⑶トラブルメーカー
息苦しい程の閉塞感の中で、霖雨は茫然自失のままだった。
通報を受けたNY市警のパトカーがサイレンを鳴り響かせて書店前に滑り込む様を、霖雨は他人事のように見ていた。保護という名目で連れて来られたニューヨーク
目の前に座る頑固そうな壮年の男はFBIだと名乗った。何故、NY市警ではないのか疑問ではあったが如何でも良かった。
自分を庇って連れ去られた和輝の姿が、網膜に焼き付いている。
悪態吐いてデスクを叩く。捜査官が訝しげに眉を寄せた。
「連れ去られた君の友達は、蜂谷和輝というんだね?」
「そうです」
いいから、早くあいつを助けてくれ!
叫び出したい衝動を呑み込んで、霖雨は頷く。
全ての発端は、金髪の男が訳の解らない薬を渡したからだ。否、あんなものを貰わなければ、今頃和輝は――。
「和輝……!」
絞り出すように、霖雨はその名を呼んだ。返事は当然無い。
何故、こんな訳の解らない事態に巻き込まれているのだろう。自分達は極普通の善良な一般市民だ。どうして――。
「……あの薬は、一体何だったのですか」
「君には関係の無いことだ」
問い掛ければ、一蹴される。取り付く島も無い。
乾いたノックの音が転がった。捜査官が返事をするより早く、扉が静かに開いた。其処には誰もいない。ふわりと、春の風が吹き抜けたような気がした。
無人の筈だった扉の向こうに、一人の青年が立っている。自分の視覚すら疑わしくなる希薄な存在感の男を、霖雨は知っている。
「誰だ、君は」
「葵!」
捜査官の問い掛けに、意図せず霖雨は答えを提示した。尤も、彼等の求める答えではないだろうが。
葵は不機嫌そうな仏頂面で、別の女性捜査官に付き添われ立っている。室内をぐるりと一瞥し、葵はいっそ嫌味な程丁寧に頭を垂れた。
「初めまして、神木葵と申します」
「神木葵?」
捜査官がぴくりと反応するが、葵は気にする素振りも無い。
連れ立った女性捜査官が紹介する。
「蜂谷和輝の雇用主で、同居人です。薬の入手経路に関係しています」
「そうか……」
不審そうに見遣る捜査官を、葵が冷たく睨み返し、霖雨を見た。
「状況は聞いたよ。あの馬鹿、誘拐されたって」
「そうだ。俺の、せいで」
「どうせ、庇ったんだろう。胃腸炎で呻いていた癖に、馬鹿だな」
腹立たしげに吐き捨て、葵は捜査官へ目を向けた。
「あの薬は、彼が職場の変態に渡されたものです。それを俺が、胃腸薬と間違って蜂谷和輝に呑ませました」
「呑ませたって……!」
「見た目はカプセル型の錠剤で、素人には見分けが付きません。俺だってまさか、家の中にあんなものがあるなんて思いませんでした」
「まるで、あれが何か知っているような口振りじゃないか」
嫌味っぽく、捜査官が言った。葵は微笑んだ。
「この界隈のアンダーグラウンドでは、或る組織の機密情報が盗まれたと噂になっています。敵対組織との勢力争いの一端だと言われていますが、そんな根拠の無い話は不要ですね。盗まれたのは偽造通貨に関する機密情報だ。NY市警が先に到着しているのに、FBIがこうして出張る理由は他に見当たりません」
淀み無く告げた葵は微笑んでいるのに、ぞっとするような怒気が滲んでいる。屈強な捜査官が怖気付くとも思えないが、只者ではないと悟ったようだった。
「何者だ?」
「一介の大学生です」
とてもそうは思えない。霖雨は唖然とした。
「彼は連れて帰らせて貰います。どうせ、これ以上の情報は出て来ませんよ。彼は職場の変質者に薬を渡されただけです。その変質者が犯罪組織の下っ端で、端金に釣られて組織を裏切り、処分されただけです。真っ当な被害者だ」
両手を広げ、政治家が演説でもするように高らかと葵が言った。
知らぬ間に、とんでもない事件に巻き込まれていたらしい。瞠目するしか無かった。
葵は幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
「いいですか、一刻も早く蜂谷和輝を救出して下さい。あいつを誘拐したのは敵対組織の方だ。機密情報を巡って抗争が起きます。大勢の民間人が巻き込まれ、アメリカ貨幣が危機に晒されますよ」
「……そんなことは、解っている」
「幸か不幸か、あいつは今胃腸炎に罹っている。呑み込んだ機密情報が上から出るか下から出るか、今頃誘拐した奴等は大慌てだ。だが、時間が掛かれば腹を掻っ捌いてでも探すでしょう。機密情報が体内に無ければ、生かしておく意味も無い」
夜の色をした葵の瞳が、鋭利な光を宿している。人を一人くらい殺していそうな物騒な光だった。
葵は再度、頭を垂れた。
「それでは、俺達は失礼します。必要ならばいつでも証言をします。俺達は逃げも隠れもしないので、一刻も早く、あいつを救出して下さい」
お願いします。
神への祈りにも似た響きに、捜査官は頷くしかなかった。
2.Play the hero.
