⑵ヒーロー

 観測者効果とは、量子力学において、観察するという行為が観察される現象に与える効果を指す。


 シュレーディンガーの猫と呼ばれる思考実験はインターネットを通じて世間一般に知られるようになった。


 箱の中にいる猫は、生と死の両方の状態を重なり合わせ持つ。観測した時点で、その性質が決定する。これはタイムマシンにおけるパラドックスを解消するパラレルワールドの存在と通じる。


 霖雨は辞書のように分厚い専門書から顔を上げ、息を吐いた。


 大学構内は実に平和だ。今の世界の何処かでは戦争が起こり、爆弾が降り注ぎ、貧困に喘ぎ、隣人殺害の算段が整えられている。人はそれを理解しながら、他人事だと割り切っている。


 或いは、そういう未来もあるのだろう。


 平行世界の存在を認める霖雨としては、人間の逃避にも似た思考を大いに評価している。当然だろう。時間には限りがあり、人間は飽き、忘却する。


 神木葵との共同生活も今日で一週間となる。不安を感じる程、生活は順調だった。存在感が皆無の彼は、必要最低限の会話しか交わさない。


 不審な態度は無く、対応はいつだって一部の隙も無く誠実だった。彼がどのように生活しているのか霖雨は未だ解らない。起床時間、食事、就寝時間。大学院生だというのに、登校する素振りも見せない。部屋は常に貝のように固く閉ざされている。


 干渉しないから、干渉するな。

 まるで、そう訴えているようだ。


 幽霊と同居しているような不気味さはあるものの、生活は充実している。満員電車に乗ることも無いから、痴漢に遭うことも無い。


 住居は徒歩二十分程の距離にある。通学路にはちょっとしたスーパーマーケットもあり、不便な点は無い。爆撃に怯えることも、飢餓に彷徨うこと無く、霖雨は今日も穏やかな日差しを浴び生きている。四月の爽やかな風を頬に感じながら、霖雨は慣れた道を辿り、自宅を目指す。


 田園風景の広がる道は車通りも少ない。つい漏れる欠伸を噛み殺しながら、霖雨は専門書の詰まったリュックサックを背負い直した。


 その時だった。先を歩いていた主婦と思しき女性が、まるで突然射抜かれたかのように、がくりと膝を着いた。掻き毟るように胸元を握り締め喘ぐ様は、神へ許しを乞う罪人のようだ。


 苦しげな呻き声が漏れる。自身の身体すら支えられず、女性の肢体は重力に従って地面へ縫い付けられる。目の前の状況に対して脳が知覚するより早く、反射的に霖雨は女性へ駆け寄っていた。


 大丈夫ですか、なんて馬鹿な問いはしない。

 苦しいのですか、なんて呑気な言葉も不要だ。


 何かが喉に詰まったのか、苦悶の表情を浮かべる女性の額には大粒の脂汗が浮かぶ。悲鳴すら上げられない女性に、霖雨は打つ手無しだった。下手に動かして良いのかも解らない。


 救急車を呼ぶべきと理解していても、突然の事態に思考回路は錆び付いたように動かず、身体は愚鈍だった。今にも死にそうな女性を前に、霖雨は完全に動転していた。


 助けてくれ。女性と霖雨の思考が重なった瞬間だ。春の日差しを背負った影が凛然と其処に立っていた。浮かび上がったシルエットが現実のものとなる。


 目を見張るような美しい相貌だ。澄んだ湖畔にも似た、吸い込まれそうに透明な眼差しをしている。子どものような体躯でありながら、其処にいるだけで身も世も無く縋り付きたくなるような強烈な存在感を放っている。長い睫毛が陶磁器のような滑らかな頬に影を落としているのが見えた。




「蜂谷さん……」

「やあ」




 和輝は女性の側に膝を着くと、素早くその姿勢を横向きにする。回復体位と呼ばれるものだ。

 女性の顔に耳を近付け、和輝は落ち着き払って状態を確認している。首元まで留められた釦を外し、呼吸を楽にする。




「救急車は呼んだかい」




 和輝が母国語で問い掛けると同時に、女性の呼吸が不自然な程、突然に止まった。身体は死体のように強張っている。


 霖雨は僅かに首を振った。和輝は目を細め、吐き捨てるように「Please call」とだけ言った。


 叱られた子どものように、霖雨は怯えながら携帯電話を取り出す。霖雨が救急車を呼んでいる間に、和輝は鞄の中からマウスピースを取り出して女性の口へ装着している。


 人工呼吸だ。

 大きく息を吸い込んだ和輝が、何の躊躇いも無く呼気を吹き込む。すぐさま心臓マッサージを始めた和輝の横顔は真剣そのもので、声を掛けることも躊躇われる。


 救急車は未だ来ない。小さな体躯を一杯に使って、自分よりも大きな女性の蘇生を試みている。額には珠のような汗が浮かび、頬を伝って顎より落下する。ロボットのように正確ながら、生命感に溢れた気迫で和輝は忙しなく働き掛けている。


