3.Starfish

⑴闇の中で仄かに光る

 One doesn’t recognize the really important moments in one’s life until it’s too late.

(人生で本当に重要な瞬間は、手遅れになるまで解らない)


 Agatha Christie







 断末魔にも似たブザーが鳴り響いている。


 寝静まった夜の病棟は、死んだようにひっそりとしている。リノリウムの廊下を進んでいた和輝は、心臓が凍り着くような嫌な予感に足を止めた。ナースステーションでは当直の看護師が慌ただしく動き出し、医師が扉を開け放つ。


 エマージェンシー。赤い光が点滅している。


 和輝は背負っていたバックパックを一瞥した。給料日だった。今日こそ家賃を支払って、使用人から入居者へ昇格する予定だったが、先延ばしだ。荷物をナースステーションの隅へ投げ捨てる。




「何か手伝えることはありますか」




 強張っていた看護師の顔が、ふっと緩んだ。


 電話対応していた看護師が声を上げる。救急搬送。ライフル弾が右脇を貫通。患者の意識は無く、出血多量で脈拍も弱っている。和輝は、舌打ちした。


 自由の国と歌われるこの国で、銃器による犯罪は少なくない。トカゲの尻尾切りをされた犯罪組織の下っ端が、土手っ腹に風穴を開けながら搬送されたこともある。麻薬中毒者と怒鳴り合いをしながらICU送りにしたこともある。


 救急車のサイレンが近付いて来る。受け入れの準備を整えるよう指示を出し、和輝は引っ掛けてあった白衣を纏った。


 和輝は医師ではない。医療行為は許されていない。だから、今の和輝に出来るのは、搬送された患者を手術室まで心臓を止めず送ることだ。不甲斐ないとは思うが、医者になりたい訳ではない。


 大学病院前に、鮮やかな赤い光を撒き散らしながら、救急車が滑り込んだ。乾いた夜風に吹き付けられ、白衣が翻る。車両後部より担架に乗せられた患者が運び出される。救急隊員は、和輝の顔と胸元に下げられたタグを一瞥すると笑った。




「頼りにしてるぜ、ヒーロー」




 担架を受け取り、和輝は患者の顔を覗き込む。救急隊員と看護師が弾丸のように滑らせる担架に並び、焦点の合わない視線を胡乱に彷徨わせている。救急隊員の情報で意識不明とのことだが、視線は合わないまでも確かに覚醒している。


 眼球の混濁、肌の色、不整脈、痙攣。麻薬中毒者だろう。黄ばんだ歯列、荒れて粉を吹く肌。


 止血処置は終わっている。今の自分に出来るのは、手術室までの僅かな道程で、正確な情報を読み取り、命を繋ぐことだ。例え彼が極悪人だったとしても、善良な一般市民だったとしても、処置は常に平等だ。


 自分よりも大きな掌を掴む。肉刺と胼胝で硬くなった掌だ。指先の胼胝は、拳銃を扱う人間であることを示している。煙草の臭いに混じって硝煙の臭いがする。凶器はライフル銃と聞いている。先入観を持つことは危険だが、狩猟が趣味の善良なる一般市民には見えない。


 それでも、助けの手は平等だ。


 力無く開かれていた掌に、力が篭る。




「貴方がヒーローですか?」




 絞り出すような掠れる声で、男が問い掛けた。答えに迷い、和輝はその手を強く握った。


 男の硬い手の平が、胸元から小さなロケットを取り出す。金色に煌くそれは、無骨な男に見合わず細やかな装飾が施されている。細い鎖を引きちぎって手渡されたロケットを、和輝は受け取るしかなかった。


 混濁した意識の中で、ヒーローへ手渡したのだ。彼の意図が読めなくとも、差し出された手を拒むことは、和輝には出来なかった。ロケットが和輝へ渡されたと確認し、男の腕は弛緩した。開け放たれた手術室の向こうに、和輝は入れない。此処が境界線だと、搬送を受け入れる度に自分の無力さを思い知る。


 掌のロケットを握り締め、和輝は祈るように頭を垂れた。












 3.Starfish.

