第三十一話 それぞれの覚悟(1)


 息子が登校し、一人きりになった静かな自宅で白い鴉の頭を撫でた。


「命は本当に不思議なものだ。だが研究を進めていて、こう思うようになったんだ。魂も神粒しんりゅうじゃないのかなとね」


 ついっと視線は遺品から取り出した妻の写真に向けられる。かつては飾る事すら諦めていたそれを、再び取り出す日が来るとは。写真の中でほほ笑む彼女は、兄を失った後も愛し続けていて、結果として自分は永遠の片思いになってしまった。それでも、家族にはなれた。大切な息子を育てる同志としては確固たる関係で、これは揺らぐ事はない事実である。


「真言密教に本不生ほんぷしょうという言葉がある。何かに生み出されたわけではなく根源的にそこにあって、生み出されたものではないから滅する事もない。それこそが神粒しんりゅうなんじゃないかと思うんだよ。命あるすべてがそれで構成されていて、見た目は失われたように見えても滅する事なく、小さな粒に戻り世界の一部に溶け込んだだけで、再び別の形に生まれ変わる。世界はそんな形で輪廻の輪の中にいて、寄せては返す波のように、繰り返し戻って来るんだ。仏教だけでなく、他の宗教もそのような考えを持っているのが不思議だね。昔の人は感覚的に気づいていたのかもしれない、はじまりであり終わりでもあると言える、それ以上遡れない原点の存在を」

 

 白い鴉は理解できたのかできなかったのか、首を傾げた。それを見て男は微笑む。


「火葬され灰になる事で生物の循環から外れ、命の輪から人間だけが離れてしまうものだと思っていたけれど」


 死んでしまった愛するあの人も、小さな小さな金色の粒になり、世界に還っていったのだとしたら。もしかしたらその粒には、記憶も詰まっているのかもしれない。取り込んだ近しい者の脳細胞に留まり、その記憶をもった神粒しんりゅうを分裂で増やすから、薄れつつも長く思い出が残るという仮説を立てている研究者もいた。


 天文学的な数が存在する神粒しんりゅうの中で、一人当たり細胞の数と同じだけ保有しているとしても、37兆個程度では世界中の砂粒に一粒の塩の結晶を落とした程度の比率。そのせいで一人の人間の記憶が世界に共有される事はないのかもしれない。

 極稀に、その体を構成していた神粒しんりゅうが四散せず塊のまま次の分裂する細胞を得た時、前世の記憶を持つ者が生まれるのかもしれない。塊と魂という漢字が似ているのも、その示唆のようにすら思えて来る。

 

「戦争などをしているのが本当に馬鹿らしいな。全ての生物は結局、地球上の生命という一つのグループかもしれないのに。一つであって全てでもあるというのも、宗教の言葉だったか」

「クァ」


 返事をしたのは黒い鴉の方だった。


「それに神粒しんりゅうは離れ離れの粒に見えて、シナプスのような存在で細くつながっているのかもしれない。突然アイデアが降ってきたり、同時期に遠く離れた者同士が同じ夢を見たり、同時に新しい発明をしたりするのも頷ける。そういう事を考えていたら、兄に対する嫉妬心なんて無くなったよ。ましてや敬一けいいちは双子だ、誰よりも自分に近いのだから、敵愾心など持つなど愚かしいとしか言いようがない」


 その彼が、まだ神粒しんりゅうになって世界に還ったわけではないと知ったなら。


「兄を助け出したい。タクに危ない事をするなと言っておいて、だが。助けを求められたのは自分だから」


 ひとつひとつの言葉に勇気を込めて積み重ねる。自分の研究データを盗もうとハッキングしていた者たちがいる場所は、大学のネットワークチームが突き止めてくれた。おそらく彼はそこに捕らえられているだろう。