 息が上がっている。けれど、その手が鈍ることは無い。


 救急車のサイレンが聞こえた。救急隊員は和輝の心肺蘇生を見ると、慣れた手付きに交代を申し出ることも無く、搬送の用意を始めていた。救急隊員が、心肺蘇生のプロフェッショナルが、和輝を信頼して命を託したのだ。


 女性が担ぎ込まれ、漸く和輝は動きを止めた。死体のように弛緩していた身体がびくりと動き、女性は息を吹き返した。等間隔の電子音が、女性の心拍の安定を知らせている。


 その様を見届けて、和輝は大きく息を吐き出した。昏倒するのではないかと、霖雨は慌ててその肩を抱く。細い双肩だが、確かに筋肉に包まれている。和輝は倒れること無く、自立しながら救急車を見送った。同乗するものとばかり思っていたが、違うらしい。救急隊員と親しげに拳をぶつけ合い、互いの健闘を祈る様はスポーツマンのようだった。


 サイレンが遠のいていく。袖で乱暴に汗を拭う和輝の横で、霖雨は肩を窄めた。叱責の一つや二つは甘んじて受け入れるつもりだった。一度は停止した女性を蘇生させた和輝の横で、自分は何もできず狼狽えていただけだった。


 和輝が、小さな口を開いた。




「びっくりしただろう」




 労わるような優しい口調で、和輝が言った。叱咤を覚悟していた霖雨は、拍子抜けと言わんばかりに肩を落とす。和輝は子どものように悪戯っぽく笑って、道端に落ちた本を拾い上げた。


 気が動転して、持っていた本を落としたらしい。手渡された本を受け取り、霖雨は小さく感謝の言葉を告げた。




「俺、スポーツドクターの見習いで、大学病院で働いているんだよ」




 言い訳するように和輝が言う。


 彼が社会人であることに衝撃を受けた。加えて、医療に携わる人間であると明かす和輝に、霖雨は最早、感嘆の息を漏らす以外無かった。




「君は、ヒーローみたいだね。助けて欲しいと思った時に、颯爽と現れる」




 霖雨としては率直な賞賛だったのだが、和輝は曖昧に微笑んだ。


 追求はせず、これも何かの縁だろうと霖雨は食事へ誘った。薄給の身としては有難いと和輝も申し出を断りはしなかった。











 1.Go straight.

 ⑵ヒーロー










 燃え盛る紅蓮の炎の前で、立ち尽くしていた。



 一度、家に立ち寄りたいと和輝が言った。近所だという和輝に連れられ、霖雨は彼の暮らすアパートへ向かった。


 アパートは、轟々と燃え盛っていた。火柱を上げ、空を埋め尽くすように黒煙が立ち昇る。

 溢れる野次馬、駆け回る消防隊、鳴り響くサイレン。木造らしいアパートが炎に呑み込まれ悲鳴を上げている。


 変わり果てた自宅に、和輝はぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。霖雨は声を掛けられなかった。他人行儀な労わりが何になるのだろう。


 呆然とする和輝が、ゆっくりを首を回す。縋るような悲鳴が聞こえた。


 子供が。


 霖雨に聞き取れたのは、それだけだった。咽び泣く母親らしき女性が、数人係りで羽交い締めにされている。


 和輝はゆっくりと視線を戻した。熱に潤んだ大きな双眸に、燃え盛る炎が映っている。口元は真一文字に結ばれ、固い決意を感じさせる。――まさか。




「止せ!」




 霖雨の制止と同時に、和輝は弾かれるようにして炎の中へ突っ込んで行った。周囲で悲鳴が上がる。


 炎の中に、小さな背中が吸い込まれる。冗談だろう、と霖雨は頭を掻き毟りたくなった。木製の柱がめきめきと軋みながら倒れる。火の粉が舞う。熱波が押し寄せる。野次馬がじりじりと距離を取っている。消防隊の決死の消火活動も虚しく、火の手は一向に衰える気配も無い。


 野次馬と同じく、霖雨は固唾を呑んで見守るしかない。後を追って炎の中に身を投じる度胸は無かった。


 永遠とも思える時間が流れた。それは数分にも満たない僅かな時間だったのかも知れない。糸が張り詰めるような緊張感が、ぱちんと弾けた。炎の中から小さな影が転がり出た。


 その手には、少女が抱えられている。衣服に燃え移った炎を消防隊が叩き消す。脱出した和輝の背後で、最期の柱が倒れたのか、アパートは崩れ落ちた。間一髪だった。耳を塞ぎたくなるような轟音を背中に振り返りもせず、和輝は意識の無い少女を消防隊へ託す。縋る女性の耳元に、和輝がその生存を伝えた。


 風船が萎むように母親が倒れ込んだ。周囲から歓声が上がる。端整な顔を煤で汚した和輝が眩しそうに微笑み、歓声を受け止めるように拳を上げた。割れんばかりの拍手が彼を包み込んだ。


