2.Play the hero.

⑴不信感

 Fortune favors the brave.

(運命の女神は勇者に味方する)


 Publius Vergilius Maro







 人の数だけ生き方があると、先人は高らかに訴え掛ける。ベストセラーと呼ばれる心理学者の人生論も、今や田舎の書店で平積みにされている。


 幾ら脚光を浴びようと、最後は埃に塗れ埋もれて行くのだろう。自主性だの個性だの世間は狂ったように喚きたてるが、結局は先人の走った轍を追い掛けているに過ぎないのではないか。繰り返される歴史がそれを物語る。


 大衆受けする有り触れた恋愛小説に現を抜かす少女が、霖雨を見て頬を染めて微笑む。レジ台に差し出されたファッション誌を事務的に会計し、梱包する。霖雨は、退屈なルーティンワークに欠伸を噛み殺した。


 転居に伴い、今まで従事して来た飲食店を辞め、大学近くの商店街にある書店でアルバイトを始めた。初めこそ覚えることは多かったものの、一介のアルバイトに過ぎない霖雨に任される仕事は然程多くも無く、有り体に言えば楽な仕事だった。雑誌や新刊の発売日には店頭へ並べる力仕事が求められるものの、それさえ終われば穏やかだった。




「最近、引っ越して来たんだって?」




 金髪の青年が、隣で労わるように優しく言った。


 引越したてで右も左も解らぬ霖雨を、気に掛けているようだ。書店にて従事する正社員の青年は新卒採用らしく、フレッシュな笑顔の接客で好感が持てる。小難しい顔をしている店長に比べて遥かに親しみ易い。読書家を自称するだけあって知識も豊富で、アルバイト一同から最も頼りにされている青年だった。




「はい。まだ荷物は片付いていませんが、この近辺は静かで住み易そうな良い所ですね」

「片田舎だからね。困ったことがあったら、何でも言ってくれ」

「ありがとうございます」




 荷物の片付けを手伝おうかという申し出をやんわりと断り、霖雨は笑った。


 一人分の荷物もそう多い訳ではないし、他人をあの住居へ連れて行けば、葵にどんな嫌味を言われるか解らない。


 金髪の青年は、霖雨の断りに気を悪くした風も無く、穏やかに微笑んでいる。




「一人暮らしじゃあ、何かあった時に困るだろう」

「一人暮らしには慣れていますし、今はルームシェアをしているので同居人がいます」




 其処で青年が片眉を跳ねさせ、訝しげに見遣った。




「彼女?」

「いいえ。住居のオーナーで、同い年の男ですよ」

「じゃあ、彼氏?」

「はあ?」




 どういう質問だ。霖雨が理解出来ず声を上げれば、青年は何でもないと曖昧に笑った。


 何でもないようには、見えなかった。

 青年の双眸の奥に鋭く光る意図には見て見ぬ振りを決め、霖雨は事務作業に戻った。青年は隣を動かず、霖雨をじっと見詰めている。




「そうだ。良い物をあげるよ」




 青年は制服の青いエプロンのポケットを弄る。正直、相手をするのも面倒になって来た霖雨は笑顔を取り繕う余裕も無い。


 インクの染み付いた指先にあったのは、ピンク色のピルケースだった。見るからに怪しげなカプセル型の錠剤が一つ、入っている。




「大学の医学部に知り合いがいてね、効果抜群の風邪薬を調合して貰っているんだ。分けてあげるよ」

「はあ、どうもありがとうございます」




 ありがたいなんて欠片も思ってはいないが、これ以上の遣り取りも面倒になって霖雨はピルケースを受け取り、ポケットに捩じ込んだ。青年の厚意には悪いが、例え高熱に魘されても服用することは無いだろう。


 感謝の言葉に気を良くしたらしい青年が、満足げに笑って離れて行き、霖雨はほっと胸を撫で下ろした。










 2.Play the hero.

