第十九話 落鳥


「この浮気者!」


 剣持けんもちは自宅玄関に足を踏み入れた瞬間、顔面でクッションを受け止めた。

 精巧な刺繍の立派なカバーのクッションはそれなりに厚みと重さがあって、ボフンと大きな音と共に思わず男はよろめいた。

 普段ならこの程度なら華麗に受け止めるか最低限の動きで避けるから、ダイレクトにヒットした事に投げた犯人の方が狼狽した。


「あ、あなた?」

「ただいま」

「おかえりなさい……」


 男は疲労した様子でクッションを拾い上げると、彼女の手にクッションを返しながらリビングに向かい、ネクタイを緩めるとソファーに沈み込んで大きく息を吐いた。


「浮気じゃない?」

「世界で一番大切なおまえがいるのにか」

「何処に行ってたの」

「仕事だ」

「だから何処に行ってたの」

「……おまえが怒るから言いたくない」

「女?」

「だから何でそうなる」


 睡眠不足と長時間の運転の後には、流石にこのやり取りはうんざりする。可愛らしく拗ねる姿は愛おしいとは思っているが。


白戸しろとのところだ」


 諦めて溜息混じりに吐き出せば、妻はぎゅぎゅっと眉根を寄せはしたが、いつものようにヒステリックに怒り散らす事はなかった。疲れ切った夫にそのような態度は良くないという事がわかる程度には、彼女も大人になっていた。だが気になる事は聞いておきたい。


「でも、女を連れ帰ったって話じゃない」


 剣持けんもちは閉じかけていた瞼を上げた。妻に向き直ると、彼女に普段向ける事のない仕事の顔を見せる。


「誰に聞いた?」


 そのような命令口調を受けた事がなく、妻はひどく怯んだが、持ち前の気の強さで語気を強める。


「室長さんよ。女性を連れ帰ったようだが、報告が上がってない。どうなっているのかと、家に電話が」

「弟子たちを車で送迎した際、道中でバイクが転倒して怪我をしていた女性を発見して保護したから、多分その事だろう。病院に運んだだけで、特に報告するほどの事でもなかったから。おまえに言わなかったのも同じ理由だ」

「そうなんだ」


 妻はやっと表情を緩めた。しかし逆に剣持けんもちは安堵からほど遠い所にいた。


――何故、女を連れ帰った事が知られた?


 大高おおたか 室長は信用できない。陰陽寮解散の危機にも掌を返し、簡単に保身に走ったあの男を全くアテに出来ず、最近は最低限の報告のみだ。重大な情報を、とてもじゃないが渡す気にはなれない。当然、保護した女の事も極秘だ。

 あの男は事務次官に抜擢されるためなら何でもやるという出世欲の塊だが、実際は他人に命令をして自ら動く事はなく、隙を見て他人の功績を掠め取ろうというタイプ。つまり真面目に仕事をしない。こちらからの定時連絡が無くても気にする素振りは無かった。今までは。


* * *


 翌朝日曜日、拓磨たくまが再び白戸しろとのアンティークショップに向かっていると、紙袋を抱えた加賀見かがみとばったり出会った。


加賀見かがみさん、どうしたの」


 少年と少女は身長がほぼ同じなので、お互い真正面で顔を突き合わす事になるのだが、加賀見かがみは若干腰を折り、上目遣いを作った。一歩間違えるとヤンキーのガンつけだが、美少女がやれば何か訴えて来るものがある。そこで拓磨たくまは、あっ、と気づく。


愛梨あいりちゃん……」


 ニコっと微笑み返されて正解だったことに胸を撫でおろす。


白戸しろとさんに用事があって。拓磨たくま君も?」

「うん、一緒に行こうか。あ、持つよ」


 さりげなく紙袋を受け取ると、少女はお礼を言いながら満面の笑みで少年の腕に自分の手を絡めた。すると拓磨たくまが肩にかけていたバッグから黒い鳥の頭がにゅっと飛び出した。


「ガァアァアアッ!」

「きゃぁっ」

「ヤタ、ダメだよ。どうしたの」


 普段のヤタの声とは段違いの、怪獣の唸り声のような発声に、拓磨たくまもビビる。鴉の頭を抑えて、バッグの中に押し戻す。驚いた加賀見かがみ拓磨たくまから手を放してしまったが、再びその腕を取る事が出来なくなった。


