⑶夜空の星

 病院の中庭は芝生が整備され、人工的ながら美しく長閑だ。


 和輝の勤務先である大学病院は州で一二を争う名病院と持て囃され、その敷居は高く如何に難関校を突破したからと言って簡単に就職出来る場所ではない。


 特に外科は、世界医療の最先端だ。難病に冒された患者が救いを求め、幾度と無くその扉を叩く。院内のベッドは常に満員で、外来の予約も早々取れない。救命救急室ERは常に戦場で、和輝は技術力と体力を評価されて主に此処へ入れられている。


 だが、就職に当たって着目したのはスポーツ外科だ。自分にとって馴染み深いリハビリ器具の数々と、優しく厳しい理学療法士の声、苦悶に歪みながらも前進しようとする患者。和輝の目指す場所は、其処だった。


 昼食休憩の為、膝の上に弁当を広げている。何の気紛れか、霖雨が早起きして弁当を作ってくれた。子供の遠足のようなラインナップだが、誰かが自分の為に作ってくれるというのは、正直、嬉しい。


 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた白米を大口で頬張る。渡米して気付いたが、日本の米は美味い。水が違うのか、品種の問題なのか。故郷を懐かしみながら、ハンバーグを噛み締めた。


 一人で黙々と食事していると、遠くからエリザベスが呼んだ。




「和輝!」




 口を動かしたまま、片手を上げて応える。


 エリザベスの横には、すらりと背の高い女性がいた。褐色の肌に、波打つ黒髪を腰まで伸ばしている。春先だというのにショートパンツで美しい足を曝け出している様は健康的で、病院には余りにも不釣り合いだ。


 座ったままの和輝の元へ、女性が大股で歩み寄る。こんな知り合いがいただろうかと考えていると、女性は和輝の目の前に立った。




「アンタが蜂谷和輝?」

「ええ、はい」




 素直に答え、ハンバーグを呑み込む。女性は怪訝そうに眉を潜めた。そして、スプリングコートのポケットから一枚の写真を取り出すと、和輝の眼前に突き付けた。




「彼を知ってる?」




 ポテトサラダを口へ運び、写真を凝視する。


 満面の笑みを浮かべる女性、隣に白人の男が寄り添っている。この男を、和輝は知っている。あの夜、緊急搬送されて来た薬物中毒者の男だ。




「知ってる」




 だが、彼はもう、この世にいない。


 そう告げれば、女性は目眩を起こしたかのようによろめいた。慌てる和輝より先に、エリザベスが支えた。相変わらず、頼もしい看護師だ。


 和輝が黙っていると、女性は言った。




「彼は犯罪組織の一員で、麻薬に目が眩んで盗んだ所を見付かって、報復を受けたって……」

「そうか」

「心臓を打ち抜かれて即死。犯罪者のレッテルを貼られて、満足に葬儀も出来ない……」




 そうしてさめざめと無く女性の言葉に、和輝は違和感を覚える。


 弁当を一端脇の避け、スクラブのポケットを探る。指先の感触を頼りに引っ張り出せば、金色のロケットは美しく煌めいた。




「それを何処で!」




 引っ手繰るようにして女性がロケットへ手を伸ばす。和輝は素早くポケットへ戻した。




「見知らぬ人と懇意にする気は無いんだ。名前ぐらい、名乗ったらどうだい?」




 和輝が指摘すると、女性はやや気圧されたように勢いを失くし、一つだけ咳払いをした。


 そして、凛と背筋を伸ばす。




「レイチェル」




 彼女――レイチェルは、肩に掛かった髪を指先で払った。腰程もある髪が風に靡き、僅かにシャンプーの甘い匂いが漂う。本能的に引き寄せられそうになり、和輝は弁当の残りを咀嚼して誤魔化した。


