⑵混乱

「義務を果たさず、権利ばかり主張する馬鹿を、給料泥棒って言うんだぜ」




 吐き捨てるように葵が言った。相手を侮蔑する辛辣な言葉は、致死量の毒を含んで散乱した。


 三人で食卓を囲んでいる。洒落たテーブルには、和輝が腕を振るった見事な和食が並んでいる。一汁三菜の手本のような朝食は、ちょっと其処らじゃ御目に掛かれない出来栄えだ。


 葵は感想の一つも口にせず、本気で和輝を使用人だと知らしめるように、横柄に振舞っている。居候として肩身の狭いらしい和輝は文句も言わず、大和撫子の如く静静と従っている。昨夜の遣り取りを思い出し、霖雨は葵の態度が許せなかった。――本来、大人しい性格ではないだろう和輝が、如何にして掌を返すのか、その日が待ち遠しい。


 和輝は湯気の立ち昇る豚汁を頬張り、ゆっくりと咀嚼して言った




「日本は貞淑謙虚が美徳だからな。それもアウェーで、声を大にして発言するのは難しいだろうさ」

「だから、海外で嘗められるんだ。サービス残業有給未消化が当たり前なんてマゾヒストは、世界じゃ少数派だ」

「マイノリティーは生き難い。だが、必要悪だ」




 葵が、やれやれと言わんばかりに肩を竦め、焼き鮭を啄いた。


 行儀が悪いぞ、なんて霖雨が声を掛けても柳に風だ。そもそも、葵は猫背で姿勢が悪い。椅子の上に膝を立て、その度に口煩く注意している。




「大義の為に犠牲となるか。お前の思考は時代遅れだね」

「価値観の相違だよ。人間は誰かに認められなければ、生きていけない」

「――価値観!」




 葵が吹き出して笑うが、和輝は眉を寄せただけだった。

 テーブルに肘を突き、笑いを噛み殺しながら、葵が言う。




「You are such a sissy!」




 懐かしい母国語の会話に、突如イレギュラーのように英語が刺さる。


 だが、葵の嘲笑も、和輝は冷ややかに見遣るだけで言い返さない。仙人のように凛然としている様は、何処か現実離れしている。葵は追撃の手を緩めない。




「乱暴な物言いだねえ。何を意地になっているんだよ」

「そうかな」

「そうさ!」




 Dickhead!

 葵が嗤う。こんな狂人染みた男だっただろうかと、苛立つ間も無く霖雨は首を傾げるばかりだ。




「まるで、自分が認められないことを嘆いているみたいだ。中学生のガキみたいだね。モラトリアムはとっくに終わっただろう。幾つになったんだい」

「今年で21だ」




 其処で漸く、葵が黙った。


 和輝は仙人のように落ち着いた物腰をしているけれど、相反して外見が若い。成人して間も無い和輝ならば、例え青二才と蔑まれても仕方ないだろう。しかも、彼は年齢以上に成熟しているように感じられた。


 葵の沈黙をこれ以上ない程に好意的に受け止めたらしい和輝は、弁解するように続けた。




「18で渡米して、現場で研修して、未だ見習いの域を出ないけど、社会人としては三年目だよ」




 経済的にも自立している彼は、一人の立派な社会人だ。医療に従事し、人の命を救っている。


 正直、葵より余程立派な大人だ。


 言い返す言葉を失った葵に、胸が抄くような心地だ。霖雨は笑った。


 そもそも、話題の初めは霖雨だった。昨日のアルバイト先での一件を何となく口にしたら、葵の猛烈な罵倒が始まったのだ。訳が解らない。今では霖雨は蚊帳の外で、葵は不機嫌の八つ当たりをするように和輝を罵倒している。


 葵が口を噤むと、タイミングを見計らったかのように洗濯機が鳴った。和輝は残った白米を掻き込むと、手を合わせて挨拶をして、洗濯機の元へ向かった。


 霖雨は胡瓜の塩揉みへ手を伸ばす。葵が言った。




「やっぱり、あいつ顔色悪くないか」

「そうか?」




 残された食器を見遣り、霖雨は眉を寄せる。白米を大盛り一杯半食べている。洗濯物を干す為にバルコニーへ向かう和輝の足取りは軽い。ぽつりと葵が言う。




「何時もは大盛り三杯食ってるぞ」




 葵の目敏さよりも、小さな体躯の何処に吸収されているのか、驚異的な食事量に驚く。

 確かに運動量は違うだろうが、食べ過ぎじゃないか?


