⑷刃
淡い春の日差しが、コンクリートのエントランスを柔らかに照らす。利用客も疎な静かな病院の門の外、一際存在感の薄い男が棒立ちしていた。
幽霊が立っているようで、縁起が悪い。
和輝は溜息を呑み込んで、葵を呼び付けた。
「もう少し、堂々と立てないのか」
「余計なお世話だ」
青白い顔をする葵に、和輝は苦笑した。
二日酔いの頭痛に呻きながら夕方に起き出したという葵を呼び出し、和輝は勤務先の病院にいる。受付ホールは夕暮れにも関わらず患者で溢れている。
それぞれ何かしら疾患を抱えているのだろうが、表面上の差異は殆ど無い。葵はホールを一瞥し、幽霊のように存在感が無いのを良い事に「気持ちの病だ」なんて暴論を吐く。
昨日、レイチェルの話を聞いたが、探偵や警察ではないので捜査も解決も出来ないと和輝は断った。フランツを本当に愛しているのならば、彼の安らかな眠りを祈ってやれと慰め、レイチェルを帰した。エリザベスは何か言いたげだったが、追及はしなかった。
疑問は残った。だが、自分は干渉する権利を持たない。
もやもやとしたものを抱えながら、和輝は今日も就業している。終業時刻間際に、霖雨から連絡が入った。
葵が二日酔いで土気色をしている。頭が割れそうに痛むって喚くから、引き取ってくれ。
霖雨としても葵に構っていられないらしく、それだけ告げると大学へ向かったようだ。和輝は葵を病院まで呼び出すことにしたが、電話を掛けてから三時間も経っている。
葵がホールに据え付けられたベンチへ凭れ掛かり、まるで自分が重病人だと訴えるように態とらしく呻く。残念ながら、存在感が希薄なので和輝以外は気付いていない。
腰に手を当て、溜息混じりに和輝は言った。
「受付は済ませたから、番号呼ばれるまで此処で待ってろ。吐くならトイレでな」
葵をベンチに置いて、和輝は着替えを済ます為、背中を向けた。
定時で上がりたい。早く帰宅するだけで、喜んでくれる人がいる。更衣室へ急ぎ、早足に角を曲がった和輝の前を、影が遮った。
爬虫類のような目が、真上から和輝を射抜く。身を固くした和輝の耳元で、舐るように男が言った。
「新しい友達?」
獲物を見つけたとばかりに、男の目が愉悦に歪む。取り巻きが、締りの無い笑みを浮かべて見ている。
全身から血の気が引いて、身体が石のように動かなくなった。廊下は外来患者やスタッフで溢れているのに、自分の周りだけが切り取られたように静まり返っている。
視界が暗転し、まるで此処が暗く埃っぽい――あの倉庫の中のような錯覚がした。
地震が起こったのかと思う程の目眩に立っていられない。フラッシュバックだ。もう二年も前のことだ。自分は男で、あれは未遂だった。だけど、事実だ。
「君は可愛いねぇ」
男の手が、伸ばされる。
嫌だ。近付くな。
叫び声を上げたかったけれど、喉の奥が焼き付いて声にならない。
指先が強張り、冷たくなる。体中が粟立つ。逃げたい。逃げられない。此処にエリザベスはいない。皆、見て見ぬ振りで、自分が透明人間になったのではないかと錯覚してしまう。だから、強くなると決めた。守りたいものを、自分を、守れるように。
「おいで」
肌の上をざらざらと舌が這うような不快感だ。後ずさろうとする和輝へ、男の手が伸びる。――刹那、乾いた音がした。
激しく明暗する視界を、陽炎が遮る。男の腕を払った蜃気楼は、真っ直ぐに背筋を伸ばしてその存在を主張している。
「こいつに触るな」
腹に響くような低い怒声だった。
咄嗟にその存在を認知出来なかっただろう男は、気圧されたように後ずさった。取り巻きが口々に何かを口走るが、和輝には解らない。
通過するだけだった外来患者やスタッフが何事かと目を向ける。和輝は自分が、透明人間でなくなったことを理解した。
葵。
掠れるように、和輝は呼んだ。殆ど声にならなかったのに、葵は振り向き微笑んだ。
「やっぱり、一緒に待っていてくれよ」
さりげなく、けれど明確な意思を示すように葵は和輝の前に立った。
喚く男の声が、和輝の脳には知覚されない。雑音で、背景だった。存在感の希薄な葵だけが、切り抜かれたように浮かび上がっている。
「おいで」
葵が、言った。和輝は導かれるように歩み寄った。