 弁当箱を殊更丁寧に片付けてから、和輝は立ち上がった。立ち上がっても、自分よりレイチェルの方が背が高かった。身長差に驚いたのは、多分お互い様だった。


 和輝の身長は母国の平均身長を大きく下回る。これは海外でも異例で、一見すると子供のようだ。スクラブを着ていなければ、とても医療関係者とは思われない。


 すらりと長身のレイチェルを見上げ、和輝は肩を竦めた。




「何の用か知らないが、此方にも守秘義務がある。君の身元を証明してくれ」

「妻よ」




 和輝は猫のように目を細め、隣にいるエリザベスを見遣った。


 エリザベスはこの病院で二十年以上勤務している所謂ベテランの看護師で、精神病棟での勤務経験もあり、心身共に力強く頼もしい存在だった。


 和輝が渡米して間も無く、右も左も解らない頃から何かと世話になっている。彼女には息子が一人いて、二十歳を迎え就職活動中に通り魔に殺された。犯人は既に逮捕され服役している。そうした経歴から、和輝のことを息子のように可愛がってくれている。


 この国で唯一、和輝が信頼できる存在だ。そのエリザベスが、慰めるようにレイチェルの肩を抱いて言った。




「彼女の身元は、私が保証するわ。力になってあげて」




 彼女に頼まれたら、和輝には断れない。

 お手上げだと両手を上げ、和輝は苦笑した。




「俺に何をしろって言うんだ」




 レイチェルは真っ直ぐに和輝を見た。射抜かんばかりの強い目だった。




「彼は犯罪組織とは関わりの無い善良な一般市民だったわ」

「証拠は?」

「私よ」




 話にならない。和輝は呆れて肩を落とした。

 レイチェルは和輝の反応に目を鋭くさせるが、不満げに鼻を鳴らして続けた。




「三日前から、彼は行方不明だった。何の連絡も無くいなくなることなんて今まで無かったから、すぐに警察へ捜索願を出したの。けど、消息不明のままだった」

「見付かったと思ったら、病院だったって?」

「そうよ。それも、犯罪者の死体としてね」




 こんな時、何と声を掛けるべきなのだろう。和輝は逡巡する。


 ご愁傷様です? 心中お察し致します?

 言葉は思い浮かんでも、それに準ずる翻訳が和輝には解らなかった。





「彼が善良な一般市民だという証拠が君だと言ったけど、アリバイでも証明できるのかい?」

「同棲していたの。ずっと。異変があれば、気付くわ」




 和輝は零れそうな溜息を、微笑みを浮かべることで呑み込んだ。


 どうして、女性は感情で物を考えるのだろう。けれど、女の勘というものが全く当てにならないという訳でないことも知っている。和輝は黙って頷いた。


 レイチェルの肩を抱いたまま、エリザベスが言った。




「フランツは、レイチェルとパン屋を共同経営していたわ。私の行き着けのお店で、素朴だけど、とても温かくて美味しいパンを作っていたの」




 貴方にもよく買って行ったでしょう。

 エリザベスが微笑む。和輝は地団駄を踏みたくなる。


 そんなことは訊いていない。論点がずれる音を確かに聞いた気がして、和輝はフランツが搬送された夜を思い返し、自問する。


 眼球の混濁、血圧の増加、異常発汗、幻覚、妄想。彼は確かに薬物依存の身体症状が確認された。後の検査でも違法薬物の摂取反応があった。其処に異論は無い。あるのは、ただ一点。


 心臓を撃ち抜かれ、即死したという診断だ。


 和輝はあの夜、確かにフランツからロケットを託された。そして、救急隊員の話では右脇からライフル弾が貫通――。


 彼の銃創は確認している。内蔵の損傷は予測されたが、心臓には到底届かなかった。彼は病院搬送後、手術室で死亡したのだ。


 確信はある。だが、証拠は無い。


 あの夜、手術室で患者を受け入れたのは誰だっただろうか。和輝は目を閉じて記憶を探った。


 途端に、あの爬虫類のような双眸が脳裏を過ぎった。嫌悪感に眉を寄せた和輝を、訝しげにレイチェルが見る。覗き込むような視線に、和輝は微笑みを返した。




「これは返すよ。君にこそ相応しい」




 いつの間にか握り締めていたロケットを手渡す。レイチェルは受け取ると、唯一無二の宝物だと全身で叫ぶように抱き締めた。ロケットを握り蹲る背中が、酷く小さく見えた。エリザベスが側にしゃがみ込み、その背中を摩る。


 噛み殺し切れなかった嗚咽が漏れる。和輝は、目を伏せていることしか出来なかった。













 4.Starfish.

