⑵夜明け前

 死んだのか。


 薄暗く、底冷えする密室。遺体安置所は息苦しく、出口の無い洞穴を連想させた。


 目の前に横たわる遺体――犯罪組織の下っ端だったらしい。何かヘマをして組織から報復を受け、病院へ運び込まれたとのことだった。


 担架に載せられた彼は、和輝を見てヒーローだと言った。


 界隈に通り名が知れ渡っているのかも知れないし、死の間際に幻想を見たのかも知れない。もう解らない。死人に口無しだ。組織はこれからも生き続ける。




「和輝」




 探したわよ、と金髪のふくよかな看護師、エリザベスが穏やかに言った。


 和輝は深緑色のスクラブのポケットに手を入れる。冷気の為か指先は凍り付いたように冷え、感覚が無くなっていた。




「亡くなったの?」

「ええ、昨日の夜遅くに」

「そっか……」




 深夜に亡くなったのならば、自分が帰宅した後だ。手術室で亡くなったのだろう。


 出血多量の症状が出ていた。輸血も間に合わなかったかも知れない。自分の越えられない境界線の向こう側で、彼は息絶えた。自分なら助けられたなんてと驕るつもりは毛頭無いし、医師も手を尽くしたのだろう。ただ、自分がやり切れないだけだ。


 ヒーローを求め、手を伸ばした男を、救えなかった。


 俯く和輝を、看護師が母のように抱き竦めた。境界線の向こうで生きる彼女の手は力強く、温かい。




「此処は冷えるわ。行きましょう」




 人間の体温を感じながら、和輝は導かれるように遺体安置所を出た。


 廊下は眩しい程の光に満ちている。リノリウムの床は日光を白く反射させ、和輝は目眩を覚えた。


 渡米して一年目はそれこそ雑用係だったが、確実に技術を身に付け、今では看護師同様の勤務をしている。それでも、資格を持たない和輝の給料はアルバイトと同等で、医療行為の許されない和輝は手術室へ入ることは出来ない。


 医者になりたい訳じゃない。ただ、人を救いたいと思う。高校時代、再起不能の怪我を負った時、この国のスポーツドクターが救ってくれた。恩に報いたいと思った。けれど、海を渡ってみれば彼は交通事故によってこの世を去っていた。


 ポケットに入れていた掌を固く握り締める。そして、其処に何かを掴んでいたことに気付く。


 取り出してみれば、あの男から受け取った金細工のロケットだった。入れたままにしていたことを思い出し、開いて見る。黒人の少女が映っていた。淡い青色のドレスを纏い、行儀良く膝に手を揃え、微笑んでいる。娘だろうか。


 返しそびれてしまったな、とナースステーションを目指した。彼の血縁者に渡すべきだろう。


 ナースステーションに問い合わせるが、彼の遺族は一人として訪れていないらしい。犯罪組織の尻尾きりに使われる男に、血縁関係者が顔も出す筈も無いだろう。虚しさや遣る瀬無さと共にロケットはポケットへ押し込んだ。


 回診の時刻となり、看護師を引き連れた医師が廊下を闊歩する。和輝は廊下の隅によって会釈した。


 先頭に立っていた医師は和輝に気付くと、声を掛ける。




「やあ、和輝くん」

「こんにちは」




 何故、この医師は自分をファーストネームで親しげに呼ぶのだろう。和輝はこの医師を好きになれなかった。グレーの瞳が何処か爬虫類を思わせ、自分は捕食されるのではないかと錯覚してしまう。


 他愛の無い遣り取りの中で、医師が耳へ口を寄せた。




「今夜、空いてる?」




 性質の悪い冗談だ。和輝は曖昧に笑った。




「申し訳ありませんが、先約があります」

「それは残念!」




 医師が目を眇めて嗤う。




「いつでも連絡してくれよ?」




 耳打ちするように、医師がそっと言った。和輝は微笑み、歩き出す。


 医師の群れが通り過ぎた後ろで、和輝は大きく息を吐き出した。気持ち悪い男だ。男の自分を性的対象と見做している。日本人は童顔で、和輝は小柄だから一層子供のような印象を持つのだろう。