 ただの大学教授で、腕力があるわけでもなく、権力もない。だが傍に行く事で出来る事はあるはず。


「兄の分身という、たしか叢雲むらくも君だったか。君は敬一けいいちの居場所がわかるだろうか」

「チカク、ナラ」

「頼めるか」

「ノゾム、トコロ」


 叢雲むらくもがちらりとヤタの方を見れば、黒い鴉は拓磨たくまの布団にもぐりこんで、態度で自分は行かないという事を示している。


 山体崩壊に巻き込まれ、敬一けいいちが引率していた生徒達も一人を除いて亡くなったり行方不明になってしまった。

 保護者達が大学に詰め掛けて、口々に彼の引率に不備があったのではと攻め立てた。山に不穏な様子があったのに、登山を強行したのではないかとさえ。

 しかし一人生き残った女生徒が、重症でありながらも必死に兄の事を弁護してくれた。彼女は敬一けいいちの気遣いを受け、山頂に向かう道から逸れた事により、最も大きかった岩石の崩落に巻き込まれる事を免れたのだ。

 だが、女生徒だったがゆえに助教授の美貌に篭絡されていて弁護しているかのように扱われ、一人だけ登山随行を許された嫉妬からの他の女生徒からの悪意に晒される事となり、傷が癒えても長く復学することができずにいた。


――「私、先生がいつ戻って来ても大丈夫なようにしておきたいんです」


 一人だけ生き残ってしまった罪悪感に苛まれながらも、彼女は更に強くなって大学に戻って来た。敬一けいいちの研究を引き継ぎ、今も大学に籍を置く。「自分の論文は大磯おおいそ先生のものだから」と、院生のまま。

 

 兄の名誉のために生きている彼女のためにも、彼には戻って欲しい。

 犬猫用のキャリーケースに白い鴉を入れて、一泊旅行用の鞄をつかむと玄関を出た。 


* * *


『人間は食べないか。残念だ』


 ヂォン  雲嵐ウンランの足元に置かれた餌箱の中で、傷まみれの大高室長が怯えたうめき声をあげる。

 中国語はわからないが、友好的なセリフではない事は確かだった。


『しかしここまでの体の変化をもたらした神粒しんりゅうは、どれくらいの量だったのか。それにどの程度の期間浴びたのだろうか……。自然界にある一般的な量や期間でこうなる事はないはず。人間が一時的に大量に神粒しんりゅうを取り込んでしまった場合、異形の姿になった事による迫害を恐れ、うまく逃げ隠れするようになり、目撃情報はあるが実態がつかめない未確認生物UMAになるとも言われるが、龍の形態のものはいなかったはず。妖怪や精霊のように、人間が”そう見える”と意識してしまう事により神粒しんりゅうがその形状を得たパターンの可能性が高い』


 ハッキングで手に入れた生物学の論文の事を思い出す。


『意志の力がなければ、神粒しんりゅうは龍を目指す……か』


 目の前の肉塊のような巨大な生物をじっくりと観察する。様々な地球上の生物のキメラになりかけたようなその姿は、発展途上の龍のように思える。ここ数日でじわりと、頭部にあった芋虫の触覚のようだったものが鹿の角のようになった。

 剥きだしの内臓のようだった皮膚にも透明な層が生じ始め、場所によっては銀色のうろこ状に。その変化が最初に訪れていた手指は、翡翠色に寄っていた。

 徐々にだが確実に、空想の生物とされる龍の姿を目指しつつある。

 神粒しんりゅうの多いエリアに連れて来た効果で、育っているのだろう。


『だが、この場所にいるにしては、成長が遅い気がする』


 本国から連れて来た風水師によると、脈動するように神粒しんりゅうがこの生物の体に吸い込まれているという。その量は龍脈が引かれた皇帝の玉座に匹敵するというが。その量でもこの程度の変化であるなら、自分が望む力を手に入れるにはどれほどの量が必要だというのか。


『まさか』


 DNA検査で、この生き物は人間の男という事が判明しているが。


『こいつはまさか、龍になるまいという意志を持っている……?』


 神粒しんりゅうが足りなくて途中で変化が止まったのではなく、龍になる事に気づいて成長をあえて意志の力で止めた可能性は。この成長の遅さは、抗っているせいではないか。


『世界を統べる知力を得るには、まず体を龍に向かわせない意志が必要となると厄介だな。自分の体で試す前にまずは適当な人間で実験しておきたいところだが』


――失敗しても痛くない役に立たなさそうな人間は足元に転がっているが、どう考えてもこいつは意志が弱そうだ。人質として確保しておいた陰陽師の男を使うか。女の方が残っていれば人質としては十分だし。


 考え込む雲嵐ウンランの後ろ姿を、白戸しろとの形代ネズミはじっと見つめていた。


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