 ⑶夜空の星











 和輝が帰宅すると、リビングから酷い酒精が漂っていた。


 食卓を囲んだテーブルには、空き缶や空き瓶が所狭しと並んでいる。いつもの指定席で、葵が顔を真っ赤にしてウイスキーを呷っていた。


 和輝の帰宅に気付いたらしい霖雨が、自室から顔を出した。そして、リビングの惨状に気付き、嫌悪感に顔を顰める。否、酒精に顔を歪めたのかも知れない。和輝はバックパックを椅子へ下ろした。




「いつから呑んでるの?」




 顔だけ覗かせていた霖雨が、嫌そうに首を捻った。




「知らない。一時間前に見た時は、素面だったけど」




 一時間で此処まで泥酔出来るのかと、感心してしまった。キッチンからミネラルウォーターを持って来て、葵の前に置いてやった。


 楽しそうだね、と声を掛けると葵は上機嫌に笑った。こんな姿は二度と拝めないかも知れない。和輝は携帯電話を構えて写真を撮った。


 中々非道なことをするね、と苦笑混じりに霖雨が言った。和輝は携帯電話をポケットへ押し込み、今度は夕食を作る為にキッチンへ向かった。




「腹が減ったぞ!」




 叫ぶ葵はそのままに、冷蔵庫を開ける。肉も野菜も補充されている。昨日は買い物に行っていないから、霖雨が買って来てくれたのだろう。


 漸く自室から出て来た霖雨が、手際良くテーブル上を片付ける。葵はアルコール許容量が越えたのか突っ伏して寝息を立て始めた。気楽なものだ、と少し羨ましく思った。


 何を作ろうかと逡巡する。既に寝入っている葵に食事は必要なのか判断に迷った。霖雨がキッチンの入口まで来て、空き缶や瓶を捨てた。




「今日は早かったね」

「定時はこの時間なんだ。急患がいなければ、本当はこの時間には帰れる」




 口に出してから、愚痴っぽくなってしまったことに気付き反省する。


 けれど、霖雨は気にする様子も無く「お前が早く帰って来てくれて嬉しいよ」と嬉しそうに言った。


 こういうところが、変質者に漬け込まれるのだろうと思う。口にはせず、和輝は微笑んだ。




「プラネタリウムは出来たかい?」




 玉葱とじゃが芋、人参の皮を向き、切り分ける。玉葱に含まれる硫化アリルという物質は、包丁で切ることによって細胞が潰れて溢れ、気化する。口や鼻の粘膜から侵入した硫化アリルが刺激し、涙が出たり、鼻が痛くなったりする。和輝は体質なのか姿勢なのか、生まれてこの方、玉葱に苦しめられたことが無い。