 ⑴不信感









 ひたひたひた。


 まるで母国の怪談めいた足音が、外灯の無い夜道を追い掛けて来る。


 帰路を辿る霖雨は携帯電話を取り出した。午後十時二十分。周囲に人の気配は無く、霖雨の歩調に合わせて聞こえる足音ばかりが耳に付き一層不気味だった。


 またか。今度は誰だ。

 霖雨は心底うんざりした。留学して以来、こうして夜道を付けられるのは、最早片手では収まらない。年頃の少女でも有るまいし、成人男性である霖雨が声を大にして助けを求める訳にも行かない。


 このまま帰宅して住所を特定されるよりも、何処かで時間を潰して根比べするべきだろう。生憎、周囲に丁度良い施設は見当たらない。


 追い掛ける足音が近付いて来る。霖雨は足を速めた。


 ストーカー殺人も昨今では珍しくない。物騒な世の中だ。霖雨は走り出した。


 住居を特定されても、このまま捕まるよりはマシだ。足音も走り出している。霖雨は疾走した。


 かつん、かつん、かつ、かつ、かっ、かっ。


 着実に距離を詰めている。正体不明の気配に霖雨は身震いする。背後に迫る足音は疑いようもなく霖雨を追い掛けている。緊張、恐怖で身体が強張り、足が縺れる。震える膝を叱咤して霖雨は走り続ける。


 建物の少ない田園風景を抜け、死んだように寝静まった住宅地を進む。振り返る余裕も無い。


 闇を刳り貫いたような悪意が、今にも霖雨を捕えようとしている。すぐ後ろまで迫った気配に、霖雨は必死に足を動かしながら奥歯を噛み締めた。もう、駄目だ――。




「霖雨?」




 夜道がぱっと明るくなったような気がした。


 導かれるように目を向けた先で、夏の日差しに似た強烈な存在感を放ち、とても成人男性とは思えない小柄な青年が立っている。




「か、和輝――」




 喘ぐように、縋るように霖雨はその名を呼んだ。


 和輝は、怪訝そうに目を細めたかと思うと、疾風のように霖雨の脇を走り抜けた。頬を撫でる疾風に霖雨は振り返る。コンクリートを蹴った和輝が宙に浮いている。


 捻られた上体。その右足は弾かれたように鋭く振り抜かれた。霖雨の背後の迫った悪意が、驚愕の声を上げる。


 くぐもった声が漏れた。呻き声だ。けれど、それ以上に耳を塞ぎたくなるような鈍い音が界隈に響いた。


 影が、スーパーボールみたいに弾け跳んだ。春先の冷たいコンクリートに叩き付けられ、骨を打つ嫌な音がした。和輝は軽やかに着地し、起き上がれない影に臨戦態勢を解かない。


 影――男が起き上がらないことを確認し、和輝はポケットから携帯電話を取り出した。通報しているらしい。


 電話は繋いだまま、和輝は横顔だけで振り返り、霖雨を見た。




「大丈夫?」




 蕩けるような微笑みと、純粋な母国語での労わりに、霖雨の体中から力が抜けた。がくりとその場に膝を着く霖雨に慌てて駆け寄った和輝の顔は幼く、自分よりも大きな男を一撃で倒したとは思えない。


 差し出された小さな掌を、霖雨は取った。




「ありがとう。助かったよ」




 間も無くしてサイレンが鳴り響き、パトカーが到着した。


 霖雨に代わって淀み無く状況説明を始めた和輝は、その外見からは想像もできない程に頼もしい。撃退された男は身動き一つせず地面に突っ伏している。気絶しているらしい。


 事情聴取を終えた和輝は、何事も無かったように霖雨の元へ戻った。




「さあ、帰ろうぜ」




 光の無い夜道から、日溜りの元へ誘うように和輝が微笑む。


 汚れ一つ無い純白のベールにも似た美しい少年――否、青年だ。悪意は微塵も無く、その身を曝け出すように誠実な人間だ。僅かな付き合いでも、それが解る。個性とは、上辺だけの差異ではなく、言葉や姿形で表現しなくとも、その人がその人であると知らしめる凛然とした特性だ。


 花の咲き乱れる野原を踊るような軽やかな足取りで、和輝が先へ進む。霖雨は従うように、後を追った。



 玄関を潜れば、例によって葵が仁王立ちしていた。不機嫌さを隠そうともせず、腕組みをして見下すように冷ややかな眼差しを向けている。




「遅い」




 夕食、終わっちまったぞ。大層ご立腹らしい葵の言葉に、和輝は靴を脱ぎながら苦笑している。


 スカイブルーのスニーカーをきちんと並べ、和輝は見上げる程に身長差のある葵に笑い掛ける。それに倣って霖雨も靴を並べた。体格に見合った靴の大きさが、何故だか可笑しかった。


