第三十六話 玉手箱
「このあたり、珍しい植生をしているな。
ついつい生物学者の視点から昆虫や動植物に目が行ってしまう
ぴょこんと両足を揃えて飛んで、少し高い木の根に立つと、首を伸ばして左右を確認し、方角を決めて再びよちよち歩き出す。
「コッチ、コッチ」
九官鳥のようなしゃがれた声で、健気に道案内をしてくれているが、バス停のあった道路から森の中に入って随分と経つ。どの辺りだろうかと携帯を取り出すと、圏外になっていた。
携帯から目を離した瞬間、突然目の前に黒い塊が飛び出して来た。
「!?」
「ひぃっ」
覆いかぶさるように突然現れた男は勢いのままぶつかり、
「いてて、なんだ、人か」
「……! 日本語!? ここはどこなんだ、助けてくれ」
ひとまず覆いかぶさる男を、力いっぱい腕を伸ばして押しのけた。
「どこって」
改めて見ると突っ込んで来た男は仕立ての良いスーツ姿だがボロボロで、ひどい暴力を受けたのか顔は乾いた血がこびりつき青痣もできている。
「あ、怪しい者じゃない、公務員なんだ。怪しい集団に拉致されて、やっと逃げ出して来たのだが、まったく森から出られる気配がなくて。同じ所をぐるぐるまわるんだ、あんたは外から来たのか? どうしたら出られる」
必死な男に落ち着くように促して座らせると、背負ったリュックからペットボトルの水を与えた。男はむさぼるように飲むが、時々むせて咳き込む。
「ごほっ、げほっ、……、自分は大高という者」
「私は
「
「不気味な生き物?」
生物学者に生き物の話はまずかったかと大高は己の迂闊さを呪う。自分はずっと優秀だと思っていたが、こういう所で躓いているのだと改めて知った。
「あ、案内なんて出来ないぞ! 逃げてる最中なんだからな」
「とりあえずこれをどうぞ」
非常食用に用意しておいたシリアルバーを差し出すと、大高はそれをひったくるように取ってがっついた。
歩けるようだし食欲もある。ぶつかった謝罪もなければ、水と食料への礼の一言もないその様子に、拉致も暴力も自業自得に思えたし、この男のために引き返してまで保護の必要もなさそうだと
「私が歩いて来た道は、印をつけています。こんな風に枝先を3節目で折っているので、それを辿っていけば県道に出ますよ。バスも通ってます」
手近な枝をパキリと折って見せれば、大高はパッと顔を輝かせた。
白い鴉が待ちくたびれたのか、小さく「クァ」と鳴いたので、
「なんなんだ今の男は……」
そう思いながら
あの男はずっとぐるぐると同じ場所を巡ったと言っていた。自分も白い鴉から目を離した途端、体が勝手に向きを変える不可思議な体験をしていた。まるで体が外部から操作されているようだ。向きが変わるたびに
窓がない巨大な真新しい倉庫風の建物。森の中にあるには不自然過ぎる。強いていえばキノコの栽培工場に見えなくもないが。農家が使うとは思えない黒塗りのバンや乗用車、小型のバスが停められていて有人の気配。しかし見張りもいなければ防犯カメラのようなものもない。
迷いの森のような要素に安心しているのだろうか? そう思って森から一歩踏み出した瞬間、ざわりと背中に悪寒が走り鴉がするどく鳴いた。足が縛られたようになって動かない。細胞の動きを直接止められたような不快感。冷や汗が一気に噴き出した。
重たげな鉄の扉が両側に向かって開き、五人の黒服の男たちが飛び出して来たが、逃げ出す事も前に進む事も出来ない。
『!? 逃げた男ではないのか』
『侵入者? まさか森を抜けたのか。風水師は何をしていた』
『森は正常に稼働しています』
まくしたてるような早口の中国語だが、何とか聞き取れた。あの男が逃げ出した施設はここで間違いないようだが、逃げ出した男を追うために厳戒態勢があったらしい。油断した。あっという間に取り囲まれて引きずられるように建物の中に連れ込まれる。鴉に逃げるように目配せすれば、鳥は躊躇の気配を見せつつも茂みに飛び込んで、顔だけをちょこっと出していたのが垣間見えたが、閉められる扉の黒い影に視線を遮られてしまった。
『この男、どうする』
『ただの迷い込んだ人間だとしても、生きて返すわけにはいかんな』
『あの化け物の餌にしてみるか、先のあいつは単にまずそうに見えただけかもしれん』
歩きながら会話する男たちの言葉に震えが来る。しかし多少身をもんだ所で手を振り払う事もできず、やがて倉庫の奥らしきところに到着した。
目線の先には象を入れるような巨大な檻。その中に巨大な赤黒いスライムのような物体。うごめく姿は生物で間違いなさそうだった。脈動し浮き出ている血管が生々しい。
黒服の男が
見上げれば巨大な肉の塊の壁。呼気なのか体温の生ぬるさをはらんだ風。ずるりと動いたかと思ったら、アメーバーのごとく広がって、
* * *
いつの間に退出したのか、周囲にいた黒服達は姿を消していた。
男は切々と少女に向かい、いかに長寿が素晴らしいか、若く美しい姿のまま歴史を眺めゆく特別感、世界を手中に収めそのトップに立つ男の傍らにいられる栄誉を君に与えるなどなど熱く語っていたが、生憎彼女はそういうものに一切興味がなかったし、言葉巧みにこちらを誘導する詐欺師のような言い回しも鼻につく。ナンパしてくる男がこういう喋り方をすることが多くて、彼女は普段から辟易していた。
それに花は枯れて散るからこそ、咲いている時が美しいのだろうと思うし、母や
人は飽きる生き物である、永遠に一緒にいたいというロマンチックな乙女心はあるにはあったけど、それこそ限りある命だからこそ有限の価値の中で関係を大切にできるのではないかという気もする。