腕をしかと取った葵が、和輝の肩へ手を回す。
「じゃあな、クソ野郎!」
紳士然としてエスコートする葵に導かれ、和輝は動き出す。足が縺れそうになると歩調を緩め、呼吸が乱れると背中を摩ってくれる。葵がこんなに甲斐甲斐しい筈も無い。けれど、あの男達の視線から遮ってくれる葵の存在が、今は何より頼もしかった。
待合室を抜け、慣れた足取りで中庭まで葵が先導する。押し付けるようにして和輝をベンチに座らせ、葵もその隣に腰掛けた。
「何だ、あいつ等。気持ち悪いな」
苛立ったように、葵が吐き捨てる。和輝は、自分の手が強張ったまま葵の手首を掴んでいることに気付いた。どうにか外そうと試みるけれど、凍り付いたように動かない。葵は縋るように手首を掴む手をそのままに、外そうとする掌をそっと押さえた。
堪えていたものが零れ落ちるような気がして、和輝は顔を上げた。反比例して、喉の奥からは弱音が溢れた。
「俺、二年前、あいつ等に、」
「聞きたくない」
ばさりと、葵が吐き捨てる。
「聞いても、胸糞悪いだけだ」
和輝は首を振った。
「未遂だったよ」
告げると、葵は少しだけ目を向けて、息を吐き出した。
掴まれている腕をそのままに、葵の視線が一瞬落ちた。生理的な動作だっただろうけれど、それは意図的に浮上した。まるで、其処に見てはいけないものを見てしまったかのようだった。
なあ。葵が胡乱な眼差しで言った。
「お前、何か俺にして欲しいことあるか?」
和輝は、黙った。
此処にいてくれ。
思考回路を焼き尽くすような強烈な言葉が浮かんだ。けれど、ぎゅっと唇を噛み締め、それをどうにか呑み込んだ。
「星が見たい」
それは、叱られた子供のように項垂れた和輝の口から、ぽつりと零れ落ちた。
葵は驚いたように目を丸めて、――笑った。
「いいよ」
何処にでも、連れて行ってやる。
葵が、頭をくしゃくしゃと撫でた。その動作が、此処にいない家族のような温もりを彷彿とさせ、和輝は目の前で微笑む葵に縋り付いて泣き出したくなった。
その代わり。
葵が言う。
「何処へもいなくなるなよ」
葵が柄にも無く、優しく笑い掛けるので、和輝は黙って頷くのが精一杯だった。
4.Starfish.
⑷刃
病人は葵だった筈なのに、その彼に支えられるようにして帰宅した和輝を、霖雨は酷く心配した。
真っ先に腹の具合を確かめる霖雨に、和輝は苦笑するしかない。リビングのテーブルには、昨日の残りを使ったグラタンが用意されていた。表面はチーズが焦げ、香ばしい匂いがリビングを埋めている。中央には大皿に盛られたバゲットが置かれ、個々の食事量まで配慮されていた。
葵が連絡を入れていたらしく、帰宅時間に合わせ焼かれたバゲットの匂いが鼻腔を擽る。先程までは食欲なんて欠片も無かったのに、食卓を囲めば不思議と食欲が沸いて来る。三人が定位置に揃って座ったところで、二日酔いに呻いていたとは思えない程に顔色を取り戻した葵が手を合わせた。
倣って挨拶し、和輝は中央の大皿からバゲットを拾い上げる。指先に温もりを感じながら齧り付き、何故だか、酷く苦しくなった。黙って咀嚼していると、葵が何か言いたげに視線を送る。和輝は黙殺した。
ふっと沈黙が下りて来て、それを埋めるように霖雨が慌てて口を開いた。
「このパン、美味いよな。何処のパン屋?」
バゲットに手を伸ばし、霖雨がぎこちなく笑う。わざとらしく明るく振舞う横顔を睨め付け、葵が声に出さないまま「馬鹿」と言った。
和輝は答えた。
「患者さんがパン屋で、分けて貰ったんだ」
「へえ。いいなあ。そういう繋がりがあると思うと、病院も良い勤務先なんだな。きっと、温かい職場なんだよな」
普段はいっそ口数が少ないくらいなのに、気まずさからやけに喋る。そういう時に人はぼろを出し易い。慣れていないからだ。今度は隠す気も無く、葵が確かに舌打ちをした。
何か下手を踏んだことは察したらしく、葵が慌てて取り繕う。和輝も取り立てる必要は無いので、にこにこして聞いていた。
「患者さん、元気になった?」
「死んだよ」
にっこりと笑顔を浮かべて、和輝は答えた。嫌味にすら聞こえないような、明るい声が出てくれた。