 和輝は覚えている。


 現場に放り込まれて一年と経たず、言葉すら理解出来ず、右も左も解らなかった頃、あの医師を主犯とした数人の男達に物置へ閉じ込められた。


 暗闇で四肢を縛られ、真新しいスクラブを捲し上げられ、薄い体の上を男の指先が好き勝手にまさぐった。口に詰め込まれたタオルに悲鳴も嗚咽も吸い込まれ、男の手がズボンに掛けられた時、混乱する頭で和輝は絶望を感じた。


 扉が開かれたのはその時だ。目が眩むような視界の中で、エリザベスが立っていた。勢いよく捲し立てる彼女の言葉は解らなかったが、罵倒であることは解った。


 奴等は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。エリザベスは和輝の無事を確かめると、潤んだ目で強く抱き締めた。


 和輝に母はいない。出産と同時に逝去した。だから、母の温もりを和輝は知らない。


 言葉の通じない異国で、味方のいない敵地だと思っていたのは間違いだったかも知れない。確かな温もりを感じながら、和輝は思い出す。失っても失っても、希望は必ずある。だから、生きている限り前に進まなければいけない。


 絶望には未だ早い。俺は夜明けを知っている。












 4.Starfish.

 ⑵夜明け前











 家に帰り着くと、テーブルの上に一枚の黒い画用紙が広げられていた。


 特に気にはせず、早々にキッチンへ向かう。カウンターの向こうで霖雨が何か工作をしているらしい。霖雨は地元の大学で量子力学を専攻している所謂エリートだ。何を目指しているのか聞いたことはないが、葵が言うには引く手数多の秀才らしい。


 その秀才が何を作るのか興味はあるが、空腹を満たすことが先決だった。


 冷蔵庫には野菜の切れ端が幾つか眠っている。和輝のいない日は、霖雨が食事を作っているらしい。その翌日はこうして食材が点々と残ることが多い。調理は得意でも、食材の使い回しは不得手なのだろう。そういう不器用なところが、和輝は嫌いではない。


 冷蔵庫の掃除を兼ねてポトフを作ることにする。大鍋に水を入れ、火に掛けた。その端で食材を一口大に切り分け、冷凍庫から牛肉を取り出す。もうじき湯が沸くかという頃、葵が音も無くリビングに入って来た。幽霊のような覇気の無い面で定位置の椅子に座り、ぼんやりとテレビを眺める。其処で気付いたらしい霖雨が肩を跳ねさせていた。


 先日の事件の為、霖雨は転職を余儀なくされた。現在は商店街のバーで働いているらしいが、酔った客が絡んで来ると眉を寄せ愚痴を零していた。


 炒めた野菜や肉を鍋にいれ、インスタントのコンソメを投入する。大した量は食べない癖にあれこれ文句を言う葵は、手抜きだとぶう垂れるかも知れないが、放って置こう。


 バゲットを切り分け、バターを塗ってトースターに入れる。サニーレタスを千切ってサラダを作っていると、パンが焼けた。皿に取り分けたポトフをテーブルまで運ぶと、画用紙を指して葵が何か言っていた。