 今の和輝の食費は、必要経費として葵が賄っている。少食の葵に比べて二倍以上食べているのだから、雇用主として多少横柄に振舞うくらい許されるかと霖雨は思った。


 バルコニーへ消えた和輝を見遣り、霖雨は言った。




「腹の調子でも悪いんじゃないか? そういう日もあるだろうさ」




 ふうん、と興味無さそうに相槌を打って、葵は手を合わせた。


 洗濯物を干し終えたらしい和輝が、鼻歌交じりの上機嫌で戻って来た。良く晴れた晴天に浮かれているらしい。


 食器をシンクへ運んだ葵もキッチンから戻った。その手にはピンクのピルケースが握られていた。




「これでも呑んどけ」

「はあ?」




 ピルケースを受け取った和輝が首を傾げる。庇護欲を掻き立てられる可愛らしい動作だが、わざとらしくないところが憎い。彼は性別を間違ったのではないかと、霖雨は溜息を吐きたくなる。


 葵は気にもせず言った。




「胃腸薬だよ。――お前が胃腸炎で、感染源になられたら俺が困る」

「これ胃腸薬だったのか。怪しい薬だと思ってたんだよ」




 葵はすぼらに見えて几帳面なところがある。キッチンの一角にある薬品棚は種類別に色分けされたピルケースで徹底管理されているらしい。初めて薬品棚を見た時は、霖雨も危ない薬ではないかと思った。


 和輝の言葉に、葵が少し笑った。




「雇用主の厚意は、受け取るもんだろ」

「うん。――ありがとう」




 和輝は、花が綻ぶように笑った。驚いたように目を丸めた葵の横を摺り抜けて、和輝はキッチンへ向かった。




「あいつ、性別詐称してるんじゃないか?」




 俺もそう思う。霖雨は、笑った。











 2.Play the hero.

 ⑵混乱











 あの金髪がいない。安堵すると同時に、疑問に思った。


 書店へ出勤すると、平日だというのに書店員は何処か忙しなく驚かされた。客足が増えた訳では無い。夕暮れは閑古鳥が鳴くことも珍しくないというのに、如何したことだろう。


 霖雨が首を傾げていると、同僚の少女が耳打ちした。どうやら、あの金髪の正社員が無断欠勤したらしい。本社の斡旋である正社員の欠勤に、店長は朝から所在確認に忙しくしているらしい。結果として人手が足りず、店内は客足も疎らなのに何となく忙しないのだ。


 迷惑な話だと、霖雨は腹立たしく思った。けれど、今朝の葵の言葉が脳裏を掠めた。義務を果たさず、権利ばかりを主張する馬鹿――。俺のことか?


 給料泥棒にはなるまいと、自分の義務を果たすべく霖雨は事務作業に戻った。


 ちりりん。出入り口に下げられたベルが、涼やかに鳴った。ふっと顔を上げ、霖雨は息を呑んだ。


 真っ青な顔をした和輝が、僅かに傾きながら立っている。




「和輝!」




 慌てて駆け寄ると、和輝は口元を押さえて呻いた。


 強烈な引力のような存在感を持つ和輝に、導かれるように周囲の視線が集まる。そして、青白いが美しく整った面に見惚れる。――明らかに体調の悪い状態で、衆目を集めたくも無いだろう。霖雨は庇うように和輝の身体を支えた。


 顔は真っ青なのに、身体は燃えるように熱い。珠のような汗の浮かぶ額に手を当てれば、常温とは明らかに異なり熱を持っていた。




「出勤したんだけど、吐き気が酷くて、早退させて貰ったんだ。俺の担当の子どもが、ウイルス性胃腸炎で入院しているから、貰ったかも知れない」




 二次感染させる訳には行かないからな、と和輝が力無く笑った。


 自分が苦しい癖に他人を気遣えるところも、常に誠実であろうとする姿勢も、成人したばかりの身で医療に従事する精神も、霖雨にはいじらしく思えた。同時に、今朝、薬を渡していた葵が腹立たしかった。偉そうなこと言って、全然効いてないじゃないか。