 切り分けた野菜と時間差で肉を炒める。食材の焼ける匂いがキッチンに漂った。


 霖雨は距離を取っていたにも関わらず染みたのか、煩わしそうに目を擦る。そして、壁に凭れ掛かったまま答えた。




「順調だ。今、アルビレオを作っているよ」

「ああ、雌鶏の嘴」

「よく覚えているね」




 確か、二重星だったか。金色と青色の星。


 記憶に自信が無い。和輝はテーブルに突っ伏す葵を見遣るが、反応は無かった。




「霖雨はさ」




 火に掛けた鍋が沸騰して来た。フライパンで炒めた食材を投入する。


 湯が頬へ跳ねたが、温度も痛みも感じなかった。食材を煮る横で小麦粉とバターを取り出し、フライパンの上で火に掛けながら牛乳で伸ばす。ホワイトルウを作っている。




「どうして渡米したの?」




 視線はじっとフライパンへ向けたまま、問い掛けた。

 ルウを木べらで掬い上げ、粒状のコンソメと共に鍋へ入れる。完全に溶けるまで火は止めておく。


 霖雨が答えた。




「量子力学に興味があって、もっと広い世界で学びたかったんだよ」

「奨学金?」

「そう」

「家族は?」




 其処で一瞬、霖雨が苦い顔をした。すぐに取り繕われたそれを目の端で捉え、和輝は気付かなかった振りをする。


 沈黙が幕のように降りた。和輝は視線を感じながら、黙ってルウを溶かし続けた。




「兄が一人」

「どんな兄ちゃん?」

「双子の兄なんだ。頭が良くて、判断力もあって、頼もしい兄貴だよ」




 双子と聞いて、和輝は霖雨を見た。この顔が複製されていると思うと、なんだか奇妙な感覚がした。

 テンポの悪い会話を、肉の焼ける音が埋めて行く。和輝が手元に視線を落としていると、霖雨が言った。




「和輝は、この世界がパラレルワールドで、主軸たる世界が他にあると考えたことはあるかい?」




 ルウが完全に溶けたことを確認し、スプーンで味見する。瓶入りの塩と胡椒を取り出し、味を調整した。


 パラレルワールドって何だ。

 和輝は口にしなかった。今は口を挟むタイミングではない。霖雨が求めているのは正解ではない。




「逆でもいい。何処かで選択肢を違えていれば、有り得た未来があるかも知れない。今いるのは、間違った世界なのかも知れない。或いは正解だったとして、間違った未来を選ばざるを得なかった世界が存在するかも知れない。そんなことを考えたことはない?」




 霖雨としては噛み砕いたつもりなのだろうけれど、和輝には殆ど理解不能だった。




「解らない」




 素直に、和輝は答えた。何を言っているのか理解出来なかったのだ。


 霖雨は微笑んだ。




「俺は今の世界に満足している。でも、そうじゃない世界があるかも知れない。救われないままの、自分がいるかも知れない」




 鍋に蓋をして、和輝は霖雨を見た。牧羊犬のような顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいる。


 何が悲しいのだろう。何を求めているのだろう。




「そんなの解らないだろ。解らないままで、良いんじゃないのか?」




 和輝は問い掛けた。




「俺は馬鹿だから、量子力学とか、パラレルワールドとか解らないよ。何があって、そういう考えに至ったのか解らないけど、……霖雨は自分が此処にいることが不安なんだね」




 ふっと目を伏せた霖雨が、まるで懺悔する咎人のように見えた。


 鍋の蓋を開けて具合を確かめ、火を止める。出来たぞ、と声を掛けても霖雨は応えない。和輝は小さくなった肩を叩き、言った。




「未来を恐れるな。悔いた過去も力にしろ。納得できない現実には、必死で抗え!」




 漸く顔を上げた霖雨が、泣き笑いのような顔をしていた。




「誰の言葉?」

「俺の兄ちゃん」




 霖雨が、まるで眩しいものを見るように目を細める。悪童のような笑みを浮かべ、霖雨が言う。




「夢や理想が現実になる保証なんて、何処にもないだろう。伸ばした手を掴んでくれる確証なんて、何処にもないだろう」




 そんなこと、痛い程に解っている。咄嗟に耳を塞ぎたくなる。


 自分の手を封じるように、棚から皿を取り出して並べた。ホワイトシチューだ。粒状コンソメを使うと、葵がすぐに気付いて手抜きだと文句を言う。けれど、その葵はいびきを掻いているし、シチューも一晩寝かせれば味が馴染むだろう。




「少なくとも、俺は掴んでやるけどね」




 ああ、パンを焼き忘れた。せっかく貰って来たのに。

 そんなことを零せば、霖雨が鼻を啜って笑ったようだった。

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