 消防隊の保護をやんわりと断り、煙に噎せながら和輝は霖雨の側に戻って来た。




「運が良いのか、悪いのか解らないな」




 そんなことを言って、和輝が苦笑する。腰に手を当て、残骸と化しても燃え盛る自宅を見遣る。住居も家財も失った彼に、危険な夜の闇が迫っている。


 紅い炎に照らされた美しい横顔に、霖雨は導かれるように言った。




「うちに来いよ」




 驚いたように、和輝が目を丸める。霖雨自身、突拍子も無いとは思うが、このまま彼を放っては置けなかった。


 渋る和輝を引き摺るようにして、霖雨は自宅へ連れて帰った。衣服は焦げ、顔は煤で汚れている。衆目を集めながら連れられる和輝は、それまでの自信に満ちた姿が嘘のように、所在なさげに俯いていた。


 捨て犬でも拾った心地で霖雨もその手を引っ張る。手を離せばすぐにでも何処かへ消えてしまいそうな気がした。


 玄関の鍵を開けると、相変わらず、陽炎のように葵が立っていた。霖雨がびくりと肩を跳ねさせると、葵は訝しげに和輝を見遣った。仁王立ちで来客を吟味する葵は、侮蔑するように、冷ややかだった。




「何だよ、その汚いガキは」




 酷い言い様だが、その通りだ。


 いつも機械的に礼儀正しい葵が、不快感を顕にすることに驚く。ますます小さくなってしまう和輝を庇うように霖雨は前に進み出て、事情を説明した。けれど、葵は「慈善事業じゃない」と切れ味の良い日本刀みたいにばっさりと言い捨てた。


 リビングからは食事の匂いが漂っている。生活感の無い葵の食事時間に遭遇したことに驚く。食前で気分を害したのだろうと察しながら、霖雨は機械のように融通の利かないオーナーの説得を試みる。


 むっつりと黙っていた和輝が、はっとして顔を上げた。




「ビタミンを摂った方が良いぞ」

「はあ?」




 いっそ清々しい程、敵意を全面に表して葵が言う。これが彼の本性なのかも知れない。

 和輝は意にも介さず、葵の生白い顔を見詰めている。




「ビタミンA不足による眼球の乾燥は、悪化すれば最悪失明する。目の下に隈があるのは、睡眠障害だな。喫煙はビタミンC不足に繋がる。顔色も悪い。胃腸の働きも正常じゃないだろう。それから、家に引き篭って日光を浴びないから、ビタミンDが生成されない。骨粗鬆症になるぞ」




 先程までのしおらしさは何処へ行ったのか、指でも突き付けそうに、自信満々に和輝が淀み無く言った。

 葵が不快そうに眉を寄せる。和輝は講義するように、堂々と続けた。




「食事のバランスが悪いんだ。添加物だらけのインスタント食品やファーストフードばかり食べているだろう。食事回数も少ない筈だ。直立しているつもりだろうが、体幹がぶれている。身体を支える筋肉が足りていない」

「余計なお世話だ。ホームレスに言われたくねーよ」

「ホームレスの方が、お前より運動量は多いだろうさ。不健康の代名詞みたいな奴だな」

「チビでガリのガキじゃ説得力ねーよ」

「それでも、お前より身体は出来ているよ」




 葵の苛立ちが、霖雨には手に取るように解った。けれど、和輝は一歩も引かないどころか眉一つ動かさず平然としている。


 不満げに、葵は眉を寄せる。そして、挑発するように吐き捨てた。




「なら、作ってみろよ。お前の言うバランスの良い食事とやらを」




 和輝の口元が、弧を描く。不敵な笑みだ。底知れない不気味さは、発展途上の子供に似ている。


 いいよ、と軽く了承した和輝が押し退けるようにして住居へ足を踏み入れる。せせら笑うように壁に凭れ掛かった葵は、まるで蟻地獄に堕ちた蟻を笑う無邪気な子供に似ている。


 殆ど空になった冷蔵庫を開け、和輝が調理を始める。見事な包丁捌き、慣れた手付きは口先だけでないと解る。テーブルにはインスタント食品が僅かに並べられていたが、和輝はそれを腕で端へ追い遣って料理を並べた。


 懐かしい母国の料理に、霖雨は目を見張った。


 湯気の立ち昇る煮物、鮮やかなお浸し、具沢山の味噌汁。そもそもそんなに食材が眠っていたのか霖雨すら把握できていない冷蔵庫から、その場で食事を作り上げた和輝の腕前は純粋に賞賛に値するのではないだろうか。


 食欲誘われる香りに霖雨が言葉を無くしていると、偉そうに椅子に座った葵は挨拶も無く箸を着けた。和輝もそれを咎めず、挑戦的な笑みを浮かべている。


 咀嚼を終えた葵が、不満そうに言った。




「使用人としてなら、住ませてやっても良い」




 その言葉に、和輝が小さくガッツポーズをした。

 唐突に、三人の奇妙な同居生活は始まった。

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