「夕飯にするから、片付けてくれ」

「ああ、ごめんごめん」




 霖雨が慌てて画用紙を丸めた。


 焼きたてのバゲットとサラダ、湯気の昇るポトフ。ノスタルジックな食卓を囲み、手を合わせた。


 葵が小食の上に偏食なので、バゲットは大皿に載せた。葵はポトフに口を付け、早速「手抜きだな」と言った。


 文句は言うが、自分の食事量は残さない。そういう誠実さが和輝は好きだ。文句を聞き流し、バゲットを齧った。病院近くで評判のパン屋のものだった。


 霖雨は文句を言わず、美味そうに食べている。作り甲斐のある男だ。




「何を作っていたんだ?」

「ああ、プラネタリウムを」

「プラネタリウム?」




 復唱すれば、霖雨が頷いて側に丸めた画用紙を広げた。


 鉛筆で下書きのように点が打たれている。英語の走り書きは読めないが、どうやら、星の位置を記しているらしい。




「大学の課題か?」

「そう。LEDを使ったインテリアが課題なんだ」




 霖雨の専攻は量子力学じゃなかっただろうかと、疑問に思う。だが、大学に通っていない和輝には課題というもの自体が未知の領域だ。


 葵はサラダを自分の皿に取り分け、口を尖らせた。




「こいつ、星の位置もうろ覚えの癖にプラネタリウム作ろうとしているんだぜ」

「煩いな。下書きだから良いんだよ」

「正確に記さなきゃ、下書きの意味が無いだろう」




 言い争う二人もいつの間にか壁が消え、親しくなったように感じられる。何となく嬉しくなって、和輝は笑った。


 黙っている和輝に気付いた霖雨が、気遣うように目を向けると同時に驚愕する。




「お前、食べるの早過ぎるだろ」




 既に大皿に載せたバゲットは空になりつつある。ポトフもお代わりして四杯目だ。


 葵は興味深げに頷いた。




「こいつも人体の神秘だよな。摂取した栄養は何処に消えているんだろう。食ってる割に痩せっぽちだし」




 ブラックホールでも呑み込んでいるんじゃないかと、先日の一件を揶揄して葵が笑った。


 漸く空腹も満たされ、和輝は手を合わせる。霖雨は残されたサラダとバゲットを平らげ、同じように手を合わせた。


 葵は食後の一服にキッチンへ向かう。煙草はバルコニーか換気扇の下のみ可となっている。早口に権利を主張する葵を、和輝と霖雨で半ば強引に押し遣ったのだ。


 食器を片付けていると、霖雨が再び画用紙を広げた。何の変哲もない画用紙が、どうやってプラネタリウムになるのだろう。皿を水に漬け、和輝は覗き込んだ。




「日本から見た、夏の空なんだ」




 霖雨が言った。

 鉛筆が、ぽつりと点を打つ。




「これがこと座のベガ。織姫星とも言うね」




 くるくると点を大きくする。

 換気扇の下を陣取ったまま葵が言った。




「ベガはこと座で最も明るい恒星で、全天21の一等星の内の一つだ」

「要するに、凄く明るい星なんだね」




 和輝が口を挟むと、葵は溜息を吐いた。

 霖雨は気にせず、更に四つの点を打ち、平行四辺形を書き込む。




「ベガから東の岸へ向かうと、わし座のアルタイル。これは彦星。これも一等星だ。それから、はくちょう座のデネブ。この三つを繋ぐと夏の大三角になる、星座を探す時の案内役をすることが多いね」

「ふうん」




 繁繁と画用紙を眺め、和輝は言った。




「面白いね。空を見ても星座なんて解らないけど、こうして手元にあるとよく解る。わし座って、本当に鳥の形に見えるんだね」




 わし座、アルタイルを指先で撫でる。

 キッチンから出て来た葵が、その側に指を当てて言った。




「アルタイルの語源はアラビア語で、飛ぶ鷲。対照的にこと座のベガは落ちる鷲」

「ああ、何となく見えるな」

「それから、はくちょう座のデネブは雌鶏の尾という意味が語源になっている」

「白鳥じゃないのか?」




 葵は頷いた。薄手のセーターから、僅かに煙草の臭いがした。




「ギリシャ神話では、大神ゼウスが変身した姿なんだよ。だから、細かいことは良いんだ」

「ははあ、ご都合主義って奴だね」

「そんな難しい言葉をよく知っていたな」




 偉い偉い、と小馬鹿にするように葵が頭を撫でる。和輝は目を細めるが、黙っていた。




「ちなみに、はくちょう座の嘴に当たる星はアルビレオ。アラビア語では雌鶏の嘴だ。望遠鏡で覗くと金色の星の側に青色の星がくっついているのが解る。二重星という。宮沢賢治の銀河鉄道の夜でも出て来る」