 リュックサックを背負い直した和輝がリビングに進む。葵は不満をぶつけながら、帰宅した霖雨を見た。




「おかえり」




 不機嫌そうながら、そう言った葵に霖雨は微笑む。先程の緊張感や恐怖が嘘のようだった。


 ただいま。


 霖雨は二人の後を追う。それだけの遣り取りが懐かしく、愛おしい。こんな感情が、二人には解るだろうか。胸の内に温かさが染み入る。


 リビングのテーブルには、葵が食事したらしくインスタント食品の器が置かれている。自室に荷物だけ置いて戻って来た和輝が、甲斐甲斐しくテーブルの上を片付ける。


 火災によって家財一式を消失した和輝は、葵に使用人として雇われる居候の身だ。だからこそ、葵も横柄に振舞っているのだろうし、和輝も黙って従っているのだろう。


 夕食をインスタント食品で済ませざるを得なかったことに文句を言う葵に、和輝は子どもの我儘を許容する母親のような慈愛に満ちた微笑みを向ける。




「コーヒーでも淹れようか」




 いっそ清々しい程、綺麗に笑う和輝に、葵は鼻を鳴らした。




「いや、結構だ。洗濯機回したいんだから、洗濯物をさっさと出せよ」

「はいはい」




 どうせ、洗濯機を回すのも、洗濯物を干すのも和輝だろう。霖雨は二人の遣り取りを背中に、自室の扉を開けた。


 落ち着いた色のフローリング。打ちっぱなしのコンクリートの壁は冷たい印象を与えるが、一切の無駄を排除した室内は精錬されたデザインにも見える。ベッドと、クローゼット。本棚と、デスク。留学の折、友人から祝いの品として受け取ったゴムの木の鉢植え。家具自体は転居前と変わらないけれど、間取りが異なると雰囲気も変わる。鞄をクローゼットにしまい、霖雨は自室を出た。


 リビングテーブルには椅子が三脚設置されている。葵は椅子の上に立て膝で背を丸め、テレビを見ている。幽霊のように存在感の無い男だが、その横顔は人形のように整っている。バスルームから水音が聞こえるから、和輝はシャワーを浴びているのだろう。


 視線はテレビに固定しながら、葵が言った。




「なあ、あいつ、顔色悪くないか」




 問い掛けられたのだと、すぐに解らなかった。葵の指す“あいつ”が和輝であると気付き、霖雨は首を捻るばかりだった。




「そうかな。気付かなかった」

「そうだよ。青白い顔してる」




 吐き捨てるように言った葵に、霖雨は嬉しくなった。

 横柄に振舞っているけれど、和輝のことを心配しているのだろうと思った。




「よく見てるな」

「……勘違いしてるみたいだから訂正するけど、別にあいつを心配している訳じゃない」

「またまた」

「察しが悪いな。あいつの職場は病院だろう。訳の解らない感染症を貰って来る可能性は、大いにある」

「大学病院だぞ。院内感染なんて、流石に無いだろうさ」

「俺が感染症に罹ったとしたら、感染源は十中八九あいつだ」




 酷い言いように、流石に霖雨も黙った。冷ややかな眼差しが、照れ隠しではなく本心だと訴え掛けているようだ。




「……ちょっと疲れてるんだろ。昨日は夜勤で、今日も帰って来たと思ったらこの時間だ」

「訳の解らない変質者騒ぎにも巻き込まれるし?」




 まるで先程の出来事を知っているかのような物言いだ。咄嗟に返す言葉の無かった霖雨に、葵が言った。




「お前の服が乱れていた。まるで激しい運動直後みたいだ。サイレンも鳴っていたし、この辺は人通りも少ないし、帰宅時間から考えて無関係とは考え難い。大方、お前が変質者に絡まれて、あいつが介入したんだろう。それも、暴力的な遣り方で」




 

 霖雨は眉を寄せる。


 あの時、霖雨には和輝がヒーローに見えた。救世主の登場にも思えた。あれが暴力だと非難されるのでは、世の中皆犯罪者だ。


 和輝を目の敵にする葵の物言いに、霖雨もかちんと来る。自分とは無関係の火災で家財一式を失って、霖雨に勧められ転居し、雇用主のパワハラにも文句を言わないで役割を全うしている。和輝の何が気に食わないのか、霖雨には解らない。


 肌を指すような沈黙が下りて来る。何かを言おうと霖雨が口を開くと同時、バスルームの扉が開いた。頬を赤くした和輝が、湯気を昇らせながら立っていた。




「さっぱりしたー!」




 声を上げた和輝が、リビングの沈黙に気付いて眉を寄せる。

 がしがしとタオルで髪を拭きながら、きょとんと首を傾げる。




「何、やっぱりコーヒー淹れる?」

「結構だ」




 着替えとタオルを引っ掴み、霖雨はバスルームへ閉じ篭った。

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