「俺の家、燃えちゃっただろ。今、居候だから鍵持ってなくて、あの家に入れないんだ。……葵には怒られるかも知れないけど、他に行くところも無いし……」




 伝染ったらごめん、なんて和輝が潤んだ目で言う。


 葵に文句なんて言わせるもんか。心の中で強く思う。霖雨は熱い和輝の手を握った。




「いいよ。帰ろう」




 霖雨の言葉に、一瞬、和輝が妙な顔をした。まるで、母親と逸れた迷子のような顔だった。


 荷物を取って来る、と告げれば和輝は首を振った。




「一人で行けるよ。お前、仕事中だろ」

「和輝を放って置けないだろ!」




 弾かれるように霖雨は言い返した。その背中に、店長の声が突き刺さる。




「困るよ! 今日は人手が足りなくて困っているんだ!」




 ぐ、と霖雨は奥歯を噛み締めた。


 優先順位ってものがあるだろ。こんな状態の人を放って置けるかよ。そう言いたいのをどうにか押し留める。上手い言い訳を思い付く間も無く、和輝が言った。




「勤務中だろ。給料貰ってるんだから、義務を果たせよ」




 それどころじゃないだろう、と霖雨は苛立つ。

 和輝の言葉は正論だ。そんなことは言われなくても解っている。




「鍵だけ、貸してくれ」




 本当に自力で帰るつもりか。今にも倒れそうな和輝が笑う。




「……此処で待ってろ。葵を、迎えに来させる」

「来ないだろ。出不精なんだから」

「いいから、待ってろ」




 和輝に肩を貸し、霖雨は引き摺るようにしてバックヤードへ向かう。


 小さい。薄い。軽い。――けれど、この細い腕は確かに人を救っている。


 目の前で困っている人がいれば、当たり前のように救いの手を差し伸べられる人間だ。それならば、彼にだって救いの手は差し伸べられるべきだ。


 再度、ベルが鳴った。扉の前に立っていたのは、この喧騒の主犯、金髪のあの正社員だった。


 気付いた店長が遽しく駆け寄った。




「お前、今まで何をしていたんだ!」




 その瞬間だった。


 耳を劈く破裂音が響いた。鼻を突く火薬の臭いと、視界を染める鮮血。同僚の少女が悲鳴を上げる。霖雨は立ち竦んだ。


 崩れ落ちる店長の背中が赤く染まる。金髪の男の手には、現実感を帯びない黒い鉄の塊が握られていた。




「霖雨くん」




 馴れ馴れしく呼び掛け、男がうっとりと微笑む。背筋に冷たいものが走った。

 手にした銃は下げないまま、男は店長等いなかったように霖雨を見ている。




「あの薬、どうした?」




 男が、躙り寄る。身動きの出来ない霖雨の前に、庇うように和輝が立ち塞がる。




「何なんだ、お前」




 冷や汗を滲ませながら、和輝が勇敢に立ち向かう。けれど、男には和輝が見えないらしい。――否、その濁った双眸は霖雨しか捉えていない。


 薬って、何だ。霖雨は男の言葉を反芻し、思い至る。あの、怪しげなピンクのピルケースか。


 咄嗟にエプロンのポケットを探る。無い。




「持っていない」




 掠れるような声で、霖雨はやっとのことで言い返す。臨戦態勢の和輝の旋毛が揺れる。

 男が、縋るように詰め寄る。




「呑んだのかい? 君が?」

「呑んでない。失くした」

「そんな言い訳が通じるか!」




 和輝越しに、男が銃を突き付ける。自由の国と言われるこの地でも、流石に銃を突き付けられたことは無かった。




「無いんだ!」




 霖雨としては、そう訴えるしか無かった。事実、此処に無いのだ。


 昨日、確かにポケットへ入れた。何処へ行ったのだ。昨日は帰宅してすぐに――。


 洗濯機を回す和輝の背中が脳裏を掠め、霖雨は言葉を失った。エプロンは持ち帰って洗濯したのだ。ポケットに入っていたピルケースに気付いた和輝が取り出して、何かの薬だと思って薬品棚へ片付けた。それを今朝、葵が取り出した――。


 これ胃腸薬だったのか。怪しい薬だと思ってたんだよ。


 馬鹿野郎。怪しい薬をわざわざ薬品棚に戻すなよ!


 言葉を失った霖雨に、銃口が向けられる。答えようも無かった。その薬は、胃腸炎の和輝が呑んでしまいました。そんなこと、口が裂けても言える訳が無い。


 叩き付けられるようにベルが鳴り響き、壁に衝突して落下した。ベルの残骸を踏み付け、明らかに堅気ではないだろう屈強な男達が津波のように押し寄せる。




「薬は何処だ!」




 何を血眼になっているのか解らないが、只事じゃない。金髪の男は必死で弁明する。




「昨日、こいつに渡したんだ! 失くしたなんて言っているが、本当はあの薬の価値を知っていて――」




 訳の解らない弁明に霖雨は目眩がした。


 何が起こっているんだ。酷く混乱している。押し寄せた男達の鋭い視線が霖雨へ注がれる――刹那、和輝が言った。




「俺が呑んだ」




 酷く真剣な眼差しで、一言一句間違うことのないようにはっきりと告げられた言葉に、男達の目に違う色が映る。獲物を見つけた猛禽類に似た底冷えする光だ。


 発砲音が響いた。先頭に立っていた男が、金髪の男の後頭部を撃ち抜いたのだ。飛散する脳漿、血液。血腥い凄惨な状況に霖雨は尻餅を着いた。頬に血液が付着している。


 男は和輝を見下ろすように詰め寄った。一歩も引かない和輝は真っ直ぐに立っている。銃口が突き付けられても尚、怯えは無い。


 銃が振り上げられ、鉄槌の如く振り下ろされた。鈍い音がして、後頭部を打ち付けられた和輝が倒れ込む。




「和輝!」




 立ち上がれないまま、霖雨は手を伸ばす。だが、男は小さな身体を軽々と片手で担ぐと、素早く踵を返した。




「行くぞ!」




 潮が引くように男達が撤収する。血と硝煙の臭いに満ちた店内で、霖雨は立ち上がることもままならなかった。

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