「へえ、綺麗なんだろうな」

「再現してやれよ、霖雨」

「無茶言うな」




 軽口を叩き合う霖雨と葵をそのままに、和輝は鉛筆で記された星座を眺める。今は遠い故郷の空だ。




「渡米してから忙しくて、夜空なんてずっと見てないな。こっちだと見える星座も違うんだろうなあ」




 輝く筈も無い紙上の星を撫で、眩しそうに和輝が言った。葵と霖雨は瞠目し、顔を見合わせる。

 葵は舌打ちを一つ零した。




「貸せ」




 引っ手繰るようにして画用紙を奪い、葵は玄関に積んであったダンボール箱を持ち出す。和輝宛の荷物が梱包されていたダンボール箱だ。それを下敷きにして、画用紙を広げる。


 ポケットから小さなナイフを取り出し、霖雨の鉛筆を尖らせる。二人が口を挟む間も無く、葵は画用紙へ鉛筆を突き刺した。




「ベガ、アルビレオ、デネブ、アルタイル、ポラリス、コカブ、フェルカド、トゥバン、アンタレス……」




 呪文を唱えるように言いながら、葵は穴を開けていく。淀みない手の動きはまるでロボットのようだ。星座の位置を全て覚えているのかも知れない。




「アルクトゥルス、スピカ、ミザール、M31、北斗七星、デネボラ、……」




 他にもぽつぽつと点を打ちながら、葵は穴だらけの画用紙を広げた。

 蛍光灯の光を遮った夜空に、光が差し込む。未だ仕上げではないらしい葵は声を上げた。




「霖雨、電気消せ!」




 霖雨が肩を竦め、促されるままリビングの明かりを落とす。テレビだけが場違いに騒ぎ立て、葵はリモコンを操作して音を消した。毒々しい程に鮮やかな光が映る。何をする気だろう。和輝は首を傾げた。


 葵は黙ったまま、画用紙をテレビのディスプレイに貼り付けた。鮮やかな画面は覆い隠され、僅かに開いた穴から光が漏れ出す。目が痛くなるような人工の光が、きらきらと輝く。和輝は息を呑んだ。




「……星だ」




 ディスプレイの中に浮かび上がる小さな星の群れ。

 付け焼刃の知識で、星座を探す。




「こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ……」




 夏の大三角。飛び立ち、急降下する鷲の姿が見える。


 吸い寄せられるように和輝はディスプレイに歩み寄るが、葵によって阻まれた。




「星に手は届かないんだぜ」

「うん……」




 それでも、此処に確かにある――。

 霖雨が言った。




「星は、地球から何万光年も離れた場所で光っている。今光って見える星は、現在では星自体が無くなっている可能性もあるんだよ」




 届かないのは距離か、時間か。そのどちらもが正解で不正解なのだろう。


 何故だか無性に泣き出したくなって、和輝は拳を握った。


 真っ暗な埃っぽい倉庫で、身動き一つ取れなくて、まるで玩具みたいに扱おうとした人間がいる。扉の隙間から零れ出る光へ必死に手を伸ばしたけれど、指先も、声も届かなかった。どのくらい時間が経ったのだろう。嗚咽も悲鳴も吸い込まれて、一方的な暴力で押さえ付けられて、――あの時、俺は泣いていたのかも知れない。


 助けて。助けて。誰か助けて。


 俺が此処へ連れ込まれた現場を見ていた人がいた筈なのに。

 酷い物音が響いている筈なのに。

 この声が届いている筈なのに。


 この手は誰にも取られない。




「和輝」




 指先の感覚の消えた拳を、包み込むように霖雨が握った。覗き込む顔は、――あの時の男じゃない。

 訝しげに目を細める葵の後ろで、星が光っている。


 みっともない嗚咽が漏れてしまう前に、和輝は唇を噛み締めた。




「ありがとう。感動した。良いものが見られたよ」




 霖雨と葵が、変な顔をしていた。まるで、掛ける言葉を探しているみたいだった。和輝は苦く笑い、部屋の電灯を点けた。LEDの冷たい光の下、紛い物の星は消え失せた。


 画用紙を外し、テレビの音量を上げる。これで、元通りだ。




「……俺、シャワー浴びて来る」




 そう言って、和輝は逃げるように歩き出した。背中に刺さった二人分の視線が、針のように痛かった。

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