権力者たちはどの時代も不老不死を望むようだけど、権力や財産という心を伴わない物に執着できてこそだろう。
だからどうしても
難しい顔でにらみ続ける少女に構わず、男は手のひらに乗る小さな緑色の小箱を少女に差し出した。滑らかに角が落とされた四角い箱には白い組みひもがかけられ蝶結びをされている。無理やり手を取られ、手の上に乗せられた。
「なに……?」
石で出来たズシリとした小箱は男の体温で温められていて、そのぬるさが気持ち悪かった。透明感のある煙ったような緑色は、つい最近見た気がする。
「翡翠?」
「さすがの慧眼。頭の良さも理想的だ。それはね、玉手箱というんだ。日本のおとぎ話にも出て来たアレだよ」
「!?」
咄嗟に投げ捨てるように手放した箱を、「おっと」と言いながら男は何食わぬ顔で受け止めて、再び少女の手のひらに乗せた。
「玉手箱と聞けば黒塗りの重箱のような物が思い出されるだろう?」
「浦島太郎のやつぐらいしか知らないわ」
”玉”は美しさ、”手箱”は小箱を指しているという話は知っている。だから大抵は高価な漆塗りの小箱をイメージする方が正解のはず。だが、手にしているのは
「これがあの物語……本来のものだよ。面白い昔話をしてあげようか、その方が君は気に入ってくれそうだ」
好奇心が刺激されたのは間違いない。だがこれは知っておくべき話かもしれないと、少女は興味がある事を全面に押し出して頷いてみせ、男も満足そうに頷いた。
「当時の私は三十代の後半、冴えない男であった。だが言葉の巧みさには自信があって、当時最大の権力を得た秦の始皇帝に謁見が許される機会を得る事が出来たのだ。皇帝の興味を惹きそうな不老不死の薬の噂を、それっぽく語ってみたところ、皇帝が己の権力と財力を周囲に見せつけたい時期を狙ったのが功を奏し、簡単に旅のための資金や人員を用意してくれた」
そのまま資金を頂戴して行方をくらませるつもりでいたが、ふと自分自身も不老不死の薬の噂が気になった。旅立ちの素振りも見せたいしと、その噂の出所……当時の日本へと船で渡る事に。
金をかけた立派な船と、そのまま持ち逃げする予定の財産や資材もこんもりと積んで到着した噂の出所の港は、寂れた寒村であった。
やはりそんなものはありはしないと立ち去ろうとしたとき、村の中で虐められていた少年を気まぐれで助けた。迷い込んだよそ者というだけで虐められていた彼を生まれ郷まで送ってやるサービスをしたのは、その少年がなかなか美しかったからだ。
しかしその少年が古より続く一族の大切な跡継ぎで、助け連れ帰った事に大層な歓迎を受けた。ここまでの豪族であれば、どうせなら最高の土産をもらって帰ろうと、助けた少年を言葉巧みに煽ててみれば、門外不出の財宝があるという。しかしそれは龍という神に将来捧げるものであって、その日が来るまで一族でずっと守らなければならないという。そこまでの物ともなればぜひとも欲しい。
翡翠で作った薄い鱗を模した腕輪が皇帝から賜った財宝の中にあった事を思い出し、それを腕に嵌め、少年の寝所に忍び込んだ。実は自分こそ龍の化身であると翡翠色の鱗に見える腕をちらりと見せれば、少年は信じた。
「彼は私に身体と部族の宝を差し出したというわけだ」
「話が長いって言われない?」
げんなりと少女が言えば、おっと失礼と苦笑をしながら男は続ける。
「開ける時に願いが叶うと言われていると聞けば、試さざるを得ない。願いは三度までと聞いていたから、博打になるが自分で使う事にした」
小箱を開いた瞬間に煙が立ち上がった。咄嗟に若さのある美貌を願った。しばらく気を失い、目が覚めた時にはこの若い体を手に入れていたのだ。理想とする美しさと共に。
2つ目の願いは永遠を願った。この姿のままで死なない体をと。病気もしなければ傷もつかない体が出来上がった。
しかし最後の願いを使う事には躊躇した。あと1回となると、のちのち新たな願いができた時に後悔するに違いない。それで温存することにして、これが人の手で作られたものなら、再び作る事ができるのではと考えた事もあって。
そこから長い年月をかける事になったのは想定外。各地の不老不死伝説や、願いを叶えるランプの話などを聞けばそこに赴いて、不思議な白い煙の作り方を探し求めた。
「玉手箱をもっていた一族が知っていたのでは」
少女が呆れながらそういえば、男はため息をついた。
「悲しい事に私がそれを思いついたのは、随分後になってからだったのだ。再び日本に赴いたのは室町の初期であったろうか。そこで私の経験が物語になって伝わっている事に気づいた」
海岸で亀を助け、竜宮城で歓待され、土産に若返る薬をもらったという話に。
「ラストが」
「この話が広まって、同じように若く美しい不老不死の人間が量産されたら厄介だと思ってね、慌てて最後をねじまげた話をお伽草紙という書物にして流布させたのだ。年老いて醜くなると聞けば、まだ日本に存在するかもしれない玉手箱を開ける者はいなくなるだろう?」
「それで他の玉手箱は見つかったの?」
「残念ながら。だからそれは最後の1回の願いを叶えるものだ」
貴重な最後の一回を自分に使わせる事に、どんな意味があるのか。
翡翠の箱は、手のひらの体温をどんどんと吸い取っていくように思えた。
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