⑷正義の味方
寄せては返す波の音が、耳障りだ。
葵に連れられて到着した港の片隅に、崩れ落ちる寸前のような、忘れ去られたような倉庫の群れがある。廃退的な空気を纏う群れは、神判の時を待つ憐れな仔羊のようだ。仔羊が息絶え死肉へ変わる瞬間を虎視眈々と狙う小蝿のように、屈強な男達がぽつぽつと取り囲んでいる。
組織の根城の一つだと、葵は言った。男達の目を盗んで倉庫の側にぴたりと寄り添い、霖雨は息を殺した。
「FBIに通報したのか?」
「いいや。通報したって、無駄だ」
言葉の意味が解らず、霖雨は眉を寄せた。
葵は監視する男達を観察しながら、答えた。
「証拠が無いから、踏み込めないんだよ」
「じゃあ、和輝が此処にいる証拠も無いじゃないか」
「証拠は無い。でも、確信はある」
「どういうことだ」
「説明は後だ。今は俺を信じろ。それじゃ、駄目か?」
霖雨は首を振った。
彼がそれだけ言うのなら、信頼出来る。怪しいと解っていて薬を呑んだ和輝を思い返し、霖雨は言った。
「信じるよ。だから、何をすればいい」
告げると、今度は葵が不思議そうに目を丸めた。
「お前も、変わった奴だな」
可笑しそうに、葵が言った。
2.Play the hero.
⑷正義の味方
重低音が鳴り響いている。耳障りだと腹を立てる前に、それが只の耳鳴りだと気付いて和輝は息を吐き出した。八つ当たりをする相手すら見当たらない。それが余計に腹立たしかった。
書店で昏倒して、気が付けば古びた建物の中にいた。天井が高く、だだっ広く埃っぽい。殴られた後頭部が鈍く痛み、出血しているのか首筋が冷たかった。
安っぽく座り心地の悪い椅子に、縄で幾重にも巻き付けられていた。背中で手首は拘束され、何を警戒しているのか、両足も固定されている。
下腹部がぐるぐると唸る。込み上げて来る嘔吐感を、奥歯を噛み締めて遣り過ごす。あれからどのくらいの時間が経ったのか解らない。根比べもそろそろ限界だ。足元に置かれた洗面器を恨めしく思った。嘔吐するなら洗面器に、排便はその場でしろ。自分よりも30cm以上大きな男が、口角を釣り上げて言った。
ふざけんな。胸の内に吐き捨て、睨むのが精一杯だった。喉の奥に熱い何かが込み上げる。
胃腸薬じゃなかったのかよ。効かない訳だ。じゃあ、何の薬だったんだよ。
麻薬の類なら、既に消化吸収されている筈だ。ならば、自分の腹の中にあるのは一体何なのだろう。自分は何を呑んだのだろう。
腹が痛い。目眩がする。吐き出せば多少はすっきりするだろうが、それであのカプセルが出て来れば自分はもう用無しだ。こんなところで死ねない。
疲労感に俯き、狭まった視界に、美しく磨かれた革靴が映った。ゆるゆると顔を上げれば、スーツを来た男が此方を見て笑っていた。
男が何かを言った。取り囲んでいる男達が、木々がさざめくように笑ったのが解った。きっと、馬鹿にされたのだろうと思うが、聞き取れなかった。
お前、胃腸炎がどれだけ苦しいか知っているのか。高熱が出て、水分を取らないと死ぬこともあるんだぞ。ウイルスの感染がどれだけ怖いか知っているか。
こいつ等にも伝染れば良い。胸の内で罵倒するだけで限界だ。口を開けば食道を逆流して吐瀉物が出て来そうだ。
「君は有名人みたいだね。巷じゃ、ヒーローだなんて呼ばれているそうじゃないか」
知るか。
和輝は悪態吐いた。
返答しない和輝に、気を悪くしたように男が詰め寄る。前髪を引っ掴んで面を上げさせ、何かを叫ぶ。頭蓋骨に響く怒声に目眩がした。
「いい気になっているから、こういう目に遭うんだ」
「は、」
息を吐き出すように、和輝の口からは笑いが漏れた。嘔吐感を飲み込めば、ぐらりと地表が揺れるように目眩がした。
嘔吐物ではなく、笑いが込み上げた。
馬鹿馬鹿しい。何を言っているんだ。
「はははははっ!」
冷や汗が、頬を伝って顎より落下する。
訝しげに眉を寄せた男が、噛み付くように凄んだ。
「何、笑ってやがる。ヒーロー気取りの馬鹿が」
「ははは」
前髪を掴まれたまま、和輝が笑った。状況も忘れたような不敵な笑みだ。
ランナーズハイなのかも知れない。助けの望めない絶望的な状況で、神経が狂っているのだろう。
「ヒーローなら、尚更、悪には屈せないね」
「――この、クソガキ!」
振り上げられた男の拳が、和輝の頬を打ち付けた。肉を打つ乾いた音が脳内に響く。口の端が切れ、血が一筋零れ落ちた。けれど、痛みは感じなかった。ドーパミンが過剰消費されているのかも知れない。そんなことを、興奮した脳の隅で思う。
口の中も切れたらしく、口内に溜まった血反吐を吐き捨てた。
「俺は昔、正義の味方になりたかったんだ」
母国の言葉で、和輝は言った。理解出来なかったらしい男達が一様に眉を寄せる。
絵に描いたような三下共だ。人質の言語も理解出来ないで、情報を喋ったらどうするつもりだったんだ。こいつ等は組織の末端。失うものが無いから、無謀なことをする。何をするか解らない。だから、簡単に人を殺す。
目の前で射殺された二人の人間。どうしようも無いクズだったかも知れない。極普通の善人だったかも知れない。もう知ることも出来ない。
「じゃあ、今は?」
懐かしい母国の言葉が、何処かから聞こえた。幻聴かも知れない。
じゃあ、今は?
