出来ないような鋭い眼差しで、霖雨が立っていた。風が吹けば倒れそうな痩躯ながら、腕を掴む掌は温かく力強い。其処から勇気が送り込まれたように、和輝の思考は冷静に戻っていく。


 霖雨の左手に、黒い鉄の塊が握られている。指先一つで命を奪う凶器だ。銃口は先頭の男へ向けられている。


 男達に動揺が走る。和輝は霖雨に縋るようにして、やっとのことで立ち上がった。心臓が早鐘のように脈を打ち、シャツは汗で湿っている。浅い呼吸をどうにか整え、霖雨の隣に並んだ。


 無抵抗を示すように男達が手を上げる。許しを求める言葉が次々に吐き出されるが、和輝には理解で出来なかった。


 霖雨の双眸が、刃の切っ先のように冷たく光る。感情を丸ごと削ぎ落とした人形のような無表情だった。


 真一文字に結ばれていた口が、開かれた。




「お前達はこの世界に必要無い」




 霖雨の声は、死刑宣告の如く冷たく響いた。指先に力が篭り、引き金が絞られる。刹那、和輝は銃口を蹴り上げた。


 硝煙の鼻を突く臭いと、破裂音。霖雨の目が真ん丸に見開かれる。男達が一様に肩を跳ねさせる中、和輝は身を低くしたまま疾風の如く走り抜けた。


 リノリウムの床を蹴った時、爪先は人体の急所を捉えていた。肉を打つ鈍い音が響き、三十秒と経たない間に、通路は昏倒した男達で埋め尽くされた。


 和輝は、大きな空気の塊を吐き出した。額から零れ落ちる汗を乱暴に袖で拭う。振り向いた先で、霖雨は目を疑うかのように未だ硬直している。和輝は傍まで歩み寄り、銃を握ったままの掌を解いた。




「助けてくれて、ありがとう」




 何か言おうと霖雨の口が開いたが、言葉にならずそれは霧散した。ばつが悪そうに目を伏せた霖雨に、和輝はわざと明るく笑って見せた。


 銃声を聞き付けた看護師が到着し、悲鳴を上げた。引き寄せられるように集まる野次馬の中にエリザベスの姿を見付け、和輝は駆け寄る。衣服の乱れた和輝を見て、エリザベスは何も言わず胸の中へ抱き寄せた。虚偽や欺瞞でない温もりに、和輝は酷く安堵した。


 誰が通報したのか遠くからサイレンが聞こえる。NY市警のお出ましだ。事情聴取は避けられないだろう。和輝はエリザベスから離れ、犇めく野次馬の群れを見渡す。上手い言い逃れは無いものかと逡巡する。


 ふと、立ち尽くす霖雨と目が合った。


 霖雨はそれまでの剣幕を消し去り、穏やかな様子だった。その時になって、和輝は日常へ戻ったことを実感した。


 あれは夢だった。――二年前のことも忘れてしまおう。ぎゅっと握った拳を、霖雨が掴んだ。


 その掌が温かくて、何故だか無性に泣きたくなる。この世界は綻びだらけで不条理な筈なのに、どうして自分の周りにはこうして温かくて美しいものが降って来るのだろう。




「どうして、此処にいるって解ったんだ?」




 和輝は問い掛けた。霖雨は置いて行かれた筈の携帯電話を手渡した。




「GPSだよ。お前の行動と結果を予測したんだ」

「よく解らないけど、お見通しってことだね」




 肩を竦めて、和輝は笑った。自分の浅はかな行動への自嘲だった。


 霖雨は苦虫を噛み潰したような顔をして、和輝の肩を掴んだ。




「いいかい、君は被害者なんだ」




 殊更ゆっくりと、噛み締めるようにして霖雨が言い聞かす。周囲の野次馬には理解出来ないだろう母国の言葉で、霖雨は酷く真剣な顔で言う。




「認めたくないのは解る。でも、それは事実で、法治国家であるこの国では断じて許されない事柄だ。誰にも責められる謂れは無いし、罪悪感なんて抱える必要も無い。君は自分の権利が個人的な悪意の下で侵害されたことを嘆いて良いし、身勝手で理不尽な言い分に憤って良い」




 霖雨は、捲し立てるように早口に続けた。




「君が損害賠償を望むのなら弁護士を立てても良いし、刑事告発を求めるなら然るべき手段を踏もう。俺達には、その準備がある」




 彼の示す俺達が誰であるのか、和輝は知っている。


 葵の冷めた横顔が脳裏を過ぎり、和輝は俯いた。全てお見通しなのだろう。自分の情けなさに嫌気が差して来る。けれど、そんな必要は無いのだと霖雨は必死に訴え掛けている。


 霖雨が、笑った。凍り付いた花が綻ぶような、美しい笑みだ。




「でも、君はそれを望まないだろう。だから、俺達のすることは一つだけだ」




 廊下の奥から無数の警官がやって来る。野次馬からの通報を受けた、背の高い警官には見覚えがあった。

 先日お世話になったばかりのFBI捜査官だ。和輝と霖雨の存在を認めると、やれやれと言いたげに肩を竦めている。


 捜査官が歩み寄る刹那、霖雨は耳元で囁いた。




「俺達が納得出来るように、遣りたいことを遣るだけだ」










 4.Starfish.

