第六章

第三十話 あの日、山で


 思い出はいつも、白く輝く光の中。


 輝く白の風景が初夏の新緑と、青い空に染め変えられる。


 「大磯おおいそ先生、加山がいません」


 動植物の観察のために共に光返山ひかえしやまに入った五人の学生のうち、一人がグループの隊列から姿を消していた。子供連れでも頂上を目指せる整備された登山道があるとはいえ、山は山。道をそれてしまえば危険な自然が待ち構えているし、足場の悪さのほか熊などの動物、藪をつつけば毒蛇だっている。

 遭難事故の大部分は初心者向けと言われる山で起こっていることを鑑みれば、一人がはぐれたという事実は周囲を緊張させるには十分だった。

 

「いつからいない?」

「最後尾をついて来ていたのは、ひとつ前の分岐までは確認してました」

「あの辺り、加山の好きなヒカエシクロアゲハの生息地では」

「あいつ気になるものが見つかると周囲が見えなくなるからなあ。もしや勝手に脇道に逸れたのでは」


 頂上はもうすぐだ。しばし思案をしたものの、ひとつ前の分岐であれば引き返しても十分程度。


「私が引き返して様子を見てくる。君たちはこのまま頂上を目指してくれ。頂上で落ち合おう」

「俺もついていきましょうか?」

「あの辺りは足場は安定していて事故も考えにくいし、大丈夫だろう。携帯はつながるか?」

「はい、自分の電波は大丈夫です。加山は格安携帯のせいか、登山をはじめた頃から繋がらないと言っていました。一応かけていますが、繋がりませんね」

「太田、頂上までの行動はお前に任せる。何かあったら電話するから、弁当も待たずに先に食べていてくれ」

「わかりました、お気をつけて」


 加山は今回の参加者で唯一の女子だ。苦学生でありながら研究熱心で、他の女子学生のように自分にまとわりつくタイプではなかったから、今回の登山を認めた。しかし唯一の女子では気を遣う部分もあっただろう。最初は自分が最後尾だったが、彼女はその前をもじもじと歩き、速度が極端に落ちていた。

 おそらく用を足したくなったのだろうと気がついた。しかし男に花を摘みに行くなどと報告はしにくいし、こちらかも「見張っててやるからそこらへんの茂みで」などとは言いにくい。もう少し進むと身を隠せるような低木は少なくなってしまう。

 

 だから気遣いのつもりで「頂上は近いから」と最後尾を任せた。そして他の男子学生に気取られぬよう、少し速度を速めて彼女から距離を離したのだ。


 おそらくこの道を引き返せば、用を終えて登って来る彼女と合流できるだろう。

 そう思っていたのだが、分岐点にたどり着いても彼女の姿はない。

 わずかでも一人にしたのはまずかったか。

 山は油断したときに牙を剥く。

 急に不安が押し寄せ、彼女がアゲハへの興味で脇道に逸れている可能性から周囲を探し始めた。


「加山! どこにいる。加山!」


 返事はない。獣道を進み、アゲハの好む花の群生地に入ったが彼女の姿はない。よもや熊に襲われたなどそんな事は、と不安のピークに岩肌に開いた洞穴の入り口が目に入る。動く人影が見えた気がした。

 自然の洞窟はいくつもこの山にあるのは知っていたし、湧き水が流れ出ている事が多いから蝶も集まりやすい。もしやと思い、崖をよじ登るようにして洞穴の淵に手をかけ、一気に体を跳ね上げた。


「「は!?」」


 顔を上げた瞬間、お互いが間抜けな声を上げてしまった。そこにいたのは大人しい女学生の加山ではなく、自分よりはやや年上かというやや恰幅のいい作業着姿の男だったのだ。背中のリュックはなかなかの大荷物だ。

 先に我に返ったのは相手の方だった。


「な、なんですか貴方!」

「私は怪しいものでは。はぐれた仲間を探しに来て、人影が見えたのでもしやと」

「こ、ここには誰も来ていませんよ」

「二十歳の女の子なんですが」

「自分は今朝からここにいるが、女の子なんて見てない」

「そうですか……。ところであなたこそこんな所で何を」


 周囲に目を向ければ人工的に自然の洞穴を加工したような痕跡がある。木組みや地面には割れた壺、壁画も苔むした中にうっすら残る。古代の遺物の気配に、同業者の臭いを感じた。口ごもる相手にこちらから声をかけなおす。


「もしや研究者の方では。私は津久葉つくは大学の大磯おおいそです。助教授で、この近辺の生物について研究をしていまして、今日もそのフィールドワークで」

「おお! あの高名な津久葉つくは大学の方でしたか。自分は残念ながら、今は事業に失敗した哀れな失業者でしかなく、自己紹介をするのも憚れるのですが」


 そう言いながら、よれた作業着のポケットからボロボロの財布を取り出し、そこから出てくるのは不自然なほど真っ白な名刺を差し出してきた。


「せっかく作った名刺なんですけど、ほとんど配る機会もなく、ダメになっちゃいましてね……名前の紹介には使えるかなと持ち歩いてましてね、いやはや往生際が悪いとは妻には言われるのですが」