終に沈黙した霖雨は、バツが悪そうにバゲット咀嚼の作業に戻る。見兼ねた葵がテレビのリモコンを操作し、電源を入れた。途端に場違いな歓声が溢れ、リビングは不気味に賑やかになった。
「――亡くなった患者さんの奥さんが、分けてくれたんだ。美味いよな」
霖雨が伺うように目を上げる。何かを言おうとして、止める。藪を突いて蛇を出す必要も無い。
けれど、視線をテレビに固定したままの葵が無感情に問い掛けた。
「なんで死んだの」
さして興味がある風でもない。話題に困窮している訳でもない。場当たり的に、ただ口にしたようだ。
青くなったり白くなったり忙しない霖雨を視界の端に留め、和輝は逡巡し、言葉を考える。
「夜中に緊急搬送されて来たんだ。犯罪組織の下っ端で、右脇をライフル弾で撃ち抜かれて、出血が酷かった。眼球の混濁や異常発汗、血圧の増加諸々の症状から、違法ドラッグの中毒者であると診断された」
「なんで死んだの」
葵が、びしりと問いを重ねる。口を挟めない霖雨はそのままに、和輝は答えた。
「心臓を撃ち抜かれて即死」
其処で漸く葵はテレビから視線を動かして、和輝を見た。訝しげに目を細めた葵が、一言一句聞き間違わないように明確に問い掛けた。
「生きていたんだろ?」
搬送された時点では、と葵が尋ねる。和輝は正直に頷いた。
「俺が受け入れたんだ。搬送された時、言葉も交わした。遣り取りの物的証拠もある」
「カルテには何て?」
「同じだ。心臓を撃ち抜かれたことに因る即死。ただ、狙撃直後は即死状態だった可能性があると」
「搬送された時点が、狙撃直後だって言うのか? 現場は病院か?」
和輝は首を振った。
「遺体を確認した。確かに心臓の真上に銃創があった」
「右脇は」
「あった。でも、それは直接の死因ではないと診断された」
葵が小馬鹿にするように笑った。
「昨日、彼の奥さんと面会した。前科の無い善良な一般市民で、三日前から行方不明。警察にも捜索願が出されていた。彼女とは同棲していて、犯罪組織との関係は見られなかったそうだ。彼が搬送された時、ロケットを託された。若い頃の奥さんの写真だった」
「病院もグルか」
「記録上では、救急車が到着する前に現場で死亡したことになっている」
「即死状態だった可能性があるんだろう。どの程度だ」
「解らない。紙面上の記録と、俺の記憶のどちらが正常なのか解らないから」
にやりと、葵が嬉しそうに笑った。新しい玩具を見付けた子供のような笑みだった。
「曖昧だねえ」
「伝聞は当てにならない。自分の見たものが事実だと仮定すると、気になることがある」
気になることだらけだろう、と霖雨が不満げに口を挟む。葵は取り合わず、和輝は微笑みで制した。
「違法ドラッグの中毒症状だ。仮に三日、――いや、一週間でもいい。そんな短期間で、傍目にも解る程の症状を伴う中毒状態へ貶めるドラッグが、存在するのかな」
ふうふうと息を吹き掛けてグラタンの熱を冷ます葵が、つ、と視線を上げた。
「あるよ」
和輝と霖雨は、揃って眉を寄せた。
葵は漸くグラタンを頬張ると、忌々しい程ゆっくり咀嚼し、言った。
「この界隈じゃ、今噂になっているよ。他とは一線を引く重度の中毒症状、依存性を持ち、生きながら死者に逢えると謳われる幻のドラッグ。――その紛い物、粗悪品が出回っている」
「粗悪品?」
「重度の中毒症状と依存性だけを抽出した犯罪組織御用達の品だ。三日もあれば、健常な人間も中毒者に成り下がるだろう」
スプーンが皿に触れ、カチンと音を立てた。和輝は取り落としたことも気付かぬように、考え込んでいる。
完全に蚊帳の外へ追い遣られていた霖雨が、口を尖らせて言う。
「引き籠もりの癖に、よくそういうこと知っているよな」
「噂好きの友達が多いもので」
厭味ったらしく葵が言う。霖雨は鼻を鳴らした。
和輝は手を合わせ、立ち上がった。食事する間も無く喋っていた筈なのに、グラタンは空で、バゲットも半分以上消えている。手品でも見ているようだと、葵と霖雨は揃って目を白黒させた。
「明日、遅くなるから、先に寝ていてくれ」
神妙な顔付きで言って、和輝は珍しく皿も下げず自室へ篭った。
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