 ⑴闇の中で仄かに光る











「おかえり」




 遅かったね、と霖雨が微笑む。


 帰宅した和輝を迎え入れてくれたのは霖雨だ。既に時刻は十一時を過ぎているが、待っていてくれたのかも知れない。


 先日の事件後、葵に背負われ、パトカーに乗せられ、NYPDのトイレに駆け込んだ。慌てて追い掛けて来た捜査員が洗面器を差し出し、堪える間も無く嘔吐した。吐瀉物の中には確かに見覚えのあるカプセルが浮かんでいて、胃液の臭いに更なる吐気を催した和輝は暫く便器を抱え込んでいた。


 カプセルがどうなったのかは解らない。ただ、事件は解決した。FBIは犯罪組織の検挙に大忙しだと、捜査官が笑っていた。


 殴られた頬と後頭部の手当を受け、パトカーで住居まで送られた。玄関では葵と霖雨が待っていた。


 おかえりの一言の為に、自身の危険を顧みず助けに来てくれたのだ。和輝は感謝の言葉も思い浮かばなかった。無鉄砲に誰かを助けに飛び込むことはあっても、その逆は無かった。


 仲間。友達。――これまで気を許さず生きて来たのに、緊張の糸が解けそうだ。


 今回の騒動も、原因は自分の体調管理だ。不甲斐ないし、申し訳無い。けれど、そんな態度を欠片も見せない彼等はきっと、優しいのだと思う。その優しさに見合う誠実な人間でいたいと、強く思った。


 夜間の帰宅を予想して、夕食は作り置きしてある。大鍋に煮られたおでんがテーブルの上に置かれていた。取り分ける手間も惜しんだのかと脱力しかけるが、和輝は黙って席に着いた。


 葵は定位置の椅子に、立て膝で座ってテレビを見ている。その手元には分厚い何かの専門書が開かれているが、和輝には解らない。視線は動かさないまま、葵は「おかえり」と素っ気無く言った。




「ただいま」




 ただ一言の挨拶が何故だかむず痒く、口元には笑みが浮かんだ。目敏く気付いた葵が、振り返って眉を寄せる。


 彼の口が開く前に、和輝はバックパックの中から封筒を取り出した。




「滞納していた家賃だ。足りない分は、遅れても必ず払うから」




 封筒を受け取った葵が、銀行員のように慣れた手付きで金額を確かめる。そして、怪訝そうに眉を寄せたまま言った。




「薄給なんだろ。こんなに渡して大丈夫か」

「働いて返すから、大丈夫だ。当分はカプセルホテルで寝泊りすることになるけど」




 言いかけて、和輝は止まった。霖雨が不思議そうに見ている。


 霖雨はいつも隙だらけで、無防備である。自衛の手段すら持たず、誘き寄せられる犯罪者予備軍に怯えている様は、空腹の獅子の檻に放り込まれた仔兎と同じだ。鋭い爪も牙も、一撃必殺の毒も、身を守る鱗も針も持ち合わせない。捕食し易そうな草食動物。




「此処に住めばいいじゃないか」




 平然と霖雨が言ったので、和輝は瞠目した。

 奇妙な沈黙がリビングを包むと、霖雨が葵を睨んだ。




「誰かが出て行けなんて言ったのか?」




 和輝は慌てて否定した。




「いや、そういう訳じゃない。でも、これ以上、迷惑は掛けられない」

「お前がいつ迷惑掛けたんだよ。料理、洗濯、掃除、買い物。毎日朝から晩まで働いている癖に、引き籠もりの世話までしているじゃないか。和輝がいなかったら、今頃大変なことになっていただろうさ」




 そうだよな、と否定を許さない強い口調で霖雨が言う。葵はぼんやりとテレビを眺めたまま返事もしない。




「そういう訳だから、今渡したお金は敷金として預けて置いて、このまま住めば良い。部屋なら、空いているんだし」

「いいのか?」

「良いも悪いも」




 葵が胡乱な眼差しで、リビングに繋がる部屋を指差す。和輝が仮住まいさせてもらっている部屋だ。


 扉の前にはダンボール箱が二つ、布団が一組置かれていた。




「今日、いきなり届いたんだ。お前宛の荷物だぞ」




 宛名は確かに和輝だった。以前の家が火災で消失して間も無いというのに、平日の昼間に送り付けて来たらしい。


 差出人の名前を見て、和輝は驚いた。日本からの速達だ。差出人は、故郷の親友だった。




「手間、掛けさせたな。ありがとう」




 迷宮の出口に辿り着いたかのようだった。

 和輝が礼を言うと、二人が揃って目を丸めた。


 葵は紙幣を確認し終え、封筒をポケットへ押し込んだ。そして、銀色に光る小さな鍵をテーブルに置いた。




「お前の部屋の鍵だ。一本は玄関の鍵だから、失くすなよ」

「うん。改めて、これから、宜しく」




 掌に鍵を転がし、和輝は微笑んだ。


 その時、密閉凝縮されたようなオーケストラの演奏が鳴り響いた。くるみ割り人形。葵が呟く。


 和輝は慌ててポケットから携帯電話を取り出した。得体の知れない人型のストラップが揺れる。通話に応じて耳へ当てると、懐かしい親友の声がする。


 その声を聞いていると、胸の中に積み重なった淀が溶けて行くような不思議な感覚がした。お節介で優しい親友だった。和輝は携帯電話を持ち直し、霖雨と葵を見遣った。




「友達が、出来たんだよ」




 二人は何とも言えない顔をしていたが、和輝は気付かなかったふりをして、早々に通話を切った。詮索されるのも、追及させるのも億劫だった。


 和輝は携帯電話をポケットへ戻し、送り付けられた段ボールと布団を両腕で抱えて行った。


 割り当てられた部屋は凡そ五畳半。物置にするつもりだったのかエアコン設備は無いが、立派なシーリングファンが天井に据え付けられている。コンクリート打ちっぱなしの壁と白いフローリング。今日から此処が自分の部屋だ。


