最終章

第三十七話  思い出は白く輝く光の中


 思い出はいつも、白く輝く光の中。


 膨張する光は自分の中にも入りこんで来て、内側から焼き尽くすのではないかと思うほど個々の細胞を沸騰させた。

 しかしそれに反比例するように冷たく冴え冴えとする頭。自分がスーパーコンピューターになったのではないかと錯覚するほどに、思考をすれば秒を数える間もなく答えが演算されていく。

 数字だけではなく哲学的な事ですらも、一瞬考えかけた段階で答えが次々にひらめくような。瞬きすら忘れているうちに世界の叡知を、この世のすべてを、宇宙の秘密が脳裏を駆け巡っていく。


 体が変わる。


 皮膚が、真珠のような光沢に。ひび割れて翡翠色のコーティングがされていく事が当然のように思えて、変化していく己の体をぼんやりと眺め続けていた。自分の思考はそこにあるのに、右脳と左脳それぞれが別の事を考えているような、何百何千という自分が、それぞれ別の思考をして答えを出していく。世界に自分が溶けて消えてしまいそうな不安定の中、変わりゆく体を見つめているのが自分であるというおかしな自覚。


――だめだ、そんな事許されない。


 何万にも分離された思考の一つがそんな事を思いついたようだ。遠い自分の思考をなんとか手繰り寄せると何かがはじけた。


「だめだ、龍になっては」


 なぜか自分は、完全な龍の体になるという実感があった。確かな手ごたえがあったのだ。今、あふれだすように脳裏にひらめく風景は宇宙を旅する己の姿で、それが遠い過去の記憶であるという事も何故か知っている自分。


 記憶の箱舟。龍は宇宙をわたり、記憶を運びながら繁殖する生き物。


 龍の記憶を、一体でも完全体の龍が生まれた瞬間、その星にあるすべての神粒しんりゅうは回収され、成長途中のすべての龍は成獣になり宇宙に還って次の星を求め……新天地に散って神粒しんりゅうを散らし、新たな命によって数を増やし、再び宇宙への旅を繰り返す。

 長い長い年月をかけて。しかし龍の寿命にとってはそれほど長くはなくて……。


 神粒しんりゅうが回収されることは、すなわち地球上のすべての生き物が死に絶えるという事だ、世界の滅びである。龍ははじまりであり、終わりでもあるのだ。


 そんなきっかけに自分はなりたくない。


 彼女との思い出も、彼女への愛も、世界の砂粒をかき集めたよりも、最大単位の数字でも表現できないような多数の中の小さな一粒にしてしまいたくないと切実に思った。


――龍になりたくない。


 ならないためにはどうするか。願うしかない。龍からもっとも遠いものを望め。生きるために貪欲で、自己保身の意識だけが立派で死ぬこともできない美しくも醜い自分にふさわしい姿を。


――愛してる、愛してた、君の事が。憎くて、苦しくて、哀しくて。それでもずっとずっと愛していた。世界でたった二人になりたいほどに、許されるなら永遠に一つでいたかった。この気持ちが、神粒しんりゅうを増やすために種の繁栄をさせるために与えられた感情や記憶などであるものか。そんなものにしてたまるか。

 死にたくない、死なせたくない。


 光速を越えるような思考の冒険は、実際はほんの数分。何億にも散った思考はやがてひとつにまとまって、我にかえったときには周囲が暗闇に包まれていた。鏡は砕け、自分の膨らんで醜く歪んだ巨体の下では加賀見かがみと名乗った男が圧死していた。

 水鏡に映る己の姿を見て、恐怖でのけぞる。


――これが自分にふさわしい姿……。


 会いたい。でももう会えない。君にふさわしいのは私じゃない。

 これが自分の真実の姿だから。こんな姿でも、愛してくれるだろうか?

 でもそれを、確かめたくない。世界の真理も、君の心の真実も知りたくない、わかるのが怖い。


 思い出は白い光に閉じ込めて、暗い地下で静かに生きていく。

 さようなら、みんな。

 廉次れんじ、すまないが、父さんと母さんと彼女の事はおまえに任せたい。


 だけど苦しい。

 助けて……。


 この一言が、あの一番苦しい時に言えていたなら。


 龍になりたくない、が、龍になろうと望む体。


 これが苦しい。

 タスケテ……。


* * *


「兄さん……」


 化け物に覆いかぶされ、一瞬で同化した。体も魂もまじりあったような不可思議な感覚の中、白い輝きの中の記憶がすべて、敬一けいいちの体験したすべてであることを知った……。