 ⑸アルビレオ









 唸るような空調の音ばかりが響いている。


 遺体安置所はその性質により、常に低温が維持されている。壁はロッカールームのように区切られ、番号が振られていた。収容されるのは人間だったもの、遺体、或いは肉塊だ。


 部屋の中央には担架が一つ用意されている。院内より運び出されたそれは、四肢を拘束出来るよう、分厚い革のベルトが周到に用意されていた。


 担架に括りつけられているのは遺体ではない。彼――神木葵にとっては、ただの肉塊だった。生命活動を終えていないということを除けば、安置される遺体とさして変わりないものだ。


 閉ざされた瞼は開かない。その額から数cm上に点滴の針を設置し、等間隔に水滴が落ちるようにしている。葵は防寒着を纏い、側のパイプ椅子に腰掛け、読書しながら経過を観察していた。


 人間の脳を狂わせると言われる装置を、この場で検証している。だが、拘束した男は引き付けを起こしたようにびくりと覚醒した。葵は読み掛けの文庫を閉じる。


 爬虫類のような目が、激しく揺れながら事態を把握しようと動き回る。葵は微笑んだ。




「やあ、気分はどうだい?」




 場違いに明るく葵が言う。今も男の額には水滴が落下を続け、神経を狂わせている。


 此処は何処か、君は誰か、何が起きているのか。早口に叫ぶ男を許容するように、葵はただ微笑んだ。


 腕時計を確認する。演技掛かった大きな動作に、男が身体を震わせた。


 午後五時二十分。同居人は今頃、事情聴取を受けているだろうか。そろそろ帰路へ着く頃だろうか。帰宅した彼等を待たせる訳にはいかないな、と肩を竦め、葵は腕を下ろす。


 実験は中止だ。葵は立ち上がり、点滴を止めた。人間の狂っていく様を直に見てみたかったけれど、今回は時間が足りなかった。次回は十分な時間と安全な場所を確保しようと誓い、ポケットを探った。


 掌大のケースから、注射器を取り出す。病院という場所を考えれば違和感の無い品であるが、医師ではない葵が持っていることでその存在は異質となる。小瓶より液体を抽出し、針の先から気泡を押し出す。


 それは何だと男が喚く。葵は首を傾げた。




「お前が一番知っている筈だろう」




 葵は針の先端を男の腕へ向けた。


 止めろ、助けてくれ、許してくれ。男の悲鳴が密室に響き渡る。葵は鼻で笑った。




「ルールを守らない人間が、ルールに守られる筈も無い」




 注射針は躊躇無く皮膚を突き破った。喘ぐように呻くばかりの男を、さも可笑しそうに葵は見ていた。


 最後の一滴まで搾り出し、葵は注射器を男のポケットへしまった。寒さ故か恐怖故か、がたがたと震える男を見下ろしながら葵は嗤った。




「良い旅を!」




 担架を移動させ、遺体同様に収容する。喚き立てる男の酷い罵詈雑言もBGMに過ぎないように、葵は眉一つ動かさない。


 扉が閉じられると同時に、男の声は遮断された。


 厚手の手袋を装着したまま、パイプ椅子を部屋の隅に寄せ、文庫本を手にする。


 遺体安置所は再度空調の音だけに支配され、葵は何事も無かったようにその場を後にした。




 ***




 和輝と霖雨は事情聴取から開放されて、帰宅した頃には既に日が落ちていた。


 自宅は明かりが灯り、住居のオーナーである葵の在宅を示している。二人が揃って玄関を開けても出迎える気配も無いが、リビングの定位置で葵は読書に没頭していた。




「おかえり」




 顔も上げず、葵が言った。霖雨は隣の椅子に座り、和輝はキッチンへ向かう。


 ぶっきらぼうな物言いに苦笑しながら、和輝と霖雨の声は揃った。


 ただいま。


 夕飯は何にしようと和輝が冷蔵庫へ向かうと、炊飯器より湯気が出ていることに気付く。葵が、米を炊いていたらしい。余程腹が減っていたのだろうかと苦笑し、和輝は冷蔵庫を開けた。