 バックパックの中からノートパソコンを取り出し、段ボールの上に置く。新居を親友に見せてやろうと思ったのだ。古い型を安く入手した為、起動に時間が掛かる。


 和輝は冷たい床に布団を敷き、その上に胡座を掻いた。ディスプレイが映るまで、鞄から読み掛けの本を取り出して開く。医学に関する専門書で、主に救命法について記されている。緊急時の措置は殆ど万国共通だが、法律が違えば搬送先も異なる。


 宗教や人種が複雑に入り混じったこの国では、手当たり次第に病院へ搬送することは出来ない。また、母国と異なり医療制度は貧富の差が顕著に現れ、貧民層の病院は不衛生で二次感染のリスクも高い所がある。だからといって、大金を詰んだ先がヤブ医者では困るだろう。


 専門用語だらけの洋書を理解出来るまで繰り返し、繰り返し読み込む。辞書を引く時もある。数行読み込むだけで随分と時間が掛かる。訳の解らない謎の洋書を速読する葵とは、恐らく脳の構造が違うのだろうと思う。


 読書に没頭していて、パソコンの起動に気付かなかった。本を一先ず置いて、キーボードへ手を載せる。同時に、ノックの音が転がった。


 和輝が返事をするより早く、扉が開け放たれた。




「お前、夕飯は?」




 問い掛けられ、和輝は反射的に腹を押さえた。喉元過ぎれば何とやら、空腹も忘れられるらしい。


 せっかく起動したパソコンをスリープ状態にし、和輝は立ち上がった。風呂に入っていないので、洗濯機を回せていないことを思い出した。


 パソコンの側に置かれた医学書を見遣り、葵が問い掛けた。




「お前、医師免許取らないの?」

「うーん。大学出て無いから、難しいかも」

「でも、お前、スポーツドクター目指してんだろ。現場でも頼りにされているみたいだけど、医師免許が無ければ医療行為は出来ないだろう。金は掛かるが、進学が一番の近道じゃないか?」




 和輝は曖昧に笑った。


 境界線――。どんなに祈っても願っても、その線を越えることは出来ない。今の和輝に出来るのは現状維持と状態回復で、治療することは出来ない。先程、搬送された男は無事だろうか。ポケットに入れたロケットの存在をそっと確かめた。




「お前、なんで留学したの。良いもの持っているのに、このままじゃ便利なお手伝いくんとして、権力争いに忙しない頭でっかちの医者達に、顎で使われておしまいだぞ」




 口は悪いが、葵が心配してくれていると解る。和輝は苦笑した。




「俺、馬鹿なんだよ」

「はあ?」

「実は、あんまり英語読めないんだ。知識あってこその技術なんだから、今の俺は顎で使われて当然なんだよ」

「お前、悔しくないの?」

「顎で使われることに関して? それとも、免許習得出来ない馬鹿さ加減に対して?」




 質問を質問で返したせいか、葵が不機嫌そうに眉を寄せる。和輝は答えた。




「解んね。悔しくて、遣る瀬無くて、不甲斐ないと思うけど。……本当は、逃げているだけなのかも知れない」

「何から」

「命と向き合うことから」




 葵は一瞬、黙った。

 和輝が苦く笑うと、葵が不機嫌そうに言った。




「お前が目指しているのはスポーツドクターで、今はただの現場研修だろ。良いように顎で使われて、体の良い救急隊員みたいだけど、其処で満足していないんだろ」




 言い返しそうになるのを、和輝は寸前で堪えた――そんなこと、自分が一番解っている。


 俺は、何になりたいんだろう。

 何になろうとしているんだろう。目指したものは変わっていない筈なのに、歩いている間に足元が傾いて行くような気がする。


 俺は昔、ヒーローになりたかった。

 ヒーローは弱きを助け、悪を挫く。けれど、被害者の治療やPTSDには関与しない。自分がいるのは、その闇の部分だ。


 何でもパンチ一発で解決出来る訳じゃない。

 自分の選んだ道が間違っている訳じゃない。


 和輝が緘黙すると、葵が盛大に溜息を吐いた。




「お勉強が解らないなら、俺が教えてやる」




 その代わり、食後のデザートでも作ってくれ。

 そう言って葵は背中を向けた。

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