第十九話 落鳥
「この浮気者!」
精巧な刺繍の立派なカバーのクッションはそれなりに厚みと重さがあって、ボフンと大きな音と共に思わず男はよろめいた。
普段ならこの程度なら華麗に受け止めるか最低限の動きで避けるから、ダイレクトにヒットした事に投げた犯人の方が狼狽した。
「あ、あなた?」
「ただいま」
「おかえりなさい……」
男は疲労した様子でクッションを拾い上げると、彼女の手にクッションを返しながらリビングに向かい、ネクタイを緩めるとソファーに沈み込んで大きく息を吐いた。
「浮気じゃない?」
「世界で一番大切なおまえがいるのにか」
「何処に行ってたの」
「仕事だ」
「だから何処に行ってたの」
「……おまえが怒るから言いたくない」
「女?」
「だから何でそうなる」
睡眠不足と長時間の運転の後には、流石にこのやり取りはうんざりする。可愛らしく拗ねる姿は愛おしいとは思っているが。
「
諦めて溜息混じりに吐き出せば、妻はぎゅぎゅっと眉根を寄せはしたが、いつものようにヒステリックに怒り散らす事はなかった。疲れ切った夫にそのような態度は良くないという事がわかる程度には、彼女も大人になっていた。だが気になる事は聞いておきたい。
「でも、女を連れ帰ったって話じゃない」
「誰に聞いた?」
そのような命令口調を受けた事がなく、妻はひどく怯んだが、持ち前の気の強さで語気を強める。
「室長さんよ。女性を連れ帰ったようだが、報告が上がってない。どうなっているのかと、家に電話が」
「弟子たちを車で送迎した際、道中でバイクが転倒して怪我をしていた女性を発見して保護したから、多分その事だろう。病院に運んだだけで、特に報告するほどの事でもなかったから。おまえに言わなかったのも同じ理由だ」
「そうなんだ」
妻はやっと表情を緩めた。しかし逆に
――何故、女を連れ帰った事が知られた?
あの男は事務次官に抜擢されるためなら何でもやるという出世欲の塊だが、実際は他人に命令をして自ら動く事はなく、隙を見て他人の功績を掠め取ろうというタイプ。つまり真面目に仕事をしない。こちらからの定時連絡が無くても気にする素振りは無かった。今までは。
* * *
翌朝日曜日、
「
少年と少女は身長がほぼ同じなので、お互い真正面で顔を突き合わす事になるのだが、
「
ニコっと微笑み返されて正解だったことに胸を撫でおろす。
「
「うん、一緒に行こうか。あ、持つよ」
さりげなく紙袋を受け取ると、少女はお礼を言いながら満面の笑みで少年の腕に自分の手を絡めた。すると
「ガァアァアアッ!」
「きゃぁっ」
「ヤタ、ダメだよ。どうしたの」
普段のヤタの声とは段違いの、怪獣の唸り声のような発声に、
「
「ちょっと体調を悪くされていたから、お見舞い」
「え、具合が悪いんだ。じゃあお邪魔したら良くないかな」
「ここまで来たら挨拶だけでも……」
「……鳥かしら?」
二人は顔を見合わせると、同時に駆け出して白い鳥の傍に寄る。近くで見ればそれはアルビノの鴉だった。
「生きているみたい」
掬うように抱き上げて見れば、瞼が開いて赤い瞳が見えた。何か言いたげに嘴が上下するが。
「とりあえず
インターフォンに指を伸ばした所で、玄関がガラリと開いて無精ひげの男が姿を現した。以前のように白いシャツ姿に紺色の羽織り姿。
「
「ああ、おかげ様で。……その鴉は」
「そこに落ちていて」
「とりあえず中へ。お姫様も一緒か」
「えっと、お邪魔しても?」
「構わないよ」
先に奥に進む男の後を追って、二人はついて行った。
いつもの炬燵の部屋に行くと、段ボールにタオルを敷いたものを差し出された。そこに白い鴉を入れる。男を威嚇するように鴉は大きく口を開いたが、ぐいっと三房ほどのミカンを押し込まれて、それが美味しかったらしく、普通にモグモグとしはじめた。
「腹が減ってるだけだな」
その言葉に安堵し、預かっていた紙袋を
「クァ」
いつもの可愛らしい声を出して、
「お姫様の要件から聞こうか」
「あ、えっと、これ」
少女は紙袋の中から古びたシンプルな名刺を差し出した。受け取った男はその字面を視線でなぞる。
「父だな」
短い返答に、少女はほっと安心したように息を吐くと紙袋をそのまま差し出した。
「パパが、借りた資料をお返しせずにいたみたいなので、返却できればと……」
「中を読んだ?」
「ごめんなさい……内容は確認させてもらいました」
「それで返却が必要だと思ったんだな」
少女はばつが悪そうに頷くのを、
「で、たっくんは?」
「えっと、お見舞いができればと……これ父からです。泊めていただいたり、僕がお世話になったからと」
バッグの中からサツマイモを使った羊羹を取り出して差し出すと、男の目が嬉しそうに綻んだのを見て、安堵した。ヤタも羊羹に釘付けだ。それで卵の事を思い出した。
「そうだあの……これも見てもらいたいんですけど」
「卵?」
「ヤタが生んだんですけど」
炬燵の天板の上に新聞紙でくるんだ卵を、
「変な事を聞いちゃいますけど、ヤタの卵の原因に、思い当たる事とか……あったりします?」
「割ってみるか」
「えっ、割るんですか!?」
「中身が気になる」
中身は、白身と黄身では? という単純な事ではないのかもと思いつつ、もしヒヨコになりかけだったりしたら。いや温めていないからそんな事にはならない? え!? 割るの!? とぐるぐるしている間に、
カラン
卵の中から、音高く落ちたのは緑色の石。
「綺麗、翡翠かしら」
まさにそのまま翡翠色のそれは、勾玉のような曲線を描いていた。穴は開いていないが、装飾品として出土するあの形……しかし同時に父に見せられた胎児の二か月目の姿も思い出した。龍の形に引きずられた人の始まりの姿。
恐る恐る少年は指でつつくと、硬い。コツコツと数度触れ、勇気をもってつまみ上げてみた。冷たい石の感触が指先に。雛じゃなかった安堵と、何故、卵の中にこんなものがという疑問。
しかしその思考は、白い閃光と共に指先に走った痛みで途切れる。
鮮血が散った。パチリとした痛みで思わず指から取り落としてしまった翡翠色の石を、いつの間にか箱から出ていた白い鴉はくわえ込むと、カシャンと軽い音を立てて窓ガラスを割り、外に飛び出した。
続けてヤタが、
指を見れば鮮血があふれ出る。まるでナイフでスパッと切られたようだ。白い閃光に見えたあれは、鴉。鋭利な嘴で攻撃された事を時間差で知る。
見上げれば上空で、白い鳥と黒い鳥が激しくもつれあう姿が見えた。
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