 キャベツ、人参、モヤシ、豚肉。有り触れた食材を取り出して並べる。席に座ったまま霖雨が「手伝おうか」と声を上げた。和輝は首を振った。


 浄水器から電気ケトルへ水を満たす。棚からインスタントの味噌汁を取り出していると、目聡い葵が「手抜きだ」と喚いていたが和輝は無視した。


 今日は野菜炒めだ。フライパンから大皿へ盛り付け、味噌汁と白米を並べる。本を閉じた葵が眉を寄せた。




「これは酷い」

「そんな日もあるさ」




 庇うように霖雨が言って、手を合わせた。丸いテーブルを囲み、いつものように挨拶をする。


 それまでの出来事が夢だったかのような、平穏な日常だ。和輝は大雑把に切り分けた野菜を頬張りながらそんなことを考える。味噌汁を一口飲み下し、葵が言った。




「今日は何があったんだ?」




 白々しく問い掛ける葵に、和輝は苦笑交じりに答えた。


 ちょっとね。

 はぐらかすように、和輝は野菜炒めを咀嚼した。


 相変わらず恐ろしい胃袋だと、隣で霖雨が肩を竦めている。


 NYPDへ任意同行後、和輝と霖雨は事情聴取を受けた。けれど、捜査官は大凡の概要を既に把握していたらしく、殆ど確認だけだった。資料室に転がった男達は病院関係者ながら犯罪組織へ加担しており、一斉検挙された。


 大学病院への信頼は急激に下がった訳だが、致し方の無いことなのだろう。


 風通しの悪い組織は必ず腐敗する。腐敗した時に、膿を出し切るか、組織そのものを腐らせるかは方法次第だ。この事件をマイナスに捉えてはならないと言ったエリザベスに、和輝は共感している。人体は病に冒される。けれど、自浄作用も存在する。どのように転ぶかは解らない。


 一斉検挙に伴い、犯罪組織の一員だと言われていたフランツは真っ当な被害者であることが証明された。間も無く善良な一般市民だと名誉を取り戻すだろう。それで死者が浮かばれるかは解らないが、少なくともレイチェルは報われるだろうと和輝は思う。


 ただ、唯一の懸念として、主犯であろう爬虫類のようなあの男が行方不明となっている。捜索は続いているが、和輝は不思議と恐怖を感じなかった。そして、もう二度と自分の前には現れないような気がしていた。


 驚異的な食事量を腹に収め、和輝は手を合わせた。葵が不気味そうに目を細めて見ている。


 霖雨と葵は殆ど同時に食事を終え、大皿は既に空になっている。気持ちの良い食べっぷりだと、和輝は嬉しく思った。


 皿を片付け、食後のコーヒーでも入れようかとキッチンへ向かうと、霖雨が呼んだ。




「ちょっと、俺の部屋に来てくれ」




 何処か嬉しげな霖雨に、和輝は頷いて後を追った。


 霖雨の部屋はいつも整理されている。床に置いてあるものは無く、全てが棚の中へ収められていた。彼が友人から贈られたというゴムの木は鉢植えの中で青々と揺れている。


 部屋の中央に置かれたローテーブルは相変わらずピカピカに磨かれていた。霖雨は棚から地球儀に似た装置を取り出し、設置する。何時の間にか入口に立っていた葵が、示し合わせたようなタイミングで明かりを落とした。


 暗転する室内――。けれど、其処に恐怖は無かった。和輝は息を呑んだ。




「星だ」




 一寸先すら見えぬ暗闇は、前後左右すら曖昧にさせる。けれど、装置から映される光が眩く世界を照らしていた。


 朧に揺らぐ光の点は、正しく星だった。宇宙空間を漂っているような神秘を感じさせる。




「星が、廻ってる」

「うん」




 霖雨は笑った。所詮は装置で作り出された紛い物の宇宙だ。地球の動きに合わせて回転しているように見せているだけに過ぎない。不完全で、曖昧で、歪な星空だ。それでも、和輝には満天の星に見えたのだ。


 小さな手が指を差して星座を辿る。デネブ、アルタイル、ベガ――夏の大三角。飛ぶ鷲、落ちる鷲。


 子どもが秘密の呪文を唱えるように、一つ一つ愛おしげに和輝は呟く。はくちょう座のデネブ。十字架のような星座。その反対に位置する星、アルビレオ。


 淡い青色と金色の光が、ワルツを踊るように回転して見えた。和輝は手を伸ばしかけ、止める。


 星に手は届かない。此処にあるのは本当の星ではない。――けれど、それは確かに存在する。


 それまで黙っていた葵が、抑揚の無い声で言った。




「アルビレオは北天の宝石とも呼ばれる」

「ああ。――解るよ」




 和輝は堪えるように拳を握った。


 暗闇の中で見える筈も無い霖雨と葵が、揃って笑ったのが解った。そして、それは、見た事も無い筈のアルビレオを夢想させた。




「世界は美しい。それを見るべき目を持っていればね」




 そう言って、霖雨は悪戯っぽく笑った。

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