加賀見かがみ……月刊レムリア編集長……?」

「ええ、はい。やっとこさ作った発表の場だったんですけどね」

神粒しんりゅうの研究をされている加賀見かがみさん!?」

「おお、ご存じでしたか!」

「あれは実に興味深い内容でした! 生物学の見地からも重要な発見になるのではと心躍っていたのですが、あんな事になって、なんというか」


 あの雑誌の内容は衝撃的だった。眉唾ものと相手にしない研究者も多かったが、自分はするすると今までの疑問が解けていくように感じ、何度読み返したかわからない。在野に幾人かの研究者がいるというのは知っていたが、その代表格ともいえるのが加賀見かがみだ。雑誌回収騒ぎで出奔し、その後は行方不明だとかの噂もあったが、この山にいるという事は。


「研究を続けられているんですね。まさかこんな所で会えるとは。いつか詳しくお話を聞いてみたいと思っていて」

「信じてくれる人とこの場所で出会えるとは何たる奇跡か。あれから更に判明した新しい知識もありましてねえ」

「ぜひお聞きしたい……ですが今は残念ながら時間が。学生を待たせているので」

「語りあかしたい所ですが、一人はぐれているのでしたね。それはここで引き留めるわけには……ああ、でも」


 加賀見かがみの目に狂気じみた怪しい光が輝いたように見えた。研究者は少なからずこういう所がある、自分の発見や持論を誰かに伝えたい衝動が止まらなくなることが。それも自分も同じだったし、手ぶらで帰るのも惜しい。


「少しでしたら」


 ぱっと男の顔が輝く。


「いえね、つい先ほど見つけたものが自分の仮説を実証してくれるんじゃないのかなと。簡単な実験なんですが、ここはひとつお付き合いいただけませんか。ほんの数分で出来る事なので」

「数分でしたら、ぜひ」


 行方不明の学生の事は気になるが、何か新しい事が知れるワクワクとした高揚感が抑えきれない。専門外といえども自分も研究者、好奇心に負けてしまった。

 加賀見かがみは祭壇らしき場所に目を向けて、崩れたがれきの中から地面に伏せていた円盤状のものを拾い上げた。


「あったあった。こういう所には必ずありますからねえ」

「鏡……ですか? 年代物ですね」

「ちょっと磨いて……と」


 手早く背中のリュックから布や薬剤らしき液体を取り出したと思ったら、1分程度で磨き上げられた銅鏡は光を反射する程度には輝きを取り戻す。顔が映るほど、とはいかないのは古い銅鏡では仕方ない事だろう。

 男はそれを手に、嬉しそうに手招きをする。


 洞窟の奥に十数メートル進んだ所であろうか、やや下りに入ると一気に周囲は真っ暗になった。先導する男は小さな懐中電灯をつけ、躊躇もなく進む。やや足がすくんだが、その背中を追いかけた。

 

「ここですここです」

「特に何もなさそうですが……」


 目的地というこの場所は、これまで歩いた通路よりはやや開けているものの特段何もない岩の壁に囲まれた場所だ。黒曜石なのか割れやすそうな黒い岩がごろごろと点在している。

 その中で壁に寄りそうように真っ黒な岩の塊があった。上部はへこんでいるようで水が溜まっていた。


「その岩、人間が整えたものじゃなく、自然が作ったものみたいで。見事な水鏡でしょう?」

「ええ、確かに」


 自分の美麗だと言われる顔が鮮明に映りこむ。このような場所で見たせいか、作り物めいた人形っぽさが際立ってすぐに目を逸らした。この顔は嫌いだ。自分に煩わしさと不幸しか運んでこない。


「これはねえ、ただの水じゃないようなんですよ。ほらどこからも水滴が落ちてきてはいない」

「確かに。しかし水が溜まる要因は他にもありますし……」


 加賀見かがみはにやりと笑うと同時に懐中電灯を消した。


「!?」

「慌てないで。目をじっくり慣らして水面を見てください」


 しばし目を凝らし続ける。物音ひとつしない暗闇の中で、自分の呼吸音だけがやたらと耳につく。やがてうっすらと流れる霧のような光が見えた気がした。

 光は流れる。その流れは先ほどの水面のあたりに集まって、水の中に溶け込んで行くように見えた。


「見えますか? ここの神粒しんりゅうは濃度が高く、常人の目でも捉えられるんですよ。あの水は液化した高濃度の神粒しんりゅうのようで」

「液化するんですか!?」

「さあ実験をはじめましょう」


 ぱっと再び点灯した懐中電灯がまぶしい。加賀見かがみは先ほど磨き上げた銅鏡を、水鏡の上に差し出した。

 すると水面と銅鏡の間に光が生まれ始めた。


 最初はうっすらと。それは徐々に大きさと輝きを増していく。目を凝らせば小さな光の粒が水面と銅鏡を行き来しているように見える。


「やはりそうだ、神粒しんりゅうは細胞分裂以外でも増える。合わせ鏡でコピーされるんだ」

「まさか、そんな」


 神粒しんりゅうを一か所にとどめる方法、濃度を濃くする方法、増やす方法。龍脈を探し扱える風水師が一番最初に正解にたどり着くであろうと言われた、世界各国がしのぎを削る目標の答えが今ここに。


 光は増える、増える、増える。


 輝きは増し続け目を焼かれるほどの光量に。先ほどまで恍惚の表情をしていた加賀見かがみの顔が恐怖に歪んだ。光は巻き上がり、暴走するように撒き散らかされはじめた。


「鏡を捨てるんだ!」

「手が、手が動かない! 止まらない、止まらないんだ、助けてくれ」


 必死に手を伸ばすが、光にこれほどの圧力があるとは信じられないほどに、滝の如くに輝きに打たれ続ける。熱くも冷たくもない白の奔流にもみくちゃにされながら、加賀見かがみの手から銅鏡を叩き落そうとして……。


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