俺は今、何になりたいんだろう。
銃口が眉間を捉えている。
高校を卒業して、家族も仲間も置き去りにして、生き急ぐように海を渡って、追い込むように働いて、――俺は何になりたいんだろう。
涙を堪えて送り出してくれた友人が脳裏を過ぎった。
いってらっしゃい。
ああ、俺はまだ、ただいまを言っていないな。こんな俺でも、帰る場所があるのかな。身を粉にして働いているのは、夢の為なのかな。認めて欲しいだけなのかな。自己満足なのかな。解らないや。
でも、目指したものはあの頃と変わっていない。
「将来の夢? ヒーローかな」
告げた瞬間、ぶつりと視界が闇に染まった。
死んだのかと思った。けれど、暗闇の中で男達の動揺が聞こえる。罵声、怒声、混乱に満ちた暗闇の中で呻き声が漏れる。何かを打ち付ける鈍い音だ。誰かが、戦っている?
電気を点けろ。怒鳴り付ける声がする。
悲鳴が。怒号が。
「和輝」
誰かが、耳元で呼んだ。判別出来ないけれど、それは故郷で帰りを待つ人の声に重なって聞こえた。
視界は明転した。霞む視界に映ったのは、地に伏す男達の姿だった。
何が起こったのだろう。理解が追い付かない。状況が読めない。屍累々といった物々しい世界で、物差しのようにひょろりと青年が立っていた。
「男前になったねえ」
此方を見て微笑む青年が誰なのか、和輝には一瞬、解らなかった。
「葵?」
「うん。助けに来たよ」
葵が微笑む。和輝の後ろでは、霖雨が拘束する縄を解いている。
「なんで?」
心底理解出来ないように目を丸める和輝に、葵と霖雨が苦く笑った。
「ヒーローには、仲間が必要だろ?」
霖雨が言った。訳が解らないといった調子の和輝が、数瞬遅れて笑った。
漸く拘束が解かれ、ほっと息を吐く間も無く嘔吐感が込み上げる。蹲った和輝に、慌てたように霖雨が跪く。――その時だった。
「Fuck!!」
昏倒していた筈の男が起き上がり、銃口を向けた。咄嗟に地面を蹴った葵が到達するより早く、男の指先は引き金に掛けられていた。
間に合わない――。銃弾が放たれる刹那、男の顎に向かって足を振り上げていた。稲妻のような強烈なハイキックだった。人体の急所を確実に捉えた一撃に、男の意識が弾け跳んだ。
振り上げた足をそのままに、和輝は男が倒れる様を見ていた。
男が起き上がらないことを確認し、和輝は漸く足を下ろした。同時に視界がぐらりと歪み、よろける和輝を霖雨が慌てて支えた。
「びっくりした」
そりゃそうだろう。
霖雨が言う。最早苦笑すら漏らせない。
倉庫の表からサイレンが聞こえた。今頃になって警察のお出ましらしい。葵が面倒そうに目を細めたので、和輝が言った。
「事情聴取なら俺が受けるから、先に帰っていても大丈夫だよ」
額に滲む冷や汗を拭い、和輝は言った。
葵がじっと見詰め、鼻を鳴らした。
「置いて帰ったら、意味無いんだよ」
そう言って、葵が背中を向けてしゃがみ込む。
「帰るぞ、クソガキ」
雪崩込んで来るFBI捜査官、NY市警を背景に葵が言った。和輝は目を伏せ、その背中に身体を預けた。
背中で吐くなよ。
和輝を背負って、葵が立ち上がる。
猫背で姿勢が悪いと口煩く注意して来たが、認識を改める必要があるようだ。奇襲とは言え、たった一人であの男達を倒したところを見るに、筋力が不足しているとも思えない。
自分もまだまだだな。
和輝は息を漏らすように笑った。
「寝るなよ。まだ家に着いてないんだから」
「もういいじゃん」
「駄目だ。おい、和輝、起きていろよ。――俺達は、お前におかえりって言う為に来たんだぞ」
おい、聞いているか。
腹立たしげに言う葵も、無理に起こそうとはしない。口も態度も悪いが、悪人ではないのだろう。不器用だが、優しい人間なのかも知れない。そんなことを思った。
「ただいま」
不思議と気分が良かった。和輝が夢現に呟けば、葵と霖雨は揃って足を止めた。意識は微睡み、既に白い靄の中にあった。葵の背中越しに聞こえる心音が何処か懐かしかった。
「寝言かなあ。でも、確かに聞こえたよね」
霖雨の声がする。
心地良い揺れの中で、霖雨と葵の声がした。
「おかえり」
自然と口元は綻んでいた。温い泥に沈むように、意識が消えて行く。和輝は夢を見た気がした。それはきっと、心安らぐような優しい夢だった。
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