⑶トラブルメーカー
「何なんだ、あいつは!」
先程までの慇懃無礼な態度は演技だったと全身で訴えるように、葵が叫ぶ。返す言葉も無いと、霖雨は口を結んだ。顔を洗ったというのに、頬にはまだ返り血が着いているような気がした。
強面の刑事犇めく喫煙所で、葵は苛々したように煙草に火を点けた。大きく吸い込んだ煙を吐き出し、葵はその場に座り込む。立ち昇る煙よりも存在感の無い葵は、心底疲れたように顔を上げた。
「お前も相当なトラブルメーカーだな」
霖雨は俯いた。葵の言う通りだ。自分が、無関係の和輝を巻き込んで危険に晒した。
黙った霖雨を見遣り、葵は言った。
「あの場所にいたのがお前じゃなくても、あいつは同じことをしただろうさ」
紫煙を燻らせ、霖雨は言った。
「蜂谷和輝。日本じゃ、結構な有名人だったみたいだな」
「どういうことだ」
「高校時代、野球部に在籍していた。一年の頃に傷害事件に巻き込まれて再起不能の重傷を負った。関係者の先輩は昏睡状態で、加害者の先輩は少年院送り。同時期に自殺したマネージャーを追い込んだのがあいつじゃないかって、相当マスコミに叩かれたみたいだ」
霖雨の知らない情報だった。その頃、霖雨も葵も日本にはいなかった。
「結局、マネージャーの件は全くの濡れ衣だったみたいだ。父親からの性的虐待を受けて自殺したらしい。そのマネージャーの名誉を守る為に、二年間、痛烈なバッシングを独りで堪えたんだ」
一介の高校生ができることじゃない。葵が言う。
「再起不能の怪我をリハビリで克服して、右腕から左腕に転向して、甲子園優勝までチームを導いた」
「すごい」
有り触れた言葉だが、それしか言えなかった。
「それから、卒業式を待たず単身留学だ。いきなり現場に放り込まれて、体で技術を覚えて、今じゃ高学歴のお医者様より頼りにされる存在だ。こっち来てからも中々派手に遣ってるみたいだな。誠実で、献身的で、情熱を秘めている。現場じゃ、救世主、ヒーローだなんて呼ばれてる」
ヒーロー。その言葉を口の中で噛み締める。
その通りだ。彼はヒーローだった。弱きを助け、悪を挫く。――けれど、そんな人間が本当にいるのだろうか。霖雨は疑問に思う。
「今朝、和輝が言っていたことの意味が解った。人は認められなければ、生きていけない」
認められたかったのかな。極端に自己評価が低く、自己肯定感が希薄。あのヒーローのような振る舞いは、自己犠牲だったのだろうか。霖雨には解らない。
葵は言った。
「そんなタマじゃないだろ」
口調こそ強いが、何か思うところがあるらしく葵は目を細めた。
霖雨は喫煙所を出て行く葵の後を追う。滞在した時間は僅かなのに、衣服にはべったりと煙草の臭いが染み付いている。NYPDを出た葵は振り返りもせず、淀みない足取りで進む。霖雨はその腕を掴んだ。
驚いたように葵が振り返る。その口が何か文句を言うよりも早く、霖雨は叫んだ。
「和輝を助けたい!」
怪訝に葵が眉を寄せる。
「それは、警察の仕事だ。殺されるぞ」
「でも、放って置けない。俺が、無関係のあいつを巻き込んだ……」
「お前が責任を感じる必要は無い。あいつもそんなつもりで庇ったんじゃないだろう」
「それでも!」
これまで、幾つもの言葉を呑み込んで来た。幾つもの状況を諦めて来た。逃げて来た。
けれど、それではいけない時が必ずある。
「あいつ、行くところが無いって言っていた。今の和輝にとって、あの家はホームじゃないんだ。だから、行ってきますなんて言わないし、おかえりも求めない。俺は、そんなの嫌だ。俺はあいつに、お帰りって言ってやりたい……!」
「自己満足だな」
「そうだ。マイノリティーは生き難い。必要悪だ。和輝はそう言ってた。でも、そういう人間に救われる人は必ずいるんだ」
「まあ、生き難いだろうな」
至極当然のように言って、葵は逡巡するように腕を組んだ。
「あいつ、怪しい薬だって言いながら、俺が渡したから薬呑んだんだよな」
「うん」
馬鹿だなあ。葵が、笑った。虚勢や意地、全てを取り払った無邪気な笑顔だった。
こんな風に笑うんだな。笑えるんだな。霖雨は密かに驚く。
葵は大きく背伸びをした。
「仕方無いな。家賃未納だしな」
「葵……」
「それに」
葵が、白い歯を見せ子供っぽく笑った。
「俺も、和輝みたいな馬鹿な人間、嫌いじゃないんだ」
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