 今は白い輝きは失われ、暗闇の中に廉次れんじは一人立っている。

 溶け合っていた感覚はなくなり、自分は自分という個を取り戻したが、いまだ彼の中にあるようだ。


 共有された記憶の多さに、本来の自分の記憶が混ざってふらふらとする。

 しかし必死に敬一けいいちの姿を思い浮かべた。

 知り合いが撮った、叢雲むらくもの写真。若い頃の美しい姿のまま年を重ねたあれが、本来の彼の姿のはずだ。


「兄さん!!!」

「……廉次れんじ……」


 暗闇の中に、ぼんやりと白いモヤが立ち上がり、うっすらと人の形を取った。


「兄さんだよね、敬一けいいち兄さん……」

「彼女は……沙耶さやは、死んでしまったんだね」

「ああ」


 敬一けいいちの記憶が見えたという事は、自分の記憶も彼に見えたという事だろう。あれほど苦し気に愛を叫んで彼女のために踏みとどまった兄に、図らずも残酷な現実を知らしめてしまった。だが。


「あの子は、僕の子なのか」


 かつて叢雲むらくもと共に自衛隊基地の地下で会った少年。叢雲むらくもの目を通して見た彼女にとてもよく似た姿……。


「そうだ。拓磨たくまは兄さんの子だよ。沙耶さやと兄さんの、……」


 ”愛の結晶”という言葉は言えなかった。自分も彼女が好きだった。あの結晶に自分の愛は含まれていない。

 そんな気持ちをおもんばかったのか、兄の形は少し揺らいでしまう。慌てて叫んだ。


「兄さんが俺に遠慮して、沙耶さやと距離を置こうとしていたのは知っていた。それを知って甘えていた。だが、もういい加減に認めようと思う。俺が好きだったのは、兄さんの事を好きな沙耶さやだ」


 盲目的に恋に溺れていた彼女。他ではしっかりしているのに、兄の敬一けいいちの事に関してだけは愚かな女になってしまう所が愛おしかった。自分の性癖の方が兄や沙耶と比べて、よっぽど歪んでいる。認めたくはなかった。でも自分の愛はいびつで、純粋な恋に夢中になっていたまっすぐで不器用なだけの二人とは違う。兄の物が欲しいという嫉妬心もあった。

 拓磨たくまが少しでも兄に憧れたり気にする事を恐れ、敬一けいいちの美意識がおかしい等とウソを教えた。そんな事をしなくても、息子は自分を父と認めてくれていたのに。

 醜いのは自分の方である。そしてそれを今、兄に知られてしまった。


 白いモヤは少し濃くなって、その表情が見える程度に固まって来た。少し困ったような笑い方は、よく敬一けいいち廉次れんじに向けていたものだ。兄と弟とはいえ双子。同じ年であるのに、やはり敬一けいいちは兄で、自分は弟であった。


「人とはなんとも、複雑な生き物だろう。自分はこの複雑さが神粒しんりゅうにそうなるように操作されたものには思えない。人だからこそ獲得し得た感情に思う」


 その言葉に廉次れんじは頷くしかない。

 愛しているのに憎い、苦しいのに恋しい、憧れているのに妬む。相反する激情に翻弄される心は、神粒しんりゅうを純粋に増やしたい龍の思惑から大きく外れているはずだ。

 細胞や新たな命を増やすためなら道徳も倫理もなく、本能のまま繁殖行動をするだけの生き物でいい。目の前に雌がいれば、自分は雄になるだけ。

 なのになぜか人だけが、複雑な感情で行動を変える。男の前で女でありたいと願いながらなりきれない姿があれば、それを見て可愛いと感じ、ただ抱きしめるだけで満足してしまう不思議な心。


 ひたすら深く深く絡み合って複雑で、宇宙の叡知でも理解も答えも出来ない心の機微こそ、人類が獲得した最大の進化ではないだろうか。龍の、宇宙の思惑から外れる事ができる唯一無二の力。人間の、人間のための変化は、悲喜こもごもなる愛憎あっての事ではないか。


 記憶を共有しても、遺伝子が同じでも、弟は兄のすべてを、弟は兄のすべては理解しきれない。今、それがとても正しい事に思えた。そうある事が、人ならば自然なのだと。


 二人は暗闇の中で理解し合いつつ、分かり合えぬままでも、同じ世界で生きているその心地よさを共有していた。


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