拓磨たくま君は白戸しろとさんに何の用があって?」

「ちょっと体調を悪くされていたから、お見舞い」

「え、具合が悪いんだ。じゃあお邪魔したら良くないかな」

「ここまで来たら挨拶だけでも……」


 拓磨たくまの足が止まる。つられて少女も足を止めて、彼の視線の先を見た。


「……鳥かしら?」


 白戸しろとの家の玄関前に、白い物が落ちていた。鳩にしては大きいその翼。ぐったりと地面に伏している。

 二人は顔を見合わせると、同時に駆け出して白い鳥の傍に寄る。近くで見ればそれはアルビノの鴉だった。拓磨たくまは初詣で見た姿を思い出す。


「生きているみたい」


 掬うように抱き上げて見れば、瞼が開いて赤い瞳が見えた。何か言いたげに嘴が上下するが。


「とりあえず白戸しろとさんにお水を貰って、飲ませてみよう」


 インターフォンに指を伸ばした所で、玄関がガラリと開いて無精ひげの男が姿を現した。以前のように白いシャツ姿に紺色の羽織り姿。


白戸しろとさん大丈夫なんですか」

「ああ、おかげ様で。……その鴉は」

「そこに落ちていて」

「とりあえず中へ。お姫様も一緒か」

「えっと、お邪魔しても?」

「構わないよ」


 先に奥に進む男の後を追って、二人はついて行った。

 いつもの炬燵の部屋に行くと、段ボールにタオルを敷いたものを差し出された。そこに白い鴉を入れる。男を威嚇するように鴉は大きく口を開いたが、ぐいっと三房ほどのミカンを押し込まれて、それが美味しかったらしく、普通にモグモグとしはじめた。


「腹が減ってるだけだな」


 その言葉に安堵し、預かっていた紙袋を加賀見かがみに返しつつ、肩にかけたバッグから黒い鴉も取り出して床に置いた。


「クァ」


 いつもの可愛らしい声を出して、白戸しろとの対面に座った拓磨たくまの膝の上にちょんちょんと跳ねるようにして乗り、卵を温めるようにポスンと座り込むと加賀見かがみの方をチラッと見、ヘッと勝ち誇った顔をした。少女は悔しい気持ちが沸くがどうしようもない。


「お姫様の要件から聞こうか」

「あ、えっと、これ」


 少女は紙袋の中から古びたシンプルな名刺を差し出した。受け取った男はその字面を視線でなぞる。


「父だな」


 短い返答に、少女はほっと安心したように息を吐くと紙袋をそのまま差し出した。


「パパが、借りた資料をお返しせずにいたみたいなので、返却できればと……」


 白戸しろとが差し出された袋の中を見れば、付箋まみれの十冊以上の大学ノートが入っていた。表紙には”観察記録”とマジックで走り書きされている。


「中を読んだ?」

「ごめんなさい……内容は確認させてもらいました」

「それで返却が必要だと思ったんだな」


 少女はばつが悪そうに頷くのを、拓磨たくまは心配そうに見た。白戸しろとは無言で紙袋を手近な引き出しの中に投げ込む。これでこの話は終わりだというように。


「で、たっくんは?」

「えっと、お見舞いができればと……これ父からです。泊めていただいたり、僕がお世話になったからと」


 バッグの中からサツマイモを使った羊羹を取り出して差し出すと、男の目が嬉しそうに綻んだのを見て、安堵した。ヤタも羊羹に釘付けだ。それで卵の事を思い出した。


「そうだあの……これも見てもらいたいんですけど」

「卵?」

「ヤタが生んだんですけど」


 炬燵の天板の上に新聞紙でくるんだ卵を、白戸しろとの方に押し出す。箱に入れられた白い鴉も、好奇心を刺激されたのか首を伸ばす。


「変な事を聞いちゃいますけど、ヤタの卵の原因に、思い当たる事とか……あったりします?」


 白戸しろとは顎を右手で数度撫でて考えに沈む素振りを見せていたが、不意に何か思い出したような顔をしたので、拓磨たくまの胸に不安が一気に沸いて出た。


「割ってみるか」

「えっ、割るんですか!?」

「中身が気になる」


 中身は、白身と黄身では? という単純な事ではないのかもと思いつつ、もしヒヨコになりかけだったりしたら。いや温めていないからそんな事にはならない? え!? 割るの!? とぐるぐるしている間に、白戸しろとは迷いなく縁に叩きつけ、殻にヒビを入れた。


 カラン


 卵の中から、音高く落ちたのは緑色の石。


「綺麗、翡翠かしら」


 まさにそのまま翡翠色のそれは、勾玉のような曲線を描いていた。穴は開いていないが、装飾品として出土するあの形……しかし同時に父に見せられた胎児の二か月目の姿も思い出した。龍の形に引きずられた人の始まりの姿。

 恐る恐る少年は指でつつくと、硬い。コツコツと数度触れ、勇気をもってつまみ上げてみた。冷たい石の感触が指先に。雛じゃなかった安堵と、何故、卵の中にこんなものがという疑問。

 しかしその思考は、白い閃光と共に指先に走った痛みで途切れる。


 鮮血が散った。パチリとした痛みで思わず指から取り落としてしまった翡翠色の石を、いつの間にか箱から出ていた白い鴉はくわえ込むと、カシャンと軽い音を立てて窓ガラスを割り、外に飛び出した。

 続けてヤタが、加賀見かがみを威嚇したのとはくらべものにならないほどの声量、恐竜もかくやという叫び、耳をふさぎたくなるような鳴き声を上げながら飛び立ち、白い鳥の後を追った。


 指を見れば鮮血があふれ出る。まるでナイフでスパッと切られたようだ。白い閃光に見えたあれは、鴉。鋭利な嘴で攻撃された事を時間差で知る。


 見上げれば上空で、白い鳥と黒い鳥が激しくもつれあう姿が見えた。


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